史書に記された神宝の数々
「日本書紀」や「古事記」には十握剣や八咫鏡、八坂瓊の勾玉など、さまざまな神宝についての記述があり、特に剣にまつわる話も数多く登場します。「日本書紀」では、伊弉諾尊が身に帯びていた十握剣が、神宝に関する最初の記述です。記紀の中には剣で物を切ることにより神々が誕生するという内容が散見されることからしても、剣は神を生み出すほどの霊力を備えた存在、すなわち神聖な力の象徴であったと考えられます。また一書(あるふみ)には、伊弉諾尊が三柱の御子を授かる際、白銅鏡(ますみの鏡)を左右の手に取られ、その結果、二柱の神が誕生したことが記載されています。国史の冒頭から、剣と鏡は神聖なる家系を象徴する重要な神宝として位置付けられていたのでしょう。
伊弉諾尊が御殿を淡路国に構えて永眠された後、歴史の主人公はスサノオと天照大神に移り変わります。ここでも十握剣が登場し、加えて八尺瓊の五百箇御統も現れます。そして、これらの神宝を互いに噛み砕くことによって、新たなる神々が誕生します。一書には天照大神が九握剣や八握剣と呼ばれる複数の剣を帯びていたことも記されています。また、噛み砕かれた神宝は、天真名井と呼ばれる場所で「すすがれた」と記されている点も注目に値します。もし天真名井を実在の地名とするならば、「すすぐ」という行為は、砕かれた神宝の一部がその他に保管あるいは埋蔵されたことを示唆している可能性も考えられます。いずれにしても、神宝とは、古代より神々の創出や神聖な権威を象徴する極めて重要な存在であったことが窺えます。
神話で終わらない八岐大蛇の物語
数ある神宝の中でも特に知名度の高い草薙剣は、スサノオと八岐大蛇の戦いの物語に登場します。スサノオは頭と尾が8つある大蛇と戦い、十握剣を抜いて大蛇の尾を切り裂いた時、その中から見つけたのが草薙剣です。スサノオはそれを「神の剣」として天神に献上するのです。
この八岐大蛇の物語は、単なる神話やおとぎ話として扱われることが少なくありません。しかし、実際に起きた出来事を象徴的に表現した歴史的伝承として読むことも可能です。例えば、大蛇とは、前後に4対の櫂を装備したタルシシ船のような大型船を指し、合わせて8対の櫂をもって蛇の8つの頭と尾と考えることもできます。海を司る神とされるスサノオが、大陸より到来したその外来船団と対峙した出来事が、この物語の背景にあったのかもしれません。そう考えるならば、大蛇の尾から取り出された草薙剣とは、船団を守護していた「神の璽」のような神宝であり、スサノオが発見して戦利品として獲得した出来事を象徴しているとも解釈できます。
後にも先にも大蛇の由来に関する手掛かりが史書には見当たらないため、剣の出自については推測の域を出ません。しかしながら、大蛇の中に神宝が秘蔵されていたという内容の記述から察するに、大蛇とは移動が可能な何らかの乗り物であり、そこに収納庫が搭載されていたと考えても何ら不思議はありません。単なる推測のようにも思えますが、草薙剣を祀っていた著名な神社が確かに存在すること、遠い昔から実際に存在していたとしか考えられないほど多くの記述と言い伝えが残されていること、盗難されて海外にまで持ち出されようとした事件記録が残されていること、宮中に八咫鏡と共に長年祀られていたことなどから察するに、草薙剣は実在した神宝であった可能性が高いと考えられます。それゆえ、草薙剣の由来を告げる八岐大蛇との戦いの物語も、単なる神話ではなく、古代の史実を象徴化して編纂し、わかりやすい言葉で物語としたのではないでしょうか。もし草薙剣の存在が事実とするならば、その出所を改めて検討する価値があるのではないでしょうか。
草薙剣の出自はイスラエル神宝?
