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ササ原が広がる剣山周辺の山々
剣山周辺の山々の多くは、何故かしら頂上周辺に樹木が無く、ミヤマクマザサやコメツツジなどが生い茂っています。四国山地のササはいろいろありますが、剣山周辺にはミヤマクマザサと呼ばれるササが生えています。四国の山は樹林帯のはずですが、剣山周辺の高山部分はササが広範囲に見られ、山頂付近には樹木がなく、ササだけが生い茂っているのです。しかもそのササ原は、剣山の頂上を基点として尾根伝いに東西南北に広がっています。
ササ原やコメツツジの存在は、遠い昔、樹木が切り倒され、山が焼かれた痕跡のひとつである可能性を示唆しています。邪馬台国が四国の山上に存在したことを裏付ける大事な根拠のひとつが、広大なササ原の存在なのです。この様相は珍しく、過去に山焼きや伐採など、何らかの人為的要因がなければ、現在のような姿にならないと考えられます。
高山のササ原は焼かれた跡か?
日本では山火事が原因で山の周辺一帯がササ原になることが知られています。例えば、和歌山県の生石ヶ峰のように、古くから山頂一帯にて山焼きが行われてきた場所では、山の頂上周辺に広大なススキの大草原が広がっています。同様に、剣山周辺も邪馬台国が火で焼かれて滅びたと仮定するならば、その後、頂上周辺を中心として、広大なササの大草原が一帯に広がった理由が見えてきます。ササやススキは樹木よりも乾燥に強く 、日射条件の良い山頂部や山の尾根伝いに生育しやすいことも、剣山周辺に生い茂った理由です。
四国の徳島県側では特にミヤマクマザサと呼ばれるササの一種がススキよりも優位を保ち、剣山を中心に山の尾根伝いに広がっています。四国剣山周辺の広大なササ原の背景には、周辺一帯が焼かれた過去の歴史があったのではないかと推測されます。もし、この地域のどこかに邪馬台国が存在したとするならば、古代国家が何かしらの理由により火で焼かれた可能性があることを示唆しているのかもしれません。
3世紀後半、急速に国家権力を失いつつあった邪馬台国は、突如として歴史から姿を消します。その背景には、神に対する女王卑弥呼の冒涜が絡んでいたのでしょうか。いずれにしても、国家全体が火で焼かれて滅ぼされてしまうという一大事が潜んでいた可能性があります。その結果、邪馬台国の崩壊とともに剣山周辺の山々が火で焼かれて消滅してしまったと想定するならば、ササ原に纏わる歴史の謎が紐解かれてくるようです。
歴史に封じ込められた邪馬台国の焼け跡
剣山の麓である徳島県神山町の山奥には、四国第十二番札所焼山寺が存在します。古代、焼山寺からは、遠くに望む剣山周辺に広がっていた邪馬台国の集落が、突如として焼かれてなくなっていく光景を目にすることができたため、そのような名前で呼ばれるようになったと考えられます。つまり焼山寺の名称自体、剣山の山焼きに結び付いていたのです。そして時代の移り変わりとともに、剣山周辺の高地性集落は焼かれてしまい、跡形もなく消滅したのです。その結果、山々が禿山と化し、その跡地を装うように、なだらかなササ原になったと推測されます。
後世においては、そのなだらかな斜面の日当たりの良い場所で、いつしか牧場が営まれるようになりました。樹木のない、野原のようなササ原に囲まれた剣山周辺の地域には、高地性集落が遠い昔に存在していた形跡を垣間見ることができます。
その場所が邪馬台国であったと仮定すると、剣山周辺が火で焼かれてササ原となった理由が見えてきます。日本の古代史において、海外にまでその名声を広めた邪馬台国でしたが、その歴史は意外な結末を迎えることになります。自らを神として振る舞う卑弥呼の姿を良く思わない政界の実力者も少なくはなかったでしょう。それ故、卑弥呼の亡き後、邪馬台国の衰退とともに、偶像礼拝や霊媒の罪などにより長年にわたり汚されてきた土地を清めるため、邪馬台国の集落は徹頭徹尾、燃やされた可能性があります。
倭国の頂点を極めた邪馬台国が人間の手によって焼かれて消滅した結果、その存在は跡形もなく歴史に封じ込められることになります。それでも歴史の事実は変わることはなく、邪馬台国は確かに存在したのです。それは四国の山上にありました。
四国山上説にふさわしい山の条件
