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祖神スサノオの十握剣と八岐大蛇の物語
童話として親しまれている八岐大蛇の物語は、単なる神話ではなく、建国の祖神であるスサノオが、大陸から到来する外敵から列島の住民を守るために戦ったことについて伝えている可能性があります。史書の中でも特に神代に関わる記述には、抽象的な表現や比喩、さらには現実離れした内容が数多く含まれることから、一般的には単なる神話として受け止められがちです。しかしながら、そのような安易な解釈には注意が必要です。
「記紀」や「古語拾遺」など複数の史書に記されている内容を地図と照らし合わせて検証すると、多くの地名が実在するだけでなく、今日でも神社や遺跡など歴史的痕跡を確認することができます。また、史書の記述に加え、神社の御由緒などからも過去の歴史的背景を学ぶことができます。由緒が存在するということは、それなりの根拠に基づいて遠い昔の歴史が継承されてきたことを意味するため、注目に値します。さらに史書で用いられている言葉の中には、西アジアの言語をルーツとする可能性が指摘されるものも見受けられます。そのため、日本の建国には多くの渡来者が関わり、史書の編纂にも何らかの形で関与した可能性を窺うことができます。したがって、史書の記述が古代の歴史に基づくものか、その信憑性については十分な検証が求められます。
また、史書に登場する神社や聖地などの重要拠点の中には、綿密に考え抜かれたレイラインのコンセプトに基づき、それらが同一線上に特定される事例が多く含まれていることにも注目です。このような聖地の配置や並び方は、単なる偶然では説明し難く、古代に優れた地理認識を有しき、それらの場所を的確に選定できる文明人が存在した可能性を示唆しています。では、そのような高度な天文学や地理学を携えていた民は、どこから到来したのでしょうか。もし、史書に記載されている諸々の物語が歴史的事実に基づくものであり、建国の神々が実存した人物であったとするならば、そしてアジア大陸より渡来した高度な文化を携えた人々が、その宗教文化の礎を築き上げ、多くの聖地を見出して神々を祀り、社を造営したとするならば、日本古代史に対する見方は大きく変わることになるでしょう。
記紀が証する草薙剣と十握剣
その可能性を検証することができるガイドラインのひとつが、建国の祖神スサノオと八岐大蛇を退治した時に使われた十握剣です。なぜならば、スサノオが大切にした聖地や十握剣の収蔵場所などが見事に一直線に並び、単なる偶然とは考え難いからです。そこには何らかの重大な史実が存在し、古代の人々がレイラインと呼ばれる直線上に関連する聖地を意図的に配置したと考えざるを得ません。十握剣は当初、石上布都魂神社に収蔵されたと伝えられていることから、その場所を通り抜ける線を「石上布都魂神社のレイライン」と呼ぶことができます。また、スサノオの拠点は出雲であり、スサノオが関わる聖地は出雲と結びついていることから、そのレイラインは「スサノオのレイライン」と呼ぶこともできるでしょう。その古代レイラインの不思議を検証する前に、まず、スサノオの十握剣と、それを祀る石上布都魂神社の背景について考察してみます。
スサノオの物語には、草薙剣と十握剣と呼ばれる2つの重要な剣が登場します。前者はスサノオが退治した八岐大蛇の尾から発見された剣であり、最終的に熱田神宮に宝蔵されたと記紀には書かれています。その後、盗難の被害にもあったことから保管方法にもさまざまな工夫がなされ、最終的には人目のつかない安全な場所に安置されたことでしょう。今日まで、草薙剣は日本のどこかに保存されているはずですが、その所在を特定することは極めて困難です。また、草薙剣はイスラエルの秘宝とも言われるアロンの杖ではないかという指摘もあります。八岐大蛇を大陸から到来した巨船の象徴とするならば、その船内に守護神として宝蔵されていた神宝が見出された可能性も残されています。

斐伊川の川上の山 船通山の頂上一方、草薙剣とは別に、スサノオが八岐大蛇と戦うために最初から携えていたのが、十握剣と呼ばれる剣です。その行方はどうなったのでしょうか。日本書紀には、八岐大蛇との戦いの後、蛇の麁正(あらまさ)とも呼ばれる十握剣が、石上神宮に収蔵されたと書かれています。また、「スサノオが大蛇を斬られたその剣は、今は吉備の神職の許にある。出雲の斐伊川の川上の山がこれである」との記載もあります。スサノオは川上の鳥上峰にて大蛇と戦ったとされることから、斐伊川の川上とは大蛇との決戦が行われた場所に近く、草薙剣が大蛇の尾から発見された場所も、その周辺であったと考えられます。しかしながら、斐伊川の最上流域は船通山の近辺であり、吉備とは若干の距離があるだけでなく、地理的にはむしろ日本海側に位置しています。それゆえ、たとえ古代の海岸線が内陸側に入り組んでいたと想定しても、瀬戸内側に位置する吉備の神社を斐伊川の川上の周辺と見なすには、かなり広範囲な地理的解釈を必要とするでしょう。
