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2025/05/31

投馬国の候補地を考察 邪馬台国への最終拠点国を見出す5つの鍵

投馬国の比定地を地名から探す

南至投馬國 水行二十日… 可五萬餘戸 

南へ水行20日で投馬国に至る。5万余戸の人家がある。 

「魏志倭人伝」より

朝鮮半島の南端に位置する狗邪韓国から船で旅立ち、対馬、壱岐を経由して、北九州の末盧国に到達した後、大陸からの使節一行は陸路を東南方向へ進みました。そして使節が宿泊することでも知られている中継地の伊都国を過ぎると、2万戸を有する奴国に到達します。そこから東方へ100里の距離、7~8㎞向かうと周防灘に面する海岸に至り、その周辺は不弥国と呼ばれていました。不弥国の北西方向には足立山が聳え立ち、その麓近くの港から再び船に乗り、投馬国への旅が始まります。

九州の不弥国から南へ海を渡り、20日進むと五万余戸の人家がある投馬国に到着すると、「魏志倭人伝」は記録しています。投馬国の比定地については、地名の発音が投馬に類似していることを重要視する学者が多く、その主だった候補地だけでも数十か所に及んでいます。九州だけでも熊本県の玉名と当麻、鹿児島の高城郡托摩と都万郷、宮崎の都萬、福岡県の上妻や下妻と豊前、豊後、そして大分の五馬などが挙げられます。そして山陽、山陰地方では、出雲や兵庫県北部の但馬、瀬戸内海側では山口県の玉祖、岡山県の玉野が名を連ねます。さらに新井白石によって広島の鞆(とも)町と、東方に至っては兵庫県の須磨の浦、双方が候補地として提言されましたが、いずれも結論に至ることができませんでした。

これら比定地のほとんどは、投馬国の名前が「トウマ」、もしくは「トゥマ」と読まれるという前提から、その発音に似た地名を持つ場所が候補地として挙げられています。これほどまでに意見の分かれる投馬国の比定地ですが、その場所を特定する手立てはあるのでしょうか。果たして類似した名前を探し求めることだけが唯一の手だてなのでしょうか。史書の記述を頼りに投馬国の比定地を見出す鍵は、他にも4つあります。

投馬国を距離から比定する

2番目の鍵は中国史書に記された船旅の日数から距離を特定することです。「北九州の不弥国から船に乗り、水行20日間という長い時間をかけて航海し、投馬国の地に到達する」と記載されているだけに、投馬国はかなり遠い場所にあったと考えられます。古代、北九州周防灘沿いの港を出航し、日本列島周辺の海域を20日かけて渡航するということは、どれだけの距離を旅することになるのでしょうか。その20日間という航海日数をかけて辿り着ける距離にある地域を、まず模索します。

古代では日が昇っている日中に船旅をすることが常道手段であったと想定されます。よって、1日あたりの航海時間は季節によって異なるとしても、平均して10時間ほどにもならなかったはずです。また、海流の影響も強く受け、雨風の問題にも頻繁に直面することから、1日平均の渡航距離は30㎞に満たないかもしれません。それでも20日という旅程で考えると、延べ600㎞もの距離になります。

不弥国があったとされる北九州から投馬国まで600kmの距離を旅することは、例えば九州の東海岸沿いを南に下っていくと仮定するならば、最南端の鹿児島を越えて種子島を経由し、屋久島まで辿り着くことになります。それでも屋久島までの距離は600㎞に満たず、しかもそこからさらに続くはずの水行と陸行の旅は、この屋久島経由のルートでは実現できません。また、不弥国からいったんは南下し、その後、四国の佐田岬に渡り、そこから四国の西岸を南に向かって足摺岬から高知県沿いを600㎞進むと、四国東岸の徳島まで到達してしまいます。よって水行20日を600㎞とする考え方には無理があるようです。

そこで北九州足立山麓の綿都美神社を不弥国の港と想定し、投馬国の比定地としてこれまで提言されている九州や四国の地までの距離を測ってみました。北九州の周防灘に面する不弥国から南方向に海岸線沿いを辿り、国東半島を過ぎた後も、別府湾を経由して更に南下し続けたと仮定すると、宮崎県延岡周辺の北部平野部までの距離は約260km、日向市までが280km、宮崎平野北部までは約320kmとなります。また、投馬国を四万十と想定し、北九州から伊予灘を過ぎて豊予海峡を越え、四国最南端の足摺岬まで南下してから四万十へ北上したとしても320㎞ほどです。伊予灘から瀬戸内を東方へ向かい、今治平野へ航海しても300㎞です。

