1. ホーム
  2. 日本のレイライン
2014/04/21

熊野のレイライン

紀伊山地の霊場と参詣道は2004年、ユネスコの世界遺産に登録されました。その対象となった霊場と参詣道は、主として熊野古道と高野山、吉野・大峯の修験道であり、異なる宗教的背景を兼ね備えた聖地が見事に融和されて巨大な霊場と化していることが、高い評価を受けました。今日、熊野という言葉は様々な意味に解釈されていますが、ごく一般的には熊野古道を含む、紀伊半島の南方地域一帯を指すことが多いようです。

熊野古道は、中辺路、小辺路、大辺路、伊勢路、大峯奥駈道と呼ばれる主に5つの古道から構成され、それらが網目のように組み合わさっています。その中心に位置付けられるのが、熊野三山とも呼ばれる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社です。神が籠る聖地として信望を集めた熊野の地は、古代、山岳修行者の修練の場となり、これら熊野三山を参詣することに、熊野古道の存在価値が見出されたのです。13世紀には、時宗と呼ばれた仏教の一派を導いた一遍により、「南無阿弥陀仏」と書かれたお札が融通念仏の聖として配られ、念仏を唱えることが勧められました。これが世間に共感を巻き起こし、「踊り念仏」として普及することになります。その功績を称え、熊野の大斎原には一遍を記念する石碑が建てられています。その後、浄土信仰が各地に普及されるにつれて、熊野は阿弥陀の浄土としても、多くの人に崇められるようになります。

熊野古道は、人々が祈りの内に自然界の山々に足を踏み入れながら、聖地に到達することをひたすら願いつつ、長い年月をかけて形成された古代の貴重な文化遺産です。大自然の恵みの内に育まれ、美しい景観が見事に温存されてきた熊野の地は、歴史の遺産として極めて重要な意味を持ち、今日でも多くの人々を、祈りと心の癒しの旅へと導きます。

歴史の裏舞台に潜む熊野の聖地

熊野には比類なき多くの遺跡が残されており、日本国内に存在する最も由緒ある古代の聖地と比較しても、何ら遜色はありません。しかしながら、これまで伊勢神宮や出雲大社などの著名な神社と比較すると、そこまでの脚光を浴びることはありませんでした。

その理由として、まず、熊野は広大な地域に複数の聖地が拡散し、1つの聖地に焦点を当てられなかったことが挙げられます。

次に、アクセスの問題がありました。熊野はその名前のごとく原始林や野に広がる大規模な聖地であり、古道の途中には危険を伴う急斜面も少なくなかっただけに、誰もが親しむ聖地とは成り得なかったのです。修験道者の鍛錬の場となっていたことからしても、険しい道のりを想像することができます。

また、「他国降臨の神体」と高野山により批判されたように、外来の神を祀る異文化ルーツの聖地と見られる向きもあり、それが、熊野の普及に歯止めをかけたもう1つの要因となりました。熊野で祀られている神々については、「熊野権現御垂迹縁起」に詳細が記載されています。そこには熊野の神が神武天皇の時代、唐より九州の英彦山、四国石鎚山、淡路の諭鶴羽山を経由して、熊野新宮の南にある神倉山に降臨したと書かれています。このことから、熊野の神は「他国降臨の神体」とも呼ばれるようになりました。後述する通り、熊野坐神、家津御子神や速玉神など、熊野の祭神の多くは出自が曖昧であり、伊勢神宮のようにわかりやすく神々の出自を特定できないことも、庶民の心を長年、射止めることができなかった原因と考えられます。

更に、熊野三山を中心とする信仰の在り方が、いつしか神仏習合の影響を受けるようになり、最終的には仏教勢力の教えに重きが置かれ、複数の宗派が絡むようになったことが、皇族の参拝を妨げる要因にもなったようです。時の流れに沿って徐々に仏教色を強めていく最中、古代の神道をベースに伊勢と結び付いていた熊野三山の宗教観は、浄土教や修験道、陰陽道など、多くの宗教の影響を受けながら、独自の仏教的様相を帯びた宗教文化に変わっていきました。こうして熊野では神仏の融合が成し遂げられたのです。

一方、熊野は伊弉冉尊の墓である花窟神社がその原点に存在するように、神霊が「籠る」場所、「死の国」、隠された暗闇の場所のようなイメージで捉えられることが多かったことも、熊野信仰に対する世間の理解が乏しかった原因の1つと言えそうです。

伊勢神宮 鳥居
伊勢神宮 鳥居
こうして熊野信仰は伊勢信仰とは徐々に分別されるようになり、伊勢神宮が脚光を浴び始めると共に、熊野の存在は歴史の陰に潜められるようになりました。その結果、熊野の地は世界遺産として登録されるまでの長い年月の間、さほど注目を浴びることもなく、むしろその悪条件が功を奏してか、熊野では古代の有様が大方、温存されてきたのです。よって今日、熊野を訪ねる旅人は、その歴史の重みと自然の美、そして古代人の宗教観にちなんだ文化の遺産を、昔とほぼ変わらない姿で心に刻むことができます。

