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2025/03/15

史書の記述に合致する鐘崎 「魏志倭人伝」が証する海路と陸路の旅

「魏志倭人伝」が証する海路と陸路の旅

魏志倭人伝」に記載されている邪馬台国の道のりについては、旅中の拠点ごとに距離が記載されています。その記述に従って朝鮮半島の帯方郡から辿ると、末盧国の場所が九州北部の鐘崎と宗像にあたることがわかります。また、距離に関するデータだけでなく、船旅と陸の旅が繰り返されたというルートを検証することにより、古代の民が行き来した旅路が地図上に浮かび上がってきます。

魏志倭人伝には、朝鮮半島から倭国の邪馬台国へ向かう途中、対馬から壱岐に渡り、玄界灘の荒波を乗り越えて九州北部の末盧国に行ったことが記録されています。末盧国に上陸した後、しばらくは陸路にて旅を続け、その後、再び船に乗って海を渡ることになります。最終目的地に到達するためには船に乗ることがわかっていても、その中途に陸路が存在したことから、いったんは下船して陸地を歩まなければならなかったのです。何かしら、地理的な要因があったことが窺えます。

末盧国から陸路を経由した理由

古代の民が壱岐から海を渡って末盧国へ行き、その後、陸路を進むも、再び海を渡ることになったのは、九州北部特有である下関海峡の歪な地形に起因していると考えられます。壱岐から海を渡って九州北部へ向かい、志賀島周辺を経由して鐘崎に着岸した後のルートを考えてみましょう。そこから九州の東海岸へ向かう最短の旅路を想定すると、必然的に海岸沿いの船旅よりも、陸路の優位性が見えてきます。

鐘崎港から北九州東海岸へ向かうルート
鐘崎港から北九州東海岸へ向かうルート

鐘崎から船に乗り続けて東方に航海したと想定し、下関を経由して九州の東海岸沿い、今日の北九州空港がある東小倉周辺、周防灘の海岸まで船で渡航し続けたとしましょう。地図を見れば一目瞭然で、渡航距離がとても長くなることに気付きます。九州と本州の接点である下関海峡の海岸線が深く入り組んでいるからです。実際、鐘崎から周防灘までの航海距離は、その海岸線から算出すると70kmを越えます(地図参照)。当時の1日の平均航路距離を20kmとみても、船旅には最低3日ほど費やさなければならず、天候によってはさらに日数がかかったことでしょう。しかも、危険な玄界灘をやっとの思いで渡航してきた船舶員にとって、再度、玄界灘を渡航することは、大きな心の負担となったに違いありません。そのため、下関を通り抜ける航海路の代替案として浮上したのが、鐘崎からの陸路であったと推測されます。

古代、壱岐から九州の東海岸方面に向かって旅する最短のルートは、一旦鐘崎に着岸し、そこから陸路を徒歩で東海岸方面へと歩くことでした。その方がより早く、安全に東海岸に辿り着くことができたのです。鐘崎から周防灘の海岸線までは一直線とまではいかずとも、ほぼ平坦な道を東南方向に進みながら旅することができます。そして50kmほど徒歩で進むと、九州東海岸沿いの海を眺めることができる地に到達します。2日もあれば余裕を持って歩くことができるほどの距離です。すなわち陸路を使うことにより、海路より少なくとも1日早く東海岸に到達するだけでなく、より安全に旅をすることができたのです。

鐘崎からさらに東南方向へ進む

倭国の領域に入ってから邪馬台国へ向かう旅の方角にも注目です。魏志倭人伝には末盧国から「陸上を東南に五百里すすむ」と書かれています。九州に上陸した後、港町がある末盧国から東南方向に陸地を進むということです。末盧国に比定される鐘崎から見て九州の東海岸は東南方向にあります。また、末盧国の港から出発し、宗像を経由して通り抜ける東海岸への道も、起点から東南の方を向いています。すなわち、末盧国は鐘崎という前提で考えると、「陸上を東南に五百里すすむ」という魏志倭人伝の記述に合致していることになります。

史書の記述における旅の方角とは、目的地を見据えた全体の方向性だけでなく、時にはその範疇の中で、さまざまな方角に向けて移動することに言及する場合もあります。いずれにしても、末盧国を鐘崎と想定することにより、その後の陸路の旅路が中国史書の記述のままに理解することができます。

神功皇后に纏わる壱岐と鐘崎の繋がり

壱岐から海峡を渡り、倭国の玄関となる鐘崎港に到達すると、岬に佇む織幡神社が目に入ります。その石段を上って境内まで足を運び、あたりを見渡すと広大な玄界灘が目に飛び込んできます。古代の民は、その境内の高台から海を眺め、離島から渡航する民の無事を祈願したのではないでしょうか。