石上神宮の元社となる石上布都魂神社
その吉備の神社とは、岡山県赤磐市にある石上布都魂神社であるというのが定説です。その理由は記紀の記述に基づくだけでなく、石上布都魂神社の由緒にも、蛇の麁正と呼ばれるスサノオの十握剣が収蔵されていたことが明記されているからです。石上布都魂神社に十握剣が収蔵されたと考えられるもうひとつの理由が、神社が御神体とする裏山にある巨石の存在です。周囲の山々は緑豊かな樹木に覆われていますが、その裏山だけは樹木が少なく、磐座となる巨石が今日まで大切に祀られています。磐座自体は今日でも禁足地とされ、何人も足を入れることが許されない聖地とされています。
レイラインの構築には、典型的な指標として山や巨石が用いられますが、正にこの事例が当てはまります。今日の岡山県赤磐市、吉備の山中には低い山並みが何kmも続く中、この地は周囲に何ら目印もなく、アクセスにも恵まれないわかりにくい場所に孤立しています。それでもレイラインを構想したと考えられるスサノオの意図どおり、重要拠点を結ぶ線上に位置するだけでなく、見事な磐座を伴う場所でした。何の由縁もない吉備の山奥であっても、レイライン上に存在するという条件を満たしているからこそ、十握剣を収蔵する聖地として選ばれたのでしょう。こうして八岐大蛇との戦場の近郊に特定された吉備の神社の場所にて十握剣は保管され、その後、大和国の石上神宮に遷されたのです。しかし石上神宮は奈良盆地の中ほどという位置付けであっただけに、神宝が盗難される危険性が極めて高く、周囲からの攻撃に対しても必ずしも防御に適した地勢ではありませんでした。そのため、最終的にスサノオの十握剣は石上神宮から取り出され、別の聖地に遷されて秘蔵されることになったと推定されます。

石上神宮 拝殿スサノオが八岐大蛇を退治した際に振るった十握剣は、備前国一宮である石上布都魂神社において、祭神として祀られていたことは言うまでもありません。また「吉備温故秘録」によると、その剣は明治時代まで「布都御魂」という名称でも伝えられてきました。その後、「神社明細帳」に記されているとおり、祭神名は本来の十握剣へと改められます。今日では石上布都魂神社の祭神は、民衆に分かりやすく親しまれやすい神であることが重要視されたからでしょうか、十握剣の使い手であったスサノオが祀られています。

石上神宮 楼門と回廊大和国の「石上神宮御由緒記」にも、石上布都魂神社との関わりについての記述が見られます。そこには、十握剣の由来について「日本書紀」や「古語拾遺」からの引用だけでなく、その剣は、「もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」と書かれています。備前国赤坂宮とは石上布都魂神社を指すものと考えられます。古語拾遺に記されている「石上神宮」が、大和国の石上神宮、石上布都魂神社のどちらを指すか定かではありませんが、いずれにしても、斐伊川の川上近郊とされる吉備の神社、石上布都魂神社において、蛇の麁正である十握剣がまず収蔵されたことに違いはありません。その後、時代を経て、十握剣は奈良の石上神宮に遷されたと考えることにより、史書の記述と辻褄は合います。また、石上布都魂神社の由緒によると、その十握剣は、「崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉る」ともあることから、十握の剣が当初、大和地方に遷されたのは前1世紀頃であり、その後、4世紀初頭、大和国にて病が蔓延した際、この剣の霊力をもって国家安泰が祈願され、最終的に大和国の石上神社に献上されたと考えられます。これが、石上布都魂神社が石上神宮の元社となった背景です。
スサノオが目論んだレイライン
