淡路島にて生涯を全うした伊弉諾尊
古代の識者は、日本列島の山や岬などを指標として、それらを結ぶ架空の線上に拠点を見出してきました。その基となる働きを始めたのが、西アジアのイスラエルから渡来したイザヤこと、伊弉諾尊をリーダーとする初代の船団メンバーです。神を信仰するイザヤとその同志は、日本列島に到達した後、各地に社を建立して神を祀ったのです。
古代の聖人たちは、まず日本列島の中心に位置する淡路島を基点として、島の中央に見出した神籬石などの指標を用いながら、矢継ぎ早に列島内に社の建立地を見つけていきました。当初、それらの拠点はほとんどが海岸沿いに位置していたことから、まずは船が停泊できる港を定め、その周辺に神を祀る場所を特定することが急務であったことがわかります。
このように多くの拠点が見出されたのは、列島の地勢を把握するためだけでなく、人々が住み、神を礼拝する場所を確保することが重要視されたからにほかなりません。こうして伊弉諾尊は数多くの社地を見出した後、自らは淡路島の幽宮にて生涯を全うしました。そして神社造営の使命は後世に託されたのです。
神宝が秘蔵された「東の島々」の高き山
もし、イスラエルの民がイザヤと王系一族に率いられて列島に渡来したとするならば、諸々の神宝を携えて海を渡ってきた可能性が考えられます。神宝こそ神の臨在の証であり、イスラエルの王族が移動する際に携行することは不可欠であったからです。それらの神宝は、南北イスラエル王国が前6~8世紀に崩壊してから後、いまだに行方がわからないままであり、歴史の謎とも言われています。それゆえ、その行先が日本列島であると仮定すると、歴史の流れが繋がります。
つまり聖櫃とも呼ばれる契約の箱をはじめ、アロンの杖やマナの壺などのイスラエルの神宝は、日本列島に持ち込まれた可能性があるのです。その際、聖櫃は2本の長い棒に載せられ、人々に担がれながら運ばれたことでしょう。その上部には、羽を広げた2羽の金の鳥が、据えられていたと伝えられています。その姿は、今日の祭礼で見られる神輿と非常によく似ています。神輿の起源は、この聖櫃にあるかもしれません。やがて日本列島各地では、聖櫃を模した神輿が担がれ、神を奉る祭礼が行われるようになります。
もしその想定が正しいとするならば、イスラエルの神宝は、日本列島内でも人の手が届きにくい安全な場所に秘蔵されたに違いありません。未知の島において外敵から宝を守るためには、容易に近づけない場所を確保する必要があったのです。そして最終的には、神が住まわれると信じられた高い山の山頂近くに納められた可能性があります。
「東の島々」を訪れる前から、イスラエルの民は預言者イザヤを通して、新天地には高い山々が連なり、その高山に神が住まわれるというビジョンを与えられていました。そのため、イザヤが書き残したとされるメッセージには、「東の島々」の高き山にて人々が神を崇め祀ることが強調されていたのです。では、どのような山が日本列島で該当するのでしょうか。最高峰の富士山は淡路島から遠すぎるだけでなく、標高が高すぎて集落を造成することができません。伊弉諾神宮から北東50kmにある六甲山は逆に標高が低すぎ、周辺には平野が広がるため、堅固な聖地を築く場所としてはやや不安が残ります。また、淡路島から南東には紀伊山地が広がるものの、そこには聖地の指標となる山の存在を見出すことができませんでした。こうして淡路島を基点に考えるならば、南西方向に望むことのできる最高峰、徳島県の山岳地帯が最も有力な候補として注目されたのではないでしょうか。
淡路島から見える最高峰が剣山
淡路島からは四国山地を望むことができ、天候に恵まれた日には、西日本で第2の標高を誇る剣山の頂上を遠くに望むことができます。西日本最高峰の石鎚山は、標高こそ剣山より27m高いものの、淡路島からはその姿を見ることができません。また、石鎚山の頂上周辺は急峻な岩場が多く、大規模な集落を築くことが容易ではありません。それに比べ、高地性集落を造成しやすいなだらかな地域が、山頂周辺のエリアに多く見出されたのです。
しかしながら山頂へのアクセスは急斜面に阻まれて難しく、剣山の頂上周辺に辿り着くには、四国の沿岸から徒歩で約1か月の時間を要するほどでした。この極めて困難な陸路が効を奏し、神宝という貴重な宝蔵物を奉納して外敵から守るためには、むしろ最適な場所と考えられたのではないでしょうか。
神宝を携えてきたイスラエルの民は、神の導きに従って列島の中心、淡路島から望むことのできる最も高い山を目指して進み、その山岳地帯の随所に集落を造成したと考えられます。その中心となる最高峰が剣山です。やがて山頂周辺に造られた集落は発展を遂げ、剣山取り囲むように広がりを見せていきました。そして時代の流れとともにそれが邪馬台国の舞台になったと考えられます。さらにそれらの集落は山上国家へと変貌を遂げ、女王国とも言われた邪馬台国としてアジア大陸までその名声が届くまでになったと考えられます。