これらの地域に船で20日間の航海をしたとすると、いずれも1日あたりの渡航距離は15㎞前後となり、船旅の行程としては大変短いものです。それでも天候などの諸事情に大きく左右されることを考慮し、例えば九州の東海岸沿いを南へと航海し続ける前提ならば、不弥国の比定地から宮崎平野周辺までの距離は320kmです。20日の水行にて到達できる船旅の範疇と考えられます。国東半島から伊予灘を渡り、四国佐田岬へ向かうという想定も可能であり、佐田岬の北側を東方向に進めば、およそ300kmで今治平野に着きます。また、佐田岬より南方面へ向かったとするならば、約320kmで四万十まで到達します。距離のデータから推察できるこれらの地域が、まず、投馬国の候補地として考えられます。そして瀬戸内海をさらに東方に向かって渡航距離を延ばすことにより、今治平野よりも先に投馬国の比定地がある可能性も見えてくるのです。

投馬国の大きさから考察する

投馬国を探すための3番目の鍵は、国の大きさです。投馬国が「五万余戸」という大変多い家屋を建造できる程、広大な地域にあるということを念頭に、候補地を絞り込みます。

元来倭国とは、「山や島によって国や村をつくっている」と魏志倭人伝に記載され、百余の国々に分かれていました。その後、魏の時代では30国が諸外国に知られるようになります。これらの国々は、小さな島単位で国を形成しているものもあれば、九州や四国などの大きな島では、船が行き来をする際に停泊できる港周辺の平野部を指す場合もあったことでしょう。また、山の地の利を活かし、山上や、時には山地に囲まれた盆地にも国が作られていたのです。そして「五万余戸」という数字を見る限り、その世帯数から国の人口は少なくとも20万人以上と想定されるます。それだけの人口を抱えて国家を成立させるには、広大な平野が船で渡航できる海岸沿いになければならないのです。

そのような条件を満たす場所は限られており、西日本の地勢を航空地図で参照すれば一目瞭然です。それらは九州東海岸沿いでは延岡平野と宮崎平野、四国では松山と伊予を囲む道後平野、及び瀬戸内海沿いの今治平野、四国最南端の四万十、そして讃岐平野です。また、東方に向けて本州まで向かえば大阪湾周辺から奈良盆地などに平野が広がりますが、その後の10日間の水行と30日の陸行が難しいため、検討に値しません。よって投馬国の候補地は、これらの平野いずれかであると考えられます。

史跡の痕跡や伝承を辿る

4番目の鍵は、地域周辺に旅の指標となる神社や史跡の痕跡を見出し、邪馬台国への旅路との関連性を見極めることです。「魏志倭人伝」が記録した20日の水行の範囲に九州は入ることから、例えば九州の東海岸沿いにある延岡、日向、宮崎平野を想定してみましょう。

延岡平野の西側、山地奥には、高千穂と呼ばれる聖地があり、天照大神が隠れたという伝承が古くから残されている天の岩戸が存在します。それだけでなく、その周辺の史跡には神武天皇の御兄弟、四皇子が誕生されたとされる四皇子峰や、高天原遥拝所も古来より広く信仰されています。

これらの史跡や言い伝えの多さからしても、高千穂周辺のエリアは、神武天皇を筆頭とする歴代の天皇や古代国家と、何かしらの関与があったということに疑いはありません。また、卑弥呼を洛陽音で読むと「ヒムカ」となりますが、その読み自体が日向の読みと酷似していることからも、日向と邪馬台国が関連している可能性を窺うことができます。

投馬国とは2つの岬に象徴される国

最後の鍵は、アイヌ語における投馬国の意味です。「投馬」という地名は邪馬台国の時代、どのように発音されていたのでしょうか。中国語の歴史において、周から前漢までの前256年頃までは「上古中国語」が使われ、その後、後漢から唐の時代までは、「中古中国語」が使われました。日本に関する記述が含まれる史書の数々は、これらの時代をまたがって編纂されているだけでなく、中国という広大な土地柄故、地域によっても発音が大きく異なることが想定され、一概に地名の発音を特定することは難しいかもしれません。

