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2022/11/26

若杉山遺跡の歴史的背景 日本最大の古代辰砂工場が徳島県に存在する意味

若杉山遺跡の積石段
若杉山遺跡の積石段

若杉山遺跡とは

国の重要文化財となる若杉山遺跡

史跡 若杉山遺跡
史跡 若杉山遺跡
2022年11月18日、国の文化審議会により、徳島県の若杉山遺跡で発掘された400点を超える石臼と石杵のうち、保存状態の良い124点が国の重要文化財に指定されるべく答申されました。若杉山辰砂採掘遺跡より発掘された石臼と石杵が1世紀から3世紀にかけて作られたものであり、弥生時代後期から古墳時代初頭の遺物に該当することが改めて確認されました。

古代社会において、鮮やかな赤色顔料は極めて重要な加工資源でした。特に水銀朱は祭祀活動で用いられた土器や石器、木製品に用いられただけでなく、古墳に埋葬する死者にふりかけたり、石室の壁面を塗ったりすることにも使われました。また、船底に塗装することにより、優れた防水効果があったことから、海洋豪族には特に重宝された資源だったのです。その水銀朱を掘削する最も大きな古代の工場が、徳島県の若杉山遺跡だったのです。

そこで発掘された臼は、岩石を砕き、それを粉末になるまですりつぶす役目を果たしていたと考えられています。そして石杵を用いて砕かれ、粉末になった辰砂は水に沈められ、早く沈む辰砂を素早く取り分けることにより、不純物が取り除かれていきます。それから水銀朱に精製されていったと推測されます。

日本国内において、古代最大級の辰砂工場が徳島に存在し、そこで水銀と硫黄の化合物である辰砂が加工され、赤色顔料が精錬されていたのです。水銀朱精製を行うための道具として石臼と石杵が加工され、生産工程において用いられていたことは注目に値します。よって文化審議会は、「同時代の生産実態を示し、学術的価値が高い」と評価し、若杉山遺跡の石器が重要文化財になることが決まったのです。

日本最古の大規模な坑道、若杉山遺跡

徳島県の山奥にある若杉山遺跡(阿南市水井町)は、既に2019年頃からNHKニュースや各種メディアで取り上げられて話題になっていました。若杉山遺跡から赤色顔料である水銀朱の原料、辰砂が採掘されただけでなく、出土した土器片は1~3世紀のものと確認され、奈良時代8世紀の長登銅山跡(山口県美祢市)が国内最古の坑道というこれまでの定説が覆されることになったからです。

若杉山遺跡には人工の坑道跡が複数存在し、大規模な辰砂工場であったことも分かってきました。その広さは7500平方kmから約1万平方kmと推定されています。山口県の長登銅山にて発掘が行われていた奈良時代からさらに5世紀も遡った1~3世紀に、大きな辰砂の坑道が徳島で掘られていたのです。それ故、阿南市と徳島県教育委員会はプレスリリースを通じて、若杉山遺跡が大規模かつ、日本最古の坑道である可能性が高いことを公表しました。

水銀鉱山の一角にある若杉山遺跡

若杉山遺跡の位置

太龍寺へ続く四国の道
太龍寺へ続く四国の道
若杉山遺跡は徳島県の小松島市と阿南市の中央を流れる一級河川、那賀川の中流域に存在します。徳島県の山奥に四国霊場二十一番札所の太龍寺近くまで20kmほど上り、阿南市加茂谷地域に入ると、若杉谷川と呼ばれる支流へ分岐します。その川沿いに設けられた「四国の道」と称される遍路に沿って太龍寺を目指し、南方に1km少々歩くと、若杉山の山腹に立てられた若杉山遺跡の看板と休憩所が目に入ります。その背後に流れる小川を渡り、山の斜面を登ると、突如として段々畑が見えてきます。そこが若杉山遺跡です。その標高140~280mほどの山間部の斜面に、古代の辰砂工場が広がっていたのです。

若杉山遺跡の地勢

若杉山遺跡の大きさは、幅が約50m、山の谷から上方に向けての長さは約150mです。若杉山は石灰岩層が急傾斜をなしており、岩石が随所に露頭しています。その斜面には階段層の段々畑が作られ、おびただしい量の石灰砕石が階段層の壁面にきれいに積まれています。段々畑の平面には80年代の遺跡調査が終了した後、杉が植林され、今日ではそれら杉の木が大きく育ち、立ち並んでいます。若杉山遺跡のエリアは、その段々畑から上部に露頭する巨石や石灰岩の岩場を含んでいます。実際の遺跡調査は、その段々畑の地面下を掘削して行われただけでなく、昨今の調査においては段々畑上部にある岩場の掘削口から坑道内へと発掘調査が進み、その広さや出入口の繋がりが、より明確にわかってきました。

