
由緒ある古代の聖地「竹ヶ島」
徳島県最南端の海陽町沖に浮かぶ竹ヶ島は、室戸阿南海岸国定公園内にある小さな島です。約100mの短い橋で繋がっているため、陸続きの感覚で往来することができます。島の大きさは南北約1km、東西約700m、面積は約0.4㎢、周囲は約4kmです。周辺海域はイシサンゴの群生地としても知られています。竹ヶ島にはマグロ漁の基地となる港があり、漁業が島民の生計を支えています。また、北西部一帯は竹ヶ島海中公園に指定され、海陽町が運営するマリンジャムでは、シーカヤックや水中観光船など、海のレジャーを楽しむさまざまなサービスが提供されています。

竹ヶ島の漁港正面にある石段を上った先に建立されている竹ヶ島神社では、国常立命(くにとこたちのみこと)らが祭神として祀られ、大漁と海上安全の守護神として崇められています。かつて5月に行われていた竹ヶ島神社祭りでは、神輿を海中へ担ぎ入れる「浜入れ」が行われていました。神輿は、神社の境内から「チョー、サジャー」という掛け声とともに担ぎ出され、東岸の海辺へと向かいます。そして、担ぎ手たちは海の中へと入り、浅瀬を歩きながら、神が宿ると信じられてきた岩場の周辺へと進みます。そこは神社の奥宮ともされる場所で、大勢の人々が集い、祭りを祝ってきたのです。
しかし現在、過疎化が進む竹ヶ島では、祭りの時期になっても神輿を担ぐ若者が足りず、海中神輿の行事を継続することが困難になっています。そして2017年、残念ながら海中神輿は中止されることになりました。由緒ある竹ヶ島の海中神輿の背景には、何らかの重要な歴史的出来事や信仰があったのではないでしょうか。だからこそ、冷たい海中にまで重い神輿を担ぎ入れ、神を祀ることを大切にしてきた人々が存在したのでしょう。そして、その伝統が世代を超えて今日まで語り継がれてきています。竹ヶ島には、まだ多くの知られざる魅力が秘められています。
竹ヶ島の地勢

