レイラインを用いた古代人の旅術
イザヤ一行のリーダーシップに従い、遠い西アジアから日本列島まで到来したイスラエルからの渡来者にとって、淡路島は「東の島々」の中心として考えられていたようです。イスラエルの民が古代、安息の拠点とした琉球の那覇と、列島北端の港である八戸を結ぶ線上のおよそ中心に淡路島は位置するだけでなく、列島内の指標と考えられる高山や岬等の指標を結び付けたレイラインを想定すると、それらの中心に淡路島の神籬石が頻繁に存在感を示すからです。古代の民は、基点となる淡路島から探索を始め、島の中心となる神籬石をレファレンスとして相互の位置付けを確認し、旅を続けたと考えられます。その結果、最も古いレイラインは淡路島を通り抜けるものとなり、中でも赤道と並行に走る中国の陽城と神籬石を結ぶ緯度線と、那覇、そして八戸を結んで列島を横断する最も長いレイラインの2本は、古代の基本線と考えられたことでしょう。
レイラインの特性からして、既存線に新しいレイラインを交差させると、異なるレイライン上の指標同士を連携させることができることから、その延長線上に新たなる指標と列島内の拠点を見出すことができたのです。それ故、列島内に拠点をできるだけ早く探すために、古代の民は淡路島の中心を通るレイラインを想定しながら、随所に新たなる指標を見出していくことになります。その指標は、必ず列島の地勢と方角を十分に検討した上で特定する必要がありました。自然の大地とは神からの賜物であるだけに、土地のロケーションそのものが極めて重要であったからです。よって、新しい拠点が基点となる指標から見て、太陽の日の出や日の入りの線上に結び付くことや、同緯度上で繋がり、相互に紐付けられていること等が重要視されたのです。
伊弉諾神宮のレイラインを再現
「東の島々」を渡り廻り、日本列島を自らの目で探索する責務を負った伊弉諾尊は、その中心となる淡路島を自らの拠り所とし、最期は淡路島にて生涯を全うしたようです。日本書記に、伊弉諾尊は「幽宮を淡路の洲に構り」、そこに御隠れになったと記載されている通りです。また、古事記には、伊邪那岐大御神は「淡海の多賀に坐す」と書かれています。淡海の多賀を近江と解する説もありますが、淡路島を一貫して淡道と記載する日本書記に照らし合わすならば、淡路島の多賀と考えることが妥当でしょう。では、淡路島旧一宮町にある多賀の地を、どのように伊弉諾尊が探し当て、後世ではそこに淡路国一宮として名声を博した伊弉諾神宮を建立する運びとなったのでしょうか。
伊弉諾尊がその場所を選んだ理由は定かではありません。しかしながら淡路島は国生みの原点であり、日本列島の中心となる地ですから、列島内に見出された多くの拠点と、それらのレイライン上に結び付く、中心的な存在となることを目論んだ可能性があります。その前提には、古代より島の指標として重宝されていたと考えられてきた神籬石の存在があります。ところが神籬石の場所はアクセスが難しく、その途中には険しい丘陵が多々、控えていたのです。そこで山の中腹に在る岩上神社の神籬石とは一線を引き、庶民の誰もが神を参拝しやすい平野部で、しかも神籬石と近い場所に神社を建てることが求められたのではないでしょうか。そして神籬石のある岩上神社を奥宮として緊密な繋がりを保つことを前提とし、しかも古代最古の祭祀場の1つとして名高い諏訪大社前宮本殿から見て、ちょうど冬至の太陽が沈む方角である28度30分の線が淡路島に当たる場所に注目したとは考えられないでしょうか。諏訪大社からの冬至の線は、淡路島の西海岸、播磨灘に面する多賀の浜と呼ばれる海岸に当たります。また、列島の最西端には既に宇佐神宮に紐付けられた聖地として、対馬の西海岸沿いに和多都美神社を元宮とする海神神社の地が定められ、大陸からの航海者を迎え入れる玄関港となっていました。そこで、これらの聖地に結び付く場所として考えられたのが、淡路島多賀の浜沿岸の川の上流およそ1km少々内陸の地で、しかも海神神社と同緯度の場所です。
諏訪大社と和多都美神社を通り抜けるレイラインが交差する場所に伊弉諾神宮の場所が特定されたということは、単に神籬石から近く、伊弉諾神宮から見て夏至の日の出方向に諏訪大社があるというだけなく、レイラインの原則に基づきそれら2つの聖所に繋がるすべての指標とも、「地の力」とも言える相互関係を持つことを意味します。具体的には、諏訪大社は鹿島神宮、伊雑宮と高千穂神社、そして対馬の海神神社は和多都美神社、宇佐神宮、出雲大社、金刀比羅宮などの著名な聖地と地理的に結び付けられていることになります。淡路島の伊弉諾神宮の地は、これら日本を代表する神社のほぼ中心に位置しているのです。
