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2026/04/01

春日大社を支えた藤原氏 祭祀を司る古代豪族の背景に迫る

春日大社の背景に存在する大陸文化

春日大社では、創建以来、鏡に代表される神宝や、刀剣、楽器、装束など、至極の工芸品が、藤原一門や天皇、皇族が参拝を重ねるたびに奉納されてきました。これらの多くは、藤原一族から長年にわたり提供されたものです。その結果、「平安の正倉院」とも呼ばれるようになりました。今日、国宝や国の重要文化財に指定されているものは1300点以上にもなります。

注目すべき品は「蒔絵箏」(まきえのこと)や「蒔絵弓」など、貴族文化を背景に創作された王朝美術工芸の傑作です。また、中には当時の藤原一族の栄華と国際的な文化交流を誇示するような大陸由来の工芸品も多く含まれています。春日大社が建立された8世紀前後、大陸より雅楽と称される歌舞や管弦が伝わりました。その舞を行う際にかぶる舞楽面の中には、重要文化財に指定されている「納曽利(なそり)」のように、大きな目や太く高い鼻など、大陸ならではの豊かな表情の面が含まれていました。春日大社は古代より、大陸文化と深い繫がりがあったことがわかります。

国生みの神々と創建者を祀る古代の神社

創建から12世紀以上を経た今日まで、春日大社は藤原一族によって営まれ続けています。2008年、宮司に就任された花山院弘匡氏によると、花山院家の祖は藤原道長の孫である関白師実の次男、家忠ということです。今も、藤原一族が春日大社をしっかりと守護していることに歴史の重みを感じないではいられません。その春日大社のルーツを知るための一番の手だては、ご由緒を頼りに、そこで祀られている神々の背景を理解することです。

古代、建国に貢献された信心深い国家のリーダーらは、日本列島の各地を訪ねた際、どこへ行ってもまず、神を崇め祀る聖地を定め、そこで祈りや燔祭を捧げて祭祀活動を行いました。日本列島の要所では古くから祭祀場が造営され、それらの聖地には宮柱が建てられ、神社と呼ばれる社へと発展していきました。よって最古の神社では建国に携わったリーダーが創建者として敬われ、神々として名を残し、祭神となるのが常でした。

また、創建者と血縁関係にある親族も、祭神として共に祀られることも少なくなかったのです。それ故、古代の神社に祀られている神々は、国生みに携わった神々だけでなく、古代の社の創始に関わる発起人や、その先祖、親族も絡むことになります。また、時代を隔てて社を建立する際は、親族のルーツに関わる太古の神社より分社、もしくは分祀という形をとることもありました。その結果、創始者が建立した場所から離れていても、血縁関係に紐付けられた神々を祀ることが可能となり、元来の創建者である先祖をどこでも称えることができたのです。

藤原氏の祖先と春日大社の関係

春日大社もその例に漏れず、藤原氏(中臣氏)の祖先である建国の神々が祀られています。本殿に建てられた4つの神殿のうち、第一殿では国生みの話の中で、剣の武威と神宝の存在に関わり、大国主の国譲りの際に大きな貢献を果たした武甕槌命鹿島神宮より、そして第二殿では香取神宮の御祭神である経津主神(ふつぬしのみこと)が勧請されました。それら鹿島の神と共に第三殿と第四殿では、枚岡神社から藤原氏(中臣氏)の祖とされる天児屋根命(あまのこやね)と、その比売神(ひめがみ)も勧請されています。

まず、武甕槌命が第一殿にて祀られていることに注目です。春日大社の創建に関わった藤原一族と武甕槌命との血縁関係が誇示されることになります。藤原氏は自らの先祖神を勧請することにより、時を隔てた飛鳥や奈良時代以降においても、鹿島から離れた奈良という新天地で神を崇める社と祭壇を築き、先祖の神を祀ることができました。

また、第三殿と第四殿で神々の末裔となる中臣氏、後の藤原氏の祖も併せて祀ることにより、国家を代表する祭祀活動の象徴となるべく、春日大社の重要性を知らしめました。こうして藤原一族はいつの時代でも、鹿島の神に結び付く有力な公卿としてその名を馳せたのです。そして武甕槌命の子孫として奈良時代においては政権を極め、古代豪族として国の発展に寄与しました。