日本を守護するために戦った神々の中でも、スサノオの存在は際立っています。今日でも多くの神社や史跡においてスサノオが手厚く祀られ、史書における記述の量も群を抜いています。スサノオの影響力と建国への貢献度は計り知れません。古代の日本列島において神社が創設された背景には、特定の場所を厳選して祭壇を作り、神を祀った人々の存在があります。そして最終的には、その創始者の名がいつしか神と同一視され、祭神として祀られるようになったのでしょう。後の時代においては、分社化などを経て、各地で同じ祭神が祀られるようになります。多くの聖地にてスサノオが祀られているということは、それだけスサノオの行動範囲が広く、偉大な指導者として強い影響力を持っていた証であると考えられます。
さて、スサノオ自身が足を踏み入れた古代の聖地は数多く存在しますが、八岐大蛇と十握剣に関わる石上布都魂神社と伊弉諾神宮、スサノオの母である伊弉冉尊が葬られた花窟神社は、スサノオの拠点である出雲を基点とする一直線上に見事に並んでいます。なぜ、スサノオが絡む聖地において、レイライン特有の思想を確認することができるのでしょうか。これらの聖地が一直線上に並んでいることは、」単なる偶然とは考えにくいものです。というのも、これら聖地の周辺に目立った拠点や指標が存在しないからです。例えば石上布都魂神社は、何の目印もない人里離れた山の中腹に造営されており、レイラインの発想がなければ、その場所を特定することは極めて困難であったと考えられます。
日本列島内の古代聖地がレイラインと呼ばれる直線上に並ぶということは、相互間の地の利を結び付け、創案者の意図や目的さえも共有する象徴として重要視された結果と言えます。「日本書記」に記載されている聖地の中でも、スサノオが関与した場所が実際に存在するだけでなく、それらの多くが一直線上に並んでいることには重要な意味が込められています。それは遥か遠い昔、神代とも呼ばれる時代に、聖地を特定する手段としてレイラインの考え方が積極的に用いられたことの証とも言えるでしょう。そして、スサノオ自身が拠点として構えた出雲を他の聖地と結び付け、スサノオの想いや志を後世に伝えようとした結果とも考えられます。また、スサノオが大切にした聖地を結ぶ線上に石上布都魂神社が存在することは、スサノオの十握剣である蛇の麁正を収蔵することが極めて重要視されていたからに他なりません。
レイラインの存在は、スサノオ自身がそれら聖地を特定するための作業に深く関わり、地の力を一直線上に紐付けながら、自らの願いや父母への想いをそれらの地に託し、そこで神を祀った証とも言えるでしょう。伊弉諾尊と伊弉冉尊を敬慕していたからこそ、レイラインの拠点として父母にゆかりのある場所が厳選されたのです。そこから浮かび上がるスサノオの姿は、もはや天照大神を悩ませた荒々しい若者のイメージではありません。八岐大蛇を十握剣をもって退治したことに象徴される強く逞しい神でありながら、その一方で父母への深い慕情を抱き続けた、優しい心を持つ神であったのです。
スサノオの生い立ちから見えてくる真相
スサノオに関連するレイラインの背景をより深く理解するために、今一度、スサノオの生い立ちを振り返ってみましょう。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間には、三柱の神とも呼ばれる天照大神、月読尊、そしてスサノオが生まれ、スサノオはその末子にあたります。「日本書紀」によると、スサノオは伊弉諾尊より根国、大海原を含む天下を治めるよう命じられるのですが、当初スサノオはその命を拒み、数々の問題を引き起こします。スサノオの役割に関する記紀の記述については若干の相違が見られ、さまざまな解釈があります。しかしながら天下に広がる大海原を日本海と捉え、大陸から日本海を船で渡り、列島に到来する敵から人々を守る役目をスサノオが担っていたと解釈することにより、記紀の内容を概ね矛盾なく理解することができます。
スサノオの姉である天照大神は、スサノオが治める大海原とは相対する天上の高天原を統治する役割を担いました。高天原とは、その名のごとく、夏至の日に太陽が天空の最も高い位置を通過する地域に存在したと想定されます。天空の頂点を通る太陽を見ることができる地域は、日本列島の中でも赤道に近い南西諸島、すなわち沖縄周辺に存在します。それゆえ、これまで神話の世界における架空の聖地と考えられてきた高天原は、実は古代の沖縄周辺に存在した可能性があるのです。その前提でスサノオの役割を見直すと、南西諸島側の沖縄諸島周辺は天照大神が、そしてその反対の北側にあたる日本海側の大海原はスサノオによって統治したことになります。そして、その中間、つまり南西諸島の高天原と日本海の間に葦原中国があったと考えられます。つまり、スサノオに託された天下とは、高天原よりも高緯度に位置し、太陽の高度が相対的に低く見える地域でした。スサノオが統治する拠点が日本列島の北側にあたる日本海沿岸という前提で記紀を読むと、なぜスサノオが朝鮮半島の新羅と頻繁に行き来していたのか、また、ソシモリに居住したと伝えられる理由も明確になってきます。
