
謎に包まれた若杉山遺跡の場所
四国の山奥に存在する辰砂
若杉山遺跡を訪ねて実際に採掘地の現場検証してみると、次々と疑問が湧いてきます。なぜ、徳島県の山奥にて辰砂採掘されたのでしょうか。人里離れた山中で、どのようにその岩場を探し当てたのでしょうか。1~3世紀の時代背景と辰砂の需要とは、どのような関連性があるのでしょうか。
それらのヒントは魏志倭人伝などの中国史書や、元伊勢御巡幸の歴史的展開から見出すことができます。さらに、若杉山に纏わる多くのレイラインを検証することにより、当時の時代背景と地域との関連性を、より明確に理解することができるようになります。
辰砂を探し求めた古代の民

高くそびえる石垣に圧倒される水銀の原料となる辰砂は、古来より歴史の中で重要な役割を占めてきました。それだけ貴重な資源であり、さまざまな用途に用いられる鉱物だったのです。だからこそ、辰砂を探し求めた古代の海洋豪族は、紀伊半島から四国や淡路島へと向かう途中、大河川をさかのぼりながら辰砂の鉱脈を探し求めたことでしょう。その結果、紀伊半島では吉野川の上流に、四国では若杉山に鉱脈を見出し、山腹に坑道を掘り進めて辰砂を採掘したと考えられます。
しかし、那賀川支流沿いの人里離れた山奥にある若杉山遺跡は、どうやって探し出されたのでしょうか。しかもその斜面は急であり、山腹の岩場に築かれた遺跡周辺には何ら目印さえ見当たりません。広大な四国の山々の中からなぜ若杉山という場所を特定できたのでしょう。また、数ある岩場の中からどの場所を選別して掘削することができたのでしょうか。その答えは、レイラインの考察から、確かな根拠に基づいた答えを見出すことができます。
古代レイラインの真相
レイラインとは
レイラインとは、霊峰と言われる山々や大きな岬、神社などの聖地が一直線上に並ぶ配置を指します。このように一直線上に結び付けられると、たとえ山奥に新しく神社を建立した場合でも、既存の指標を基準にとして位置を定めやすくなるだけでなく、同一線上の拠点同士が地の力や地理的な利を共有するという意味合いを持つことになります。そのため、神社など新たな拠点を設ける際には、複数のレイラインが交差する地点が重要視されたのです。
神を祀る聖地や都を造営する場所など、大切な場所を新天地にて探し出す場合、こうしたレイラインの交差という構想が積極的に活用されました。若杉山遺跡も例に漏れず、複数のレイラインが交差する地点に見出されています。
若杉山遺跡の指標となる神社と山
若杉山遺跡の年代は1~3世紀と特定されたことから、古代、元伊勢の御巡幸が終焉し、邪馬台国が台頭する時代に重なっていると考えられます。その時代背景を考えながら、レイラインの指標となる可能性の高い神社や山を思い浮かべてみました。
まず、多くのレイラインにおいて、日本の最高峰である富士山が大切な指標となります。次に、元伊勢御巡幸の基点でもあり、神が鎮まる三輪山と、天照大神を祀る伊勢神宮の存在が挙げられます。この2つの聖地も、レイラインの指標として多用されています。神宝と海洋豪族の歴史に纏わる神社としては、鹿島神宮も重要な存在です。
丹生都比売神社さらに、1世紀という時代を振り返るならば、丹生都比売神社の存在も見逃すことはできません。元伊勢御巡幸が終わった直後の時代、その船旅を先導した船木氏らは、紀伊半島の随所に一族の拠点を設けただけでなく、辰砂を求めて紀伊水道から吉野川を上り、その上流に辰砂の鉱山を見つけました。辰砂が発掘された場所は丹生とよばれ、その近郊には丹生都比売神社が建立されたのです。若杉山遺跡もまた辰砂の掘削場所であったことから、丹生都比売神社と歴史的な背景において何らかの関係があったとしても不思議ではありません。
空海の最終拠点となった高野山も、辰砂の採掘に携わった丹生氏ゆかりの拠点です。2匹の黒犬を連れた丹生明神の化身とされる漁師が、高野山まで空海を導いたという伝説もあるとおり、空海は意図的にこの地を拠点としたようです。船旅を繰り返し、唐にまで渡った空海だからこそ、中国にて辰砂と水銀の大切さを学んだだけでなく、船底に塗られた辰砂の重要性をも身をもって体験したのではないでしょうか。こうして貴重な辰砂の地下資源に着眼した空海は、その辰砂と活用をもって、高野山の発展にも少なからず貢献したと考えられます。
四国剣山と元伊勢御巡幸との関係
剣山にも注目する必要があります。剣山には古代からソロモンの秘宝が埋蔵されているという伝承があり、四国を代表する聖地として知られています。紀伊水道からは那賀川を上流へ向けて辿ると剣山の麓周辺へと繋がり、その途中に若杉山遺跡が存在します。この地理的条件からも、剣山は若杉山を見出す指標となった可能性が高いと考えられます。
さらに剣山は、若杉山遺跡が辰差の採掘地として利用される直前に行われた元伊勢御巡幸地の基点であり、同時に最終目的地であったと推測されます。なぜなら、御巡幸地のすべてがレイラインを通じて剣山と結び付いていることを地図上でも確認することができるからです。すなわち、元伊勢御巡幸地の各地は、剣山を基準としてレイライン上にて特定された場所と推測できるのです。
それらレイラインの基点となった剣山の麓に若杉山遺跡が見出され、そこで辰砂が採掘された年代が、元伊勢御巡幸の直後にあたることにも注目です。それは、この年代の一致は、元伊勢御巡幸と若杉山の発見との関連性を裏付けているようです。元伊勢御巡幸の最終段階は、伊勢からの船旅により終わっています。伊勢から紀伊半島を南下した後、どこに向かったかは史書に明記されていません。しかし、レイラインの考察から察するに、元伊勢の目的地は剣山であると考えられることから、その途中の那賀川沿いにある若杉山に船木氏の船団が到達したと推測することに無理はありません。
船木氏の率いる船団が紀伊半島の最南端を通り過ぎて吉野川上流や四国の那賀川沿いに向かったことは、それらの地域周辺に残されている船木という地名からも垣間見ることができます。こうして海洋豪族の一行は、紀伊水道から那賀川を上流へと向かい、剣山へ行く途中に若杉山遺跡の場所を見出したと推測されます。
若杉山遺跡のレイライン
聖地を結ぶ線上に存在する若杉山