記紀に書かれている神宝の多くは、天照大神の時代以降に人の手で作られた神宝です。これまで解説したとおり、伊弉諾尊や伊弉冉尊をはじめとする神々の集団は、西アジアのイスラエルからの渡来者である可能性が高く、国生みに直接関わった伊弉諾尊を一世とするならば、天照大神やスサノオは二世にあたります。したがって、史書に記されている神々により作られた神宝とは、列島内にて鋳られたものと考えてよいでしょう。天照大神が天の岩窟へ隠れた時も、天照の怒りをおさめて赦しを請うために工芸人によって鏡が鋳造されただけでなく、和弊(にきて)、文布(倭文、しつ)、神衣(かむみそ)、八坂瓊の五百箇御統などが作られています。例えば、この時に作られた太陽を象徴化した鏡こそ、後に天照大神の御神体となる八咫鏡です。
このように人の手によって作られた神宝の記述は史書に多く見られますが、出自が全くわからない神宝も存在しました。「古事記」によると、十握剣を携えて最初に登場する神は伊弉諾尊です。腰に十握剣を帯びていた伊弉諾尊は、その剣をもって迦具土神の首を斬り、その血から建布都神とも呼ばれた御雷之男神(たけみかづちのかみ)など、多くの神々が生まれています。しかしながら、伊弉諾尊が手にした十握剣は、もともとどこで作られ、どこからもたらされたのかについては、史書には何も記されていません。
出自の不明な神宝のもうひとつの事例が草薙剣です。伊弉諾尊が所有していた十握剣と同じく、その出所は不明のままですが、どちらも歴史が古い剣と考えられるだけに、列島外から持ち込まれたと考えるのが自然ではないでしょうか。伊弉諾尊の十握剣は史書に記載されている中でも最古の剣です。また、草薙剣は八岐大蛇の物語で記されているとおり、船尾とも考えられる大蛇の尾に収蔵され、神秘性に富む存在として史書に謳われていることからしても、これらの剣は伊弉諾尊の時代を遡り、古くから大陸に由来する宝剣であった可能性が高いのです。そう考えると、西アジアより渡来してきたイスラエル系移民の存在と、その宗教的な背景との接点が見えてくるだけでなく、これら神宝の位置付けと、その取り扱いの重要性が理解しやすくなり、歴史の辻褄がかみ合ってきます。伊弉諾尊の十握剣や草薙剣の出自が、イスラエル神宝と関連していたという推測は、検討の余地を残していると言えるでしょう。
草薙剣の名前は、日本武尊が伊勢の倭姫から草薙剣を授かった後、東征に赴き、野火の災難に遭遇した際に草薙剣をもって草を薙ぎ払い、窮地を脱したことに由来すると語り継がれてきています。それが史実に基づくものであったとしても、さらにもうひとつ、剣の名前の根拠がその言葉自体に秘められているようです。
草薙は、クサ・ナギ(kusa-nagi)という2つの日本語の発音から成り立つ言葉です。まず、後者の「ナギ」は、ヘブライ語で王子を意味するנגיד(nagid、ナギ)と考えられます。すると「クサ・ナギ」とは、「クサ王子」を意味するヘブライ語になります。では、「クサ」は何を意味する言葉でしょうか。旧約聖書によると、イスラエルの族長であるアブラハムは神の命により、一人子のイサクをモリヤ山にて捧げるため、剣をもってイサクの命を絶とうとしました。神を疑うことのないその信仰ゆえに、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになりました。そのアブラハムの子、イサクが「クサ」と考えられるのです。イサクという名前はヘブライ語でיצחק(yits-khawk、イッハク)と書きますが、右から左に読むヘブライ語を逆さ読みすると、「クッジ」「クッシ」となります。ヘブライ語の逆さ読みは事例が他にも多々存在し、特にその人物の正体を隠蔽したり、言葉の遊びとして用いられたりすることが多かったようです。そして語尾に「ナギ」を足すと「クッジナギ」「クッシナギ」となり、それが多少訛って「クサナギ」と読まれるようになったのではないでしょうか。