さて、大海原を統治して周辺地域を管理することを嫌ったスサノオは、伊弉諾尊が在命中の頃から数々の不品行や暴言を繰り返し、多くの人を困らせました。そして根の国を訪ねる直前に姉の天照大神に会いに高天原まで出向きますが、そこでも素行の悪さが際立ち、ついに天照大神が天岩戸に隠れてしまうという一大事件にまで発展します。その後、スサノオは高天原から追放され、「日本書紀」によると、朝鮮半島の新羅国ソシモリにて暫く滞在したのです。もともとスサノオは根の国に行く予定であり、その直前に高天原を訪れ、それから朝鮮半島に向かったことから、根の国とは朝鮮半島のことを意味していたのではないでしょうか。大陸から根のように突き出した朝鮮半島の地形そのものが、その語源である可能性があります。しかし、スサノオはソシモリに滞在することを好まず、すぐに日本列島に戻ってくることとなりました。
日本に帰国したスサノオは、自らの本拠地を日本海に面する出雲としました。それは、日本海という大海原を管理し、大陸と列島を行き来する人々を見守る役割の重要性にようやく目覚めたからではないでしょうか。スサノオは両親に多大な迷惑をかけたまま、十分な親孝行を果たせず父母を失いました。ソシモリという異国の地を訪れ、自身の人生を振り返ったスサノオの胸中には、父母に対して悔恨の念が込み上げてきたに違いありません。そして彼は、出雲という地を見出し、そこを生涯の拠点としたのです。しかしなぜ、出雲が選ばれたのでしょうか。その理由をレイラインから読み解くことができます。
スサノオの心の中には亡くなられた母が最終的に葬られた熊野にある花窟の巨石と、父の墓が存在する淡路島の地が常に刻まれていたのではないでしょうか。そして、スサノオは、自らの拠点を父と母への想いと結びつけることができる場所として特定したのです。それは、熊野の花窟神社と淡路の伊弉諾神宮を結ぶ線上を意味し、そのラインは日本海側の海岸では出雲の日御碕にあたります。日御碕と同緯度上には、対馬から朝鮮半島へ向かう際の大陸の玄関であったと考えられる巨済島が存在します。このように、父母の墓地とレイライン上に結び付く出雲の地は、古代、スサノオの拠点として重要視されました。日御碕の海底には、参道や祭祀跡が残されており、今日でも確認することができます。また、その直線上を日御碕から内陸に向けて7.7kmほど入ると、そこには弥山(みせん)と呼ばれる山が聳え立ち、その近隣には八雲山があります。後世では、その山の麓に出雲大社が造営されることとなりました。
さて、スサノオは八岐大蛇を退治した後、その剣を収蔵する場所を探す必要に迫られました。そこでスサノオは、父母が眠る墓地を思い起こしたのではないでしょうか。そして、大切な十握剣を秘蔵する場所を、自らの生命線とも言える線上に見出そうとしたのです。つまり、母が眠る熊野の花窟神社と父の墓がある淡路島の伊弉諾神宮の場所を結ぶ線上に、自らの命を託した十握剣を泰蔵しようと考えたのです。
十握剣の収納場所を見出す手段

岩壁に作られた驚異の投入堂唯一残された課題は、その長いレイライン上のどこを聖地として定め、十握剣を収蔵するかということです。十握剣を収納する場所を、父母の墓地を結ぶレイライン上にピンポイントで見出すために、2つの方法が考えられたことでしょう。
まず、目的地となる新しい聖地の南北に、目印となる山を見出すことでした。出雲の基点を弥山とすると、そこから真東に向かうと三徳山にあたり、そのすぐそばには今日、投入堂として知られる奇跡の拝殿が絶壁に造られている姿を見ることができます。ほぼ垂直な山の岸壁に、いつ、だれが、なぜ堂宇を造ったのか、知る由もありません。もしかするとスサノオの時代、レイライン上の地点を定めるために投入堂の地点がピンポイントで特定され、その岩壁が削られて、そこに有無を問わず拝殿が造られたのではないでしょうか。