竹ヶ島が由緒ある古代の聖地であることは、一般的にはあまり知られていません。人里から離れた四国の小島であるがゆえに、多くの人々に知られることなく、その姿が今日まで静かに守られてきたのではないでしょうか。一見すると何の変哲もない小さな島に見えますが、古代において竹ヶ島が密かに注目された理由は、その特異な地勢と、海側から見た島の姿にあります。
遠い昔、大陸から日本列島へ渡来した人々の一部は、船を用いて主に台湾から琉球を経て南西諸島を北上してきたと考えられます。九州から四国南岸を経由して淡路島、さらに本州へと向かった海人たちは、新天地への進出拠点となるに相応しい地勢と見晴らしを兼ね備えた重要地点を厳選し、そこに神を祀る社を建立したと考えられます。そして日本列島各地が探索され、各地に航海や交易の拠点が設けられるようになったのです。その背景には、遠くアジア大陸の彼方、西アジア地域からもたらされたとも考えられる高度な航海技術があったと考えられます。
日本列島への船旅のひとつの到達点となった淡路島は、古代では重要な位置を占めていたと考えられていたようです。なぜなら、記紀には淡路島が国生みの原点となる場所であったことが明記されているだけでなく、地理的にも日本列島のおよそ中心に位置するからです。また、南西諸島から黒潮の流れに沿って繋がる島々は淡路島で終焉し、そこから北方へは航海できないことから、淡路島が黒潮の流れに乗った「海の島々」の最終到達点でもありました。それゆえ、南西諸島を北方へ向かう渡来者にとって、高知県南方沖から四国東岸を経由し、紀伊水道を通って淡路島方面へと向かう航海路は、四国と本州を結ぶ海上交通のひとつとして発展していった可能性があります。
古代の航海者は、海上から確認できるさまざまな地の指標を用いて、天体の動きも確認しながら船旅を続けました。それら地の指標の中でも、特に四国の室戸岬は重要な拠点であったと考えられます。室戸岬から夏至の日の出の方角には、富士山頂が位置しています。また、この2つの地点を結ぶ線上には、伊良湖岬、伊勢神宮内宮、大台ヶ原が並んでいます。一方、室戸岬から日没方向にあたるおよそ240度の方角には、足摺岬と鹿児島の桜島御岳が位置しています。こうしたことから、室戸岬を基点として、列島各地にある重要地点の方角や位置を確認することができた可能性があります。天体と地勢を手掛かりに航海した古代の人々にとって、室戸岬は重要な旅の指標となったのではないでしょうか。
室戸岬から北上する際、次に重宝された旅の指標は徳島最東端に浮かぶ伊島であったと考えられます。伊島からは淡路島を一望できるだけでなく、西方には西日本で第2の標高を誇る四国剣山の頂上を遠くに望み、東方には熊野の山々を眺めることができます。また、伊島の真北には日本三奇のひとつとされる生石神社の石の宝殿が存在します。室戸岬から伊島まで、海岸沿いを航海すると、約100kmもあります。しかし、その先には紀伊水道が広がり、見渡しのよい海上航路を利用して、高知沿岸から徳島、淡路島を経由し、瀬戸内海や近畿地方へと向かう航路は、徐々に重要性を増していったのではないでしょうか。
その高知県から徳島県へと続く太平洋沿岸を船で北上すると、室戸岬の北約35km先に見えてくるのが竹ヶ島です。室戸岬から続く高知県の太平洋岸には、比較的穏やかな海岸風景が続きます。ところが、竹ヶ島周辺に近づくと、その景色が一変します。それまで海岸線とは異なり、突如として巨石が連なる岩場に囲まれた島が姿を現すのです。しかも島の頂上付近、標高約100mの地点からは、室戸岬や伊島、そして紀伊半島方面の山々までも遠望できるのです。古代の展望所としては、まさに絶好の位置にあったことから、古代の人々がこの島に注目したとしても不思議ではありません。
竹ヶ島の岸壁は、四国南部だけでなく、九州から関東地方にかけて広く分布する四万十層群と呼ばれる地層によって形成されています。海底に堆積した土砂などからなる地層が隆起し、長い年月にわたって海食を受けたことで、現在の独特な巨石群が形成されたと考えられます。島の沿岸では、タービダイトにより形成された泥岩と砂岩が交互に重なる互層を確認することができ、東岸には海食によって生み出された特徴的な岩場が広がっています。
こうした特異な地形と優れた眺望は、古代の航海者たちにとって重要な海上の目印となり、やがて聖なる島として認識されるようになった可能性があります。その竹ヶ島の姿は、室戸岬から続く海岸線とは一変して、まさに岩の島と呼ばれるに相応しい巨石により形成された島の様相を呈していたことから、近海を船で旅する人々は一目で見届けることができたに違いありません。それゆえ、室戸岬から淡路島の方面へと北上する途中に浮かぶ竹ヶ島は、いつしか古代聖地となるべく島の中心に竹林が植えられ、地域の人々から崇められるようになったと考えられます。

