春日大社が祀る武甕槌命と刀剣の関係
日本書紀や古語拾遺によると、鹿島神宮で祀られている武甕槌命は甕速日(みかはやひ)の子とされ、香取神宮で祀られている経津主神は、磐裂(いはさく)を祖とする磐筒男(いわつつのお)と磐筒女(いわつつのめ)から生まれた神であると伝えられています。ゆえに、鹿島の神と香取の神はともに伊耶那岐神の系譜につながる神々として深い関係にあることがわかります。また、両神は剣や武威と結びついた「刀剣神」としての性格を備えています。
遠い昔、伊耶那岐命による火神斬殺の出来事が起こりました。その様子については、古事記に詳しく記されています。伊耶那岐命がふるった十握剣(とつかのつるぎ)と呼ばれる御刀(みはかし)で火神の首を斬り落とした際、御刀の鍔に付着した血が岩に飛び散り、そこから生まれたのが、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、別名・建布都神(たけふつのかみ)です。この建布都神は、葦原中国平定に赴き、春日大社の第一殿にて祀られる武甕槌命と同一視される神です。さらに、建布都神の「ふつ」という名は、香取神宮で祀られている経津主神(ふつぬしのかみ)の「ふつ」と一致し、両神の神名には共通した要素が認められます。
経津主神の先祖なる「磐裂」は渡来者?
春日大社で祀られる経津主神は磐裂神(いはさくのかみ)の系譜に連なる神とされています。その「磐裂」という名は、岩をも裂くほどの刀剣の威力や神聖な力を象徴すると考えられています。一方、旧約聖書には、モーセが荒野において岩を杖で打ち、裂けた岩から水が湧き出たという逸話があります。このような視点を加えると、「磐裂」という神名は、旧約聖書に描かれるモーセの物語や、その祖先にあたるイスラエル族長のアブラハムの子「イサク」の名との間に、象徴的なつながりが認められるという見方にも一定の説得力が生まれます。
もし、神代の神である経津主神がユダヤ系の渡来者を象徴する神であり、さらに祭司を司るレビ族につながる存在であったと仮定するならば、その系譜は、族長アブラハムの子である「イサク」を経て、やがてモーセへと連なることになります。その観点に立つと「磐裂(いはさく)」という神名には、「イサク」という名との音韻的な共通性がうかがえます。もちろん、経津主神がユダヤ系の神であったかどうかは、今後も慎重な検証が求められます。
なぜ「ふつ」は神剣に関わる名前か?
経津主神のように、神名に「ふつ」という音を含む場合、そこには神剣との深い関わりが示されていると推察されます。実際、古代神話においては、御刀から生まれた神々の名にも「ふつ」の音が見られます。また、武甕槌命が葦原中国を平定する際に用いたとされる神剣は布都御霊(ふつのみたま)の剣と呼ばれ、のちに神武天皇東征の際、天皇のもとへ授けられた霊剣であることが「日本書紀」に記されています。
「ふつ」という発音は擬声語であるという説もあり、剣によって物を断ち切る音を表現するだけでなく、古代では神威を象徴する言葉としても用いられたとも考えられています。すなわち、「ふつ」という音には、神聖な秩序を守り、邪なるものを断ち切る霊的な力が込められていたと解釈できます。
さらに、この「ふつ」という言葉には、ヘブライ語に関連性を見出すこともできます。ヘブライ語の「ふつ」הוצא(hutsa、フツァ) は、「処刑する」「追放する」といった意味があります。この意味を御刀の剣威に関する意味合いの言葉として捉えるならば、「ふつ」の名を持つ神々は、単なる武神ではなく、国家や共同体を守護し、災いを外へ退けるとともに、王権を支える役割を担った「刀剣神」として理解することもできます。
藤原一族の出自はイスラエルか?
「経津主神」の名に含まれる「ふつ」や、神剣「布都御霊」の「布都」という言葉に、もしヘブライ語との関連性を見いだすならば、その神々を信仰の対象として受け継いできた中臣氏、そして後の藤原一族が、代々、神事を司り、国家祭祀を担ってきた経緯が浮かび上がってきます。さらに、奈良時代に活躍された藤原不比等の「ふひと」という名前をヘブライ語で逆さ読みすると、旧訳聖書にも書かれている「神よ!」という言葉と同一です(詩編103編1節)。この視点に立つと、藤原一族の成り立ちには古代イスラエルにルーツを持つ人々との精神的・祭儀的なつながりが存在した可能性も考えられるのです。
これらの言葉の語源について、外来思想との関連性が見られるならば、その背景を今一度検討する必要があります。例えば、国生みの時代から続く神話の時代において、藤原氏の祖神とされる天児屋根命は祝詞を奏上したことが伝えられています。その祈りの言葉が突然生み出されたとは考えにくいことから、そこには以前から祈祷や祭礼に関する高度な知識と伝統が、すでに蓄積されていたと見ることができます。だからこそ、国家的な一大事に際して神事を司る役割を託された際、神前で祈りをささげる役目を果たすことができたと考えられます。
その儀礼の完成度から察すると、天児屋根命による祝詞奏上は、単に日本固有のものだけではなく、大陸の精神文化などから影響を受けて成立したことも示唆されます。独自の信仰体系を携えた大陸の渡来集団が列島へ渡来し、祭司層がその祭儀を日本へ伝えたと仮定するならば、一連の伝統が天児屋根命から藤原一族へと受け継がれていったという仮説にも一定の説得力が生まれます。
こうして、古代の豪族として名高い藤原一族が、大陸から遠く離れた日本列島においても、高度な神事を執り行うことができた背景も、より明らかになります。さらに、イスラエル古来の信仰伝統の影響を視野に入れることで、古代日本の祭祀制度に秘められた謎について、新たな理解をもたらすことでしょう。


