陸行30日のスタート地点は八倉比賣神社
「魏志倭人伝」には、投馬国から10日間の水行と30日間の陸行を経て、邪馬台国へ到達すると記されています。中国史書に綴られている記録から浮かび上がってくる邪馬台国のイメージは秘境の地に栄えた国家でした。邪馬台国が厳しい山岳地帯の地勢に囲まれた山上周辺に広がっていたと想定すると、徒歩で1か月かかるという史書の記述が現実のものとして浮かび上がってきます。平坦な道ならば1,000㎞を超えて進める距離ですが、急斜面が続く険しい山道では状況は一変します。四国でも徳島県側の厳しい山岳地勢を前提に考えると、数十キロ進むのに1か月の時間がかかっても不思議ではありません。
そのような山岳地帯の奥地に存在した国家と推測されるだけに、そこに向かう旅人らは安全かつ、最短の日数で移動できるルートを厳選したはずです。よって、投馬国から来る船がどの地域の波止場で停泊し、1か月にわたる陸路の旅をスタートするかが邪馬台国への道を見極める鍵となります。投馬国の比定地を四国の讃岐平野、今日の高松周辺とすれば、史書の記録のとおりに船で南下すると、吉野川の河口に到達します。そこから吉野川の支流に向けて船を進め、上流の川沿いに上陸した後、四国の山奥まで歩くルートを辿ることになります。
四国上陸の最終地点と考えられる港のそばに、卑弥呼の伝承が残る八倉比賣神社が建立されていることは注目に値します。古代では神社のある小高い丘まで入り江が食い込んでいたため、八倉比賣神社は海岸に面していました。そして神社沿いを流れる吉野川支流の鮎喰川から上流に向けて、何百もの「おふなとさん」と呼ばれる祠が建てられています。これらは多くの船が川を上って八倉比賣神社の界隈まで渡航してきた証と考えられます。周辺地域に建てられた「おふなとさん」は古代、旅人が邪馬台国へ向かう際、八倉比賣神社近くの波止場まで鮎喰川を船で上り、その上流から四国山上を目指して陸路を進んだ史実を示唆しているようです。
四国山上を目指す最短の陸路
実際、邪馬台国を目指した民は、どのようなルートを辿り、1か月という長い期間をかけて四国の東岸から山岳地帯へと向かったのでしょうか。投馬国を讃岐平野と想定すると、瀬戸内海に面する港から船に乗って四国の東岸、吉野川の河口へと進み、その支流となる鮎喰川上流沿いの八倉比賣神社付近まで向かい、近くの波止場で下船する航海路が見えてきます。そこから川沿いに山道を進むと、今日の神山町に至ります。交通の要所であり、水源にも恵まれている神山町は今では大きな町に発展しています。神山町周辺が古くから神領と呼ばれているのは、そこから先は神の領域に入ると意識されていた時代があったからと推測されます。
神山町から先は四国山上、徳島の山岳地帯にあると想定される邪馬台国に向かって西方に進みます。その山道のはじめは、今日の県道438号に沿うような東西に長く続くルートであったと考えられます。西方に聳え立つ徳島最高峰の剣山までは、直線距離で28㎞、今日の自動車道を行けば50㎞ほどです。しかしながら神山町から徒歩で進む場合は、山岳地帯の麓に近づくにつれて勾配が急になり、いったん山岳地帯に入ると多くの断崖に囲まれ、歩行に支障をきたす難所が随所に存在します。それ故、幾度となく迂回を繰り返しながら進む必要があったのです。高低差も1700mに及び、実際の歩行距離は数百キロ㎞とも言えるほどの厳しい山道になります。よって、1か月という長期間の旅が現実味を帯びてきます。こうして長い山道を西方に向かって進み続けると、やがて剣山周辺の麓に辿り着きます。
一見して人が寄り付きづらい四国山地の中でも急斜面が続く徳島の山岳地帯ですが、そんな山奥の中で女王卑弥呼は、何かしら神聖な要素を秘める霊峰を見出したのではないでしょうか。人里離れた山地だからこそ、卑弥呼は思いのままにそこで祭祀活動を執り行い、霊力を研ぎ澄ますことができたのです。そして剣山の頂点にて神を祀り、自らの祈りの場としつつ、その周辺地域に集落を築いたと考えられます。そして卑弥呼の霊力を慕う人々が続々と地域に結集し、瞬く間にそのエリアは聖地化され、大きな国家へと成長したと想定すると、中国史書に記載されている歴史の流れに繋がります。