織幡神社は宗像5社の中でも有力な社であり、筑前国における式内社でも宗像大社の次に列記されています。この織幡神社こそ、鐘崎と壱岐が宗教文化と人の流れという太いパイプラインで繋がっていた証となる古代聖地です。その背景に潜む歴史の軌跡は、壱岐からの渡航者が目指した末盧国が鐘崎であるという史実を裏付けています。

織幡神社の祭神は竹内宿禰です。そして竹内大臣が織られた幡が収められたことから、織幡という名前がついたのではないかと考えられています。また、社記には「壱岐眞根子臣の子孫の人つたへて是を祭る」とあります。その記述から、織幡神社の社家は壱岐氏であったことが窺えます。古代社会において、鐘崎と壱岐との間に深い交流があったことを織幡神社は証しています。

創立年代は定かではないものの、「宗像大菩薩縁起」には三韓征伐にあたり、宗大臣は竹内宿禰の「織り待て」る「赤白二流の旗」をもって御手長を振り下げたり、振り上げたりしながら敵を翻弄したと記録されています。それ故、神功皇后の朝鮮出兵を機に、その織幡を掲げる思いをも込めて、織幡神社が鐘崎に鎮座したのではないかと推測されます。その御手長と呼ばれる旗竿は、壱岐の「天手長男神社」と「天手長比賣神社」に由来しているだけでなく、最終的には沖の島に保管されたことも記されています。つまり織幡神社は壱岐のみならず、宗像大社の一の宮が存在する沖ノ島とも深い繋がりがあったのです。

神功皇后による朝鮮出兵の背景

神功皇后の朝鮮出兵に関する伝説は、壱岐でも大切に伝承されてきました。例えば、朝鮮へ出兵する際に、神功皇后が最後に船出をしたのは、壱岐の勝本浦と言われています。勝本浦には聖母宮(しょうもぐう)があり、その聖なる母とは神功皇后と考えられています。実は朝鮮へ出兵する際に皇后は妊娠しておられたという背景もあり、その出産を遅らせるために石を用いたという記述が古事記にあります。そして倭国に戻られてから無事に出産したのが、後の応神天皇です。それ故、壱岐では10月の例祭になると神功皇后と応神天皇、および仲哀天皇が乗られたと想定する2台の神輿を御神幸船に乗せ、湾内を巡航する行事が長年に渡り執り行われてきました。

神功皇后の朝鮮出兵に絡み、もう1点見逃せないのが宗像神社とともに官幣大社として名を連ね、北九州、玄界灘周辺において、宗像大社とともに最も影響力を持つ香椎神宮の存在です。式内社として博多湾沿い近くに造営された香椎神宮では、神功皇后と仲哀天皇が祀られています。香椎神宮において神功皇后は神より新羅を攻める神託を授かり、朝鮮への出兵が実現したのです。その際、北九州八幡の帆柱山と呼ばれる円錐形の山から木を伐り出して、神功皇后が乗船する御座船を作ったという伝説も残されています。

安曇族などの豪族を含め、九州北部から東海岸の大分沿岸まで広がっていたと考えられます。それ故、九州には日本最古の神社の一つとして知られる宗像大社だけでなく、大分には八幡さまの総本宮である宇佐神宮も建立されました。宇佐神宮の建立は8世紀ですが、祀られている八幡大神は応神天皇のご神霊と語り継がれており、その歴史は邪馬台国の時代と同じ3世紀まで遡ります。こうして邪馬台国へ向かう途中のルートにある鐘崎・宗像と北九州八幡、大分の宇佐は、深い繋がりを持つことになったのです。

海洋豪族の拠点となる鐘崎港

神功皇后の時代に織幡が掲げられ、日本の建国に大きな貢献をした応神天皇が出生した背景には、壱岐と鐘崎・宗像に纏わる歴史と文化が深く関わっていることがわかります。そして神功皇后の伝説は、九州の東海岸沿い、大分まで広範囲に語り継がれていることからしても、九州北部の陸地では、古くから渡来人や要人を含む人の流れが、東西に繋がるルートを通じて出来上がっていたのです。

その背景には、玄界灘から瀬戸内海まで自由自在に行き来する海洋豪族の存在があり、そのひとつが安曇族です。そして海洋豪族は、沖ノ島や他の離島を経由して倭国を行き来するための九州の入り口として鐘崎を選び、そこを倭国への玄関港としたのです。よって鐘崎は古くから海人に用いられた重要拠点であっただけでなく、九州東海岸への近道となる陸路に上陸する地点としても認知されることになります。こうして鐘崎は古代の港町として、そのすぐ傍にある宗像神社とともに栄えたのです。

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