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2026/10/22

投馬国の候補地を考察 邪馬台国への最終拠点を見出す5つの鍵

投馬国の比定地を地名から探す

南至投馬國 水行二十日… 可五萬餘戸 

南して投馬国に至る。水行二十日。…五万余戸。 

「魏志倭人伝」より

朝鮮半島の南端に位置する狗邪韓国から船で旅立ち、対馬、壱岐を経由して、北九州の末盧国に到達した後、大陸からの使節一行は陸路を東南方向へ進みました。そして使節の宿泊地としても知られる中継地の伊都国を過ぎると、2万戸を有する奴国に到達します。そこから東方へ100里、7~8kmほど進むと、周防灘に面する海岸に至ります。その周辺は不弥国と呼ばれていました。不弥国の北西方向には足立山がそびえ立ち、その麓近くの港から再び船に乗り、投馬国への旅が始まります。

九州の不弥国から南方へ海を渡り、20日進むと、5万余戸を有する投馬国に到着すると、「魏志倭人伝」に記録されています。投馬国の比定地については、地名の発音が「投馬」に類似していることを重要視する説が多く、その主だった候補地だけでも数十か所に及んでいます。九州だけでも、熊本県の玉名と当麻、鹿児島の高城郡托摩と都万郷、宮崎の都萬、福岡県の上妻や下妻と豊前、豊後、大分の五馬などが挙げられます。そして、山陽、山陰地方では、出雲や兵庫県北部の但馬、瀬戸内海側では山口県の玉祖、岡山県の玉野が名を連ねます。さらに新井白石によって広島の鞆(とも)町と、東方に至っては兵庫県の須磨の浦がそれぞれ候補地として提言されました。しかし、いずれも確かな結論に至ることはできませんでした。

これら比定地のほとんどは、投馬国の名前が「トウマ」、もしくは「トゥマ」と読まれるという前提から、その発音に似た地名を持つ場所が候補地として挙げられています。これほどまでに意見の分かれる投馬国の比定地ですが、その場所を特定する方法はあるのでしょうか。果たして類似した名前を探し求めることだけが唯一の手だてなのでしょうか。史書の記述を頼りに検証すると、その答えを見出す鍵が、地名以外にも4つ浮かび上がってきます。

投馬国を距離から比定する

2番目の鍵は、中国の史書に記された船旅の日数から距離を推定することです。「北九州の不弥国から船に乗り、水行20日間という長い時間をかけて航海し、投馬国の地に到達する」と記載されているだけに、投馬国はかなり遠い場所にあったはずです。古代、北九州の周防灘沿いにある港を出航し、日本列島周辺の海域を20日かけて渡航すると、どれほどの距離を旅することになるのでしょうか。まずは、その20日間という航海日数でたどり着くことが可能な地域を探ってみます。

古代の船旅は、周囲を見渡すことができる日中に行われるのが一般的だったとみられます。航海時間は季節によって異なりますが、平均10時間程度と仮定します。また、海流や天候の影響を受け、渡航できない日もあったとすれば、1日の航海距離は平均して30km未満だったとも推測されます。仮に1日30km進んだとすれば、20日間で約600kmになります。

不弥国があったとされる北九州から投馬国まで600kmの距離を旅すると、たとえば九州の東海岸沿いを南下した場合、最南端の鹿児島を越えて種子島を経由し、屋久島までたどり着くことになります。しかし、それでも屋久島までの距離は600kmに満たず、しかもそこからさらに続くはずの水行と陸行の旅は、この屋久島経由のルートでは実現できません。また、不弥国からいったん南下して四国の佐田岬に渡り、そこから四国の西岸を南に向かい、足摺岬を経て高知県沿いを進んだとしても、600kmならば四国東岸の徳島まで到達してしまいます。こうして見ると、水行20日を単純に600kmの距離として捉えることには無理があるようです。

そこで、北九州足立山麓の綿都美神社を不弥国の港と想定し、投馬国の比定地としてこれまで提言されている九州や四国の各地までの距離を測ってみました。北九州の周防灘に面する不弥国から南方向へ海岸線沿いに進み、国東半島を過ぎた後も、別府湾を経由してさらに南下し続けたと仮定すると、宮崎県延岡周辺の北部平野部までの距離は約260km、日向市までは280km、宮崎平野北部までは約320kmとなります。また、投馬国を四万十と想定し、北九州から伊予灘、豊予海峡を経由して、四国最南端の足摺岬まで南下し、四万十へ北上したとしても、約320kmです。さらに、伊予灘から瀬戸内海を東方へ向かい、今治平野まで航海した場合も約300kmとなります。