そうであれば、「クサナギ」は「クッシナギ」、すなわち「イサク王子」を意味する言葉となります。これは草薙剣が、実はアブラハムがイサクを捧げるために用いようとした、その大切な剣、そのものであった可能性さえも示唆しています。アブラハムは結果として神から制止され、イサクは命を救われました。その後イサクはアブラハムの子孫として大いなる祝福を受けました。それゆえ、アブラハムの剣はイサクに引き継がれ、長年にわたり家宝として収蔵された後、そのイスラエル神宝が八岐大蛇と呼ばれる蛇を象る巨船の中に搭載されて日本に到来したのでしょう。スサノオの攻撃を受けて船は破壊され、そこにイサク王子の剣、すなわち草薙(クッシナギ)の剣が正体を現したと考えられるのです。
「クッシ」が「イサク」の逆読みであるという解釈について、もうひとつの事例を見てみましょう。諏訪大社にはアブラハムとイサクの話と酷似した、子どもを犠牲として捧げる言い伝えが古くから残されています。神官が人身供養として子どもを捧げるその伝承は、ミシャクジ信仰と深く関わっています。この「ミシャクジ」の「クジ」も、イサクの逆読みの可能性があります。「ミシャ」はヘブライ語で守護、守りを意味するמשמר(Mishmar、ミシュマー)ではないでしょうか。その「ミシュマル」の語尾に「クジ」が付加されて「ミシュマクジ」となり、それが多少略称化されて「ミシュクジ」と発音されるようになったと考えられるのです。つまり、ミシャクジ、ミシュクジとは、「イサクの守り」「イサクの守護」を意味する言葉であり、確かに神から守護されていることを象徴する言葉であったと考えられます。
もし草薙剣の出自がイスラエル神宝であり、しかもそれが神から守られたイサクを象徴するアブラハムの剣であったとするならば、スサノオがその剣を見て深く感動し、「天璽」として神剣を崇め祀った理由がわかります。
聖地を遷り巡る草薙剣の行方

荘厳な境内を誇る熱田神宮本宮草薙剣は、数ある神宝の中でも、スサノオが八岐大蛇から取り出した「神の剣」として、八咫鏡とともに最も重要な神宝とされてきました。初代神武天皇が住まわれた橿原皇居とその正殿の造営だけでなく、石上神宮や伊勢神宮が建立される背景とも深く関わる草薙剣は、「尾張の国の熱田神宮に在る」と「日本書紀」に明記されています。その記述のとおり、熱田神宮では草薙剣を御神体として、その神霊である熱田大神が今日まで祀られています。熱田神宮の由緒によれば、第12代景行天皇の御代、日本武尊は神の剣を尾張の火上山(名古屋市近郊)に残したまま赴き、三重県で亡くなられました。その後、お妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)が日本武尊を偲び、草薙剣を熱田の地で祀ったと伝えられています。
スサノオが大蛇を退治して草薙剣を八岐大蛇の尾から発見した時から日本武尊が草薙剣を手にするまで、少なくとも7世紀という長い年月が経ちます。記紀や古語拾遺などの歴史書の記述を辿ることにより、その間、剣がどこに保管されていたのか、およその経緯を知ることができます。しかし、模造品が複数作られ、熱田神宮から盗難される事件も起こったため、草薙剣の真相は混沌とし始め、歴史の中に埋もれていくことになります。草薙剣の軌跡を、史書の記述から辿りながら、その歴史の流れの全体像を掴んでみましょう。
