八倉比賣神社には卑弥呼の墓がある?
現在、八倉比賣神社は気延山の麓に位置する小高い丘の上に鎮座しています。八倉比賣神社の由緒をたどると、気延山の山頂に八倉比賣大神が天降ったという伝承にさかのぼります。その後、八倉比賣大神は気延山から杉尾山に遷され、そこが現在の八倉比賣神社の鎮座地となっています。
八倉比賣神社の境内は前方部が長く伸びた古墳の上に存在し、後方の高台には五角形の磐座があります。この磐座が卑弥呼の墓と関係しているのではないかという説が一部では唱えられています。また、気延山の山頂や、八倉比賣神社の近くにある宮谷古墳を卑弥呼の墓とする説もあります。いずれの説も八倉比賣神社と関わりがあり、卑弥呼との何らかの関係を想定するものです。
「魏志倭人伝」に記されている卑弥呼の墓
「魏志倭人伝」には、卑弥呼の死について下記のとおり記録されています。
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
卑弥呼が死去すると、大きな塚が築かれた。その直径は百余歩に及び、
殉葬された奴婢(どひ) は100余人である。
気延山の山頂近くにある八倉比賣神社の旧跡は、小高い丘のように盛り上がり、塚を思わせる地形をしています。その円形に近い地形の規模は「径百余歩」という記述に近い規模と解釈することもできます。また、現在の八倉比賣神社そばにある宮谷古墳も、なだらかな丘の上に造成されており、明確な境界線はないものの、「径百余歩」に相当する規模であった可能性も考えられます。こうした地形的な特徴から、八倉比賣神社周辺を卑弥呼の墓の候補地とする説も唱えられています。
神社の略記に記された天照大神の葬儀
八倉比賣神社の社伝には、「当八倉比賣大神御本記 の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録である」と記載されています。天照大神は神話に登場する神であり、その伝承は八倉比賣神社の創始に関する記録よりも古い時代に位置付けられています。古文書に記された天照大神とは、後世に天照大神と同一視されるほどの神格を備えた女性を指していたのでしょう。また、「八倉比賣(大神)は天照大神の別称ではないか」とも書かれているとおりです。この社伝に記された葬儀を八倉比賣大神の葬儀と解釈するならば、その人物像を考察する上で、卑弥呼の存在が注目されます。
霊能力を発揮した卑弥呼とは
八倉比賣神社の創始を古代にさかのぼる伝承に従えば、その起源が邪馬台国の時代と関わっていた可能性も考えられます。その神社で祀られた八倉比賣大神は、天照大神の別称とも伝えられてきた点は注目に値します。邪馬台国に君臨した卑弥呼は鬼道を用いて人々を治めたと「魏志倭人伝」に記されています。当時の倭国において、宗教的権威を背景に人々を統率した女性として卑弥呼が知られていることから、後世、八倉比賣大神と卑弥呼が同一視されるようになった可能性も考えられます。そして大勢の人々を指導する国家の統治者として君臨したことから、いつしか天照大神のように崇められたのではないでしょうか。
八倉比賣大神を卑弥呼に比定して歴史を振り返ると、古文書の記述内容がわかりやすくなります。例えば当初、卑弥呼が吉野川から鮎喰川へと船で移動し、この地域を訪れたと仮定すれば、気延山の頂上に天下ったと想定すると、神々と交信する特別な力を持つ存在として、その名声が広まるにつれて、八倉比賣大神と呼ばれるようになった背景が見えてくるのです。また、人々を導く優れた統治能力を備えていたことから、時には天照大神と同一視されることもあったのではないでしょうか。よって、卑弥呼が他界した際、気延山の山頂にて埋葬されたとしても不思議ではありません。その後、墓が現在の八倉比賣神社のある杉尾山へ移されたと推定すれば、社伝に記載されている内容が繋がります。果たして、古文書に記された天照大神の葬儀とは、八倉比賣大神、ひいては卑弥呼の葬儀を指していたのでしょうか。
八倉比賣神社の磐座は卑弥呼の墓?