徳島の山岳地域を取り囲む断崖絶壁
四国山上の中でも、徳島の山岳地帯は壮大なスケールの峡谷を誇示しています。一旦、川沿いを離れて山中に入ると、突如として歩行するのも危険な急斜面ばかりの山々が続き、傾斜が45度を超える場所も少なくありません。そして人が上り下りすることができない断崖や絶壁が旅人の行く道を阻むのです。それ故、急斜面では山中を横切って進む山道を見出す必要があり、ジグザグに大きく迂回しながら山を登ることを強いられます。こうしてとてつもなく長い時間、荷物を背負いながら登山するため、邪馬台国へ到達するには30日間という長い日数、陸路を歩まなければならないのです。山岳地帯の絶壁に囲まれた急斜面の光景は、今日でも国道438号線から一目で見渡すことができます。
人里離れた徳島の山岳地帯を歩む山道については、今日、四国八十八ヶ所霊場の遍路みちからも垣間見ることができます。例えば第11番札所藤井寺から第12番札所焼山寺までは、往古の遍路みちの有様を留める急勾配の狭い山道が続き、頑強な足腰がなければ歩き抜くことができない難関として有名です。藤井寺がある北方の吉野川界隈から剣山に向けて登る山道は、四国東方からの山道よりも距離が短いために急斜面が多く、川沿いを通る場合でも絶壁に直面する箇所があります。直線距離では8km少々しかないエリアでも、実際には標高40mの藤井寺から山を2つ越えて標高700m近くの焼山寺までの標高差を登り詰めなければならないのです。急斜面を伴う山道の歩行距離は実際には2倍以上になることもあり、丸1日歩き続けるお遍路さんは少なくありません。どうりで冬の遍路みちを第12番札所に向かったお遍路さんらは、昔から死を覚悟していたと言われた訳です。途中で怪我をしたり力尽きたりしてしまえば、それが命取りとなって山で命を落とすことを意味していたのです。よって白い衣を身に纏い、いつ死んでも良いという信念を持って遍路に臨んだ訳です。
これら急勾配が多い焼山寺までの山道でさえも、その後に続くさらに厳しい山道の始まりにしかすぎません。焼山寺山の中腹700mの地点に焼山寺は造営されています。焼山寺山の標高は938mであり、その南側には倍の標高を誇る徳島の山々が聳え立ちます。南西方向には、かつて人を寄せ付けない険峻な山として知られた1,495mの雲早山があります。西側の釜谷峡を越えると、ほとんど人が足を踏み入れることのない深い原生林に囲まれた1,627mの高城山が続きます。そこからさらに尾根伝いを西方向に進むと1,955mの剣山に至ります。霊峰に向かって進むために、ひたすら断崖絶壁を踏破してでも山道を登り続けた古代の民だったからこそ、船を下りてから邪馬台国へ到達するまで、1か月という長い期間を要したのではないでしょうか。その陸路を辿っていけば、邪馬台国の場所が見えてきます。
邪馬台国の場所はいずこに
では、陸路を1か月歩いて到達するという邪馬台国は、四国山上のどの辺りに存在したのでしょうか。今日、その比定地を想定することは容易ではありません。しかしながら、史書の記述に従って、邪馬台国への道を一歩ずつ辿って行くと、その選択肢が限られてきます。吉野川から八倉比賣神社界隈を経由し、鮎喰川の上流から山道を登るルートを前提に想定すると、当然のことながら行先は西方に位置する四国山上しか考えられません。つまり邪馬台国は、徳島の山岳地帯のどこかに存在した可能性が高いという結論に導かれるのです。
邪馬台国が滅亡してから既に1800年近くの年月を経ており、周囲の自然環境も大きく変わった可能性があります。果たして邪馬台国の比定地を特定することができるのでしょうか。そのエリアを見極めるための大切な要素は、以下にまとめられます。
1. 豊富な水源があること