記紀が証する熊野の歴史

日本書紀や古事記によると、国生みは、大海原にオノゴロ島が見出だされた後、高天原から神々が天下ることにより始まりました。そして淡路島を基点とした国生みの働きは、最終的に大八島国を構成する島々が特定された時点で完結します。その後、島々には数多くの聖地が見出されましたが、中でも最初に地名として挙げられたのが熊野でした。日本書紀には、伊弉冉尊は火の神を生む際、灼かれて亡くなり、「紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」と記載されています。つまり、熊野は記紀の中で最初に登場する、最も古い聖地の1つだったのです。その場所は今日、花窟神社に比定され、その御神体である海沿いの岸壁に設けられた祭壇には、多くの参拝者が訪れます。

熊野は伊弉冉尊の墓が存在する由緒ある聖地であるだけに、その後の時代においても、一目置かれてきました。先代旧事本紀の「国造本紀」によると、成務天皇の時代には、熊野国造は饒速日命の五世孫である大阿斗足尼(おおあとたじ)により支配されたことが記録されています。大阿斗足尼は、饒速日命の子であり神武天皇に布都御魂剣を奉った高倉下命の子孫です。その家系を継ぐ物部氏系や穂積臣を始祖とする民が、その後も熊野連として熊野を治め、熊野本宮大社の社家としても長年に渡り奉仕したのです。

ところが、古事記の記述によれば、伊弉冉尊は出雲国と伯伎国との境にある比婆山に葬られたことになっています。島根県境に近い広島県庄原市比婆郡の北部にある標高1264mの比婆山頂には円形を描いた巨大な岩場があり、そこが伊弉冉尊の御陵ではないかと古くから伝えられているのです。島根県安来市にある標高331mの比婆山も比定地の1つとして挙げられていますが、後述するレイラインの検証からは前者の見解が正しいと判断できます。古事記の内容は、日本書紀のものとは一見矛盾していることから、伊弉冉尊の墓地を比婆山と断定し、熊野有馬村説の信憑性を疑問視する説を唱える学者も少なくありません。しかしながら、出雲国と伯伎国にまたがる比婆山に伊弉冉尊が埋葬された後、その墓が熊野に移設されたと想定することにより、記紀に記載された双方の内容を、そのまま史実として受け止めることもできます。

そこでスサノオが、伊弉冉尊の墓を移設するまでのシナリオを想定してみました。伊弉冉尊が比婆山に葬られた後、日本海の大海原を治めることを嫌っていたスサノオは、父、伊弉諾尊の許可を得て、天照大神に会うために高天原に上りました。高天原の場所は、おそらく日本列島の南方に存在し、スサノオは船で日本海から南西諸島が連なる太平洋へと南下したことでしょう。ところがスサノオは高天原に到着した後、数々の問題を引き起こし、最終的には追放されてしまうのです。その後、再び日本海に戻り、出雲の地へと向かったスサノオは、そこで八岐大蛇との決戦に臨みます。そして大蛇に象徴される敵軍に打ち勝った後、大蛇の尾から見つけた草薙剣は高天原にいる姉の天照大神に献上し、大蛇を切った十握剣は吉備の石上布都魂神社に宝蔵したのです。その時、スサノオはふと、近くの比婆山に葬られた母のことを不憫に思ったのではないでしょうか。その墓地の場所は、八岐大蛇と対決した血生臭い場所にあまりに近く、自らが統治を拒んだ日本海側に面する寂しい山の上でもあったのです。そこでスサノオは出雲の地から離れる際、伊弉冉尊の墓を移設するという勇断に踏み切ったのです。そして父の墓がある淡路島から見て冬至の日の出が拝める方角に、太平洋を臨む巨大な岸壁の存在を見出し、そこを母の新しい墓地として定めたのではないでしょうか。その場所が、絶景を誇る熊野の有馬村、今日の花窟神社です。

花窟神社
花窟神社
熊野の花窟は、高天原の比定地となる可能性がある沖縄諸島の伊平屋島、クマヤ洞窟を彷彿させる美しい名所です。また、クマヤ洞窟が伊平屋島の「ヤーヘー岩」を介して出雲の八雲山とレイライン上で繋がっているだけでなく、沖縄自体も淡路島の伊弉諾神宮に紐付けられ、更に八雲山と伊弉諾神宮を結ぶ線上に花窟神社の磐座があることは、偶然ではないでしょう。伊平屋島のクマヤと熊野は、出雲と淡路島を介し、レイライン上にて意図的に結ばれていたと考えられます。そして複数のレイラインが見事に繋がりを持っていること自体、これらを仕組んだマスターマインドが存在したことを示唆しています。それがスサノオではないかと推測されます。スサノオは出雲の立役者であっただけでなく、伊弉諾尊と伊弉冉尊の墓地を出雲の八雲山のレイライン上に結び付けることを目論み、母の墓を花窟の聖地に移設できる政治的権力を有していた唯一の人物でした。その偉大な功績の結果が、日本書紀に記載されたと考えられるのです。

