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2022/11/26

若杉山のレイライン レイラインの考察から浮かびあがる若杉山の場所

若杉山遺跡周辺の山道

謎に包まれた若杉山遺跡の場所

四国の山奥に存在する辰砂

若杉山遺跡を訪ねて実際に採掘地の現場検証してみると、疑問はつきません。何故、徳島県の山奥にて辰砂が採掘されたのでしょうか。人里離れた何ら目印もない山奥で、どのようにその岩場を探し当てたのでしょうか。1~3世紀の時代背景と辰砂の需要とは、どのような関連性があるのでしょうか。

それらのヒントは魏志倭人伝などの中国史書や、元伊勢御巡幸の歴史的展開から見出すことができるだけでなく、若杉山に纏わる多くのレイラインを検証することにより、時代の流れと地域の関連性をより明確に理解することができるようになります。

辰砂を探し求めた古代の民

高くそびえる石垣に圧倒される
高くそびえる石垣に圧倒される
水銀の原料となる辰砂は、いつの日も歴史の中で重要な役割を占めてきました。それだけ高価なものであり、様々な用途において、効力を発揮する資源だったのです。だからこそ、辰砂を探し求めていた古代の海洋豪族は、紀伊半島から四国の剣山に向かう途中、大きな河川を行き来しながら辰砂の鉱脈を探し求めたことでしょう。その結果、紀伊半島では吉野川の上流に、そして四国では若杉山が見出され、山の斜面から坑道が掘進され、辰砂が掘り当てられたのです。

しかしながら、那賀川支流沿いで何の目印もなく、人気の全くない山奥にある若杉山遺跡の場所は、どうやって探し出されたのでしょうか。しかもその斜面は急であり、山の中腹に連なる岩場の一角にある遺跡の場所周辺には何ら目印さえ見当たりません。広大な四国の山岳、山々の中からいったいどのようにして若杉山の場所を特定し、どの岩場を選別して掘削することができたのでしょうか。レイラインの考察から、確かな根拠に基づいた答えを見出すことができます。

古代レイラインの真相

レイラインとは

レレイラインとは、霊峰や霊山と言われる山々や大きな岬、神社などの聖地が一直線上に並んでいる状態を言います。一直線上に結び付けられると、たとえ山奥に新しく神社を建立した場合でも、他の指標を参照しながらその位置が見つけやすいだけでなく、同一線上の拠点同士が地の力と利を共有するという意味合いを持つことになります。そして神社など新たな拠点を設立する際には、複数のレイラインが交差する場所であることが重要視されたのです。

神を祀る聖地や都を造営する場所など、大切な場所を見知らぬ新天地にて探し出す場合、古代ではレイラインの交差という構想が積極的に活用されました。若杉山遺跡も例に漏れず、複数のレイラインが交差する地点に見出されています。

若杉山遺跡の指標となる神社と山

若杉山遺跡の年代は1~3世紀と特定されたことから、古代、元伊勢の御巡幸が終焉し、邪馬台国が台頭する時代に重なっていると考えられます。その時代背景を考えながら、レイラインの指標となる可能性の高い神社や山を思い浮かべてみました。

まず、多くのレイラインにおいて日本の最高峰である富士山が大切な指標となります。次に元伊勢御巡幸の基点でもあり、神が住まわれたとされる三輪山と、天照大神が祀られた伊勢神宮の存在が挙げられます。この2つの聖地も、レイラインの指標として多用されています。神宝と海洋豪族の歴史に纏わる神社としては、鹿島神宮も重要です。

丹生都比売神社
丹生都比売神社
また、神社の中でも1世紀という時代を振り返るならば、丹生都比売神社の存在を忘れることができません。元伊勢御巡幸が終わった直後の時代、その船旅を先導した船木氏らは紀伊半島の随所に一族の拠点を設けただけでなく、辰砂を求めて紀伊水道から吉野川を上り、その上流に辰砂の鉱山を見つけました。辰砂が発掘された場所は丹生とよばれ、その近郊には丹生都比売神社が建立されたのです。若杉山遺跡が辰砂の掘削場所であったことから、丹生都比売神社と歴史的な背景において、何らかの関係があっても不思議ではありません。