これらの地域まで船で20日間の航海をしたとすると、いずれも1日あたりの航海距離は15km前後となり、船旅の行程としては大変短いものです。それでも、天候などの諸事情に大きく左右されることを踏まえると、たとえば九州の東海岸沿いを南へ航海し続ける前提では、不弥国の比定地から宮崎平野周辺までの距離は約320kmとなります。これは、20日の水行で十分に到達できる船旅の範囲と言えるでしょう。また、国東半島から伊予灘を渡り、四国佐田岬へ向かうという想定も可能です。佐田岬の北側から東方向へ進めば、およそ300kmで今治平野に着きます。一方、佐田岬から南方面へ向かったとするならば、約320kmで四万十まで到達します。こうした距離から推察すると、まず、これらの地域が投馬国の候補地として浮かび上がってきます。そして、瀬戸内海をさらに東方へ航海して距離を延ばすことにより、今治平野よりも東に投馬国の比定地が存在することも視野に入ってくるのです。

投馬国の大きさから考察する

投馬国を探すための3番目の鍵は、国の大きさです。投馬国が5万余戸という大変多くの家々を抱え、広大な地域にあったことを念頭に置き、候補地を絞り込んでいきます。

「魏志倭人伝」には、倭国では山や島を基盤として国や村が形成され、百余の国々に分かれていたと記されています。その後、魏の時代には倭国の30国が中国と通交していました。これらの国々には、小さな島を単位とするものもあれば、九州や四国などの大きな島では、港周辺の平野部を中心に形成されたものもあったはずです。また、山地の地理的条件を生かし、山上や山地に囲まれた盆地にも国が形成されたことでしょう。そして、5万余戸という数字を見る限り、その戸数から、人口は20万人以上に達していた可能性もあります。それだけの人口を抱える国が成立するには、広大な平野があり、なおかつ船で渡航できる海岸沿いの地域でなければならないのです。

そのような条件を満たす場所は限られており、西日本の地形を航空写真や地図で確認すると、その候補地が浮かび上がってきます。それらは、九州東海岸沿いでは延岡平野と宮崎平野、四国では松山と伊予を囲む道後平野、瀬戸内海沿いの今治平野、四国最南端の四万十、そして讃岐平野です。また、東方に向かって本州まで進めば、大阪湾周辺から奈良盆地などにも平野が広がります。しかし、その後の10日間の水行と30日の陸行を踏まえると、これらの地域を候補地として検討するのは難しいでしょう。したがって、投馬国の候補地は、これらの平野のいずれかに絞られてくるのです。

史跡の痕跡や伝承をたどる

4番目の鍵は、各地域に残る旅の手がかりとなる神社や史跡、伝承などを見出し、それらと邪馬台国への旅路との関連性を見極めることです。「魏志倭人伝」が記録した20日の水行の範囲に九州も含まれることから、たとえば九州の東海岸沿いにある延岡、日向、宮崎平野を想定してみましょう。

延岡平野の西側、山地の奥には、高千穂と呼ばれる聖地があり、天照大神が隠れたという伝承が古くから残る天の岩戸が存在します。それだけでなく、その周辺には、神武天皇の御兄弟である四皇子が誕生されたと伝わる四皇子峰や、高天原遥拝所などもあり、古くから広く信仰されてきました。

これらの史跡や言い伝えの多さから見ても、高千穂周辺は、神武天皇をはじめとする歴代の天皇や古代国家と何らかの関わりがあった地域と言えるでしょう。また、卑弥呼を洛陽音で読むと「ヒムカ」となるという説がありますが、その読みが日向の読みとよく似ていることからも、日向と邪馬台国との関連性がうかがえます。

投馬国とは二つの岬に象徴される国

最後の鍵は、アイヌ語における投馬国の意味です。「投馬」という地名は邪馬台国の時代、どのように発音されていたのでしょうか。中国語の歴史において、周から前漢までの紀元前256年頃までは「上古中国語」が使われ、その後、後漢から唐の時代までは「中古中国語」が使われました。日本に関する記述を含む史書の数々は、これらの時代をまたいで編纂されているだけでなく、中国という広大な土地柄から、地域によっても発音が大きく異なっていたことが想定されます。そのため、古代の地名がどのように発音されていたのかを、一概に特定することは難しいかもしれません。

「魏志倭人伝」の編者である陳寿(233~297年)は、晋に仕えた歴史家です。「魏志倭人伝」を含む「三国志」は3世紀末に編纂されました。当時の洛陽は政治・文化の中心地であり、詩人の左思が著した「三都賦」が評判となって紙の価格が高騰したことから、「洛陽紙貴」という言葉が生まれたほどです。こうした時代背景を踏まえ、投馬国の名称についても、当時の中国語の発音を考慮する必要があります。

また、晋を興す原動力となった司馬氏も、洛陽に近い河南省の出身であり、洛陽を都としていたのです。そして陳寿と同じ時代に晋の詩人として名声を博した左思も、洛陽で多くの功績を残しました。このことからも、当時の洛陽が文化の中心の一つであったことがうかがえます。

これらの背景を総合すると、陳寿が読み書きした中国語が、洛陽の都を背景とした洛陽音を用いていた可能性が高いと言えます。その洛陽音を用いたと仮定するならば、「投馬」の発音はおそらく「ドマ」「ドゥマ」、もしくは「ヅゥマ」「トゥマ」だったはずです。投馬国の比定地を考察するにあたり、これらの発音に類似した日本語の地名を探し、それを候補地として検討することができます。

