
御巡幸の最後に到達した伊勢国
美濃国の伊久良河宮、宇波刀神社近郊を基点として始まった船旅は、尾張国の中嶋宮に短期間滞在した後、次の桑名野代宮に向けて、すぐに長良川を下ります。皇太神宮儀式帳によると、天照大神は伊久良河宮を旅立たれた直後、伊勢国の桑名野代宮に坐したと伝えられており、伊勢国に向けて御一行の動きは徐々に速まっていきます。そして倭姫命は遂に、元伊勢の最終段となる伊勢国に到達したのです。
伊勢国最初の御巡幸地は桑名野代宮
伊勢国における最初の御巡幸地は桑名野代宮と呼ばれ、名のとおり今日の桑名市に位置します。その比定地の筆頭として、長良川沿いに建立された野志里神社、通称「のしろさん」と呼ばれる式内社が挙げられています。延喜式神名帳には一文字違いで「野志理神社」とも記載され、同一の神社と考えられます。現在の住所は多度町字下野代であり、「野代」という地名が残されていることからも、伝承地としての可能性が高まります。また、「野志里」は一般的に「のしり」と読みますが、古韻による「里」の読みを「ろ」とすることから、元来は「のしろ神社」と呼ばれていたとされます。そのため、「のしろさん」という神社の通称も古くから広まったのでしょう。境内の入り口には、「伊勢神宮御旧跡野代の宮」と刻まれた石碑が建てられ、御祭神として天照大神が祀られています。
桑名野代宮のもうひとつの比定地として、通称「若宮さん」と呼ばれてきた神館神社も挙げられています。神館神社の祭神は天照大神と豊受姫命で、倭姫命が配祀されています。大神宮本記帰正鈔では、神館神社の地が野代宮跡であるとされ、周辺一帯が神戸郷と呼ばれていたことから、伝承地としての可能性が高まります。しかしながら、野志里神社には偶然とは言い切れないレイラインの繋がりが複数存在します。そして、他の御巡幸地と共通する神社や地の指標がそれらのレイライン上に連なることから、桑名野代宮の比定地は野志里神社と考えられます。
桑名野代宮(野志里神社)のレイライン
野志里神社のレイラインは5本あります。まず、四国の室戸岬と三輪山を結ぶ線が浮かび上がってきます。三輪山は元伊勢御巡幸の原点であり、そのレイラインが重要な意味を持つことは言うまでもありません。その聖山と、レイラインの指標として頻繁に用いられてきた室戸岬を結ぶ線上に、野志里神社が重なります。古代の人々は、よりわかりやすい場所に元伊勢を特定すべく、岬や聖山を起点として御巡幸地の場所を定めたのではないでしょうか。
次に、虚空蔵山にも再度注目してみました。前述のとおり、虚空蔵山の背景には、元伊勢の御巡幸において、その船旅を後押しした船木氏の存在があります。その結果、静岡の虚空蔵山が特定されただけでなく、西方では四国高知にも虚空蔵山が定められたのです。その虚空蔵山と剣山を結ぶと、同一線上に野志里神社が存在することがわかります。これは、野志里神社が虚空蔵山と剣山との位置関係を意識して定められた可能性を示しています。剣山は、他の御巡幸地のレイラインでも共通の基点として用いられていることから、元伊勢の目的が剣山と何らかの形で深く関わっている可能性があります。
3本目のレイラインは富士山と沖ノ島を指標として用いたものであり、2点を結ぶ線上に野志里神社が存在します。古代では、富士山頂の指標が、今日の富士山火口の南側にあたる宝永山に近い位置にあることから、レイラインを検証する際には、指標となる基点の位置に注意が必要です。4本目は、紀伊半島の最南端にある紀伊大島と熊野速玉大社を結ぶレイラインであり、この線上にも野志里神社が位置しています。
5本目のレイラインは、野志里神社と熱田神宮を結ぶ線であり、この2社はほぼ、同緯度に並びます。熱田神宮では、元来、倭姫命が日本武尊に授けた草薙剣が祀られていました。元伊勢御巡幸直後の景行天皇の時代、日本武尊が亡くなられた際に、尊のお妃である宮簀媛が草薙剣を熱田神宮にて祀ったことがその起源です。熱田神宮は、野志里神社よりも後の時代に建立されていることから、むしろ野志里神社が指標となって熱田神宮の場所が特定された可能性も見えてきます。いずれにしても、倭姫命と必然的に深い関係にある熱田神宮は、野志里神社と結び付けられていたと考えられます。

伊勢国桑名野代宮から鈴鹿国奈其波志忍山宮へ