「熊野」の語源と意味を解明

熊野の歴史は記紀に記載されている地名の中で最も古いものの1つです。しかしながら、何故、熊野という漢字で綴られたのかでしょうか。また、熊野という地名そのものには特別な意味があるのでしょうか。熊野という名前の語源には様々な説があり、どれも定説には至っていません。今一度、熊野という地名の意味を振り返ってみることにします。

熊野の発音が「こもる」に類似していることから、森林が生い茂る地にて「籠る」という言葉が徐々に「熊野」に転化したと考える説が、一般的な解釈の1つです。「紀伊続風土記」には「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく」、とあり、森林が生い茂る様相が語源として解釈されていたことがわかります。また、熊野を「隠国」(こもりく)とし、それが「隠野」(こもりの)、「籠りの」と変化して神霊の籠る森林を意味するようになり、最終的に「熊野」に転化したとする説もあります。更に、「くまぐまし」という言葉は、うす暗いこと、物の影、更には樹木がこんもりと茂っていることを意味することから、熊野は秘めた場所、聖なる場所の意味を持つようになったとも言われています。いずれも熊野という大地が聖なる力を秘めていることを言い表しているようです。

熊野の語源を「隈野」とし、奥まって隠れた地の意として捉える説もあります。それは人間が弔われた後に行く死者の地を意味し、遠く離れた死者の国のような神秘的な場所の意にもなります。また、「紀伊続風土記」には「熊野の国は今の牟婁郡奥熊野の地なり、大化の制で牟婁に合せて一郡とし、紀伊に属す」と記載されている通り、熊野国は紀伊国に編入されて牟婁郡となったことから、牟婁は熊野の同義語と考えられます。そして、「神奈備の御室」という表現が使われるように、「牟婁」という言葉は「室」に由来し、「囲まれた所」という意味合いを含んでいます。よって、「牟婁」にも神霊の籠る地のイメージが含まれているのではないでしょうか。「隈」という文字も遠い辺境を意味することから、どちらも隔離された聖地のようなイメージを持つ言葉と言えそうです。

出雲における熊野の地名が紀伊半島に持ち込まれて、熊野と呼ばれるようになったという説もあります。熊野の地は淡路島を通じて、出雲とレイライン上でも繋がり、夏至の日の入りと冬至の日の出の方角を結ぶ一直線上に並んでいることから、2つの聖地に何らかの繋がりがあることに違いはありません。しかしながら、熊野の語源が出雲にあるという根拠には乏しいようです。また、古事記の神武東征伝の中には熊の出現が記載されていることから、それが熊野の語源ではないかという説もあります。更に「クマ」を「神」の同義語とし、「熊野」を「神の野」とする考え方もあります。実際、神代は「クマシロ」と読む地域が日本に存在することから、神のことをクマと呼ぶ時代もあったようです。日本の地名には熊という漢字が多く含まれていますが、もしかしたらそれは、元来「神」の存在を認めた地として、神妙な名前が付けられたのかもしれません。

これまであまり脚光を浴びることのなかったアイヌ語説にも注目です。魏志倭人伝にはアイヌ語で解釈できる古代日本の地名が含まれており、古代社会においては意外と、アイヌ語をルーツとする地名が多用されていた可能性があります。アイヌ語で神はkamuy(カムィ)、野原はnupu(ヌプ)またはno(ノ)、そして山はnupuri(ヌプリ)です。すると神の野は「カムィノ」、神の山は「カムィヌプリ」となります。紀伊の広大な山地を見て、古代の民は「神の自然の野」を称するべく、「カムィノ」と呼んだのでしょうか。それが長い年月を経て訛り、「カムノ」「クムノ」となり、最終的に「クマノ」となった可能性があります。更にアイヌ語では熊のことを神と同じく「カムィ」と呼ぶのです。つまりアイヌ語では「神の野」と「熊の野」は、どちらも「カムィノ」なのです。これは単なる偶然でしょうか。

熊野は従来、「くまの」と読むのが普通ですが、一部の地方においては今日でも、「ゆや」と発音しています。それ故、熊野の読みは「くまの」と確定されるものではなく、「ゆや」と読んだり、または「くまや」と読んだりすることもできます。平安中期に書かれた更級日記には、石山詣をする際には「斎屋(ゆや)におりて御堂にのぼる」とあります。斎屋とはお寺に引き籠り、斎戒沐浴(さいかいもくよく)と呼ばれる水浴びと心身の清めをする為の建物のことを言います。もしかすると熊野が「ユヤ」と読まれるようになった由縁は、熊野の地が「籠り」、「斎戒沐浴」する場所として、古くから認知されていたからかもしれません。

