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2015/05/16

最終目的地の伊勢国に連なる御巡幸地と皇大神宮

布気皇館太神社

桑名野代宮(野志里神社)のレイライン

美濃国の伊久良河宮、宇波刀神社近郊を基点として始まった船旅は、尾張国の中嶋宮に短期間滞在した後、次の桑名野代宮に向けて、すぐに長良川を下ることになります。皇太神宮儀式帳によると、天照大神は伊久良河宮を旅立たれた直後、伊勢国の桑名野代宮に坐したと伝えられているとおり、伊勢国に向けて徐々に御一行の動きが早まってきたのです。そして倭姫命は遂に、元伊勢の最終段となる伊勢国に到達したのです。

野志里神社の石碑 伊勢神宮御旧跡野代の宮
野志里神社の石碑 伊勢神宮御旧跡野代の宮
伊勢国における最初の御巡幸地は桑名野代宮と呼ばれ、名称のとおり今日の桑名市に位置します。その比定地の筆頭として、長良川沿いに建立された野志里神社、通称「のしろさん」と呼ばれる式内社が挙げられています。延喜式、神名帳には一文字違いで「野志理神社」とも記載され、同一の神社と考えられます。現在の住所は多度町字下野代であり、「野代」という地名が残されてきたことからしても、伝承地としての可能性が高まります。また、「野志里」は一般的に「のしり」と読みますが、古韻による「里」の読みは「ろ」であることから、元来は「のしろ神社」と呼ばれていました。それ故、「のしろさん」という神社の通称も古くから広まったのでしょう。境内の入り口には、「伊勢神宮御旧跡野代の宮」と刻まれた石碑が建てられ、御祭神として天照大神が祀られています。

桑名野代宮のもう一つの比定地として、通称「若宮さん」と呼ばれてきた神館神社も挙げられています。神館神社では天照大神と豊受姫命が主神であり、倭姫命が配祀されています。大神宮本記帰正鈔の記述では神館神社の地が野代宮跡であるとされ、周辺一帯が神戸郷と呼ばれていたことから、伝承地である可能性が残されています。しかしながら、野志里神社には偶然とは言えないレイライン上の繋がりが複数存在し、他の御巡幸地と同類の聖地や地の指標が連なることから、桑名野代宮の比定地は野志里神社である可能性が極めて高いと考えられます。

野志里神社 境内入り口
野志里神社 境内入り口
野志里神社のレイラインは5本で構成されています。まず、四国の室戸岬と三輪山を結ぶ線が浮かび上がってきます。三輪山は元伊勢御巡幸の原点であり、そのレイラインが重要なことは言うまでもありません。その聖山と、レイラインの指標として頻繁に用いられてきた室戸岬を結ぶ線上に、野志里神社が存在します。古代の民は、よりわかりやすい場所に元伊勢を特定すべく、岬や聖山を指標として御巡幸地の場所を定めたのではないでしょうか。
  次に、虚空蔵山にも再度注目してみました。前述したとおり、虚空蔵山の背景には元伊勢の御巡幸において、その船旅を後押しした船木氏の存在があります。その結果、静岡の虚空蔵山が特定されただけでなく、西方では四国高知にも虚空蔵山が定められたのです。その虚空蔵山と剣山を結ぶと、同一線上に野志里神社が存在することがわかります。それは野志里神社が虚空蔵山と剣山に紐付けられて見出されたことを意味します。剣山は他の御巡幸地のレイラインでも共通の指標として用いられていることから、元伊勢の目的が剣山と何かしら深く絡んでいる可能性をレイラインの考察より知ることができます

野志里神社の本殿
野志里神社の本殿
3本目のレイラインは富士山と沖ノ島を指標として用いたものであり、2点を結ぶ線上に野志里神社が存在します。古代では、富士山頂の指標が今日の富士山火口の南側にあたる宝永山に近い位置にあることから、レイラインを検証する際には指標となる基点の位置に注意が必要です。4本目は、紀伊半島の最南端、紀伊大島と熊野速玉大社を結ぶレイラインであり、この線上にも野志里神社が存在します。
  5本目のレイラインは野志里神社と熱田神宮を結ぶ線であり、この2社はほぼ、同緯度に存在します。熱田神宮では元来、倭姫命が日本武尊に授けた草薙剣が祀られていました。元伊勢御巡幸直後の景行天皇の時代、日本武尊が亡くなられた際に、尊のお妃である宮簀媛が草薙剣を熱田神宮にて祀ったことがその起源です。熱田神宮は、野志里神社よりも後の時代に建立されていることから、むしろ野志里神社が指標となって熱田神宮の場所が特定された可能性も見えてきます。いずれにしても倭姫命と必然的に深い関係にある熱田神宮は、野志里神社と紐付けられていたと考えられます。