卑弥呼と八倉比賣神社との関係については、地元の伝承や郷土史などでも論じられてきました。中には卑弥呼が八倉比賣大神であったという説もあります。八倉比賣神社周辺が邪馬台国へ繋がる山道の上陸地点と想定するならば、邪馬台国の女王が八倉比賣神社で祀られている大神と結び付くのは、両者の関係を考察する上で、注目すべき手がかりとなります。また、八倉比賣神社の奥の院にある磐座が卑弥呼の墓ではないかという説も、一部で唱えられています。邪馬台国阿波説の一部では、八倉比賣神社の奥の院にある祭壇を卑弥呼の墓とみなしています。
八倉比賣神社の磐座を卑弥呼の墓とする説には、次のような根拠が挙げられています。
- 八倉比賣大神は太古に倭国を治めた女神として、神功皇后以前の祭政一致の時代に崇敬されたという伝承があり、この女神を卑弥呼と重ねて解釈することができる。
- 八倉比賣神社では祭神として「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)」が祀られ、阿波の八倉比賣神を祭祀に関わる女性神と捉え、卑弥呼と同一視できる。
- 八倉比賣神社の古文書によると、天照大神の葬儀執行の詳細な記録が綴られており、「八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀である」、と示されている。
- 八倉比賣大神は霊山に鎮まり、死後は「奥の磐座」に葬られたという伝承があり、その伝承に該当する場所として、八倉比賣神社の奥の院が候補に挙げられます。
- 奥の院の磐座は、その規模からして古代の祭祀遺構であり、陵墓としての形状を有していると考えられるため、高貴な支配層の墓と推測される。
- 大和朝廷が全国で政務を行う役場と、八倉比賣神社が建立された地域が国府という名称で一致し、行政の中心地が神社の周辺に存在したと考えられることから、卑弥呼との関係に結び付きやすい。
- 鎮座の年代は1773年に書かれた古文書によると、「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」とあり、神社の略記においては鎮座の年代を西暦338年としているため、邪馬台国の時代に近い年代となる。
7番目の根拠については、年代の解釈に注意が必要です。なぜなら、1773年から2105年を差し引いても、古文書に記されている「西暦338年」にならないからです。八倉比賣神社の古文書は、「八倉比賣大神御本記」を解釈した千家俊信氏(1764-1831)が、「杉の小山の記」の中で内容をまとめています。そこに記載されている年代を西暦で解釈して八倉比賣神社の創祀を計算すると、1773年(安永二年)から2105年を引いて紀元前333年ごろまで遡ることになります。略記に記載されている西暦338年とは大きく異なりまた、「阿波国杉之小山之記」には、気延山への鎮座から2105年を経て、杉尾山への遷座が行われたと解釈できる記述があります。そのため、2105年という年数の起算点については、慎重な検討が必要です。
ところが、境内の案内板には、以下のように記載されています。
「鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。」
神社側は鎮座年代を「西暦338年」と記しており、この年代が神社に伝わる由緒として知られるようになりました。しかし、1773年から2105年を単純に逆算すると紀元前333年ごろとなり、西暦338年とは約670年もの隔たりが生じます。この年代の相違については、神武天皇の即位を起点とする皇紀と西暦が、計算や解釈の過程で混同された可能性も考えられます。
江戸時代には、神武天皇の即位年とされる紀元前660年を元年とする紀年法が用いられることもありました。仮に1773年(安永2年)を皇紀2433年と捉え、そこから2105年を差し引くと、328年という数字が得られます。この328年を皇紀ではなく西暦として解釈したとすれば、略記に記された西暦338年との差はわずか10年となります。
もっとも、これは正しい年代換算ではありません。皇紀328年は紀元前333年に相当し、西暦328年とは約660年の隔たりがあります。また、千家俊信氏や後世の編纂者が実際にこのような紀年法の混同を行ったことを示す史料も、現在のところ確認されていません。そのため、西暦338年という年代が導き出された経緯については、2105年の起算点や古文書の解釈も含め、さらに検討する必要があります。いずれにしても、八倉比賣神社には極めて古い時代に起源を求める伝承が残されており、邪馬台国の時代との関係を考察する上でも注目されます。