熊という文字には、「ひへん」、「れっか」と呼ばれ、火を意味する部首が使われていることにも注視する必要があります。ひへんは、4つの点をもって火の燃えあがる様子を表す部首です。「熊」という字の成り立ちは、物事を成し遂げることや、技の力、効能を言い表す「能」と言う文字に、「火」が付加されたものです。すなわち「熊」は、火をもって物事を成す、極めて力強い存在の意味を含んでいたのです。それ故、万物の霊長である、いと高き神を、1文字で表現するにふさわしい漢字と言えます。熊野は「神の野」であるが故に、神の意味を含む「熊」という漢字が厳選されたとも考えられるのです。

また、「熊野」の元来の読みを「クマヤ」とするならば、その語源がヘブライ語である可能性も見えてきます。ヘブライ語で「立ち上がる」を意味する言葉は、kum、クム(kum,クム)です。例えば、旧約聖書の詩編82はクマ・エロヒーム「クマ・エロヒーム」という言葉から始まっています。「クマ」は「クム」の語尾が尊厳を持つ命令形に変化したものであり、「エロヒーム」は「ヤ」と同じく、「神」を意味します。すると、「クマ・エロヒーム」は「神よ、立ちあがってください!」という強い祈りの言葉となり、熊野(クマヤ)も同様に、ヘブライ語の祈りの言葉であったという可能性が見えてきます。

力強く立ち上がる神は、聖書によれば、火の神でもあります。それ故、万能の神、火の神を適切に表現するために「熊」という文字が厳選され、それに大地の広がりを意味する「野」の語尾が付加されて、「熊野」と書くようになったのではないでしょうか。動物の中でも熊は時折、仁王立ちすることで知られ、その猛威と力は疑いないものです。よって、立ち上がる力強い存在として、動物の熊にも同じ漢字を用いるようになったのです。全知全能の火の神が大地に立たれることが、熊野という地名の背景にあったことを、ヘブライ語から察することができます。

熊野と沖縄の伊平屋島は前述した通り、レイラインによって結び付いているだけでなく、熊野の元来の読みを「くまや」とするならば、伊平屋島のクマヤ洞窟と地名を共有していることにも注目する必要があります。沖縄諸島は神の島々と呼ばれるほど、遠い昔から大変信仰の深い地域として知られ、伊平屋島も例外ではありません。この伊平屋という名前を逆さ読みすれば、島の名前はヘブライ語で神を意味する「ヤへィー」となり、正に「神の島」の意となります。大陸から渡ってきた古代の渡来者は、当初沖縄に拠点を設けた際、伊平屋島を神の島と位置付け、その海岸に際立つクマヤ洞窟の周辺を祭祀場とし、そこで「神よ、立ち上がりたまえ!」、「クマ・ヤ!」と祈りを捧げたことでしょう。こうして伊平屋島の巨石はいつしか「クマヤ洞窟」と呼ばれるようになったのです。

ヘブライ語の検証からわかることは、神が降臨し、立ち上がる神聖な場所が「クマヤ」であったということです。それ故、伊平屋島とレイライン上で紐付けることができる紀伊の聖地も同様に、「クマヤ」と呼ばれるようになった可能性が見えてきます。それは偉大なる生ける神が立ち上がり、聖地に降臨してくださることを願い求めた結果でもあります。「クマヤ」が神への祈りの言葉であり、それがいつしか「熊野」と書かれるようになり、地名として定着したとという可能性を、ヘブライ語による考察から見出すことができます。

熊野本宮大社のレイライン

熊野本宮大社を中心とするレイラインの全体像を把握する為には、熊野と各地の古代拠点を結ぶ線を見出し、同一線上や、それと交差する線上に並ぶ複数の拠点の相互関係を検証するプロセスが大事です。気を付けなければならないことは、古代聖地が今日とは違う場所に存在していた場合が多々あるということです。

神倉山ごとびき岩の急斜面から見下ろす新宮
神倉山ごとびき岩の急斜面から見下ろす新宮
まず、熊野の神は「熊野権現御垂迹縁起」によると、大陸より熊野新宮の南にある神倉山に降臨したと記載されていることに注目です。これは、熊野におけるレイラインの原点が神倉山にあり、その山の中腹にあるごとびき岩が、古代より神聖な磐座として定められ、重要な指標として認識されていたことを意味しています。そのごとびき岩の上に建立されたのが、神倉神社です。今日では熊野速玉大社として知られる熊野新宮は、熊野三山の1社として著名ですが、そこから南方に1kmほど離れた神倉神社こそ、熊野速玉大社の元宮です。熊野の原点には、神が降臨した神倉山のごとびき岩と、神倉神社があったのです。

