中国史書が証する邪馬台国の鉄器
竹箭或鐵鏃或骨鏃
竹矢は鉄鏃、或いは骨鏃なり
「魏志倭人伝」より
「魏志倭人伝」には倭国において、鉄製の鏃が用いられたことが記録されています。弥生時代終末期、邪馬台国の時代前後では、鍛造技術によって鉄製の物が作られていたのです。邪馬台国を徳島山岳地帯に比定するならば、徳島周辺においても鉄製の器具が使われていたことになります。よって弥生時代終末期にあたる鉄製の遺物が徳島の周辺地域から出土するはずです。
徳島の鮎喰川流域から出土する鉄製器具
徳島の鮎喰川に隣接する南庄遺跡では、弥生時代から古墳時代、そして平安時代に至るまでの集落跡が確認されています。邪馬台国の時代に重なる弥生時代終末期の遺構からは全長28㎝の鉄剣をはじめ、銅鏃、勾玉、ガラス玉などが出土しています。鉄製の剣は銅よりも耐久性が良いことから、銅剣は古墳時代に入る頃、鉄剣にとって変えられていきます。そして邪馬台国の時代を境目として、銅から鉄の時代へと変わっていく最中、鉄の存在が中国からの使者の目に留まったのです。
徳島界隈での発掘調査からは鉄製の剣が出土し、邪馬台国が終焉を遂げる頃に用いられていたことがわかっています。弥生時代終末期にあたる3世紀後半ごろ、八倉比賣神社に隣接する広々とした丘には、地域の首長墓と想定される宮谷古墳が造成されました。宮谷古墳からは鉄製の剣が副葬品として出土しました。また、吉野川を見渡すことができる小高い山の上にある西山谷古墳群の西山谷2号墳からは竪穴式石室が発掘されています。石室内には大量の水銀朱が塗られていました。そして鉄剣や工具、銘獸帯鏡などが出土しています。同様に長谷古墳からも鉄製の剣が出土しています。
また、弥生時代終末期、徳島の吉野川下流域にて築造された萩原古墳が前方後円墳の祖型ではないかと言われていることも注目に値します。直後の古墳時代では、八倉比賣神社が建立された鮎喰川流域の気延山周辺を中心に多くの古墳が築造されていきます。邪馬台国の時代が終焉した直後に造成されたこれらの古墳からも、多くの鉄製器具が出土しています。これらの古墳は、その規模と副葬品の内容、水銀朱の活用からして、首長墓であると見られているものが少なくありません。
淡路島の古代鉄器製造施設跡
古代、阿波の国と言われた一部が徳島です。その阿波の国の領域には淡路島も含まれていました。その淡路島には弥生時代、大型の鉄器製造施設が存在しました。淡路島の舟木から南西6kmの場所で発掘された垣内遺跡(標高200m)からは、弥生時代後期の大規模な鉄器製造施設跡が見つかっています。平野部が少なく、山々が連なる特有の地形を持つ淡路島では、想像以上に遠い昔から青銅器が用いられていただけでなく、その後、製鉄技術も培われていたのです。
青銅器は、淡路島の古津路遺跡からだけでも中細形銅剣が14個、銅鐸においては島全体から20個も出土しています。青銅器の需要がそこまであるとは考えられない淡路島で、これだけ多くの青銅器が出土すること自体ふしぎですが、鉄器製造の前哨となる青銅器工場が淡路島に存在していた可能性を示唆するものです。
大規模の鉄器製造施設が見つかった背景には、中国大陸や朝鮮半島から運ばれてくる青銅の素材が、瀬戸内海経由で西から東へと運搬され、淡路周辺の地域において生産された後、物資や食物の代償として島外に運搬されていたという歴史の流れがあると考えられます。弥生銅器が他の瀬戸内海の島々や沿岸からも出土していることからしても、古代社会における瀬戸内の航海路が物資の輸送において重要な役割を果たし、文化の発展に不可欠な一大動脈となっていたことがわかります。
瀬戸内海から発展する製塩技術
また、弥生時代に広まる稲作を伴う農耕技術の発展により、魚だけでなく穀物も食するようになるにつれて塩の需要が高まり、土器製塩と呼ばれる古代の製塩技術が瀬戸内海沿岸から普及し始めたことにも注視する必要があります。特に岡山県と香川県の間にある備讃瀬戸の海域周辺においては、おびただしい数の製塩土器の破片が各地で見つかっています。
海水を煮ることで作られた土器製塩による塩の生産は、弥生時代の後半から古墳時代を超えて、奈良時代までも発展し続けました。そして生産された塩は、瀬戸内海沿岸周辺の集落で用いられただけでなく、全国各地の集落に向けて運ばれたと考えられるのです。塩の運搬においても瀬戸内海の航海路が重宝されました。
弥生時代中期より急増する大陸からの渡来人の波、そして瀬戸内海界隈にて突如として発展し始めた高地性集落の存在、遺跡から発掘される多くの青銅器や鏃などの武器、及び釣針や土錘など鉄製器具の存在は、瀬戸内海を航海路の動脈として、人と物が、海と陸、山々を動いていた史実を証しています。
[参考文献]
- 「刀剣の考古学」 徳島市立考古資料館 平成28年9月17日