邪馬台国が四国山上の周辺地域にあったという想定に基づき、その場所が四国山脈のどこに存在したかを検証します。その前提として、邪馬台国は霊能者が籠る秘境の地であることから、標高が高く、奥まった地域を想定します。標高は少なくとも1000m以上あるだけでなく、頂上周辺の地域はアクセスが難しくとも、いったんそこまで到達すると、人が居住できそうなエリアが山麓に広がっていることも重要なポイントになります。
例えば頂上周辺にササ原やコメツツジの野原が広がっていれば、それが山焼きの跡であった可能性も考えられ、古代の高地性集落と紐づけることができるかもしれません。さまざまな角度から四国の山々を視察する最中、古くから山上に集落が造成され、多くの人々が居住していた痕跡を見極めるためのひとつの鍵として、山々を覆うササ原の存在とそのエリアを確認することが重要です。早速、情報をまとめてみました。
ササ原に囲まれた徳島の山々
四国の徳島南方に聳え立つ連山の中には、ササ原に囲まれた平坦な高地が際立つ山が驚くほど多く存在します。赤帽子山、天狗塚、矢筈山、石立山など、ササの草原と絶景を有する山々は枚挙に暇がありません。頂上周辺にササ原が広がる条件に見合う山々や地域を順次探し出して、地図上にプロットしてみました。その結果、高地性集落を造営して居住するのに適した頂上周辺のなだらかな斜面に恵まれた山岳地帯を、剣山周辺の連峰界隈に33箇所も見出すことができました。
まず、四国徳島を中心とする山岳地帯を東の端から辿ると、神山町の須賀山が目に映ります。標高こそ521mと低いものの、須賀山は広野富士とも呼ばれ、山上国家への玄関ともなる位置付けに在ります。その南側には大規模な牧場の跡が残る大河原高原が広がり、高原にある最高峰が旭ヶ丸(1019m)です。その頂上はミツバツツジの群生に囲まれ、平坦です。そこから南西に進むと、八重地という地名を残す村が今日も存在します。イスラエルの神と同じ名前がつけられたこの地は、周辺地域でも最も高いところに棚田が造られていることで有名であり、山の斜面に並ぶ集落の目線から、山頂や尾根の広がる光景を見ることができます。その西には四季美谷温泉があり、山々の裾伝いに流れる川沿いには今日、温泉郷ができています。
吉野川の流れに近い美馬市の穴吹や木屋平周辺にも多くの山々が連なります。穴吹にある友内山(1073m)は、頂上に高千穂神社があり、万葉集にも登場する由緒ある山です。その東側、天行山(925m)は信仰の山と呼ばれ、剣山方面の景色が素晴らしく、隣には歴史の重みを今日まで残してきた正善山(1229m)が聳え立ちます。古の剣山道を有する木屋平の名峰として知られ、正善山の杖立峠は古代から剣山への参詣道として使われてきました。今日では山の殆どが植林し、道路も貫通したことから杖立峠の面影は無くなってしまいました。しかし杖立峠の手前、山の中腹には剣山に上る前に参拝する大切な場所として語り継がれてきた石尾神社の巨大な磐座があり、その存在は不動です。
四国連山の山麓を囲むなだらかな草原
石尾神社から南方へ向かうと、ブナやササ原が広がる山々が増え、尾根伝いに当野石山(1564m)が見えてきます。そして20分足らずで木屋平の天神丸(1631m)へと連なり、そこにもササ原が一面に広がり、剣山への展望が開けてきます。断崖絶壁の四国連山というイメージが強いエリアですが、実際には標高が上がるにつれて状況が徐々に変わり、なだらかな草原が増えてくるのです。そして周辺の山々の裾には川が流れ、貴重な水源を提供しています。これら川沿い一帯は、人が住む集落を造成する絶好の環境を提供しています。
さらに剣山方面に進むと、今度は赤帽子山(1611m)と中尾山(1330m)が見えてきます。剣山の北北東にあたるこれらの山々は、なだらかな草原の中にあり、原生林と花に包まれています。山頂もなだらかで広く、中尾山高原では今日、グラススキー場やオートキャンプ場などが運営され、アウトドアのスポーツが盛んです。そして西に進むと、広々とした穏やかな草原を誇る丸笹山(1711m)と塔ノ丸(1713m)の雄姿を、夫婦池の東西に見ることができ、どちらも頂上にはササ原が広がっています。そのパノラマ光景は素晴らしく、正面に聳え立つ剣山のビューをさえぎるものは何もありません。そして辿り着くのが剣山(1954m)と一ノ森(1880m)です。
剣山を囲う山々のササ原と牧場
剣山の山頂周辺も、ミヤマクマザサで覆われたなだらかな草原が美しく、麓にはブナの原生林が広がっています。剣山は古代から霊山のシンボルとして、比類なき名声を博しています。古くからユダヤに関する言い伝えや、金の鳥、ソロモンの秘宝などに関する秘話も、山麓周辺の地域では語り継がれてきています。剣山に隣接する一ノ森は、日の出の名所としても有名です。