神倉山は古代、海岸に面していたと推定され、花窟神社や伊平屋島のクマヤ洞窟のように、海岸沿いの重要な聖地として早くから認知されていたと考えられます。それ故、太平洋岸を船で渡り、紀伊に到来する渡来者は、神倉山の近くにまず着岸し、神を崇める為にごとびき岩へと向かったのではないでしょうか。神倉神社の周辺の経塚からは祭祀用具を含む多くの銅鐸や遺物が発見され、その歴史は神武東征以前に遡るものも多く含まれているようです。古代の民はごとびき岩の神座を祭祀場として祀りごとを行い、神に祈りを捧げていたのでしょう。

熊野本宮大社
熊野本宮大社
また、日本書紀には天皇軍が佐野を越えて熊野の神邑に到着した際、神武天皇が「天磐盾に登り、さらに軍を率いて前進した」と記載されています。熊野の神邑とは熊野速玉大社がある地域であり、「天磐盾」とは新宮市の神倉山一帯とされることから、「磐盾」とは盾の形をしたごとびき岩のことを指しているに違いないでしょう。ごとびき岩がある神倉山の荘厳さは、一度その岩場に登ると、すぐに肌で感じることができます。山自体は一見、樹木が茂っている個所が多いように見受けられますが、実際には山全体が巨大な岩石の塊であり、至る所に急斜面の岸壁が岩肌を露出しています。そして南東側は幅の広い急斜面で、しかも表面は滑らかな岩場で形成されていることから、正に「磐の盾」と表現するにふさわしい巨石と言えます。無論、人が素足で上り下りすることなど、到底不可能な絶壁です。「天磐盾」とも呼ばれた神倉山は、熊野の神聖な磐座が存在する聖地として、とりわけ重要視されていたことがわかります。

熊野本宮大社については、現在の場所とは異なり、大斎原こそ本来の聖地であったことにも留意する必要があります。1889年に起きた大洪水の為に社殿が破壊し、その後、熊野本宮大社は大斎原の北側、およそ700mの地点に移築されたのです。よって、熊野のレイラインを検証する際には、その中心地となる熊野本宮大社の場所を大斎原と考えなければなりません。大斎原と熊野本宮大社までの距離はさほど長くありませんが、後述する通り、大斎原と今日の熊野本宮大社を通るレイラインは微妙に異なり、それぞれが重要な意味を持っています。

さて、「熊野権現御垂迹縁起」には、神倉山に降臨された熊野の神は、その後、熊野川の上流に向かい、崇神天皇の時代には大斎原にて社が建立されたと記載されています。それが、後の熊野本宮大社の基となり、また、熊野のレイラインの中心点ともなります。熊野の神が古代、神倉山から大斎原に向かったという記述は重要です。何故なら、その順番をヒントとして大斎原の場所がどのように見出されたのか、そのプロセスをレイラインが構成された順序を検証することにより、再現することができるからです。

まず、熊野の東西に広がる列島の拠点として、東は日本最高峰の富士山、日本海側には古代最古の拠点の1つである出雲の八雲山、そして筑紫にも古代の重要拠点である宗像大社が存在することを念頭におきます。そして神倉山と出雲の八雲山を結び、このレイライン上に見出される全ての拠点が、熊野の神と出雲の神、双方に紐付けられることを目論みます。次に、そのレイラインに交差する形で、富士山と伊雑宮を結ぶ線を引きます。伊雑宮は太平洋側における最古の拠点の1つであり、古代では伊雑宮に船を着岸させて内地へアクセスする交通のルートが重要視されていたと考えられます。これら2本のレイラインが交差する場所に、熊野の大斎原が見出されたのです。

大斎原を中心とする熊野のレイラインには、更に複数のレイラインが関わっています。日本列島の西端、筑紫に存在した古代聖地である宗像大社と、四国聖山の1つである剣山を結ぶ線は、ほぼ同緯度上を横切り、このレイラインが見事に大斎原を通り抜けます。このレイラインからは、高天原の神々や天照大神の子孫と直結する宗像だけでなく、霊山として名高い剣山も、熊野と紐付けられたことがわかります。そして大斎原と同じ北緯33度50分を通る緯度線を東西に引くと、西方は四国三嶺の頂上を通り抜けます。三嶺は十握剣が宝蔵された石上布都魂神社と投入堂を結ぶレイライン上にあり、投入堂は、出雲の八雲山と同緯度線上に存在します。つまり、これらは全てスサノオの拠点であった出雲に関連する拠点です。それ故、大斎原はレイラインを通して、スサノオのライフワークを象徴する場所とも結び付いていたのです。更に、富士山と伊雑宮を結ぶレイラインと、出雲の八雲山と神倉山を結ぶレイラインは、左右対称に全く同じ角度に引くことができます。この不思議こそ、スサノオの測り知れぬ英知を象徴しているようです。