陽の道しるべ線とレイラインの角度
「陽の道しるべ線」のルーツ
伊弉諾神宮は、諏訪大社から見て冬至の日没線と、海神神社と同緯度の線が交差する場所に特定されました。そして諏訪大社や海神神社だけでなく、伊弉諾神宮に通じる複数のレイライン上に存在する他の聖地も重要視されました。これらの列島全体に広がる神宮の存在は、初期の渡来者により、いち早く島々が網羅されて重要拠点が特定されたことを意味しています。レイラインの手法は、相互間の地の力を結集するシンボルとして、その存在を確認するために積極的に用いられたと考えられ、国造りに大きく貢献したことでしょう。
さて、伊弉諾尊自身の宮居跡として幽宮の場所となった伊弉諾神宮の地は、日本列島にある数多くの聖地のおよそ中心となる淡路島の中央付近に位置しています。よって、伊弉諾神宮の場所は正に、伊弉諾尊のライフワークの集大成の象徴となるに最もふさわしい場所であったと言えるでしょう。伊弉諾神宮の場所がレイラインの中心に位置していることは、神社の碑文に詳しく地図付で解説され、それは「陽の道しるべ線」と称されています。そこには、伊弉諾尊が太陽神としての神格を持つことから、「専門家の協力を得て当地からの太陽軌道の極致にあたる方位を計測」して諸々の聖地を特定し、線引きされたことが明記されています。つまり「陽の道しるべ線」とは伊弉諾神宮から見て、夏至・冬至・春秋仲日の日出と日没の方向に、「神縁の深い神々が鎮座」するとしています。
碑文から抜粋すると、「緯度線より北への角度29度30分にあたる夏至の日出は信州の諏訪湖(諏訪大社)日没は出雲大社日御碕神社への線上となる。春分秋分は伊勢の神宮から昇り海神神社(対馬国)に沈む。南への角度28度30分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大滝)日没は天孫降臨伝承の高千穂峰(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである。」と記載されています。更に地図上では伊弉諾神宮の真北に出石神社が、そして真南には諭鶴羽神社の存在が記されています。それらが伊弉諾神宮を中心として相対する方角に在る聖地として一列に並び、「陽の道しるべ」というレイラインを構成しているのです。
熊野那智大社ところで「陽の道しるべ」の中でも、冬至の日の出方角にある熊野那智大社の意義については多くの異論が交わされてきました。というのも熊野那智大社そのものは、冬至の日の出の方角に位置せず、大きく角度がずれているのです。何かの間違いでしょうか。確かに「南への角度28度30分」の場所には今日、熊野市の駅があるのみで、目立った史跡は花窟神社しか近くにありません。そもそも熊野那智大社は、伊弉諾神宮からみて42度20分の方角に位置することから、14度も角度がずれていることになります。しかしながら、碑文が記載されている地図上の線は、明らかに28度30分周辺の熊野の地域を通り抜けているのです。なぜ、地図上の線とは異なり、熊野市から30km以上も南方に離れている熊野那智大社の名前が「陽の道しるべ線」上にある神社として明記されているのでしょうか。何らかの目的をもって、宮司が意図的に間違えたのでしょうか。
伊弉諾神宮から冬至の日の出の方角にある聖地とは、およそ29度7分の線上にある花窟神社の巨石であり、古代の重要な祭祀場であることからしても間違いないでしょう。伊弉諾神宮の奥宮ともいわれる岩上神社の神籬石からは28度24分の方角にあたり、「南への角度28度30分」という記述とも、ほぼ一致します。記紀には伊弉冊尊が灼かれて亡くなった後に紀伊国熊野の有馬村に埋葬されたと伝えられ、人々が伊弉冉尊を祀り、葬られた御陵が「花を供えて祀った岩屋」であったことから、花窟神社と呼ばれるようになったとあります。後述する通り、花窟神社は伊弉冉尊を祀るが故に、熊野大権現を祀る熊野那智大社とも深く結び付いていたことが窺えます。よってこれらの聖地は同体とみなすことも可能であると考えられます。
海岸沿いの巨大な磐座に圧倒される花窟神社ではありますが、淡路島の神籬石と伊弉諾神宮に紐付く場所として、今日も多くの参拝者が訪れます。国生み神話に登場する伊弉冉尊も、海岸沿いにその雄姿を見せる花窟神社の巨大な磐座を通じて、神籬石と結び付いていたことがわかります。