「日本書紀」によると、スサノオは草薙剣を見出した後、それを天照大神に献上しています。その後、「剣の神」とも言われる経津主神と武甕槌神が葦原中国を平定するために遣わされ、出雲の地にてスサノオの子孫にあたる大国主(大己貴神)の前で十握剣を逆さに突き立て、刀剣神の出現を誇示して国譲りを誓わせます。そして二神は出雲国を基点として対抗する勢力を誅伐し、本州をおよそ東西にかけて平定しました。「古語拾遺」では、経津主神を香取神、武甕槌神は鹿島神と明記されていることから、二神は熊野の諸手船をもって出雲まで到来し、その後、東方は鹿島、香取までの平定を実現し、常陸の国では鹿島神宮、下総では香取神宮の基となる社を建立したのでしょう。古代、建国に絡むスサノオと出雲、八岐大蛇伝説、そしてこの二神が全て剣というモチーフに深く絡んでいたことは注目に値します。
時が満ち、瓊瓊杵尊が高天原から日向の高千穂峰に天下り、豊葦原瑞穂国の統治を授かった際、天照大神より草薙剣と八咫鏡、そして八坂瓊の勾玉が授けられました。神武天皇の時代になると、都が橿原に創建され、皇居の正殿には「天璽」(あまつしるし)である剣と鏡が共に安置され、そこへ瓊玉や捧げものが供えられて祝詞が奏上されるようになりました。古語拾遺には「草薙神剣者、尤、是、天璽」と書かれていることから、正殿に安置された天璽の剣は、おそらく草薙剣を意味したものであり、それが「神物の霊しき験」として謳われてきた由縁であると考えられます。
それから6世紀ほどの時を経た崇神天皇の御代では、大和国笠縫邑(奈良県桜井市)に神籬が建立され、そこに皇統の証であり、国家を統治する権威のシンボルとして崇められてきた天照大神の御神体である鏡と草薙剣が一旦遷されます。神宝は皇統を象徴する国家当時の権威そのものであり、長年宮中にて祀られてきた神宝を遷すという決断は、それだけ重大な事情があったことがわかります。
当時、大陸より朝鮮半島を経由して大勢の渡来者が列島に訪れ始め、日本の歴史は大きな転換期を迎えていました。列島各地で人口が急増し、新しい集落が随所に造成され、勢力構成が瞬く間に変わる最中、これまでの平穏であった社会が一変して、権力闘争の坩堝へと突入し始めたのです。そうした情勢の中で、皇位継承の印である神宝も盗難や略奪の危機にさらされるようになったのではないでしょうか。そのため、神の威厳と管理責任問題を畏れた崇神天皇は、長年、宮中にて祀られてきた神宝を大和国笠縫邑の山中に隠し、その代わりに模造品を宮中に保管することにしたのです。模造品の制作は神宝が盗難の危険にさらされ始めた結果でもあり、盗賊の難から守るためには必要不可欠な手段でした。また、宮内に安置された神宝の模造品については「護身用の御璽」と位置付け、後世においてはこれら鏡と剣も、天皇に奉献する神の璽として用いられるようになりました。こうして真の神宝は大和国笠縫邑に遷され、同時に宮中では模造品の御璽が祀られ、さらに80万郡神を天社、国社で祀ることにより、天皇は安堵したと言われています。
垂仁天皇の御代に入ると、一旦は静穏に見えた国内の情勢とは裏腹に、朝鮮半島では任那と新羅の対立が激化し、その影響が国内にも及び始めます。さらに狭穂彦王による謀反が起こり、国内の政情が極めて不安定になりました。そのような中、垂仁天皇は皇女倭姫命に対して天照大神を鎮め座す場所を新たに探し出すことを命じます。こうして倭姫はその聖地を探し求めて近畿地方を中心として各地を巡行することとなります。これが元伊勢の由縁です。長い年月をかけて神宝が移動し続けるということは、神とともに移動したイスラエルの幕屋を思わせるものであり、それは神宝の秘蔵場所を分からなくする手段であったとも考えられます。