熊野本宮大社(大斎原)のレイライン
熊野本宮大社(大斎原)のレイライン

大陸に由来する熊野の神々とは

これまで熊野本宮大社と熊野速玉大社の地理的な位置付けを中心に、「熊野のレイライン」がどのように線引きされ、古代の聖地が相互間の繋がりを持つようになったのか、その詳細について解説をしてきました。伊弉冉尊が葬られた比婆山と大斎原(熊野本宮大社)を結ぶ線が、熊野速玉大社に直結することから、レイライン上の関連性は明らかであり、2つの熊野大社が実際に伊弉諾尊を共通のモチーフとしていることからも、深い関係にあることがわかります。

熊野信仰の普及は平安中期にあたる907年、宇多上皇(在位887-897年)の熊野御幸より始まり、貴族の中で流行するにつれて白河上皇(在位1073-1087年)や鳥羽上皇(在位1103-1123年)の時代にピークを迎え、鎌倉時代の中期まで続きます。これらの上皇は、いずれも譲位後に熊野御幸を行っています。また、白河上皇は伊勢平氏の武将として名高い平正盛(平忠盛の父)を伊勢から招集し、検非違使として諸国の賊を討伐させ、多くの手柄をたてた正盛を貴族と同様に優遇しました。その後、武家勢力の増勢を背景に平家は台頭し、源氏と平家が対立する主原因となった皇位継承問題が複雑化する最中、平清盛の時代には平家が栄華を極めたのです。その清盛自身も熊野権現を詣でるため、伊勢よりたびたび熊野へ出向いたことで知られ、平家の繁栄の背後には、熊野権現の御利生があったと噂された程でした。

熊野大社に纏わる神々の出自については、前述した通り、平安時代の末期に編纂された「長寛勘文」に含まれる「熊野権現御垂迹縁起」に綴られています。そこには神武天皇の時代、唐の霊山より王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶の形をもって九州の英彦山に天下ったと書かれています。「八角の水晶の形」が何を指しているのか、その意味を理解することは困難ですが、「彦山開山伝説」には摩訶陀国にいた権現が中国天台山から海を渡り、英彦山にて八角三尺六寸の水晶石を御神体として祀ったことが書かれていることから、何らかの石で造られた神器や聖なる物体で、礼拝の対象となる物であったと解釈することができます。その後、熊野権現は伊予国の石鎚山、淡路国の諭鶴羽山を経て、熊野新宮に隣接する神倉峯に降臨しました。そして新宮の東方にある阿須加の社に近い石淵の谷にて初めて結玉家津美御子という名が証され、二字の社と呼ばれるようになったのです。これらの記述から、後世において伊弉諾尊、伊弉冉尊とも解される熊野大神、熊野権現とは、実は大陸からの渡来者であったという可能性を見出すことができます。

「熊野権現御垂迹縁起」は、インドの摩訶陀国に関連する逸話を元に書かれています。その中で、女御の出産を妬む妃たちによる殺害事件を発端とする事件が、熊野権現のルーツに絡んでいます。女御を亡くした摩訶陀国王は、その後、7歳になる我が子に再会します。そして上人と共に金の車に乗って5本の剣を投げ、旅の行き先が日本であることを知ります。5本の剣の内、第1の剣は紀伊国の神倉に、第2は豊前国の英彦山に、第3は陸奥国の中宮山に、第4は淡路国の和(遊鶴羽峰)に、残る1本は伯耆の大山に落ちたのです。目指す地が東の島々であったことから、一行は中天竺(インド)の摩訶陀国から中国の天台山を経由して日本列島に渡り、紀伊国の神倉に向けて旅をしたのです。

これらの縁起書や逸話の内容から、熊野権現を大陸系の外来の神と断定し、高天原から天下る伊弉諾尊、伊弉冉尊等、日本古来の神々とは別系統とした上で、後世においてそれぞれが擬せられて同一視されるようになったという説も生まれました。しかし、これまで解説してきた通り、高天原の神々とは元来、西アジアよりインドの沿岸を経由し、海を渡って日本列島まで到来した大陸系の民族であった可能性が高いのです。古代、列島まで辿り着いた先駆者のひたむきな貢献により、日本の有史が始まったと考えるならば、熊野の神々が大陸系であるという理由だけで、一概に異質であると断定はできません。古代の神々の姿が、日本の島々を行き来する海人文化を反映していると考えられる理由も、大陸から船で到来した民が列島を行き来し、必然的に船が多用されたという史実があったからに他なりません。