三輪山前述した神社や霊峰を指標として結ぶレイラインの線上に若杉山遺跡が存在するかを見てみましょう。まず、弥生時代後期に神が宿る霊峰として最も重要視されていた三輪山から、冬至の日に太陽が沈む方角であるおよそ240度の方角に線を引いてみました。すると若杉山遺跡に当たります。これは逆に若杉山遺跡から見れば、夏至の日に太陽が昇る方向に三輪山が存在することを意味しています。夏至の日の出となる方角はレイラインの構想において、極めて重要な位置付けを持っています。
次に富士山の頂上と鹿島神宮を結ぶ線を紀伊半島まで延長してみました。すると丹生都比売神社を通ることがわかります。丹生都比売神社の建立地を特定する際、富士山と鹿島神宮の延長線上に見出された結果と考えられます。しかもそのレイラインを西方に延ばすと若杉山遺跡があるのです。つまり若杉山遺跡の場所は、辰砂を掘削する紀伊半島の丹生と、富士山、鹿島神宮の地の力と結び付いていただけでなく、そこから夏至の日が出る方角に三輪山を拝することができたのです。
さらに、西日本最高峰の石鎚山と剣山を結ぶ線を東方に延長すると、若杉山遺跡に当たります。これは若杉山が剣山と関わりを持っていることを示唆しています。また、元伊勢御巡幸にも含まれた瀧原宮と伊勢神宮を結ぶ線は、山上ヶ岳と生石ヶ峰の頂上を通り、若杉山遺跡に至ります。
レイラインの交差点が若杉山遺跡