竹ヶ島の歴史

室戸岬から淡路島近郊を船で航海する機会が増えるにつれて、高知、徳島の太平洋岸では徐々に集落が栄え、人々が新天地を開拓していくようになります。古代の日本社会においては高地性集落が瀬戸内海周辺の各地に築かれていたことが確認されており、四国東岸も例に漏れませんでした。やがて、海部川の河口を中心とする集落の発展とともに、その上流域、那賀郡北部から東の勝浦郡、さらに西方の雲早山、高城山を越えて剣山の麓に至るまで、高地性集落が築かれるようになったのです。その海部川の河口近くに位置するのが、竹ヶ島です。
海部に寄港した際、そこから海部川沿いに入り、今日の土佐中街道を四国の山麓に向かって旅を続けた人々も少なくなかったと考えられます。その道の途中には、古代日本における最大の辰砂工場として知られる若杉山遺跡もあり、多くの人々が活動していた痕跡が残されています。一説では、若杉山からさらに川を上流へ遡った先に存在する四国東部の高地性集落が邪馬台国のルーツではないかと言われています。その実態は定かではないものの、古代社会において四国東海岸一帯が極めて重要な位置を占めていた可能性は十分に考えられます。
室戸岬と伊島、淡路島を結ぶ航海の中間地点として重要な位置を占めた海部の港へ向かう船が、辿り着く直前に目にするのが竹ヶ島です。竹ヶ島の歴史については古代の文献にほとんど記述がないことから、詳細は特定できません。しかしながら、その特異な位置づけからしても、海人の要所としての重要性は古くから認められていたことでしょう。南方から室戸沖を越えて海上を北方に航海する船乗りにとって、紀伊水道へ向かう中間点に浮かぶ竹ヶ島の存在は重要視されたと考えられるからです。その山頂からは、太平洋が一望できるだけでなく、南方には室戸岬が、北東には紀伊水道、そして東方には熊野山地を見渡すことができます。それゆえ、古代より竹ヶ島は見晴らし台としての役割を担っていたと考えられます。
その後、狼煙が通信手段として活用されるようになると、竹ヶ島はさらに重要な役割を担うようになります。江戸時代の1716年には、徳島藩が「竹ヶ島番所」を正式な番所として設置したことが諸番所改帳に記されています。また、1792年には郡奉行支配の竹ヶ島御番として、惣田佐助と杉岡悦之丞が就任したことが蜂須賀家文書、「徴古雑抄続編」に記録されています。そして1807年(文化4年)、竹ヶ島は遠見番所として位置付けられ、狼煙による通信拠点として知られるようになりました。遠見番所と呼ばれる狼煙を用いた連絡拠点は、四国の太平洋岸から紀伊水道沿岸にかけて設けられ、その数は数十か所にも及んだとされています。その中でも、竹ヶ島は重要な拠点のひとつとして位置付けられています。
竹ヶ島北部の平坦な場所では、古くから人々が住んでいたようです。近世に至っては、1847年には16名が島へ移住し、1854年には島内に50戸の家があったことが記録に残っています。また、島全体の約7割にあたる東側の太平洋に面する区域は、狼煙台の管理を任された一族の末裔と考えられる竹崎家が近年まで所有してきました。一方、西側に位置する漁港を含む残り約3割の区域は、今日、海陽町が所有しています。
近年では、「四国の道」と呼ばれる遊歩道が四国全域に整備され、そのルートのひとつに竹ヶ島も含まれています。その遊歩道は、竹ヶ島の漁港近くにある竹ヶ島神社から始まり、山頂を通り、島を一周する形で竹ヶ島神社の奥宮付近を経て、再び漁港へ戻るルートとなっています。
竹ヶ島神社の由緒
竹ヶ島神社の詳しい由緒については不明な点も多いものの、遭難船が神に助けられたという地元の伝承が残されています。ある荒天の夜、竹ヶ島沖で遭難した船が遠くに光を放つ何かを見つけ、それを頼りに岸へ辿り着き、無事難を逃れることができたことから、島の人々が浦磯の奥にある巨石の岩場に祠を建てて祀ったことが、竹ヶ島神社の起源と伝えられてきたそうです。それ以来、航海の安全と大漁を願い、竹ヶ島の人々は島の東岸にある岩場の祠に集い、そこで神の御加護を祈念してきました。そして後世になって、現在の場所に竹ヶ島神社が建立されたと伝えられています。