大陸から神々が到来したことを前提とするならば、例えば、熊野の神とはスサノオ、もしくはスサノオの子孫であり、インドや中国を経由して海を渡ってきたイスラエル系の渡来者であると考えることも可能です。イスラエル北王国が崩壊した前722年から、南ユダ王国が崩壊する前588年を節目に、多くのイスラエル系の民がアジア大陸を東方に移動したと推測され、その時期は、伊弉諾尊、伊弉冉尊による日本列島の探索、すなわち国生みの時代と重なっているからです。建国の始まりとなる神武天皇の即位を前660年と仮定すると、皇紀の始まり、及び、その前哨となる伊弉諾尊らによる国生みの働きは、正にイスラエル国家が崩壊する時代と一致します。また、唐の霊山より王子信が彦根山に天下り、その後、長い年月を経て甲寅の年、神武43年に熊野権現が現れたという由緒に見られる記述も、古代の神々がアジア大陸の西方、インドの方面から渡来してきたことを証しています。

しかしながら、「熊野権現御垂迹縁起」に記載されている王子信とは、唐の徐霊府が書いた「天台山記」によると、周の霊王(前572から前545年)の子の1人であり、神武43年よりも1世紀弱、時代を後にします。また、「熊野年代記」によると、熊野速玉大社の起源となる神倉山に熊野の神が垂迹したのは前531年と記載されています。これらの年代を検証することは難しく、「天台山記」の王子信が縁起書に記載されている人物と同一かどうかも、定かではありません。中には熊野三所権現の前世を想定するなど諸説がありますが、詳細は不明です。よって、細かい年代の整合性には注視しながらも、記紀に登場する神々が、熊野の神々と同じ大陸からの渡来者である可能性があることを考慮した上で、およその歴史の流れを掴みながら、熊野の歩みを振り返ることが重要です。

熊野那智大社が異質と言われる所以

熊野三山とは、その名前のごとく3つの大社により構成され、それぞれが御祭神を共有し、歴史の深い絆によって結び付いています。ところが、その1つである熊野那智大社は、なぜかしら熊野本宮大社を基点とするレイラインのいずれにも含まれていません。レイライン上の結び付きが無いということは、例え、熊野三山の1社とはいえ、熊野那智大社の歴史的背景や由緒が、熊野本宮大社や熊野速玉大社のものとは別格であり、異なるルーツに起因していた可能性を示唆しています。

神武天皇が神として祀ったと伝承される那智の滝
神武天皇が神として祀ったと伝承される那智の滝
熊野那智大社は、落差において日本一を誇る那智の滝に隣接します。133mも直下する見事な大自然の光景を誇る那智の滝は、天から降り注ぐ命の水として、神武天皇の時代から滝そのものが神格化され、神として崇められるようになりました。そして、いつしか国造りの神である大己貴命や夫須美神も祀られるようになり、神武天皇を導いた八咫烏も崇拝されるようになったのです。その後、4世紀、仁徳天皇の時代には現在の社地に拝殿が建立され、平安時代以降では観音信仰を主体とする神仏一体の理念に基づく聖地として、徐々に大衆の信望を集めていくことになります。
  熊野那智大社が熊野三山の中で特異な存在であることは、縁起書からも理解することができます。熊野三山にて祀られている神々は熊野権現と呼ばれ、主祭神は熊野本宮大社が家津御子、熊野速玉大社が熊野速玉男神、そして熊野那智大社が夫須美神です。熊野三山ではこれらの3神が一緒に祀られ、その他にも多くの神々が祀られています。しかしながら、熊野の神々の由縁について記載されている「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野那智大社についての記述が見当たりません。よって、その起源は他の2社とは別格のものであり、建立された時代も異なると想定されます。

熊野那智大社の社伝からも、熊野那智大社が建立された背景が他の2社と異なることがわかります。そこには、神武天皇が「にしきうら」と呼ばれる那智の海岸に来られた際、那智の方向に光を見出し、山の中に那智の大滝を発見したとされています。その後、神武天皇は八咫烏に導かれて大和へと向かいました。つまり、熊野本宮大社と熊野速玉大社は、大陸の神々が列島を横断して最終的に熊野に降臨し、神々が鎮座したことがその起源であるのに対し、熊野那智大社は神武天皇が熊野の大自然の中に那智の滝を発見したことを発端としているのです。

歴史の流れを特定する資料が乏しいために、あくまで推測の域を出ませんが、おそらく熊野聖地の原点となる神倉峯に神々が到達した後、まず、熊野本宮大社の大斎原と熊野速玉大社の場所が特定され、その後、神武天皇により那智の滝が見出されたのではないでしょうか。そして後世において、滝に隣接する場所に熊野那智大社が建立され、その主祭神である夫須美神は、熊野本宮大社、及び熊野速玉大社においても祀られるようになり、最終的に三所権現を代表する神々の1つになったと考えられます。