剣山の南側、徳島県と高知県の県境に聳え立つのが石立山(1707m)です。石立山の頂上も傾斜は緩やかであり、一面クマザサの草原に包まれ、北側、剣山方面の展望が開けています。近隣の川沿いには、広範囲に物部村の集落が広がっていることも注目に値します。その南側には同じく、ササ原に蔽われて頂上がどこだかわかりづらいほど平坦な行者山(1346m)や、海部山系の山々があります。また、南西方向には高知県の山々も見ることができます。そして物部村をさらに西に向かうと、そこは草原の山とも言われている綱附森(1643m)となり、ササ漕ぎを強いられるほどの広々としたササの草原が一帯を覆っています。
また、剣山を西方に向かうと、そこには三嶺(1893m)と天狗塚(1812m)が聳え立ちます。三嶺の山頂一帯は、ミヤマクマザサとコメツツジの群落が広がることで有名であり、山頂になだらかな3つのピークを持つことが三嶺という名前の由来となったとも言われています。天狗塚の山頂からは牛の背のササ原を眺めることができ、その穏やかな稜線から広がる剣山、祖谷山系、高知の山並みは絶景です。三嶺の頂上下には池がありますが、天狗塚の頂上そばにも天狗池があり、頂上に不思議と大きな水源がある山々として注目されています。三嶺の北側には、同じくなだらかなササの草原を誇る矢筈山(1848m)があり、クマザサとススキに蔽われた草原が広がります。そして起伏の少ないササ原にコメツツジの群生が混ざり始めた所が頂上となります。
矢筈山から吉野川が流れる北西方向に広がる山々にも、広大な草原が繰り広げられています。まず、腕山(1332m)は今日でも県営牧場が営まれるほどの絶好の緑地が自慢です。そのなだらかな草原の広がりは四国屈指とも言われています。
空海と平家落人伝説が残るササ原の山々
剣山の西方には中津山(1446m)と国見山(1409m)が聳え立ちます。信仰の山とも言われる中津山の頂上近くには、黄金ノ池と呼ばれるおよそ100㎡の池があり、そこには睡蓮とジュンサイが自生しています。中津山では弘法大師が祀られていることから、黄金の池は灌漑工事を経た人口のものである可能性があります。
中津山の横には国見山が聳え立ちます。中津山と国見山をもって、その下を流れる吉野川との標高差が1200mにも達することにより、この2つの山が祖谷への入り口を頑強に守る山岳となっています。
そこからさらに南方にむかうと、山の中腹にはフクジュソウの群生地が見られます。その頂上にはササの草原が広がり、祖谷の山々を見渡すことのできる寒峰(1604m)があります。地域一帯には平家落人伝説が残り、寒峰の東南の麓には、奥の井と呼ばれる地に住吉神社と八幡神社が建立されています。また、その周辺一帯が栗枝渡と呼ばれていることも注目に値します。その南側が、奥祖谷と呼ばれる、今日の日本で最も原始的な姿に近い集落の面影を残す地域です。
奥祖谷には平家伝説だけでなく、イスラエル関連の伝承も残され、かずら橋の存在も含めて、古代のロマンが語り継がれているゆかりの場所です。奥祖谷の南側には、剣山を遠くに望み、ササ原の山としても名高い土佐矢筈山(1606m)が聳え立ちます。ササ原に蔽われたおだやかな光景が見事な山です。そして、その西側の山のピークは笹山(1550m)と呼ばれる程、周辺一帯がササ原で覆われ、なだらかな地形を有しています。
四国山上説を裏付ける剣山周辺の山々
これらの高地性集落を造るに適した山岳地帯の数々は、剣山を中心として、およそひと塊のエリアに連なっていることがわかります。それだけに、邪馬台国の領域は、これらの山々を全体的に含んでいた可能性を匂わせているのではないでしょうか。その想定で、該当するエリアを地図上にシェードで記してみました。高地性集落を造営するにふさわしい立地条件を備えた山々が存在するエリアを史書の記述通りに辿ると、その場所は四国山上、剣山周辺以外に存在するとは考えられません。そこに至るには、徳島を流れる吉野川から支流を上り、下船してから陸地を1カ月程、歩かなければならないことがわかります。
剣山周辺の山々は、その位置付けからしても史書の記述と一致する唯一のエリアであるだけでなく、大規模な高地性集落が存在した可能性のある跡をも残していたのです。邪馬台国が四国山上にあったという信憑性は高まります。