水銀鉱山の一角にある若杉山遺跡

遺跡の周辺一帯は全国でも有数の水銀鉱脈である水井水銀鉱山がある場所として知られています。その一角にある若杉山遺跡は、小さな谷間が入り組む谷底に近い山腹の斜面にあり、土壌の堆積が比較的少ないことから、石灰岩が随所に露出しています。それら石灰岩やチャートの割れ目には冷やされて固まった辰砂が存在し、水銀鉱床を形成していたのです。

辰砂を含む岩盤は東西に広がっています。そして若杉山遺跡から東北東に1kmほどの場所には由岐水銀鉱山があり、北方約800mには水銀の採取場として知られている中野遺跡も存在します。これら辰砂採取場の位置付けや規模からして、古代、掘削現場の中心的存在が若杉山遺跡だったことが想定されます。その歴史は弥生時代後期まで遡り、地域周辺に存在する複数の遺跡からも、同時期に作られたものと考えられる土器片や銅鐸、石斧などが、これまで多数発掘されています。

段々みかん畑に潜む若杉山の不思議

若杉山遺跡石積み段々畑の真相

きれいに埋め戻された段々畑
きれいに埋め戻された段々畑
若杉山遺跡に足を入れるとすぐに際立つのが、きれいに石積みされた巨大な段々畑の存在です。戦後、山の斜面にはミカンが植えられ、収穫されていました。しかしながら1980年代に入ると、ミカンの木を伐採して段々畑に杉や檜の植栽をすることが計画されたことから、その前段として、長年にわたって足踏みしてきた遺跡調査が、1984年より急速な展開を遂げることになります。そして3年にわたる遺跡調査が行われ、終了した80年代後半には土壌が埋め戻されました。そこに杉の植林が行われ、段々畑と杉林が混在するような様相となりました。今日、若杉山遺跡は、辰砂工場であった古代の様相とは、かけ離れた姿になっています。

段々畑に似合わない元祖若杉山の形状

若杉山遺跡旧地形推定復原Y軸断面図
若杉山遺跡旧地形推定復原Y軸断面図
若杉山の段々畑の地形は、戦後、山の斜面が削られて改変されたものではないかと考えられています。しかしながら、人が足を踏み入れがたい山奥の中、急斜面は45度を超える箇所も多々存在し、周辺には石灰岩の岩盤が地表から岩肌を露出しているような場所で、果たして段々畑を造成するか疑問です。急斜面と岩盤が際立つ地勢だけに、開墾が困難な場所が随所に散見されるだけでなく、遺跡調査時には周辺一帯から無数の破砕礫岩(はさいれきがん)が出土し、激しい土石流の痕跡も確認されています。

よって、たとえ戦後であっても、若杉山のような急斜面にてわざわざ山を切り崩し、ミカン植栽用の段々畑を造成したと考えるには無理があるかるもしれません。今日では地域周辺にミカン畑はあるものの、若杉山遺跡周辺においては、段々畑に適していた地のりであったとは言い難いでしょう。

辰砂採掘のための段々畑か?

石灰岩の岩肌が露出する急斜面
石灰岩の岩肌が露出する急斜面
若杉山の急斜面にある段々上の地形は、もしかすると古代、辰砂の採掘を行う際に、さまざまな作業を安全にこなすために造成された作業場跡を活用したものかもしれません。山の斜面に作られた古代の辰砂採掘の工場であったが故に、急斜面であっても人が作業しやすくするため、人工の平面が随所につくられたはずです。その作業場跡を活用して、戦後、段々畑が造成されるきっかけになったと想定されます。

若杉山遺跡の周辺には水銀鉱床を形成する地層が存在し、遺跡の東北東およそ1kmには江戸時代から掘削されていた日本有数の由岐水銀鉱山もあります。よって、辰砂の存在を知った古代の民は、採掘口から辰砂を取り出すための生産用具を加工し、露頭を削って辰砂を取り出す作業に必要な足場を確保しながら、若杉山の急斜面に平坦な場所を設けたことでしょう。

