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2025/05/21

不弥国から宇佐神宮へ向かう 富士山と伊弉諾神宮に結び付く古代聖地

不弥国から南へ向けて出航

末盧国から不弥国までの陸行については、史書に記載されているとおりの道のりを、難なく見出すことができました。末盧国の比定地にあたる鐘崎・宗像から伊都国の八幡、奴国の小倉北へと東南方向に進み、東海岸まで着くあたりに不弥国が存在しました。そこは北九州の足立山麓近くであり、すぐそばには周防灘を見渡せる港がありました。

不弥国は北九州と他の島々を結ぶ交通の要所でした。その港から再び船に乗って南下し、港のそばにある綿都美神社の2重鳥居が示す137度の方角を目指して進みます。そして宇佐を流れる駅館川沿いを内陸に向かうと、秦氏の本拠地である八幡宮の総本社、宇佐神宮周辺に至ります。

神武天皇も立ち寄る宇佐の聖地

邪馬台国への旅路の途中、宇佐の聖地に一旦は立ち寄ることが古代の旅人にとって重要でした。日本書紀には神武天皇が東征する際に、まず、「菟狭の川のほとり」に立ち寄ったことが記載されています。天皇がわざわざ立ち寄る程、宇佐の場所は極めて大切な聖地であり、古くから特筆すべき場所であったことがわかります。宇佐で神が祀られるようになった創始は初代天皇である神武天皇の時代に結び付き、さらには国生みの時代まで遡るかもしれません。

北九州の海岸沿いから国東半島に向かう途中の海岸近くにある宇佐は、そこからさらに東方へ広がる瀬戸内に向けて航海する際の重要な拠点として、国生みの時代から認知されていたと考えられます。その背景には、スサノオ命が活躍した国生みの直後から増え始める大陸からの渡来者と海洋豪族の存在がありました。そしてスサノオの子どもである五十猛神(いそたけ)だけでなく、その末裔である渡来氏系の氏族や、宇佐神宮社家の氏族としても知られる辛島氏も名を連ねるようになります。宇佐神宮の前身は、これらスサノオの子孫によって立ち上げられたのです。

秦氏によって建立された宇佐神宮

時を経て、いつしか宇佐は聖地としての名声を博するようになります。その後、列島に渡来した秦氏は宇佐を自らの一大拠点とするべく、そこに宇佐神宮を造営して、全国八幡宮の総本山としました。古代より九州と四国、近畿地方を行き来する瀬戸内海の航海路は大陸から訪れた海洋豪族らを中心に用いられ、渡来者の流入と共に発展し続けます。

大勢の秦氏が渡来した後、渡来系の民の中には引き続き宇佐を目指す者が多く現れました。そして5世紀末には新羅系の渡来集団の中心となった辛嶋氏も朝鮮半島より大勢渡来するようになり、周防灘から宇佐平野の西部に到達して辛国を設立しました。

宇佐の地が重要視された理由は、単にその場所が朝鮮半島と四国、近畿を行き来する際に立ち寄ることができる、海岸沿いの大切な拠点であっただけではありません。その場所は、神を参拝するにふさわしい場所であることを、古代識者の中にはピンポイントで理解した人もいたようです。宇佐が重要な聖地として知られるようになった背景を探るには、国生みの時代まで遡る必要があります。

国生みの時代から始まる聖地探し

南西諸島から北東方向に連なる日本列島の島々は、四国周辺の海域や瀬戸内海を過ぎて淡路島まで到達すると、巨大な本州の陸地を境にして一連の島々の流れが途絶えます。日本の歴史が始まる国生みの時代、その大自然の光景を目の当たりにした伊弉諾尊ら一行は、探し求めていた東の島々の中心が淡路島であることを悟ります。それからすぐに、淡路島を基点とする島々の探索が始まったのです。

日本列島内の大事な拠点を探すための手法は、東西南北の方角と、太陽が上り下りする位置の確認から始まったと推測されます。特に夏至の日や冬至の日などを重要視しながら、山や岬など人の目につくわかりやすい地勢を基点に、そこに結び付く新たな拠点を見出していくことになります。その結果、短期間で神を祀る場所や、船が停泊する港、人々が居住する集落の場所などが、列島内に見出されていくことになります。

その結果、まず淡路島では、島の中心に伊弉諾尊の大切な拠点であり、後に尊自身の聖墓ともなる伊弉諾神宮の場所が見出されます。その場所は淡路島の高台、舟木の丘に散在する巨石群からなる磐座と、四国の霊山であり、淡路島から見ることのできる最高峰、剣山を結ぶ一直線上に存在します。その後、淡路島の伊弉諾神宮を基点として、夏至や冬至の日の出と日の入りに関わる方角を見極めながら、その方角の線上に1つずつ拠点を見出したのではないでしょうか。そして日本列島各地に新天地の聖地となるべく、神を祀るための神社が建立される場所が見出されたのです。

その結果、伊弉諾神宮の北西300度上には出雲大社、北東60度上には諏訪大社、南東120度上には熊野那智大社、そして南西240度上には高千穂神社天岩戸神社の聖地が見出され、それぞれが長い歴史の中で、国民の篤い信望を得るようになります。

富士山に結び付く宇佐神宮の聖地

宇佐の聖地が見出された背景には、淡路島の伊弉諾神宮や、夏至と冬至の線上にある重要な拠点だけでなく、古代人が注目した日本列島の最高峰、富士山の存在がありました。圧倒的な標高を誇る富士山は、古代から揺るぎなき霊山として認識されたことでしょう。そして出雲大社には熊野那智大社が、諏訪大社に対しては高千穂神社と天岩戸神社が、伊弉諾神宮を中心として一直線上に並ぶ聖なる拠点として特定されたように、生粋の霊山として認知された富士山に相対する聖地として、伊弉諾神宮の西方に、宇佐の地が特定されたのです。

地図上で富士山の頂上から西方に向け、伊弉諾神宮を経由して直線を引くと、見事に宇佐神宮にあたることがわかります。これは単なる偶然ではなく、綿密に計測したうえで、宇佐の場所が選別されたからに他なりません。また、伊弉諾神宮の距離は富士山から368km、宇佐神宮から338kmであり、距離的にもほぼ一致しています。同一の距離でない理由は、368kmの地点が山奥の山上に位置しているためであり、あえてその手前の平地で、川のほとりに近い現在の宇佐神宮の地を特定したと推測されます。

伊弉諾神宮を中心として日本全体を網羅する聖地の1つに数えられた宇佐は、富士山と伊弉諾神宮の線上に直結し、最高峰の霊山の流れを汲む聖地の役割を果たす一方、大陸と日本列島各地を結ぶ途中に存在する重要な旅の拠点として、秦氏らの篤い信仰を得ることになります。こうして宇佐神宮には、古くから多くの崇拝者が集まるようになり、言わずと知れた貴重な聖地として歴史に名を残すことになります。邪馬台国へ向かう途中、まず宇佐を訪れてから国東半島の方向へ旅を続ける理由は、国生みから発展する日本列島内の探索により、富士山と伊弉諾神宮に結び付く宇佐の聖地が見出されたからに他なりません。

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