さらに別の見地から、古代の日本の地名をアイヌ語との関連から考えてみます。地名をアイヌ語で読み、その発音に類似した言葉があるかどうかを探ると、「トーマゥ」「トゥマ」というアイヌ語が候補に挙がります。前者は樺太の祈詞や古語で海の風を意味します1。「ト」は海を指す言葉として知られています。

また、アイヌ語で「トゥ」は二つ、「マ」は半島、岬の意味を持つ言葉です。すると、「トゥマ」は「二つの半島」「二つの岬」を意味する名称とも考えられます。その二つの半島を特徴とする地勢を探すと、まず、今治平野の存在が見えてきます。四国の北西に位置する今治平野の北側には、小さな岬が二つ並んでいます。これらは小さな半島のようでもあり、地域の目印となっていることがうかがえます。それゆえ、「二つの岬」という意味を持つアイヌ語で呼ばれていたとすれば、この地形との結びつきが見えてきます。

もう一つの可能性が讃岐平野です。讃岐三崎灯台のある岬と讃岐五色台のある乃生岬の間は、今日では陸地で繋がっていますが、古代には大半が海に囲まれていた地域と推測されます。その中間の海辺近くに建立されたのが、古代の聖地であり、海の守り神を祀る金刀比羅宮です。つまり入り江になった奥に建立された金刀比羅宮は、東西二つの岬に挟まれた場所に位置しているのです。古代、瀬戸内を航海する人々の多くは金刀比羅宮に立ち寄り、その境内周辺には大きな集落が存在したと推察されます。それゆえ、讃岐平野を投馬国に比定するならば、アイヌ語で「二つの岬」と呼ばれた意味を理解することができます。

遠い昔から日本に住む土着のアイヌの人々は、今治周辺を「トゥマ」、もしくは「ドゥマ」、つまり「二つの半島がある国」と呼んでいたのではないでしょうか。これらを総合すると、投馬国の比定地が今治平野か讃岐平野であるという推論が、にわかに現実味を帯びてきます。古代社会において、アイヌ語が九州や四国の地名に用いられていた可能性を示す一例が、「投馬」の国名なのです。

九州に投馬国が存在しない理由

しかし史書の記述によれば、投馬国を離れてから南へと水行をさらに10日続け、陸行1か月を要して邪馬台国にたどり着くことになっています。宮崎周辺を投馬国に比定し、日向周辺から西方向に高千穂を眺めながら10日間の旅を続けると仮定すると、投馬国を延岡とした場合には鹿児島東部の都井岬、串間まで到達し、宮崎平野を比定地とすれば、船は種子島まで行ってしまうことになります。しかも、いずれの場所からも、さらに30日の陸行を経て邪馬台国へ向かう道すじを想定することは難しくなります。

また、九州の南部、鹿児島方面に邪馬台国があったとするならば、なぜ、わざわざ水行と陸行を繰り返しながら、九州の東海岸沿いを南下する必要があるのか説明できません。最初から九州の西海岸沿いを下るだけで、大幅に行程日数を短縮できるため、旅程の辻褄が合わなくなります。さらに、鹿児島以南の地域は、邪馬台国への旅の基点となる朝鮮半島北部の楽浪郡から見て、東南方向とは言えなくなってしまうことも問題です。これらの問題を解決するために、「魏志倭人伝」の行程の解釈には、伊都国からの放射式とする見解があります。しかし、そのような無理な解釈をしなくても、文面どおりに受け止めることができるのです。

これらを総合して考えると、邪馬台国を目指して不弥国を旅立ち、投馬国へ向かう船の行き先は、宮崎や鹿児島方面ではなかったことは明白です。不弥国から南へ向けて出航した後、国東半島から四国の佐田岬へと進路を変える古代の航海路が浮かび上がってくるからです。こうして、佐田岬を経由する20日の水行、続く10日の水行、そして最後の陸行1月という道筋が見えてきます。つまり、九州の東海岸から邪馬台国へ向かう航海において、四国の佐田岬が重要な道標となっていたと捉えることで、その後の旅路を具体的にたどることができるのです。

画像ギャラリー:綿都美神社 福岡 / 高千穂 / 天岩戸神社 / 高天原遥拝所 / 佐田岬 /足摺岬 / 今治 / 金刀比羅宮

コメント
  1. 松下高明 より:

    帯方郡から邪馬台国まで倭人伝では1万2千里余とある。
    帯方郡から朝鮮半島南部のくな韓国までは7千里、そこから海峡を渡ること3千里でまつら国という九州北端の国。ここまでで1万里なので残りは2千里。
    この距離でどうやって畿内に行けるのか、常識外れもはなはだしい。
    邪馬台国は九州島以外にはあり得ない。
    投馬国は帯方郡から20日の距離にある。ふみ国からではありません。

    投馬国は帯方郡から水行20日であり、不み

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