若杉山遺跡の発掘調査からは、少なくとも2か所の平坦面が確認されています。それら山の斜面に造成された作業場跡は大自然の中に後世まで温存され、それら平坦面に倣って戦後、段々畑が整備され、ミカンが植栽されたと推測されます。

若杉山遺跡調査の歴史

人骨の発見から始まる若杉山遺跡調査

高く積み上げられた石垣
高く積み上げられた石垣
若杉山遺跡は1954年頃、地元住民が周辺の山を開墾した際、偶然に石窟と人骨が発見されたことから世間に知られるようになりました。そこから出土した石臼と石杵(いしきね)については、「発火用に用いたり掘り出した辰砂を粉末にするために用いたものらしい」と、「加茂谷村誌」に発表されました。その2年後、水銀鉱床に関する地質調査が徳島県産業技術振興会によって行われ、辰砂のついた石灰岩が散在することが、「四国鉱山誌」に掲載されたのです。

1962年には徳島県による遺跡調査が始まり、多くの土器、壺の破片、人骨が出土し、「石灰岩の留積と混ざりて水銀鉱(辰砂)の破片が出土している」と報告されています。その際、近隣には古くから太龍寺が存在するものの、何の目印もない森林の一角となる若杉山まで山を登る必要性があったのか、という問題提起もされています。

一方、早稲田大学の松田博士による「丹生の研究」においては、若杉山のそばを流れる那珂川の上流域に残されている、「仁宇」「小仁宇」「丹生谷」の地名が、辰砂の生産に絡んでいる可能性が極めて高いことが指摘され、それらの地名と若杉山遺跡の関連性がさらに追及されることになります。

調査結果は日本古代辰砂工場跡

1967年には早稲田大学の学生であった岡本氏による若杉山の遺跡調査が中学校の生徒らとともに行われ、多くの石臼と石杵がセットで周辺に埋没していることが確認されました。その後、これら発掘された遺物の多くは辰砂砕石用の石器ではないかという想定に基づき、同大学の市毛勲氏により遺跡の調査が開始されます。

その後、多くの石臼と石杵とともに土器などが改めて出土し、採掘された遺物の年代を調べたところ、弥生時代末期から古墳時代初期の所産であるという見解が示されました。その結果、1969年に市毛氏は、「朱の起源、日本古代辰砂工場跡見つかる」と、日経新聞に寄稿したのです。そして「古墳時代の辰砂採掘砕石址-徳島県阿南市若杉山遺跡のこと」、と題した論文が「考古学ジャーナル」に発表され、さらに遺跡調査の詳細は「朱の考古学」という文献にまとめられました。

これら一連の遺跡調査の結果、若杉山遺跡は「唯一の古墳時代の辰砂採掘砕石遺跡」として紹介されるようになり、阿南市史跡に指定されることとなります。

若杉山遺跡は辰砂生産遺構

段々の層を上るための石の階段
段々の層を上るための石の階段
1984年、徳島県博物館は徳島考古学研究グループや阿南市教育委員会の協力を得ながら、「生産遺跡の調査」として、若杉山遺跡の第1次調査を開始します。当初の目的は遺跡の性格を把握するための試掘調査でした。結果、明確な遺構は確認できなかったものの、石臼や石杵(いしきね)、壺、甕(かめ)、高杯(たかつき)などの土器が多量に出土し、土器片においては破片数が2000点を超え、それらの多くが弥生時代後期のものと推定されました。

また、辰砂原石と同じ層からシカの歯と顎骨も集中して出土し、イノシシの角や牙、骨なども発掘されました。食用とも考えられましたが、燔祭の儀式に動物が用いられた可能性も否定できません。これら多くの出土した遺物を検証した結果、若杉山遺跡は古墳時代初頭にかけての辰砂生産遺構であることが判明したという報告書が正式にあげられたのです。

3年にわたる4回の若杉山遺跡発掘調査

急斜面の岩場が続く若杉山遺跡
急斜面の岩場が続く若杉山遺跡
1985年には文化庁の国庫補助金の受領が確定し、3か年計画に基づく本格的な遺跡の発掘調査が徳島県立博物館により始められることとなります。辰砂採掘砕石遺跡の調査は全国でも初めてのケースであり、3年間にわたる調査が第1次と合わせて4次まで実施されることになったのです。

