不弥国の岬に造営された綿都美神社
天平6年(734年)頃、周防灘に注ぐ竹馬川の河口北側、海岸線沿いに綿都美神社が建立されました。今日では海岸から約1.3km離れていますが、明治時代までは社殿の正面まで海岸線が迫っていました。遠い昔、その岬で神が祀られ、後に正式な神社として社殿が建立されたのです。
神社の周辺には古代、不弥国と呼ばれる小国家が存在したと推測されます。旅人は不弥国から船に乗り、邪馬台国を目指して南方へと向かい、航海の途中で宇佐神宮のある地にも立ち寄ったのではないでしょうか。宇佐神宮は古代の旅人にとって極めて重要な聖地であり、倭国の九州沿岸を旅する際は、そこで航海の安全を祈願したことでしょう。
海岸に面した綿都美神社
綿都美神社の宮司を務める平野家には、14世紀から16世紀にかけての中世文書である「平野文書」が伝えられ、現在は市立自然史・歴史博物館に市指定有形文化財として保存されています。また、明治時代に描かれた「綿都美神社境内の図」と題する、神社全体とその周辺を詳細に描いた絵図も存在し、平野家に伝えられています。
「綿都美神社境内の図」には、二つの大切なメッセージが含まれていました。まず、明治時代においても鳶ヶ巣山と高蔵山との間は海であったということです。つまり、鳶ヶ巣山は浅瀬に浮かぶ離島であり、綿都美神社は岬の先端に建てられていたのです。二つ目は、綿都美神社が海岸沿いに位置していただけでなく、本殿から鳥居へと続く参道は、一直線に海へ向かって延びていたことです。この配置には、航海の指標とするため、参道や鳥居を会場の進行方向に向けて配置したものと考えられます。
綿都美神社と「ワタツミ」の由緒
緩やかな傾斜のある山裾に佇む綿都美神社は、734年、「立地条件に最も適したこの地に海神風神を竜王の宮として奉斎」と、その由緒書に記載されています。よって、その歴史は少なくとも奈良時代まで遡ります。また、「明治維新とともに社号を綿都美と改めた」とも記されています。当初は海と風の神を祀る「竜王の宮」と称された神社ではありますが、古くから「ワタツミ神社」としても知られ、その名称が長く受け継がれ、明治時代に正式な社号として採用されたのです。
その祭神は正式には綿都美神、志那都毘古神、志那都毘売神であり、社伝によると招福鎮魂の郷土の守り神として崇敬され、その信仰が継承されてきたとのことです。古事記の神生みの記述の中では、十柱の神の中の大綿津見神、別名、豊玉彦命は海の神として知られています。また、イザナギとイザナミの間にできた四柱の神の1人である志那都毘古神の名が、風の神として登場します。その後、木の神、山の神、野の神と続きます。大綿津見神と志那都毘古神が、自然に関わる神々として一連の記述の中に登場することからも、綿都美神は大綿津見神と同一神であったと推定されます。これは、不弥国の綿都美神社が、対馬の和多都美神社と深い絆で結ばれていることを意味ししているのではないでしょうか。
また、イザナギが黄泉から帰って禊をした際に生まれた底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神は、後に列島周辺の海原を渡り巡る海神として知られる阿曇連、阿曇氏の祖先です。この三神をもって、綿都美神と称している可能性も指摘されています。いずれにしても、海を支配する神が綿都美神社で祀られていることに変わりなく、国生み当初からイザナギ、イザナミの子として海の支配を任されたスサノオノミコトの働きに準じる神であることに違いありません。対馬の和多都美(ワタヅミ)神社と同様に、不弥国の海岸拠点においても海の神を祀る綿都美(ワダツミ)神社の存在は極めて重要だったことがわかります。
宇佐神宮を指す綿都美神社の鳥居
不弥国から邪馬台国へ向かう旅路の途上において、綿都美神社が旅の安全を祈願する祈りの場として重要な役割を果たしただけでなく、その旅先の方向にある宇佐神宮の存在までも見事に明示していたことを、綿都美神社の鳥居の位置から知ることができます。
神社の鳥居が向く方向は、重要な意味をもっている場合が少なくありません。例えば対馬の和多都美神社には五重の美しい鳥居が海岸に向かって一列に並んでいますが、これらの鳥居の方角は、はるか彼方にある朝鮮半島の狗邪韓国の港を指していたと考えられます。幾重にも重なる鳥居には、大陸より訪れる旅人の航海安全を祈りつつ迎え入れることを願うだけでなく、対馬の和多都美神社から大陸へ向けて渡航する者が目指す方向を示す役割もあったのではないでしょうか。
一方、不弥国の綿都美神社の二重の鳥居も、同様に重要な地理的意味を持っています。明治時代に描かれた図を見てもわかるとおり、綿都美神社二重の鳥居は海に向けて参道から一列に並んでいます。その鳥居が向けられている方角が重要だったのです。綿都美神社の本殿から二つの鳥居を結ぶ中心線の方角を確認すると、南東137度を指していることがわかります。地図上で綿都美神社から137度の方角に一直線を引くと、ちょうどその先には宇佐神宮が存在します。これは、綿都美神社と宇佐神宮が海の神を祀る聖地としてつながっていることを意味しているようです。複数に重なる鳥居が指す方向だけに、それは不弥国から旅する次の目的地が宇佐神宮であり、旅する方向を示していた可能性があります。また、宇佐神宮から九州の東海岸を北上して航海する際には、不弥国の綿都美神社を目指したことをも示唆しています。
綿都美神社が建立されたのは734年と伝えられており、邪馬台国の時代からおよそ500年後のことです。しかし、社殿が正式に建立される以前から、この場所が重要視されていた可能性があります。綿都美神社が北九州の沿岸に位置し、古代には宇佐方面との間で船が海岸線沿いを行き来していた可能性を考慮すると、神社の周辺に不弥国の港が存在したとも考えられます。そして、やがて航海する旅人の道しるべとして複数の鳥居が建てられ、綿都美神社の象徴となったとも考えられるのです。





いつも楽しく拝見させていただきありがとうございます。
綿都美は辰韓、弁韓、馬韓と同様に倭辰巳がそれに相当する漢字であって当時半島南部は倭の領域との意識があった頃の半島南東部を指していてるのではないでしょうか。つまり、綿津見とは弁韓や伽耶の地域だと考えるのが適当だと思います。