御神体石にまつわる伝承の信憑性については別途検証が必要ですが、竹ヶ島神社の御神体とされるものが、島の東方、太平洋岸に佇む巨大な磐座であることは注目に値します。そこには、珍しい形状をした巨大な岩壁が連なり、遠方の海上からは、その壁が3列に並んでいることを確認することができます。その岸壁は、国内でも例の少ない特異な形状と規模を誇り、その中心となる岩の頂上には、磐座を象徴するかのような巨石が載せられています。この巨石については、自然の営みによって形成されたものと考えることもできますが、その位置や形状から、人々が祭祀の対象として認識していた可能性も考えられます。もし古代に人為的な関与があったとすれば、そこは祭祀活動を行うための聖なる磐座として利用された可能性があります。
後世になると、四国の讃岐で生まれ育ち、19歳の時に室戸岬にて悟りを開いた空海すなわち弘法大師も、四国東海岸沿いを旅する途中で、海上に浮かぶ竹ヶ島の存在に気づいたことに違いありません。海岸沿いを船で航海するだけでも、その威容なる島の姿が目に映ったことでしょう。そして、竹ヶ島周辺の地勢と、そこに古くから祭祀の場が存在していたことを知る機会があったなら、竹ヶ島の存在価やと宗教的な重要性にも関心を持ったかもしれません。
そして、いつしか竹ヶ島では、「浜入れ」と呼ばれる独特の神輿行事が行われるようになりました。旧暦4月16日になると、大勢の人々が神輿を担いで島の東方にある浦磯へ向かい、「チョーサジャ」と掛け声を上げながら海へ入ります。そして、神主の祝詞とともに、島の人々は神輿の下をくぐり抜けます。神が宿るとされる神輿を海中に入れることから、この行事は海中神輿とも呼ばれてきました。しかし、過疎化が進み、若手の担ぎ手が不足したことなどから、「浜入れ」は2017年に中止となりました。それまでにも6回中止していることからしても、今後の継続が危ぶまれます。海陽町の町会議員を務め、神社総代でもある島崎氏は、「島の伝統行事を楽しみにしている人は多い。来年はできるように他の総代や宮司と対策を考えていきたい」と話しています。
南海に浮かぶ聖地、そこに古くから祀られている竹ヶ島神社と、巨石の上に存在する奥宮は、いまだにその実態が十分に知られているとは言えません。しかし、竹ヶ島には海上交通の要衝としての歴史と、巨石信仰や祭祀文化を思わせる伝承、そして現在まで受け継がれてきた独自の祭礼があります。そこには、古代への想像をかき立てる多くの魅力が秘められています。だからこそ、この南海に浮かぶ美しい島が、いつまでもその歴史と文化を伝える貴重な場所として守られ、後世へ受け継がれていくことを願ってやみません。
竹ヶ島の竹林

大正12年に記された宍喰村史によると、竹ヶ島という名称で呼ばれるようになった由来については、「昔は竹林繁茂斧斤(まさかり)を入れず。ゆえに此称あり」と記されています。竹林が生い茂る島だからこそ、竹の島、すなわち竹ヶ島と呼ばれるようになったようです。竹ヶ島の地勢を実際に見てみると、その基盤には広く隆起した岩場が広がり、まさに岩の島である様相を呈しています。しかも面積が0.4㎢しかない島でありながら、頂上の標高は約100mに達することから、その斜面はかなり急であることもわかります。
竹ヶ島は、2つの大きな隆起した岩の丘陵が南北に繋がることによって、ひとつの島を形成しています。そのため、全体の形状はひょうたんのようにも見えます。その繋ぎ目とも言える窪地が島の中心部にあたり、そこに竹林が生い茂っているのです。南北約1km、東西約700mの竹ヶ島において、竹林が茂っている区域は、島の中心部にある100m四方にも満たない範囲です中でも、美しい竹林が見事に生い茂っている場所は、実際には50m四方ほどの区域に限られています。それでも中心部の竹林は、竹の太さや容姿が見事であり、島を訪れる人々に深い感動を与えます。
竹林は日本固有の植物ではなく、古くから大陸などから持ち込まれたものとして知られていることから、もしかすると竹ヶ島の竹林も、アジアから渡来した人々の手によって植え付けられた可能性がありますそうした渡来者としては、中国から来た人々、あるいは中国を経由して日本列島に到達した西アジア方面の人々など、さまざまな可能性が考えられます。
さらに、竹林が島の中心地に集中していること、自然に竹が生育するには厳しいと考えられる南海の孤島でありながら、まとまった竹林が形成されていること、そして竹林の南北に、方角の指標となるような頂上石や方角石と考えられる石が存在することにも注目したいところです。これらから総合すると、竹ヶ島の竹林は、何らかの古代の英知や計画に基づいて植えられた可能性も考えられます。竹ヶ島のロマンは、まさに竹そのものにあるのかもしれません。
岩の博物館