大規模な集落と古代国家を形成するためには、地域全体に十分な水源が必要になります。徳島の最高峰、剣山の山頂界隈からは東西南北に向けて、いくつもの川が流れています。これらの川は、地域に住む人々の貴重な生活用水を提供する水資源となります。よって山岳地帯であっても、剣山の麓から流れる川の上流や源流の界隈には、人が居住できる集落を造成することができたのです。これらの川の存在が、邪馬台国の比定地を見出すヒントになります。剣山の周辺から流れ出る川は、以下のとおりです。
■剣山東側
鮎喰川 剣山の東麓から流れ、神山町から八倉比賣神社沿いを経て吉野川に合流する。
那賀川 剣山南麓に源流があり、那賀市・阿南市を経由して太平洋に注ぐ。
坂州木頭川 剣山東麓の槍戸山を源流とし、木頭にて那賀川に合流する。
■剣山西側
吉野川 剣山の西方、石鎚山の麓近くの源流から紀伊水道に面するデルタに注がれる。
祖谷川 祖谷渓とも呼ばれ、剣山山頂近くの源流の谷から祖谷を通って吉野川に合流する。
■剣山北側
貞光川 剣山麓の北側、見ノ越を源流とし、北方に向かって流れ、美馬市で吉野川に合流する。
穴吹川 剣山山頂の北側を源流とし、北東方向に流れ、美馬市穴吹で吉野川に合流する。
■剣山南側
物部川 剣山の南西を源流とし、南西方向に流れ、高知市を通って太平洋に注ぐ。
上韮生川 剣山から南西方向に流れる物部川と並行して流れ、物部川に合流する。
これらの川の上流は、ほとんどが剣山の頂上近くにまで至り、頂上から3㎞圏内に位置しています。そして頂上から半径10㎞ほどの地域には、今日でも多くの人々が居住しているうえに、多くの由緒ある神社が存在します。剣山の北東を流れる穴吹川の川沿いには劔山本宮劔神社、劒山本宮槇渕神社や川上神社、瀧宮神社が建立され、木屋平の村落へと続きます。東方には坂州木頭川が流れ、剣山の頂上から7㎞の地点に八幡神社が建立されています。また、剣山の北側を流れる貞光川沿いには天磐戸神社や八坂神社などが建立されています。
西方に目を向けると、祖谷渓とも呼ばれる祖谷川に沿って奥祖谷の村落が存在します。周辺地域は秘境として位置づけられ、古代から山岳信仰の修行の地として知られています。つまり古くは奥祖谷から剣山、三嶺などの霊峰へと山伏たちが修行に向かったのです。今日、奥祖谷は観光地としても知られ、奥祖谷二重かずら橋などが有名です。周辺の地域には明治時代まで牧場があったことが伝えられています。
これらの状況を垣間見るだけでも、剣山の頂上周辺は、人間が居住できる自然の環境が整っていたことがわかります。たとえ標高が1700~1900mと高くても、地域一帯には多くの川が流れ、豊かな水源を有していました。そして良好な地勢に恵まれた場所が川沿いの随所に存在したことから、古代でも村落が造られ、人々が居住していた場所が少なくなかったと考えられます。
2. 20~30万の人口を有する広大なエリア
「魏志倭人伝」によると、古代、邪馬台国には7万戸の家が立ち並んでいました。当時、地域の人口は少なくとも20~30万人になっていたと想定されます。よって邪馬台国の比定地とは、それだけの家屋と人口を有することができる広大なエリアとなります。
邪馬台国へ向かうルートの途中、最後に停泊する投馬国は5万戸を有する小国家でした。その場所を讃岐平野と比定すると、平地部分だけで広さはおよそ400~500平方キロメートルになります。例えば邪馬台国の中心地を剣山と考えるならば、半径11.3㎞のエリアは400平方キロメートルと同等の面積になります。半径12.6㎞のエリアでは、500平方キロメートルを網羅することができます。邪馬台国は投馬国よりも2万戸多い7万戸を有する国家であることから、投馬国より広い700平方キロメートルも想定の範疇に入り、その場合は半径14.9㎞となります。