南北を結ぶ出石神社と諭鶴羽神社
但馬一宮 出石神社「陽の道しるべ」には、太陽が昇り降りする方角だけでなく、伊弉諾神宮を通り抜ける南北の線上の双方にも、聖地が存在することが明記されています。まず、伊弉諾神宮の北側には奈良、平安時代に但馬唯一の霊社として隆盛を極めた、但馬国一宮の出石神社があります。祭神は新羅王家の出自である可能性が指摘されている天日槍命(アメノヒボコ)です。天日槍命は八種神宝を携えて朝鮮半島より渡来してきたことから、出石神社ではそれらの神宝を八前大神と呼んでいます。神功皇后の母は天日槍命の子孫の末裔であり、その家系が応神天皇の代へと繋がっている史実は大変興味深く、天日槍命を祀る神社は、皇族の歴史とルーツを知る上でも、重要な存在です。
諭鶴羽山からのパノラマビューまた、伊弉諾神宮の真南には淡路島でも最高峰を誇る標高608mの諭鶴羽山が存在し、頂上の周辺からは四国の山並みを一望することができます。その山頂から南斜面を下り、標高およそ400mの所に鎮座するのが、熊野権現の奥の院としても知られる諭鶴羽神社です。ご由緒によると諭鶴羽神社の祭神は、「国生み神話で知られた、伊弉冉尊を主神に、その御子速玉之男命、事解之男命の三柱の神様をお祀りしてある。」と記されていることから、伊弉冉尊の夫である伊弉諾尊が連想されます。亡くなった伊弉冉尊と出会う為に黄泉国に下った伊弉諾尊は、逃げ出して帰る際に伊弉冉尊と誓約して唾を吐き、その時に生まれたのが速玉之男です。また、熊野那智大社や熊野本宮大社では、速玉神と称して伊弉諾尊と同一視していることも注目に値します。このように熊野における祭神の名前は複雑かつ多数存在し、祭神の名前にも多くの変遷がみられることから注意が必要です。また、速玉男神の次に、黄泉との関わりを断つために掃き払って生まれたのが事解男命であり、熊野本宮大社では、伊弉冉尊と同一視される熊野牟須美神と共に第一殿にて祀られています。これらの神々は全て、熊野権現とも呼ばれる熊野三山の祭神である家津美御子(スサノオ)・速玉神(伊弉諾尊)、そして牟須美(伊弉冉命)と繋がっていることから、伊弉冉尊の死に関連する神々であることがわかります。
諭鶴羽神社諭鶴羽神社の由緒に関連する神々の存在は、熊野の神について書かれた「長寛勘文」(1163年)の中に含まれる「熊野権現御垂迹縁起」を探ると、より明確になります。そこには中国唐、天台山の霊神が、九州筑紫国の英彦山に渡来し、そこから伊予国の石鎚山に来られ、その後、淡路国の諭鶴羽山に渡ってから熊野新宮の南方にある神蔵の峰に降りられたと記載されています。つまり熊野の神々は中国大陸から渡来し、九州から四国石鎚山、淡路島の諭鶴羽山を経由して熊野の地に到来したと推定されるのです。
伊弉諾尊や伊弉冉尊は前述した通り、西アジアから渡来したイスラエルの民であると考えられます。海伝いに、時には陸地を介して大陸を横断し、最終的には中国大陸から日本列島に渡来した西アジアの民が古代には存在したのです。そして、これら大陸から渡来した先代の移民の多くは台湾に渡り、八重山列島から南西諸島を経由して北上してきたと推測されます。よって、熊野権現に関わる神々の旅路も、南西諸島から九州、四国、淡路と繋がる流れに沿った可能性があります。
熊野三山に見え隠れするスサノオの想い
諭鶴羽神社の祭神は熊野権現の神々と同体と考えられることからして、諭鶴羽神社と熊野三山が古代より関連付けられていたことは言うまでもありません。熊野三山と呼ばれる熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮大社は、そのいずれも伊弉冉尊と深い繋がりがあります。熊野那智大社の御祭神は熊野十三神であり、御主神は熊野夫須美大神とも呼ばれ、伊弉冉尊とされています。また、熊野速玉大社の御祭神は熊野夫須美命と熊野速玉男命です。熊野夫須美命は熊野結大神と呼ばれ、伊弉冉尊を指します。また、熊野速玉男命は熊野速玉大神であり、伊弉諾尊と解されています。それ故、熊野那智大社と熊野速玉大社の主祭神は、伊弉諾尊と伊弉冉尊ということになります。また、熊野本宮大社の御主神は家都美御子大神であり、須佐之男命です。その東御前では天照皇大神、西御前では御子速玉大神、及び、牟須美大神が祀られていることから、いずれも伊弉冉尊と伊弉諾尊との深い関連があることがわかります。