竹ヶ島は「岩の博物館」と言っても過言ではないほど、特異な形状をした岩が島の随所に存在します。まず注目すべきなのが、島の頂上、展望所の真横に在る「頂上石」です。お坊さんが頭に被る笠のような、整った形をしており、島の頂点に位置することから、自然の産物なのかどうか興味を引かれます。
頂上石の北方には、「頂上石」と同じような笠の形をした「坊主岩」があります。その巨石の笠は、真横から見ると巨石本体よりも約30cm突き出ており、一見すると、巨石全体の上蓋のような役割をしているようにも見えます。また、その底辺は地面とほぼ水平です。この場所は、島の聖地である竹ヶ島神社奥宮の磐座から急斜面を上った先に位置しています。その真下には環状列石のように直径約3mの円形に連なる石があります。自然に円状を成したものか、それとも人為的に配置されたものかは定かではありませんが、島の頂上近くに位置することから興味深い場所です。
「坊主岩」から「四国の道」を下り、山道を西方へと進むと、巨大な亀石が見えてきます。一見すると何の変哲もない巨石ですが、表面が滑らかな岩がきれいに弧を描き、2つの岩が連なっていることがわかります。その前方、道の向かい側にも巨石があり、さらに急斜面の下には無数の小岩が積み重なっています。このことから、周辺では岩を割り出す作業が行われていた可能性があります。
花崗岩のような岩を割る場合、古代から近世にかけては、幅の広い矢を打ち込んで、岩を割っていました。岩に残された矢穴を検証することにより、岩が切り出された時期をおよそ推測することができます。竹ヶ島の岩は、その矢穴の痕跡があり、豊臣秀吉から徳川の時代にかけて切り出されたと考えられるものもあります。その後も近代に至るまで島の岩は切り出され、島の整備などにも利用されたと考えられます。

島の南側、太平洋沿岸には多くの岩が散在し、大小さまざまな形をした岩石が島の裾野を形成しています。そこで目を見張るのが、御在所岳の「ゆるぎ岩」と同じような形をした、竹ヶ島の「ゆるぎ岩」です。矢のように突き出した岩が、今にも動きそうなほど絶妙なバランスで支えられています。これもまた、大自然が成す奇跡の業なのかもしれません。その「ゆるぎ岩」の東側には、木の枝によってがんじがらめに包み込まれた「空中石」があります。その真下には、木に寄りかかりながら、まるで樹木の一部となったかのように見える「石の板」もあります。「空中石」は、岩からはがれた石の表面が樹木によって支えられ、それが枝によって包まれた状態になっています。そこには、岩戸と樹木が長い年月をかけて織りなした、大自然の力の結晶を見ることができます。
竹ヶ島の自然と伝統を守る
由緒ある古代の聖地として、竹ヶ島神社の奥宮となる磐座も今日まで温存されてきた竹ヶ島だからこそ、いつまでも太平洋を見渡す大自然の中で、輝かしいオーラを放つことでしょう。しかしながら、島全体の自然環境を保護するためには、多くの現実的な問題が残されています。
徳島県と高知県の県境にある竹ヶ島周辺の地域では過疎化が進み、高知県や徳島県にある他の町と同様に、少子高齢化の波が加速しています。そしてこのままでは20年後、島の人口がゼロになる可能性があります。既に竹ヶ島を訪れる観光人口も激減しており、昨今では島内の「四国の道」を散策する旅行者が誰もいない日も多くなりました。海陽町が運営するマリンジャムも来客数が減り、行政にとって大きな痛手となっています。島に人が寄り付かなければ、せっかくの「四国の道」も、きれいにメンテナンスする必要性が薄れ、放置され続けてしまいます。
竹ヶ島は国定公園内に存在することから、本来は徳島県が島のメンテナンスをすることになっています。しかしながら、国定公園の守備範囲は広く、人が訪れない島のメンテナンスまでする予算と余裕は徳島県にはありません。よって、長年にわたり竹ヶ島は放置され続け、その結果、つい数年前まで島内は正にジャングルの様相を呈していたのです。倒木や枯れ木、落石により「四国の道」が塞がれていたり、樹木が勝手に伐採されて木の幹が至るところに放置されたり、島全体がジャングル化して雑草と蔓にまみれ、虫や蛇のたまり場となっていたのでした。人が安心して訪れることができる、本来あるべき美しい島の在り方とはほど遠く、変わり果てた姿になっていました。また、頂上周辺も長年、整備されてこなかったことから、せっかくの狼煙台跡から太平洋を一望できるはずが、頂上からは海が全く見えない状況のままに放置されていたのです。
竹ヶ島の大自然と、聖地としての美しさを守り、そこに人が安心して訪れることができる環境の整備は急務であり、行政、民間に関わらず、積極的に施策を実行していかなければなりません。その重要性に気付くためにも、まず、竹ヶ島の素晴らしさと、由緒ある歴史の存在を知ることが、最初の一歩となります。

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