剣山の頂上から半径12~15㎞のエリアを見渡すと、まず、西方向には祖谷川沿いに多くの奥祖谷の村落が存在し、その先には観光地として有名になった落合集落や、八幡栗枝渡神社があります。剣山の北方には貞光川沿いに、天磐戸神社、五色神社、八坂神社など、多くの神社が建立され、川沿いの山麓には「赤松の天空集落」と呼ばれる居住地も存在します。その村落からは、南方遠くに塔ノ丸を望むことができます。北東方向には穴吹川沿いに瀧宮神社が建立され、磐座を祀る白龍明神が川沿いにあります。周辺の木屋平には今日、多くの住民が暮らしています。山頂から東の方向に7㎞ほど行くと八幡神社があり、坂州木頭川沿いをさらに進むと、県道193号との合流地点には村落が広がり、八幡神社が建立されています。剣山の南方にある木頭地区にも同じく八幡神社が建てられています。そして南西方向には山頂から10㎞ほど離れた所に物部氏の村落があり、そこから物部川沿いの下流に向けて物部村落が20㎞ほど広がっています。
邪馬台国の人口は投馬国より多かったことから、その領域は少なくとも半径15㎞程度までは広がりを見せていた想定されます。剣山を中心とする半径15㎞の地域だけでも多くの神社や村落が存在し、古代より人々居住できる環境が整っていたと推測されます。こうして剣山を中心とするエリアを地図にプロットして検証すると、邪馬台国が存在した可能性のある地域が浮かび上がってくるようです。この円形エリアはあくまで目安であり、比定地を検討するための指標として有効です。

3.四国の東岸からアクセスしやすい山岳地帯
邪馬台国へ向かった古代の旅人は、九州から瀬戸内海を経由して投馬国の比定地となる讃岐平野に到達し、さらに四国の東岸に向かったと推測されます。そして吉野川河口から支流に入った後、1か月かけて陸路を進み、目的地となる邪馬台国に到達したと想定されます。つまり四国東岸からは、ひたすら西方の山岳地帯に向かって進んだのです。すると目の前には徳島の山々だけでなく、背後には剣山が聳え立っています。この徳島の山岳地帯の山奥や、周辺地域のどこかに邪馬台国が存在した可能性があります。
まず、邪馬台国の場所は、剣山を越えてさらに遠く西側の地域にまで至ることはなく、また、剣山の北方でもないと考えられます。もし、剣山から数十キロ離れた西方や北方に存在したとするなら、讃岐平野の最西端、琴平町にある金刀比羅宮の沿岸近くから上陸し、西側からアクセスした方が早く到着してしまうからです。その場合、今日の国道438号沿いを南に向かって山を越えて、吉野川沿いのつるぎ町から剣山に登ることになります。ただし金刀比羅宮から吉野川への山越えは、標高800m近くある峠を通らなければなりません。しかも吉野川に到達した後、2㎞近くある河川幅を舟で渡る必要があります。そして川を渡った後、つるぎ町から南方の剣山に向かうルートは断崖絶壁が多く立ちはだかるだけに、幾度もの迂回を強いられます。よって、距離が短いからと言っても、剣山へのルートが厳しいことに変わりありません。
これらを考慮すると、邪馬台国が存在した可能性があるエリアとは、その西側と西北側の境界が剣山とほぼ同等の標高を誇る三嶺の北側に位置する奥祖谷周辺になると考えられます。つまり、奥祖谷までならば、四国東岸に注がれる吉野川から鮎喰川を途中まで船で上り、上陸して山道を1か月歩いた方が、早く安全に目的地に到達できるのです。それは、最終港に上陸してから30日歩く、という記録に準じた邪馬台国への道のりとなります。
一方、剣山の南西方向にある山岳地帯には、尾根伝いになだらかな丘陵が広がっています。今日では平和丸、みやびの丘などが登山客に人気のある草原として知られ、西熊渓谷展望台からは素晴らしい景色を楽しむことができます。その南西方向の物部川沿いには多くの物部集落が存在し、各地に地名が残されています。つまり古代から剣山南西のエリアでは、太平洋岸から剣山の麓まで物部川を上流まで上り、多くの集落を築いた物部氏の存在があったのです。それらの集落名は、物部町久保彰、物部久保和久保、物部町久保中内、久保沼井など、すべて物部という名称がついています。