「熊野年代記」によれば、熊野那智大社は仁徳天皇の時代、317年に現在の社地に創建されました。また、「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」によると、孝昭天皇の時代、前423年には裸形上人により創祀されたことも記載されていますが、詳細は定かではありません。いずれにしても、大滝が神として崇められてから長い月日を経て、熊野那智大社が創建されたことに違いはなく、熊野那智大社の創設時期は、他の2社よりも後の時代であったと考えられます。

熊野那智大社のレイライン

熊野那智大社のレイライン
熊野那智大社のレイライン

熊野那智大社に背景に潜む歴史の流れは、熊野に絡むレイラインの存在からも垣間見ることができます。前述した通り、熊野のレイラインは大斎原を基点として、そこを通り抜けるレイライン上の聖地が綺麗に結び付いています。例えば熊野速玉大社は大斎原と結び付くレイライン上に位置することから、歴史の流れの中で相互に密接な関係があった可能性を、地図上でも察することができるのです。ところが、熊野那智大社に限っては、大斎原と結び付く接点を、それらレイラインに見出すことができません。それ故、熊野那智大社の時代背景は、他の2社とは異なる可能性が高いと考えられます。

富士山頂浅間大社奥宮
富士山頂浅間大社奥宮
熊野那智大社には固有のレイラインが1つだけ存在します。それは、富士山の頂上と神倉山を結ぶ線であり、そのレイライン上に熊野那智大社があります。富士山は日本列島の最高峰であり、レイラインの指標としては極めて重要です。また、神倉山は聖なる磐座として古代から認知され、ごとびき山と呼ばれる聖地も存在します。不動の存在である富士山と、熊野の神が大陸より降臨したとされる神倉山を結ぶ線は、日本最高峰と大陸から降臨した神の山という2つの偉大な聖地の「地の力」を結び付ける線として、極めて重要な意味を持ちます。熊野那智大社はこれら聖地の延長線上に創建されたのです。

聖地の場所を特定するためには、通常、最低でも2本のレイラインを必要とします。複数のレイラインが存在することにより、その交差点上に拠点を見出し、そこを聖地化するというのが、ごく一般的なレイラインの手法です。ところが、熊野那智大社に限ってはレイラインは当初、1本しか存在しません。それでも聖地の場所を特定することができたのです。その理由が那智の滝です。早くから御神体として聖地化された那智の滝は、不思議なことに富士山と神倉山を結ぶ線上に在ったのです。よって2本目のレイラインが無くとも、那智の滝を目印として、熊野那智大社の場所を滝に隣接する場所に特定することができたのです。こうしてレイラインの考察からも、熊野那智大社が他の2つの大社とは別の流れで、神倉山と富士山に紐付けられた聖地として建立されたという歴史的背景を想定することができます。

熊野那智大社のレイラインには後世において、もう1つのレイラインが加わります。熊野那智大社と大斎原を結ぶ線を北西方向に延長すると、そのレイラインは神戸の再度山を通り抜けます。再度山は複数のレイラインが通り抜ける重要な拠点であり、伊弉諾神宮や剣山、伊勢神宮等、著名な聖地がその線上に名を連ねます。そして和気清麻呂や空海が注視した聖地でもあり、空海はそこで亀を自らの手で丁寧に彫ったことからしても、特別な場所であったことがわかります。それ故、再度山が、大斎原と熊野那智大社に紐付けられているというレイラインの考察は、その後の歴史の流れを理解する上でも重要な参考資料となります。

熊野三山の歴史については、古文書などの史料が限られているだけに、その詳細を理解することは困難です。しかしながらレイラインの存在から、古代の聖地が見出された歴史の流れを振り返り、御由緒や縁起書の内容と照らし合わせることにより、熊野の原点にある神々の足取りを多少なりとも推測することができます。レイラインから察する熊野の歴史の流れは、大陸から渡来した民により、神倉山を基点として始まりました。古代の神倉山は紀伊半島の海辺に隣接していたと考えられ、船を用いて海から渡ってきた民にとっては、格好の指標として認識されたことでしょう。そして神倉山と出雲の八雲山を結ぶ線上に、まず、大斎原が本宮の聖地として見出されたのです。次に熊野速玉大社の地が、出雲の比婆山と大斎原を結ぶ線上に特定されました。これら2つの聖地にて神々が祀られた後、神武天皇の時代、天皇自らが那智の滝を発見しました。その場所は富士山と神倉山を結ぶ線上にあったことから那智の滝は聖地化され、隣接する場所には最終的に熊野那智大社が建立されることになります。その後、那智熊野大社は、熊野本宮大社と熊野速玉大社の2社と合わせて、熊野における聖地の創始に貢献した大陸からの渡来者を神々として合祀しながら、3つの大社はいつしか、熊野三山と呼ばれるようになったと考えられます。

熊野のレイライン(総合図)
熊野のレイライン(総合図)
コメントする