熊野三山の中でも熊野那智大社は、伊弉諾神宮の境内に設置された「太陽の道」と称する石碑上、冬至の日の出方向に建立された神社として明記されています。ところが不思議なことに、その日の出方向にある神社は花窟神社であり、熊野那智大社とは方角が著しくずれているのです。しかも花窟神社は日本書記の記述によれば伊弉冉尊の墓が存在する場所と考えられることから、伊弉冉尊を祀るには、極めて重要な聖地であり、伊弉諾神宮の「太陽の道」に記されていても何ら不思議はありません。また、諭鶴羽神社では伊弉冉尊の死に関連付けられた神々を祀っていることから、花窟神社は諭鶴羽神社とも紐付けられているのです。よって、本来ならば花窟神社が冬至の日の出方向にある神社として表記されるべきですが、方角の全く違う場所に位置する熊野那智大社が、何故かしら花窟神社の代わりとして紹介されています。
熊野那智大社が「陽の道しるべ」に記されている理由は、ごく一般的には、諭鶴羽神社の由緒において熊野三山との結び付きが明らかになっていることから、熊野権現を最重要視する意味も含め、「陽の道しるべ」に含まれる他の著名な神社である諏訪大社、出雲大社、高千穂神社に劣らぬ同格の大社である熊野那智大社をもって、あえて冬至の日の出方向にある名社として明記するに至ったと考えられているようです。しかし、その背景には伊弉冉尊の墓であるという謂れが残されている花窟神社の存在があることに違いありません。熊野夫須美大神とも呼ばれる伊弉冉尊を主祭神とする熊野那智大社では、熊野速玉神社と共に、明らかに伊弉冉尊を祀っているからです。
熊野三山のルーツには伊弉冉尊が存在するからこそ、熊野の地域は「死者の国」として長年、葬られた者の魂が集まる所、その霊場として古代から人々の信仰を集めていたのではないでしょうか。だからこそ、伊弉冉尊の子であるスサノオは、母が葬られた熊野の地に哀愁の想いを抱いていたのです。スサノオの母に対する熱い思いは、スサノオの拠点である出雲大社の背後に控える八雲山と、十握剣を保管した岩上経都魂神社、そして伊弉諾尊が葬られた伊弉諾神宮を結ぶ線が、一直線に花窟神社に繋がることから取って見るようにわかります。同一線上に存在すること自体、それらの聖地は元来、霊的に繋がっていることを示唆しています。
花窟に葬られた母、伊弉冉尊を不憫に思ったスサノオは、荒波と海風の強くあたる岩場しか突出してない寂しい霊場ではなく、緑の森に包まれ、美しい那智の滝が注がれる那智大社の地を選別し、そこで改めて伊弉冉尊を祀り崇めることとしたのではないでしょうか。確かに建国の神の一人として多大なる貢献を遂げたスサノオは、少年時は暴れん坊でもありました。しかし、そのスサノオの母親に対する温かい思いが見え隠れするのが、熊野の真実であるように思えてなりません。伊弉諾神宮のレイラインは、その史実を証する貴重なデータと言えます。
列島の聖地から特定された伊弉諾神宮
「陽の道しるべ線」の記述から察すると、伊弉諾神宮は諸々の聖地の中心であり、その周辺の8方向に著名な神社が存在することから、一見して伊弉諾神宮が最初に建立され、その後、太陽が昇り降りする方角に、諏訪大社や出雲大社、高千穂神社などの聖地が見出されたように思われがちです。しかしながら聖なる拠点を見出しながらレイラインが構成された順番を想定すると、伊弉諾神宮の場所が見出されたのは、明らかに諏訪大社、出雲大社、高千穂神社や海神神社などの著名神社が建立された後と考えられます。つまり、それらの聖地が特定された後に、レイラインが交差する箇所で、しかも海神神社と同緯度に位置し、更に神籬石のある岩上神社を奥宮とするためにそこから距離の離れていない場所に、伊弉諾神宮の聖地が特定されたと考えられます。
確かに国生み伝承の淡路島は、日本列島の中心となる島であり、伊弉諾神宮の碑文にも記載されているとおり、「祇(まさ)に天と地を結ぶ能(はたらき)が、太古から脈々と生き続けている「神の島」だと言うことを物語っている」と言えます。古代レイラインを構成しながら伊弉諾神宮の地が特定されたかどうか、確認する術はありませんが、いずれにしても「神代から受け継ぐ千古の歴史の尊さや、太古の浪漫と祖先の叡智とをこの「陽の道しるべ」で実感」できることに変わりありません。そして、日本列島内でも最有力の聖地をつなぐ、複数のレイラインが交差する地点であるだけに、伊弉諾神宮の場所はまさに、遠く西アジア、イスラエルから渡来した伊弉諾尊が最後の願いとして求めた、究極の聖地であったと言えるでしょう。