斬新なモダン和風の美を追求した神楽殿やがて倭姫は最終的に伊勢の国の五十鈴の川上に辿り着き、そこに社殿が建てられただけでなく、神に仕える斎宮も造営されました。この時代から、弓や矢、刀剣を用いたお祭りが始まったことは注目に値します。それは神宝を必ず護衛し、それを天命とする気迫の表れとも言えるでしょう。天照大神が祀られた伊勢神宮では草薙剣も奉還されました。そして景行天皇の在位中、日本武尊により熊襲の征伐が行われます。その後、日本武尊は天皇から東方12国の征伐を命じられ、東征に赴くことになります。その時、日本武尊は激怒して嘆いたと「古事記」に記されているほど、事態は深刻でした。それを見かねた倭姫は究極の決断として、伊勢で祀られていた草薙剣を日本武尊に託したのです。これは日本武尊に対する信頼だけでなく、国家の危機がいかに重大であったかを物語っています。その後、日本武尊は不慮の死を遂げるものの、草薙剣は熱田にて篤く祀られることとなりました。
それから5世紀以上も月日が流れた天智7年、668年、新羅の僧、沙門道行が熱田神宮から草薙剣を盗難するという事態が発生します。「日本書紀」には、「沙門道行、草薙剣を盗み新羅に逃げ行く」と記載されていることからしても、朝鮮半島からの盗賊であったことがわかります。しかしながら、「中路に雨風あびて、荒迷いて帰る」と史書に記載されているとおり船は難破し、神宝は海外に持ち運ばれることなく列島内にとどまりました。その後一時は宮中に保管されるも天武天皇は病に倒れ、これを神の祟りとして688年、盗難されてから20年後、草薙剣は再び熱田神宮に戻されました。これらの事件を機に、神宝の奇しき霊検の力が再認知され、神宝の管理体制が抜本的に見直されることとなったのは言うまでもありません。
その後、草薙剣は熱田神宮に安置されたまま守られたか、レプリカが作られて本物と入れ替えられたか、別のところへ隠されてしまったのか、今もってその収蔵場所は定かではありません。鎌倉時代の「吾妻鏡」に記されているように、壇ノ浦の戦いにおける平家滅亡の折に紛失してしまったという説もありますが、
参拝者が絶えない熱田神宮それが本物の草薙剣であったどうかさえ、知る由がありません。しかしながら、草薙剣は西アジアに由来する古代の神宝であり、そう簡単に失われるとは考えにくいでしょう。「神の剣」であるだけに、二度と盗賊の被害などにあうことがないよう、古代の英知を尽くして安置する場所が探し出され、後世への証として時が来るまで、日本列島のどこかに秘蔵されていると考えたいものです。熱田神宮は、その草薙剣が奉斎されてきた聖地として、今日も人々の篤い信仰を集めています。
レイライン上に見出された熱田神宮
ところで、なぜ名古屋近郊の熱田という場所に神宝が収蔵され、そこに熱田神宮が建立されたのでしょうか。古代レイラインを構成する拠点の中でも剣に関わる場所を選別し、それらを結ぶ線を検証することにより、尾張国熱田が草薙剣を宝蔵する場所として選ばれた根拠が見えてきます。
熱田神宮のレイラインを神剣に結び付けて考える際、最初に思い浮かぶ拠点が、イスラエル神宝の聖地エルサレムと同緯度にあるヒラバイ山です。大陸より持ち込まれたと考えられる古代の神宝だけに、そのルーツが西アジアのイスラエルにあると想定し、エルサレムに紐付けられた中甑島のヒラバイ山を、熱田神宮レイラインの基点と位置付けることができます。ヒラバイ山のレイラインは淡路島の神籬石から諏訪大社、そして富士山から鹿島神宮へと繋がるだけでなく、石鎚山と高千穂神社も結んでいます。いずれも神宝に絡む重要な聖地であることから、それらに紐付けられた神宝に纏わる場所として、熱田神宮の場所が厳選されたことがわかります。
次の拠点として考えられるのが四国剣山です。国生み、伊弉諾尊の時代から淡路島より遠くに見える最高峰の山として、霊山としての地位を不動のものとしたと考えられる剣山は、古代の民にとって神宝を祀り崇める比類なき聖山だったのです。山名にいつしか剣の漢字があてられたのも、神剣との関わり合いを示唆するためだったのかもしれません。その剣山とヒラバイ山を結ぶことにより、草薙剣という神璽を取り扱うに相応しいレイラインの基準線が浮かび上がってきます。