倭姫命の御一行は、伊勢国の桑名野代宮に4年滞在した後、船で伊勢湾を南下し、鈴鹿国の奈其波志忍山宮へと向かいました。皇太神宮儀式帳には「河曲鈴鹿小山宮」、倭姫命世記には「鈴鹿国奈其波志忍山」と記載されており、その場所は伊勢湾岸から20kmほど内陸に入った、今日の亀山市布気町の鈴鹿川沿いに比定されています。古代では海岸線が現在よりも入り組んでいた可能性もあり、そこは鈴鹿川北岸の河岸でもあることから、御一行は奈其波志忍山宮まで船で到達したのでしょう。「河曲」という古代の名称からも、水運との関係がうかがえます。
奈其波志忍山宮の比定地として挙げられるのは、布気皇館太神社と忍山神社です。この2社は距離がさほど離れていないことから、布気町の忍山近郊に奈其波志忍山宮が存在したと考えられます。布気神社としても知られる布気皇館太神社は、ひっそりとした雰囲気の杉林に囲まれ、150mほどある長い参道の奥に大きな境内があります。神社誌によると、その本社が災害に遭遇した後、野尻村の皇館の森に遷幸されたと伝えられ、それゆえ、皇館神明とも呼ばれたのです。豊受皇太神御鎮座本紀には「伊勢国鈴鹿の神戸に御一宿」という記載があり、皇館という名称から、その外宮遷座に関わっていた可能性があります。
布気皇館太神社の祭神は、天照大御神、豊受大神、伊吹戸主神の三神です。伊吹戸主神は祓戸四神の一神として延喜式にも記載され、元伊勢御巡幸における重要な指標のひとつとなった伊吹山との繋がりが思い起こされます。また、布気皇館太神社の「ふけ」という名称自体、伊吹の「ぶけ」「ぶき」に由来している可能性があり、元伊勢との関連性が推測されます。
もうひとつの伝承地が、布気皇館太神社から東方へ0.8kmほど離れた小高い丘の上に佇む忍山神社です。日本武尊の妃の一人である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられています。由緒によると、皇大神の行宮である忍山神宮の旧跡が忍山神社です。祭神は猿田比古命と天照皇大神と伝えられ、そこに倭姫命が合祀されています。また、本殿に祀られている御神像は猿田彦命です。式内社調査報告によれば、「布気神社は現忍山神社である公算が強い」とされ、布気皇館太神社を論社とする説もあります。
忍山神社と布気皇館太神社は、その地名や由緒、合祀の背景からして、深い歴史的な関わりがあったと推測されます。さらに、両社は近距離に位置することから、ここでは奈其波志忍山宮のレイラインを検証する際、その比定地候補である2社を総称して「布気神社」と称することにします。
布気神社のレイライン
布気神社のレイラインは、5本の重要な線により構成されています。まず、古代聖地の中心とも言える淡路島にて、伊耶那岐命が葬られた伊弉諾神宮と、海人豪族の拠点であった香川の金刀比羅宮を結ぶレイラインが布気神社を通り、富士山頂北側にまで達している点に目を向けてみます。3社がほぼ同一線上に並び、富士山に結び付けられていることから、布気神社がこれらの古代聖地を指標として見出されたことがわかります。
そのレイラインに交差する線として、中甑島のヒラバイ山と高知の虚空蔵山、そして三輪山近郊の二上山を結ぶレイラインが存在します。ヒラバイ山は、イスラエルからの渡来者にとって極めて重要な古代の指標であり、ヘブライが訛った名称と考えられます。虚空蔵山は、元伊勢の時代、海人豪族の活躍によって全国各地に見出された海岸近くの山々のひとつであり、元伊勢の坂田宮も、高知の虚空蔵山を基点として伊吹山と同一線上に結び付いています。同様に布気神社も、ヒラバイ山、虚空蔵山、二上山、という3山を結ぶ一直線上に位置しています。このレイラインは四国剣山頂から2kmほど南に向かった地点を通り抜けていることから、これらの山々が布気神社とともに一直線上に並んでいることは、単なる偶然ではないように思われます。
また、他の元伊勢でもたびたびレイラインの指標として名前が挙げられる守屋山と室戸岬を結ぶと、その線も布気神社を通り抜けています。遠くからでも一目でわかるような大きな岬を指標として用いることにより、元伊勢の地を容易に探すことができるようにしたのではないでしょうか。さらには、伊雑宮と布気神社を結ぶと、日本海側では三方五湖の日本海沿岸にあたります。この線も、レイラインのひとつと捉えることができます。