また、花窟神社から西方向に向かうと、西日本で2番目の高山である剣山の頂上付近を通り、その西方に聳え立つ三嶺に至ります。そして三嶺と三徳山が見事に南北に並んでいるのです。三嶺という名前はヘブライ語で「殉教者」を意味し、その背景にはスサノオの母に対する想いが込められているのかもしれません。三嶺の山頂付近には大きな水ためが造成されたと考えられ、そこに墓が築かれた可能性もあります。さらに注目すべきは、スサノオに関わる「3」という数字の重要性です。出雲の拠点は弥山(みせん、三セン)であり、そこから真東には三徳山、さらに真南には三嶺、と「み」が3つ並びます。無論、スサノオの三貴神は三柱であり、母である伊弉冉尊を祀る熊野三山はその言葉のとおり3つの聖地から構成されています。また、熊野の三神は熊野三所権現とも呼ばれています。これほどまでに3という数字が重なるのは、もはや偶然とは言えません。
そして、この三徳山投入堂と三嶺を結ぶ南北の線と、出雲と伊弉諾神宮、花窟神社を結ぶレイラインが交差する場所に、ピンポイントで石上布都魂神社が存在します。その境内の裏にある高台には聖なる磐座が禁足地として今日まで守られていますが、その場所が出雲と淡路島、そして熊野の聖地である花窟神社を結ぶレイライン上に位置していることは重要です。なぜならそれは、吉備の石上布都魂神社の山地が、聖なる十握剣を収蔵する場所として選ばれた根拠を示していると考えられるからです。石上布都魂神社は、スサノオが拠点とした出雲と父母の墓の場所を結ぶ線上だけでなく、剣山に近い三嶺と、その北方に位置する三徳山投入堂を結ぶ線と交差する場所に存在するのです。それゆえ、石上布都魂神社の地は、これらのレイラインが交差する地として意図的に選ばれ、小高い山の頂上にて樹木が伐採されて岩場が露わになり、それがいつしか聖地として崇拝されるようになったと考えられます。
スサノオの本拠地出雲と高天原のレイライン
さらに、石上布都魂神社の地を通り抜けるもう1つの重要なレイラインが存在します。それが、「高天原のレイライン」です。前述したとおり、高天原は沖縄諸島周辺に存在した可能性があり、その中心地となる那覇は、古代の重要な集落の拠点でもありました。神々が結集し、天照大神が統治した高天原の比定地を沖縄という前提で考えると、スサノオにとってはそこが、先祖の故郷の地へと繋がる場所であり、多くの親族も居住していたと考えられることから、重大な意味を持っていたことでしょう。そこで、十握剣を宝蔵する場所を定めるにあたり、スサノオはその聖地を何とかして高天原と結び付けようと考えたに違いありません。
その結果、生まれたのが「高天原のレイライン」です。沖縄の那覇から船で北上すると、次の拠点は九州でも最高峰を誇る屋久島です。小さな島でありながら、屋久島の中心に聳え立つ宮之浦岳は標高1,936mを誇り、西日本最高峰の石鎚山に匹敵します。その屋久島の頂上と、四国石鎚山を結ぶ線が驚くことに、那覇を通り抜けているのです。これは単なる偶然の一致というよりもむしろ、石鎚山と屋久島の位置付けから、沖縄諸島の中でも今日那覇と呼ばれる場所がピンポイントで選ばれ、レイラインによって結び付けられた結果と考えられます。そしてこの「高天原のレイライン」とも呼べる、那覇、屋久島、石鎚山を一直線に通り抜ける線が、花窟神社、淡路伊弉諾神宮、及び出雲を通る線と交差するその場所に、十握剣が宝蔵された石上布都魂神社があるのです。これがレイラインの不思議であり、また、今日でも検証できる地理的事実です。
こうして十握剣は、スサノオの本拠地である出雲と、その父母を祀る淡路島と熊野に繋がるレイラインに加え、四国の三嶺と驚異的な信仰の象徴である投入堂等を結ぶ南北の線、さらに沖縄の那覇から一直線に屋久島、石鎚山を通り抜ける聖地を象徴した3本のレイラインが見事に交差する地点に宝蔵されることになりました。そしてその地は、後世においては石上布都魂神社と呼ばれるようになりました。地の力が結集する複数のレイラインが交差する場所であるだけに、十握剣の収蔵場所としては、山中にありながらもこれ以上ない最適な場所だったのです。
一般的にはあまり知られず、今日でも参拝者が少ない石上布都魂神社ではありますが、実は古代より極めて重要な位置を占めていたレイライン上の聖地だったのです。そして、出雲から熊野に通じるレイラインや、沖縄と石鎚山を通るレイラインを見つめていると、ふとスサノオの想いが心に響いてくるような気がしてなりません。これらのレイラインは、父母の墓所だけでなく、スサノオゆかりの地を幾つも通り抜けているのです。いつの日もスサノオは父母を想い、その存在を生涯忘れることはなかったのでしょう。古代のレイラインは、そうしたスサノオの温かな想いを今に映し出しているのかもしれません。

石上布都魂神社とスサノオ、出雲のレイライン

石上布都魂神社 境内
石上布都魂神社 本宮と背後の磐座