鹿島神宮の祭祀を司る中臣氏とは

藤原氏と鹿島神宮の関係においては、神託があったことでも知られています。第10代崇神天皇の時代、紀元前1世紀ごろ、鹿島の神が大坂山に現われ、天児屋根命(あまのこやね)を祖とする中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)に神託を与えたと伝承されています。国生みの時代に活躍した天児屋根命は、天岩戸に天照大神がお隠れになった際、祝詞を唱えた祭司として知られる神です。この神託の結果、中臣神聞勝命は鹿島神宮の祭祀を司る役目を授かり、鹿島中臣氏の祖となったのです。

後の藤原氏となる中臣氏が鹿島神宮に遣わされたのは、鹿島で祀られている国生みの父、武甕槌命や天児屋根命と中臣氏が血縁関係にあったからです。中臣氏の祖が天児屋根命であることは古事記にも記されており、一族は古代より祭祀の責務を担い、刀剣を中心とする神宝を祀った豪族であったことがわかります。それ故、中臣氏の祖である武甕槌神が祀られている鹿島神宮の祭祀を中臣氏が司ることは、ごく自然の流れでした。その後、古代のしきたりとして祭祀の責務は中臣氏の子孫へと引き継がれ、後世に伝授されるようになります。

中臣氏から生まれた藤原氏の背景

中臣神聞勝命がご神託を授かった紀元前1世紀、神武天皇から6世紀余り隔てた崇神天皇の時代、神宝を携えながら長い年月をかけて各地を巡り、行く先々で神を祀り、移動し続ける元伊勢御巡幸が奈良の三輪山より始まりました。鹿島神宮へ向かった中臣神聞勝命と元伊勢御巡幸を始められた豊鋤入姫命は、どちらも同じ時期に神託を受けています。双方とも列島内を移動しながら大切な神宝を守り、それぞれの聖地にて神を拝する立場に置かれていたことから推察すると、何かしらの関係があったかもしれません。

祭祀活動とは、正に不思議な力に導かれるまま、国家の安泰を願いつつ祈ることにありました。特に国の一大事においては、国家安泰の祈祷を執り成すことが重要視され、神宝の神威に頼る風潮が、いつしか朝廷を中心とする人々に培われていったのです。こうして国政を司る統治者や祭祀の働きにより、古代日本の礎は築かれていきます。それらの祭祀活動を先導したのが中臣氏でした。その働きは代々に渡り継承され、中臣氏は祭司系の豪族として、朝廷に強い影響力を持ち続けました。

奈良時代、中臣氏の中心として偉業を為した中臣鎌足は、国家への功績により死後、藤原の姓を賜ります。そして中臣氏の功績は、日本の政治に強い影響力を与えた藤原不比等の働きに繋がり、歴史に大きく貢献することになります。

藤原不比等により見出された春日山

奈良時代初期、藤原氏の中心として国政に関与し、多大なる政治権力を誇示したのが、藤原不比等でした。不比等の尽力により、藤原氏は歴史に名を残す豪族となります。不比等は自らの娘を天皇の后にすることで天皇家の外威となり、政治の中核を担う氏族として不動の位置を占めました。そして父、藤原鎌足が立ち上げた藤原氏を支配階級へと持ち上げることに成功し、やがて朝廷において政治の実権を担うようになります。

藤原不比等は藤原氏の実質的な基盤を築いた人物です。しかも政治だけに留まらず、法律の制定や文化の発展にも多大なる貢献をしました。藤原氏の背景には大陸の文化が存在したようです。不比等が関わった大宝律令は、中国大陸の唐律令をベースに編纂されています。また、平城京や官僚制度も中国の長安を模倣していると言われています。つまるところ、不比等はアジア大陸でも特に、中国に関する知識を幅広く共有し、中国で広められていた制度の中から日本でも応用できる重要な部分を取り出し、天皇制と融合させたのです。こうして中臣氏から続く藤原氏は祭祀権力だけでなく、政治をも支配するようになります。

その藤原不比等が信仰の根本となる本拠地として見染めたのが、春日山でした。その一郭は御蓋山(みかさやま)と呼ばれ、その山頂に鹿島から神が天下ったとして、山は聖地化されます。そこに春日大社が建立されたのです。藤原不比等が死去してから48年後のことでした。

画像ギャラリー:春日大社 / 鹿島神宮

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