もし、邪馬台国が剣山の南西方向にあったとするならば、高知県の太平洋岸から上陸し、物部川を上流まであがってきたほうが圧倒的に早く、目的地に到達できます。また、太平洋側への陸路はアクセスが良くても、そこから瀬戸内側や阿波の国、徳島方面へ向かうには大変不便な場所でもあります。例えば物部集落の地域から剣山へ向かうには、多くの急斜面がある山道を通らなければならず、登山に慣れた人で片道6時間、荷物を抱えた普通の旅人ならば丸1日かかることになります。奥祖谷に行くためには三嶺の頂上を越えなければならず、このルートも同様に片道6~8時間かかってしまいます。よって、四国東岸からのアクセスを前提に邪馬台国へのルートを考えると、剣山の南西側は検討の余地からはずれることになります。
邪馬台国の比定地とは、四国の東側沿岸から上陸して30日間、歩いて到達する地域にありました。その場所は、北側の瀬戸内や南側の太平洋沿岸からのアクセスが不便だった故に、吉野川の支流から30日かけて徒歩で進んだのです。西方の境界線は今日の奥祖谷周辺となり、また、南西方向に散在する物部集落を越えることもなかったと推測されます。最終目的地である邪馬台国は、それら境界線の手前、剣山の周辺地域に存在したと考えられます。
4. 平坦な土地を有すること
剣山の東方を流れる鮎喰川は木屋平から神山町を通って吉野川に注いでいます。神山町はその名のとおり、神の山への玄関であることを意識して命名されたのでしょう。また、近隣の地域は神領と呼ばれています。それ故、古代から神山町の上流は神聖なる場所と考えられていたはずです。その先には南高城山があり、山頂のすぐそばには「徳島のヘソ」と呼ばれる名所もあります。標高は1500mを超えますが、周辺には不思議と平坦な土地が広がっています。古くは集落が存在した場所だったのでしょうか。
また、吉野川の南方にあり、同じく紀伊水道に流れる那賀川の上流には、弥生時代における最大の辰砂の工場として知られる若杉山遺跡があります。古代、人々は那賀川の上流まで船に乗り、川を行き来しながら辰砂を運搬していたのです。時にはさらに上流へと進み、剣山の近くまでも船で到来したことでしょう。那賀川の上流から南高城山、「徳島のヘソ」までは10㎞もありません。つまり、「徳島のヘソ」と呼ばれているエリアは山頂近くにありながら、単に土地が平坦なだけでなく、北は鮎喰川、南は那賀川の水源に囲まれ、自然の環境に恵まれた地勢を有していたのです。
5. 村落の形跡があること
邪馬台国の時代に村落があった地域の痕跡が、必ずしも残されているとは限りません。むしろ長い年月を経て、跡形も無くなっている可能性が高いでしょう。しかしながら、剣山の周辺を見渡すと、不思議な集落の痕跡が今日でも散見されます。それが物部集落です。
剣山の南西方向には、物部川が高知市を通り太平洋に流れています。その物部川の上流では、剣山の麓に近いエリアに古くから多くの物部村落が存在し、古代の豪族である物部氏の存在が川沿いの地名に反映されています。剣山に一番近い村落は物部町久保影と呼ばれ、山頂からの距離は7㎞もありません。周辺には尾根伝いに広がる「平和丸」と呼ばれる標高1,700mの草原もあり、天気の良い日は登山客がハイキングに訪れます。このように隆起が少なく、およそ平坦な草原が広がる標高の高い山麓こそ、古代、集落が造成された場所ではないでしょうか。そのような場所を、剣山の山頂周辺ではいくつか見出すことができます。
この「物部」の名称が用いられている村落は多数存在し、剣山に最も近い物部町久保影から物部川に沿って南西方向に20㎞以上も続きます。そして数㎞ごとに、物部町久保中内、物部町中上、物部町南池、物部町五王堂、物部町柳瀬、物部町大栃など、物部町名がずらりと地名として残されています。物部氏と言えば大陸より移民してきた渡来系の民族であり、古代社会において祭祀活動を取り仕切っていた豪族です。その物部氏が何故、四国の山奥、かつ、剣山の頂上そばに古代、集落を造成していたのでしょうか。何かしら祭祀活動に関わる歴史的な意味が込められているのではないでしょうか。いずれにしても、「物部」の地名が多く残ること自体、古くからそのエリアに物部村落が存在した証であり、四国山上の邪馬台国と結び付いている可能性が見えてきます。
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