桑名野代宮のレイライン
桑名野代宮のレイライン

奈其波志忍山宮のレイライン

伊勢国の桑名野代宮に4年滞在した後、倭姫命の御一行は船で伊勢湾を南下し、鈴鹿国の奈其波志忍山宮へと向かいました。皇太神宮儀式帳には「河曲鈴鹿小山宮」、倭姫命世記には「鈴鹿国奈其波志忍山」とも記載されており、その場所は伊勢湾岸から20kmほど内陸に入った今日の亀山市布気町の鈴鹿川沿いに比定されています。古代では海岸線が現在よりも入り組んでいた可能性もあり、そこは鈴鹿川北岸の河岸でもあることから、御一行は奈其波志忍山宮まで船で到達したことでしょう。「河曲」と言う古代の名称からは大きく曲がる川が想定され、今日でも鈴鹿川は亀山市を基点に大きくうねっていることから、その川沿いに奈其波志忍山宮が建立されたのです。

布気皇館太神社の参道
布気皇館太神社の参道
奈其波志忍山宮の比定地としては、布気皇館太神社と忍山神社が挙げられています。この2社は距離がさほど離れていないことから、布気町の忍山近郊に奈其波志忍山宮が存在したに違いありません。布気神社としても知られる布気皇館太神社は、ひっそりとした雰囲気の杉林に囲まれ、150mほどある長い参道の奥に大きな境内があります。神社誌によると、その本社が災害に遭遇した後、野尻村の皇館の森に遷幸されたと伝えられ、それ故、皇館神明とも呼ばれたのです。豊受皇太神御鎮座本紀伊には「伊勢国鈴鹿の神戸に御一宿」という記載があり、皇館という名称から、その外宮遷座に関わっていた可能性が考えられます。

布気皇館太神社 本殿
布気皇館太神社 本殿
布気皇館太神社の祭神は天照大御神、豊受大神、伊吹戸主神の三神です。伊吹戸主神は祓戸四神の一神として延喜式にも記載され、元伊勢御巡幸における大切な指標の一つとなった伊吹山との繋がりが思い起こされます。布気神社の「ふけ」という名称自体、伊吹の「ぶけ」「ぶき」に由来すると考えられ、元伊勢との関連性が推測されます。

もう一つの伝承地が、布気皇館太神社から東方へ0.8kmほど離れた小高い丘の上に佇む忍山神社です。日本武尊の妃の一人である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられています。由緒によると、皇大神の行宮である忍山神宮の旧跡が忍山神社です。式内社 忍山神社の境内
式内社 忍山神社の境内
祭神は猿田比古命と天照皇大神と伝えられ、そこに倭姫命が合祀されています。また、本殿に祀られている御神像は猿田彦命です。式内社調査報告によれば、「布気神社は現忍山神社である公算が強い」とされ、布気皇館太神社を論社とする説もあります。
  忍山神社と布気皇館太神社は、その地名や由緒、合祀の背景からして、深い歴史的な関わりがあったと推測され、なおかつ近距離にあることから、ここでは奈其波志忍山宮のレイラインを検証する際に、その比定地候補である2社を総じて「布気神社」と称することにします。
  布気神社のレイラインは5本の重要な線により構成されています。まず、古代聖地の中心ともいえる淡路島にて、伊耶那岐命が葬られた伊弉諾神宮と、海人豪族の拠点であった香川の金刀比羅宮を結ぶレイラインが布気神社を通り、富士山頂北側にまで達していることに注目です。3社がぴたりと同一線上に並び、富士山に紐付けられていることから、布気神社がこれら古代聖地を指標として見出されたことがわかります。

そのレイラインに交差する線として、中甑島のヒラバイ山と高知の虚空蔵山、そして三輪山近郊の二上山を結ぶレイラインが存在します。ヒラバイ山はイスラエルからの渡来者にとって極めて重要な古代の指標であり、ヘブライが訛った名称と考えられます。虚空蔵山は元伊勢の時代、海人豪族の活躍によって全国各地に見出された海岸近くの山々の一つであり、元伊勢の坂田宮も高知の虚空蔵山を指標として伊吹山と同一線上に結び付いています。同様に布気神社も、ヒラバイ山、虚空蔵山、二上山、という三山を結ぶ一直線上に存在します。このレイラインは四国剣山頂から2kmほど南に向かった地点を通り抜けていることから、これらの山々が布気神社と共に一直線上に並んでいることは、単なる偶然ではないようです。

また、他の元伊勢でも度々、レイラインの指標として名前が挙げられる守屋山と室戸岬を結ぶと、その線も布気神社を通り抜けています。遠くからでも一目でわかるような大きな岬を指標として用いることにより、元伊勢の地を容易に探すことができるようにしたのではないでしょうか。更には伊雑宮と布気神社を結ぶと、日本海側においては三方五湖の日本海沿岸にあたります。この線も、レイラインの一つと考えられます。

奈其波志忍山宮のレイライン
奈其波志忍山宮のレイライン
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