まず、ヒラバイ山と剣山を結ぶ線を引き、尾張の国にむけて北東方向に伸ばします。次にその線上の位置をピンポイントで定めるために、伊勢神宮の元宮である伊雑宮に注目します。すでに垂仁天皇の時代では、多くの元伊勢を経て、天照大神の社殿が伊勢の国、五十鈴の川上に建立されました。そして斎宮も造営され、倭姫を中心として天つ神、国つ神を祭る重要な神社となっていたのが伊勢です。草薙剣は宮中にて何世紀にもわたり八咫鏡とともに祀られ、その後、倭姫により伊勢に遷されてきたのです。伊勢は八咫鏡が宝蔵される聖地として名高く、長年ともに祀られていた草薙剣との結び付きを考えるのも重要です。そこで伊勢の元宮であり、的矢湾に面した初代の聖地である伊雑宮を基点とし、そこから真東に向かうと的矢湾の北方の管崎にあたります。この地点から真北の方向に線を引き、ヒラバイ山と剣山を結ぶ線が交点を求めると、そこが重要なレイラインの交差点になります。そして、そこに熱田神宮が建立されました。
熱田神宮はエルサレムに紐付くヒラバイ山と剣山、そして伊雑宮を結ぶレイライン上に建立され、それらの地の力を引き継ぐシンボルとして選ばれた聖地だったのです。古代の英知を結集して神宝に関わる聖なる拠点が紐付けられたレイラインの交差点を特定し、そこに神璽、草薙剣を宝蔵するという戦略的思考を追求した結果、見出された聖なる拠点が熱田です。比類なき神宝を収めるに相応しい地の利に恵まれた新たなる聖地が、レイラインを用いて導き出されたのです。熱田神宮が確かにレイライン上にて複数の聖地と結び付いていることは、熱田神宮のレイラインを構成する根幹となる、ヒラバイ山のレイラインを検証することにより、明確になります。

ヒラバイ山と熱田神宮のレイライン
剣に絡むヒラバイ山のレイライン
ヒラバイ山のレイラインは、剣山と熱田神宮を結ぶことだけに止まりません。ヒラバイ山からは、日本列島を縦断する幾つもの大事な古代レイラインが存在します。その中心線のひとつが、ヒラバイ山と淡路島の神籬石、そして諏訪大社を結ぶレイラインです。前述したとおり、諏訪大社にはミシャクジの伝承があり、その儀式は旧約聖書創世記の記されるアブラハムによるイサク奉献の物語に類似しています。ミシャクジの語源はヘブライ語のミ・イサク・チに基づき、ミは「~から」を意味することから「ミイサク」とは「イサクから」、「イサク一族」という説もありますが、「イサクの守り」を意味する「ミシュマー・クジ」が、その語源である可能性が高いと考えられます。
いずれにしても、剣による人身御供の対象となった主人公はイサクであり、剣の取り扱いが極めて重要であったことがわかります。また、アブラハムがイサクを捧げようとした場所はモリヤ山ですが、諏訪大社の裏山も、同じ名前の守屋山です。守屋山の麓にある守屋神社では、剣が宝蔵されていたという伝承が残されているだけでなく、神社本殿の裏方には剣の収蔵庫の跡と思われる石棺が今日でも祀られています。そして山頂の東峰には磐座を伴う奥宮があり、山自体が御神体であるとも語り継がれています。
もうひとつの重要なヒラバイ山のレイラインが、富士山を介して鹿島神宮と繋ぐ線です。剣の神である武甕槌大神が主祭神である鹿島神宮は、香取神宮と共に、剣に関わる重要な聖地として不動の位置を占めています。さらにヒラバイ山は石鎚山とも紐付けられ、その延長線上には高千穂神社があります。このように、ヒラバイ山に絡むレイライン上の拠点はいずれも神宝に絡む重要な聖地であり、その配置はエルサレム神殿との繋がりが思い起こされるのです。熱田神宮は、草薙剣を宝蔵するに相応しく、エルサレムへと繋がるレイライン上に見出された聖地だったのです。
