辰砂を探索した古代の民
辰砂が産出される邪馬台国
古代、日本最大の辰砂坑道が徳島の若杉山遺跡に存在したことが明るみになるにつれ、いつしか辰砂の存在に絡んで、邪馬台国がその近郊にあったのではないかという話さえ囁かれるようになりました。何故なら、魏志倭人伝などの中国史書に、邪馬台国では辰砂が産出される国であることが明記されているからです。
邪馬台国が歴史に台頭してきた時代、日本列島では若杉山遺跡以外、辰砂が発掘された大規模な坑道はいまだに見つかっていません。よって、若杉山遺跡の近くに邪馬台国が存在したという可能性が、有力視されるようになったのです。では、いったい誰が辰砂を発掘したのでしょうか。
西アジアの高度な文化を携えてきた古代の海洋豪族が、辰砂鉱山の探索と掘削に直接携わっていたと想定するならば、一連の歴史の流れを理解しやすくなります。そして邪馬台国が台頭する直前の時代に終結した元伊勢御巡幸の歴史を振り返ることにより、御巡幸の船旅を導いた海洋豪族と辰砂との関わりが見えてきます。その一族こそ、複数の船舶を用いて辰砂掘削の歴史を大きく動かした主人公であった可能性に注目してみました。
日本の国家情勢と元伊勢御巡幸
若杉山遺跡の年代に該当する弥生後期、1~3世紀と言えば、中国大陸においては秦の始皇帝没後、およそ2世紀後に台頭した後漢から三国時代へと内乱が続いた時です。そして中国大陸を逃れた多くの渡来者が、朝鮮半島から日本列島に流入してきました。三国時代は戦乱の幕開けであり、その三国のひとつが日本でもよく知られている魏です。
当時、隣国の日本でも国家情勢は不安の坩堝にあり、大勢の渡来者が大陸から移住し続ける最中、国内の政治情勢は不安定を極め、天皇を中心とする国家の統治が難しい局面を迎えていました。紀元1世紀を迎える前後、その状況を打破するために、倭姫命による元伊勢御巡幸が断行され、神宝を携えながら80余年にわたる長旅が続いたのです。そして御巡幸の最終段においては船旅が計画されました。
海洋豪族による辰砂探索の船旅
若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川当時、造船所は主に琵琶湖の周辺や、その東方にあたる伊久良河宮(岐阜)などにあったことから、伊久良河宮から伊勢まで御一行は、船団に守られながら川を下り、海沿いを南下することになりました。その任務を担い、倭姫命御一行と神宝を護衛したのが船木氏に代表される海洋豪族でした。そして無事、御一行を伊勢へとお送りした後、垂仁天皇26年には伊勢神宮が建立されました。
新聖地にて神が祀られた後、元伊勢御巡幸の立役者となった船木氏一族ら海洋豪族は、伊勢周辺に自らの集落を築きました。その後、船団は紀伊半島沿岸を航海し続けて紀伊水道へと向かい、御巡幸の密かな目的地である四国の山上に向けて神宝を護衛しながら船旅を続けます。そして船木一族は最終的に淡路島を越えて播磨方面へと向かうことになります。
その途中、各地で集落を築きながら、船木一族は辰砂鉱山を見出すことに努めたと考えられます。その結果、今日の多気町、伊勢国の丹生をはじめ、和歌山県の吉野川上流となる丹生都比売神社周辺の紀伊山地においても辰砂を含む鉱脈が開発されました。そして紀伊水道を渡った四国の那賀川上流にも辰砂の鉱脈があることがわかり、徳島の若杉山においては最大級の辰砂鉱山が開拓され、掘削が行われたのです。
こうして海洋豪族の船木氏や辰砂の発掘に携わった丹生氏らは、船舶建造のために不可欠な資源であった辰砂を採掘できる場所を複数確保し、それら鉱山の周辺に集落を築いたと考えられます。辰砂の採掘は海洋豪族によって仕切られたからこそ、それら鉱山の多くは海上交通の便が良い、紀伊半島や四国の大河川沿いに見出されたのです。
元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索
魏志倭人伝が証する邪馬台国と辰砂の存在
中国が注目した辰砂の存在
それから2世紀も経たないうちに、卑弥呼を女王とする邪馬台国が突如として歴史に台頭しました。邪馬台国について書かれた著名な中国史書、魏志倭人伝の中には、辰砂についての記述が複数含まれていることからしても、当時、中国では倭国における辰砂の存在が注目されていたことは明らかです。
辰砂を原料とする真っ赤な「朱」は、古代の中国でも不老、不死、高貴さの象徴としてだけでなく、災厄を防ぐ色として神聖視されました。魏志倭人伝の「以朱丹塗其身體」という記述からは、「倭国では体に朱丹を塗っている」という史実を知ることができます。さらに興味深い記述は、「出真珠・青玉。其山有丹」です。それは、「真珠や青玉を産出する。その山には丹がある」という意味です。「真珠」とは真朱、すなわち水銀朱、「丹」は辰砂を指します。これらの記述から、邪馬台国が統治する領域内には辰砂を有する鉱山が存在し、そこで大量の辰砂が掘削されていたことが想定されます。
辰砂採掘地が示唆する邪馬台国
水銀鉱床群分布図邪馬台国の時代、辰砂が採掘された地域は、その比定地の近くであった可能性が高いと考えられます。よって2~3世紀、邪馬台国の時代における辰砂の生産地を特定することにより、邪馬台国の比定地を絞り込むことができるはずです。
当時、日本列島における水銀鉱床群は地域が限られており、大きな規模のものは、紀伊半島の吉野川沿いを中心とする大和水銀鉱床群、四国の若杉山遺跡周辺と阿波水銀鉱床群、そして九州の一部にある水銀鉱床群などしか知られていません。中でも若杉山遺跡の坑道の規模は他とは比較できないほど大きいことがわかってきたことから、魏志倭人伝が言う「其山」、つまり辰砂が掘削される鉱山とは、若杉山を指している可能性が高いのです。
邪馬台国と若杉山遺跡の関連性
邪馬台国と若杉山遺跡は辰砂という特殊な資源に共通点があります。また、弥生時代後期の1~3世紀という時代にも一致します。それ故、若杉山遺跡からさほど遠くない場所に、邪馬台国が存在した可能性が高いと考えられます。
邪馬台国は海岸から陸地を1か月ほどかけて歩かなければ到達できないほどの奥地にあると魏志倭人伝には記されています。よって、那賀川の上流の険しい四国の山脈のどこかに邪馬台国があったと推定するのが自然です。思いもよらず、若杉山遺跡の検証から、邪馬台国の比定地が絞りこめるだけでなく、歴史の流れがより明確になってくるようです。
若杉山遺跡の上方には巨石が連なる3世紀、女王卑弥呼が統治した邪馬台国の時代に辰砂が産出された可能性がある場所は、いまだ、この若杉山遺跡しか見つけられていません。今後も坑道内の調査が進められ、辰砂の発掘方法だけでなく、若杉山遺跡から発掘された遺物や辰砂の検証から、それらの時代背景が、さらに詳しく特定されることが期待されます。
参考文献
- 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
- 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
- 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月
参考サイト