こうした伝承に加え、八倉比賣神社の周辺に残る古代の遺跡や地理的な特徴を考慮すると、この地域が古くから政治や祭祀に関わる重要な拠点であった可能性も考えられます。八倉比賣神社の鎮座する小高い丘も、後世に伝わる祭祀の伝統と結び付く場所であったのかもしれません。また、付近に船着き場が存在し、そこが邪馬台国へ向かう旅人の玄関口として利用されていたと仮定すれば、周辺の聖地との間に深い関わりがあった可能性も浮かび上がります。こうした地理的条件や祭祀の伝承を踏まえると、八倉比賣神社の鎮座する丘が、倭国の女王の埋葬地として選ばれた可能性についても、検討する余地があるのではないでしょうか。
卑弥呼の墓の大きさは「径百余歩」
ところが「魏志倭人伝」には卑弥呼の墓は「径百余歩」と記されており、奥の院の磐座では墓全体の大きさが合致しないことが指摘されています。「歩」とは古代中国における長さの単位で、当時の1歩を約1.38mとする解釈に従えば、卑弥呼の墓の直径は約138mとなり、1歩を1mとしても100mになります。奥の院の磐座は周囲の塚を考慮しても直径が70~80mほどしかないため、「径百余歩」の大きさに見合いません。この問題を考える上で、八倉比賣神社の由緒が一つの手がかりとなります。
八倉比賣神社は当初、気延山の頂上に建立されていたと「天石門別八倉比賣大神御記」に記されています。よって中国史書に記載されている「径百余歩」とは、元の境内に存在した円墳の直径と考えられます。今日、気延山の頂上には祠が建てられ、その周辺には円墳のような跡が残っています。盛り上がった頂上部分は東西方向に延びており、東側の緩やかなスロープから頂上まではおよそ65mあり、反対の西側から頂上までは約35mです。これらの距離を合わせると約100mとなり、古墳を思わせる規模の地形と解釈することもできます。その大きさは「百余歩」と記載されている中国史書の記述とほぼ合致します。
このように考えると、卑弥呼が葬られた場所は元来、気延山の山頂と想定し、その後、現在の八倉比賣神社の磐座に遷されたとするならば、中国史書の記述にある「径百余歩」が、そのまま理解できます。
また、八倉比賣神社から東方に400m離れた場所には宮谷古墳があります。発掘調査からその年代は邪馬台国の時代直後の3世紀後半にあたり、高貴な方が埋葬された古墳であることがわかっています。しかし木棺の中に副葬品以外は見つからず、被葬者の遺骨が確認されなかったことから、別の場所に移された可能性も考えられます。それ故、卑弥呼の墓が気延山から遷された場所は当初、宮谷古墳であり、その後、盗掘を避けるために、現在の八倉比賣神社の奥の院に遷されたという説もあります。
邪馬台国の時代に合致する八倉比賣神社の年代
八倉比賣神社の鎮座の年代について、安永二年三月(1773年)の古文書には、以下のとおり記されています。
気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ
この伝承に基づく年代解釈の一つでは、八倉比賣神社が4世紀前半に現在の場所へ遷された可能性が考えられます。その年代は邪馬台国の時代直後の古墳時代の初期にあたります。すると気延山にて卑弥呼が葬られ、その後、一世代ほどを経て、現在の八倉比賣神社の奥の院に改葬されたと仮定すれば、そこが墓になったと解すれば、社伝と卑弥呼の時代を結び付けて考えることができます。
宮谷古墳が卑弥呼の墓か?
八倉比賣神社が建立された気延山の麓、神社から東方に380mほど進むと、草地が広がる高台の尾根上に宮谷(みやだに)古墳と呼ばれる前方後円墳があります。全長は37.5mあり、後円部の直径はおよそ25m、高さは約3mです。前方部は12.5m、幅は15.5mとなり、後円部と前方部の長さの比率は、およそ2対1です。宮谷古墳の形状は纒向型前方後円墳に近い平面形であり、古墳の前方部は尾根の下側を向いています。
1988年から手掛けられた発掘調査により、東西方向に設置された縦穴式石室の埋葬施設が発見されました。後円部の中央には、7.5m×4.2mの墓坑が掘られており、そこに長さ6m、幅1.2~1.3mの石室が設けられていたのです。その中に置かれていた木棺には銅鏡や鉄器が副葬されていました。古墳からは三角縁神獣鏡と呼ばれる銅鏡も出土しています。また、周辺部からは多くの二重口縁の形状をもつ壺型土器も出土しています。
これらの状況から、宮谷古墳の年代は邪馬台国直後の時代、およそ3世紀後半と推定されたのです。そして古墳の規模や埋葬品の状況から、被葬者は周辺地域の指導者であったと推測されました。当時、どのような指導者が地域に存在したのでしょうか。この古墳に葬られた人物の具体的な身元は、現在のところ明らかになっていません。それ故、宮谷古墳は卑弥呼の墓ではないかという説が流布されています。
しかし、宮谷古墳は全長37.5mであり、「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の墓の規模とは大きく異なります。一方、気延山の山頂付近には、直径100mほどの規模を有する墳墓が存在した可能性を考えられる地形が残されています。こうした規模の違いに着目すると、卑弥呼の墓は宮谷古墳ではなく、気延山の山頂付近に存在した可能性も浮かび上がってきます。
邪馬台国の時代に造られた三角縁神獣鏡