空海の最終拠点となった高野山も、辰砂の採掘に長けていた丹生氏の元拠点です。2匹の黒犬を連れた丹生明神の漁師が、高野山まで空海を導いたという伝説もあるとおり、空海は辰砂の産地を意図的に拠点としたようです。船旅を繰り返し、唐にまで渡った空海だからこそ、中国にて辰砂と水銀の大切さを学んだだけでなく、船底に塗られた辰砂の重要性を身をもって体験したのではないでしょうか。こうして貴重な辰砂の埋蔵に着眼した空海は、その辰砂の掘削と活用をもって、高野山の発展にも貢献したと考えられます。

四国剣山と元伊勢御巡幸との関係

また、若杉山遺跡のレイラインを検証するにあたり、若杉山のそばを流れる那賀川の上流に聳え立つ剣山にも注目です。剣山には古代からソロモンの秘宝が剣山周辺に埋蔵されているという伝承もあり、四国の聖地として知られています。紀伊水道からは那賀川を上流へ向けて辿ると剣山の麓周辺へと繋がり、その途中に若杉山遺跡が存在します。よって剣山も若杉山を見出す指標となった可能性が高いと考えられます。

その剣山は、若杉山遺跡が発掘される直前、長い年月をかけて行幸された元伊勢御巡幸地の基点であり、最終目的地であったと推測されます。何故なら、御巡幸地のすべてがレイラインを通じて剣山と結び付いていることを地図上でも確認することができるからです。すなわち、御巡幸地は剣山を基に、レイライン上にて特定された場所と推測できるのです。

それらレイラインの基点となった剣山の麓に若杉山遺跡が見いだされ、そこで辰砂が掘削された年代が、元伊勢御巡幸の直後にあたることにも注目です。それは、元伊勢御巡幸と若杉山の発見が関連していることを裏付けているようです。元伊勢御巡幸の最終段は、伊勢からの船旅により終わっています。伊勢から紀伊半島を南下した後、どこに向かったかは史書に明記されていません。しかしながらレイラインの考察から察するに、元伊勢の目的地は剣山であると考えられることから、その頂上へ向かう途中の川沿いにある若杉山に船木氏の船団が到達したと推測することに無理はありません。

船木氏の率いる船団が紀伊半島の最南端を通り過ぎて吉野川上流や四国の那賀川沿いに向かったことは、それらの地域周辺に残されている船木という地名からも垣間見ることができます。こうして海洋豪族の一行は、紀伊水道から那賀川を上流へと向かい、剣山へ行く途中に若杉山遺跡の場所を見出したと推測されます。

若杉山遺跡のレイライン

聖地を結ぶ線上に存在する若杉山

三輪山
三輪山
前述した神社や霊峰を指標として結ぶレイラインの線上に若杉山遺跡が存在するか、見てみましょう。まず、弥生時代後期、神が住まわれる霊峰として最も重要視されていた三輪山から見て、冬至の日に太陽が沈む方角、およそ240度の方向に線を引いてみました。すると若杉山遺跡に当たります。これは、若杉山遺跡から見れば、夏至の日に太陽が昇る方向に三輪山が存在することを意味しています。夏至の日の出となる方角はレイラインの構想において、極めて重要な位置付けを持っています。

次に富士山の頂上と鹿島神宮を結ぶ線を紀伊半島まで延長してみました。すると丹生都比売神社を通ることがわかります。丹生都比売神社の建立地を特定する際、富士山と鹿島神宮の延長線上に、その聖地が見出された結果と考えられます。しかもそのレイラインを西方に延ばすと若杉山遺跡があるのです。つまり若杉山遺跡の場所は、辰砂を掘削する紀伊半島の丹生と、富士山、鹿島神宮の地の力と結び付いていただけでなく、そこから夏至の日が出る方角に三輪山を拝することができたのです。

さらに、西日本最高峰の石鎚山と剣山を結ぶ線を東方に延長すると、若杉山遺跡に当たります。これは若杉山が剣山と関わりを持っていることを示唆しています。また、元伊勢御巡幸にも含まれた瀧原宮と伊勢神宮を結ぶ線は、山上ヶ岳と生石ヶ峰の頂上を通り、若杉山遺跡に至ります。

レイラインの交差点が若杉山遺跡

剣山頂上から望む伊島と紀伊水道
剣山頂上から望む伊島と紀伊水道
これらレイラインの考察から、富士山、剣山、石鎚山、そして三輪山という日本屈指の霊峰と、伊勢神宮、鹿島神宮などいくつもの著名な社が結び付けられたレイラインが交差する場所に若杉山遺跡が存在することがわかります。