魏志倭人伝の編者である陳寿(233-297)は、魏の都が220年に洛陽に移った後、晋朝において仕えた学者であり、その史書自体が3世紀に書かれていたことがわかっています。それゆえ中国語における発音は、「上古中国語」の後期から「中古中国語」の前期に的を絞ることができます。また、晋を興す原動力となった司馬氏も洛陽に近い河南省の出であり、洛陽を都としていたのです。そして陳寿と同じ時代に晋の詩人として名声を博した左思も、洛陽を中心として多くの功績を残しました。左思が書いた「三都の賦」は、洛陽界隈の多くの人によって書き写されたことから紙の価格が高騰し「洛陽の紙価を高める」という言葉が生まれた程、洛陽は文化の中心でありました。

これらの背景を総合的に考えると、陳寿が読み書きした中国語は、洛陽の都を背景とした洛陽音を用いていた可能性が極めて高いと言えます。その洛陽音を用いたと仮定するならば、「投馬」の発音はおそらく「ドマ」「ドゥマ」、もしくは「ヅゥマ」「トゥマ」と考えられます。投馬国の比定地を考察するにあたり、これらの発音に類似した日本語の地名を探し求めて、それを候補地として検討することができます。

古代の日本の地名をアイヌ語で読み、その発音に類似した言葉があるかどうかを見極めると、「トゥマ」という発音に類似したアイヌ語が候補に挙がります。アイヌ語で「トゥ」は2つ、「マ」は半島、岬の意味を持つ言葉です。それ故、「トゥマ」は「2つの半島」「2つの岬」を意味します。

その2つの半島に象徴される地勢を探すと、まず、今治平野の存在が見えてきます。四国の北西に位置する今治平野の北側には、小さな岬が2つ並んでいます。これらは小さな半島のようでもあり、それらが地域の目印となっていることに疑いはありません。それ故、「2つの岬」というアイヌ語で呼ばれるようになった可能性があります。

もう一つの可能性が讃岐平野です。讃岐三崎灯台のある岬から讃岐五色台のある乃生岬の間は今日陸地で繋がっていますが、古代では大半が海で囲まれていた地域と推測されます。その中間にある海辺近くに建立されたのが、古代の聖地、海の守り神を祀る金刀比羅宮です。つまり入り江になった奥に建立された金刀比羅宮は、東西2つの岬に挟まれた場所に位置しているのです。古代、瀬戸内を航海する航海者の多くは金刀比羅宮に立ち寄っていて、古くから大きな集落が境内周辺に存在したと考えられます。それ故、讃岐平野を投馬国に比定するならば、アイヌ語で「2つの岬」と呼ばれた意味を理解できます。

遠い昔から日本に住む土着のアイヌの人々は、今治周辺を「トゥマ」、もしくは「ドゥマ」「2つの半島がある国」と呼んでいたのではないでしょうか。これらを総合的に考えると、投馬国の比定地が今治平野か讃岐平野であるという推論が、にわかに現実味を帯びてきます。古代社会においてアイヌ語が九州や四国の地名に用いられている可能性を示す一例が「投馬」の国名です。

九州に投馬国が存在しない理由

しかしながら史書の記述によれば、投馬国を離れた後、そこから南へと水行をさらに10日経た後、陸行1か月を要して邪馬台国に辿り着くことになっています。それ故、宮崎周辺を投馬国に比定した前提で、日向周辺から西方向に高千穂を眺めながら10日間の旅を続けると仮定すると、投馬国を延岡とした場合は鹿児島東部の都井岬、串間まで到達し、宮崎平野を比定地とすれば船は種子島にまで行ってしまうことになります。しかもいずれの場所において、そこからさらに30日の陸行を介して邪馬台国へ向かう道すじが存在しないのです。

また、九州の南部、鹿児島方面に邪馬台国があったとするならば、何故、わざわざ水行と陸行を繰り返して九州の東海岸沿いを南下する必要があるのか説明できません。最初から九州の西海岸沿いを下るだけで大幅に行程日数を少なくすることができるため、旅程の辻褄が合わなくなります。さらに鹿児島以南の地域は邪馬台国への旅の基点となる朝鮮半島北部の楽浪郡から見て、東南方向とは言えなくなってしまうことも問題です。

これらを総合して考えると、邪馬台国に向けて不弥国を旅立ち、投馬国へ向かう船の行き先は宮崎や鹿児島方面ではなく、むしろ不弥国から南へ向けて出航した後、国東半島から四国の佐田岬へと方向転換したとしか考えられません。その想定により、佐田岬経由の20日の水行と10日の水行、そして最後の30日の陸行の道すじが見えてきます。邪馬台国へ向かう目印は、どうやら四国の佐田岬が重要な旅の指標となることがわかってきました。

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