剣山頂上から望む伊島と紀伊水道これらレイラインの考察から、富士山、剣山、石鎚山、そして三輪山という日本屈指の霊峰と、伊勢神宮、鹿島神宮などいくつもの著名な社が結び付けられたレイラインが交差する場所に若杉山遺跡が存在することがわかります。
若杉山遺跡は、山奥の中を偶然探し歩いた結果、辰砂が出てくる場所が見つかった訳ではありませんでした。その場所は、古代聖地や霊峰、そして辰砂の象徴である丹生都比売神社との位置関係を綿密に考慮したうえで特定された場所だったのです。

若杉山遺跡と由緒ある神社を結ぶレイライン
レイラインから見えてくる歴史の流れ
剣山に結び付く元伊勢の御巡幸
今一度、歴史の流れを振り返ってみましょう。1世紀の初頭は前述したとおり、元伊勢の御巡幸が終わり、伊勢神宮が建立された時代です。元伊勢の御巡幸は神宝を守るだけでなく、その秘蔵場所が四国の剣山であることを示唆するべく、各地を転々と巡った旅であったと考えられます。
レイラインの考察から、すべての元伊勢と言われる御巡幸地が、四国の剣山に結び付いていることがわかりました。(「日本のレイライン」、17-44章参照」)。一見すると大胆な構想ですが、地図上で実際にレイラインを引くことで確認できるだけでなく、剣山に神宝が持ち運ばれたと想定することにより、歴史の辻褄が合います。
剣山途上に発見された若杉山の辰砂

剣山と絡む元伊勢のレイライン
元伊勢の御巡幸後、船舶で御一行を先導した海洋豪族の船木氏らは、伊勢より剣山へ向けて船旅を続けます。その途中、紀伊半島の西岸から吉野川を上り、上流にて辰砂を採掘し、丹生都比売神社が建立されました。その後、紀伊水道を徳島の方に渡り、那賀川から剣山へ向かって川の上流へと向かう途中に若杉山の地点を見出し、そこで辰砂の採掘を行ったと考えられます。その場所が、今日の若杉山遺跡です。
辰砂は造船を手掛ける海洋豪族にとっては不可欠な資源であったことから、紀伊半島では丹生に、四国では若杉山にて採掘が行われたと考えられます。
神宝を携えた船木氏の目的地は剣山?

石上神社の巨石元伊勢御巡幸の目的は、国家の象徴である神宝安全な場所に移し、保管することでした。そして御巡幸の最終目的地となる剣山周辺に神宝が運ばれた軌跡をレイラインの考察から推測することができます。
船木氏は徳島を離れた後、船で淡路島の北部へ渡り、今日の淡路市舟木まで山を登り、そこに巨石を祀りました。河川から遠く離れた場所に自らの拠点を設け、巨石を祀るからには、それなりの重大な理由があったと考えられます。その場所は、三輪山や斎宮、長谷寺と同緯度にあることから今日では「太陽の道」とも称され、その巨石を御神体とする石上神社があります。また、石上神社は、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ一直線上にあり、その延長線には摩耶山も並んでいます。
石上神社の地が船木氏の拠点となり、その三輪山と剣山を結び付けるレイラインの交差点上にて巨石が祀られたことからして、元伊勢の御巡幸に続く神宝の旅が、剣山を最終地点として完結したものと考えられます。
神宝の秘蔵場所となる邪馬台国
もう一つ注目すべき点はが、元伊勢御巡幸からおよそ2世紀後に突如として台頭する邪馬台国の存在です。女王卑弥呼が神懸った背景には、神宝の存在があるのではないでしょうか。神宝が安置された場所には人々が集まり、そこで祈りを捧げるうちに、その地が特別な信仰の中心となったと想定されます。
もし剣山に神宝が秘蔵されたとするならば、その山奥で卑弥呼が祈り、霊力を養ったと考えて何ら不思議はありません。よって、中国史書は、陸地から30日も歩かなければ到達しない奥地に邪馬台国があったと記載されていることも、このような山岳地帯を連想させます。さらに、若杉山遺跡から辰砂が採れたことも、中国史書の記述と合致します。その河川の上流には剣山の存在がありました。
若杉山遺跡を取り巻くレイラインの検証から、古代の歴史の流れを新たな視点から見直すための多くの手掛かりが浮かび上がってきます。
参考文献
- 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
- 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
- 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月
参考サイト