宮谷古墳と卑弥呼の関係を考える上では、遺跡から発掘された三角縁神獣鏡が、卑弥呼との関係を示す貴重な史料となります。三角縁神獣鏡は銅、鉛、錫の合金を用いた銅鏡の一種として知られています。縁の断面が三角形をしており、鏡の裏面には神仙や霊獣の文様が施されているため、三角縁神獣鏡と呼ばれるようになりました。これらの銅鏡は畿内を中心として、3世紀中頃から4世紀にかけて築造された初期の古墳から多く出土しています。
出土した三角縁神獣鏡の中には、卑弥呼の使者が魏に朝貢した景初3年(239年)や、その翌年の正始元年(240年)の年号が刻まれたものも見つかっています。また、「魏志倭人伝」には、卑弥呼が魏から「親魏倭王」の称号とともに、「銅鏡百枚」を授けられたことが記されています。こうしたことから、三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏から授かった銅鏡とみなし、魏の皇帝が命じた「汝の国中に示せ」という言葉と結び付けて考える説もあります。そして、邪馬台国の勢力が拡大するにつれて、その影響下にあった各地の国々や豪族に、三角縁神獣鏡が配布された可能性も考えられます。
しかし、倭国のために「銅鏡百枚」を鋳造したにもかかわらず、中国国内では同等の三角縁神獣鏡が未だに発見されていないことが問題視されています。よって、中国から倭国に職人が送られ、実際には倭国内で製造したのではないかとも言われています。ところが銅鏡を造るための鋳型は日本国内で見つかっておらず、具体的な製作地や製作過程については、なお議論が続いています。真相は定かではありませんが、これまで日本国内で発掘された三角縁神獣鏡の数は100枚を超えているため、魏王朝から賜ったもの以外にも、どこかで同等の銅鏡が造られていたと考えられます。
いずれにしても、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代を考察する上で重要な遺物です。その一部が魏から卑弥呼に下賜された銅鏡に該当する可能性については、今なお研究が続けられています。銅鏡には漢字も記され、その精巧な製作技術や意匠からも、銅鏡のルーツは中国大陸の文化に由来しています。そして女王自らが大切にしていた三角縁神獣鏡だけに、墓に副葬されたのではないでしょうか。それ故、宮谷遺跡にて埋葬された三角縁神獣鏡を、卑弥呼が魏から授かった銅鏡に比定する説があります。
宮谷古墳と卑弥呼の関係とは?
宮谷古墳は気延山古墳群最大の古墳です。その年代は3世紀後半、卑弥呼が没した直後の時代と一致し、古墳の実態が当時の権力者を象徴しているだけでなく、魏王朝から賜ったと推測される三角縁神獣鏡が発見されたため、宮谷古墳は卑弥呼の時代の政治的・文化的な交流と関係していた可能性があります。しかしながら宮谷古墳の発掘調査では石室や木棺の痕跡は確認されたものの、被葬者の遺骨は確認されませんでした。その理由として、盗掘や改葬などの可能性も考えられますが、遺骨が残らなかった事情については慎重な検討が必要です。その墓の移設先が、八倉比賣神社の奥の院であると想定すると、気延山に纏わる一連の流れが見えてくるようです。
気延山頂上には八倉比賣神社の元宮が存在します。その小高い頂上の周辺の直径は少なくとも100mはあり、「径百余歩」という史書の記述におよそ合致します。それ故、その頂上が当初、卑弥呼が葬られた場所であった可能性があります。その後、3世紀後半、何らかの理由で宮谷古墳に改葬され、新たに築造された前方後円墳に、改めて埋葬されたのではないでしょうか。そして最終的には八倉比賣神社の奥の院が卑弥呼の墓の象徴となるべく、そこに五角形の石積みを特徴とする磐座が、卑弥呼を祀るために造られたと仮定すれば、一連の伝承を結び付けて解釈することができます。
中国から持ち込まれた三角縁神獣鏡、宮谷古墳で見つかった空の木棺、そしてすぐそばに建立された八倉比賣神社の奥の院と、その元宮があった気延山の存在は、魏王朝との関わりだけでなく、その背景に卑弥呼の墓があったことを示唆しているようです。真相は定かではありませんが、八倉比賣神社が建立された気延山と杉尾山には縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が数多く存在し、卑弥呼と結び付く遺物が未だに残されている可能性も含め、今後の研究に期待がかかります。
画像ギャラリー:八倉比賣神社 / 八倉比賣神社 磐座 / 気延山 / 五色神社 / 大泉神社 / 天磐戸神社 / 宮谷古墳 / 徳島市立考古資料館






宮谷古墳全景
宮谷古墳測量図

宮谷古墳全景
八倉比賣神社が当初建立された気延山山頂
本当に八倉比売神社御本記を読んで織られますか?神社境内の案内板の略記を信じているのではないですか。現在御本記はデジタルアーカイブで読むことができるので確認してください。気延山に鎮座してから2105年後推古期に杉の小山に転座したと書いていますよ。