第2次調査では調査するエリアが広げられた結果、遺構面が発見され、それらはほぼ水平に作られていたことから、山の急斜面がL字状に掘られ、平坦な面が造られたと想定されました。また、遺物の中には石杵や辰砂原石だけでなく、再び獣骨や土器などが多数見出され、完形品の土器も出土したのです。また、辰砂の採掘跡と考えられる岩盤の掘り込みや、土壙などの遺構も検出されたことから、当時の生活面での様相を幾分、垣間見ることができるようになったことも注目されました。

第3次調査では土層の堆積状況を確認しながら、土壙の広がりなどが確認されました。作業場と想定される土壙が5基検出されただけでなく、中には石臼が据えられた状態で発掘されたものもありました。その他、多くの石杵だけでなく、勾玉などの遺物も発掘されました。また、石灰岩が積み上げられた形跡からは、それらが辰砂掘削時の残がいであり、そこに辰砂精製の作業場があったことも確認できました。豊富な遺物の出土と共に勾玉も発掘されたことから、若杉山遺跡はまさに辰砂生産集団の遺作であり、その規模は当初の想定よりもかなり大きいことがわかってきたのです。

最終の第4次調査では、複数の遺構が調査され、それらの繋がりから、辰砂が掘削された当時、標高の高いエリアでも辰砂が採掘されていたことが判明しました。前段の調査と同様に、土器や獣骨、貝殻などが多数出土しています。また、辰砂原石に限らず、第4次調査では鉄器や骨角器、そして炭化材も出土したのです。

様々な形に切られた石が積まれた石垣
様々な形に切られた石が積まれた石垣
4次にわたる遺跡調査は1987年に終了しました。遺跡調査の結果を統合すると、出土した遺物は石臼が40点、石杵は358点にものぼります。また、土器においては壺、甕、高坏、鉢など、生活に関わるものがそろって出土し、多くの人が若杉山周辺を生活の拠点としていたことが窺えます。ただし、多数の土器が出土しているのに、鍬や農工具の出土は全くなく、また、遺構においても住居跡は見つかりませんでした。おそらく当時の人々は、若杉山周辺でも地の利の良い場所に住居を構えたのではないでしょうか。いずれにしても、これらの調査結果から、若杉山遺跡は全国最古の水銀朱生産遺構という発表に結び付いたのです。

辰砂生産遺跡の調査(1997年)

現在工事中の掘削現場
現在工事中の掘削現場
1997年には「辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡-」という調査報告が発表され、遺跡から出土した水銀朱精製用の石器類などについて、詳細が記録されています。若杉山遺跡からは辰砂に限らず、辰砂の精製に使用する石杵(いしきね)だけでも40点以上、石臼(いしうす)については300点以上、その他、石器や勾玉なども多く出土しています。全国的に見ても辰砂を採掘する遺跡としては、前例のない大規模な遺構が徳島県に存在していたことが、改めて確認されました。

定説を覆した2017~2019年の遺跡調査

発掘調査中の坑道跡
発掘調査中の坑道跡
その20年後、2017年に始まった遺跡調査では、標高245mの若杉山の山腹にある岩場から、坑道跡と思われる横穴が存在することが確認されました。若杉山遺跡の坑道は、高さ0.7~1.2m、幅は最も広い箇所で3mほど、そして長さはおよそ13mもあります。その結果、弥生時代では地表から掘削しながら辰砂を掘り当てていたという従来の定説が覆されることになったのです。既に弥生時代では、硬い岩盤をトンネル状に坑道を掘り、辰砂を採掘するという高度な技術が進み、徳島県の那賀川上流から辰砂が掘削されていたことが確認されました。

その後も遺跡調査は継続して行われ、2019年2月、この坑道の入り口からおよそ3mの場所から出土した土器片数十点のうち、少なくとも5点については弥生時代後期、1~3世紀頃のものであることが特定されたのです。また、石杵や石臼などの石器も多数、発掘されてきたことから、辰砂を用いて顔料に加工する作業も若杉山遺跡で行われていた可能性が高いと推測されるようになりました。

参考文献

  • 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
  • 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
  • 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月

参考サイト

コメント
  1. Jack より:

    大和民族より以前に日本・出雲に住み着いたドラビダ族はインドからバイカル湖・アムール川を経て樺太ー津軽から船で出雲に渡来した、これも製鉄法(たたら式)にたけていた彼らが奥出雲に砂鉄を求めての結果、とある投稿で読みました。徳島の辰砂・水銀朱もそれに似た話で面白いですね。1~3世紀頃とありますが、どういう人達なんでしょう?

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