若杉山遺跡の地は、山奥の中を何の考えもなく探し求めた結果、辰砂が出てくる場所が見つかった訳ではありませんでした。その場所は、古代聖地と霊峰、そして辰砂の象徴となる丹生都比売神社に結び付けられる場所を綿密に計算したうえで、ピンポイントに特定された場所だったのです。

若杉山遺跡と由緒ある神社を結ぶレイライン
若杉山遺跡と由緒ある神社を結ぶレイライン

レイラインから見えてくる歴史の流れ

剣山に結び付く元伊勢の御巡幸

今一度、歴史の流れを振り返ってみましょう。1世紀の初頭は前述したとおり、元伊勢の御巡幸が終焉し、伊勢神宮が建立された時代です。元伊勢の御巡幸は意外にも、神宝を守るだけでなく、後世にその秘蔵場所が四国の剣山であることを示唆するべく、迷路のように御巡幸地を転々と渡り巡ることでした。

レイラインの考察から、すべての元伊勢と言われる御巡幸地が、四国の剣山に結び付いていることがわかりました。(「日本のレイライン」、17-44章参照」)。一見信じがたい構想ですが、それらのレイラインは地図上に線引きをして確認できるだけでなく、剣山に神宝が持ち運ばれたと想定することにより、歴史の辻褄が合います。

剣山途上に発見された若杉山の辰砂

剣山と絡む元伊勢のレイライン
剣山と絡む元伊勢のレイライン

元伊勢の御巡幸後、船舶で御一行を先導した海洋豪族の船木氏らは、伊勢より剣山へ向けて船旅を続けます。その途中、紀伊半島の西岸から吉野川を上り、上流にて辰砂を掘削し、丹生都比売神社が建立されました。その後、紀伊水道を徳島の方に渡り、那賀川から剣山へ向かって川の上流へと向かう途中、若杉山の地点を見出し、そこで掘削を行ったと考えられます。その場所が、今日の若杉山遺跡です。

辰砂は造船を手掛ける海洋豪族にとっては不可欠な資源であったことから、大きな河川を行き来しながら紀伊半島では丹生に、そして四国では若杉山にて辰砂の掘削が行われたと考えられます。

神宝を携えた船木氏の目的地は剣山?

石上神社の巨石
石上神社の巨石
元伊勢御巡幸の目的は国家の象徴である神宝を守り、安全な場所に宝蔵することでした。そして御巡幸の最終目的地となる剣山周辺に神宝が運ばれた軌跡をレイラインの考察から推測することができます。まず、御巡幸後の船木氏の動向を追ってみましょう。

船木氏は徳島を離れた後、船で淡路島へと向かい、島の北方に上陸した後、今日の淡路市舟木まで山を登り、何故かしら、そこに巨石を移動して祀っています。船木氏が河川から遠く離れた場所に自らの拠点を設け、巨石を祀るからには、それなりの重大な理由があったと考えられます。その場所は、三輪山や斎宮、長谷寺と同緯度にあることから今日では「太陽の道」とも称され、その巨石を御神体とする石上神社があります。しかも石上神社は、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ一直線上にあり、その延長線には摩耶山も並んでいます。

石上神社の地が船木氏の拠点となり、その三輪山と剣山を結び付けるレイラインの交差点上にて巨石が祀られたことからして、元伊勢の御巡幸に続く神宝の旅が、剣山を最終地点として完結したものと考えられます。

神宝の秘蔵場所となる邪馬台国

もう一つの理由が、元伊勢の時代からおよそ2世紀後に突如として台頭する邪馬台国の存在です。女王卑弥呼が神懸った背景には、神宝の存在があるのではないでしょうか。神宝のある所に信心深い人々が集まり、そこで祈りを捧げるうちに、霊力を付けたと想定されます。剣山に神宝が秘蔵されたとするならば、その山奥で卑弥呼が祈り、霊力を養ったと考えて何ら不思議はありません。よって、中国史書は、陸地から30日も歩かなければ到達しない奥地に邪馬台国があったと記載されています。そのような秘境は剣山しか存在しないでしょう。若杉山遺跡から辰砂が採れたことも、中国史書の記述と合致します。その河川の上流には剣山の存在がありました。

若杉山遺跡のレイラインから、歴史の流れを見直す多くのヒントを見出すことができます。

参考文献

  • 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
  • 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
  • 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月

参考サイト

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