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2025/07/03

四国山上に繋がる邪馬台国への道 中国史書が記録した1か月の陸行ルートを探る

陸行30日のスタート地点は八倉比賣神社の上流

魏志倭人伝」には、投馬国から10日間の水行と30日間の陸行を経て、邪馬台国へ到達すると記録されています。投馬国の比定地を四国の讃岐平野、今日の高松周辺とすれば、史書の記録を頼りに四国の最終港に上陸した後、そこから山々が聳え立つ四国山上の方へ向かって進む邪馬台国への道が見えてきます。上陸してから徒歩で1か月という長い期間がかかるという旅路の記録から四国山上のどこかに、邪馬台国が存在したと考えられます。急斜面や崖の多い四国の山岳地帯を想定すると、中国史書に綴られている記録から浮かび上がってくる邪馬台国のイメージは秘境の地に栄えた国家でした。

山奥の秘境に存在した国家だけに、そこに向かう旅人らは安全かつ、短い日数で移動できる山道を厳選したはずです。よって、どこで船を下りて1か月にわたる陸路の旅をスタートするか、いかにして四国の山奥まで無駄な労力を費やすことなく歩いて進むことができるかが、邪馬台国への道を見極める鍵となります。そのベストルートは四国の地勢を地図上で確認することにより、今日でもおよそ見当をつけることができます。

四国に上陸する最終地点と考えられる港のそばに、卑弥呼の伝承が残されている八倉比賣神社が建立されていることは注目に値します。古代、八倉比賣神社が建立された小高い丘は、入り江の海岸に面していました。そして周辺から吉野川支流の川沿いには上陸に向けて、多くの「おふなとさん」と呼ばれる祠が建てられています。これらは多くの船が周辺まで渡航してきたことの証であり、古代、人々が邪馬台国へ向かう際、吉野川の支流を船で上り、八倉比賣神社周辺の波止場に上陸して四国山上に向かったことを示唆しています。

邪馬台国へ向かう最短の山道を行く

邪馬台国を目指した民は、四国の徳島、吉野川下流の河口から八倉比賣神社付近まで川を上り、八倉比賣神社の波止場にて下船してから、およそ1か月、山道を歩きました。まず、川沿いを今日の神山町まで上ります。そこからは西日本で2番目に高い標高1955mを誇る剣山を目指して、西方に向かって山道を進んでいきます。そのルートは今日の県道438号に沿うような山道であったと考えられます。神山町から剣山は県道438号で東西に繋がっており、古代においても四国の山岳地帯に向けて比較的歩きやすい陸路になっていたと想定されます。とは言え、四国の山々は絶壁も多く、このルートでさえも古代では歩行に支障をきたす場所が多く、旅の難所が続いたのです。それが陸行1か月という長い期間を要した理由です。それ故、四国徳島の山奥まで、いかにして無駄な労力を費やすことなく、歩いて旅することができるかが、邪馬台国への道を見極める鍵となります。

陸行1か月に該当する長旅を視野に入れるならば、行先はまぎれもなく剣山周辺のエリアに結び付きます。急斜面の多い四国の山岳を前提に考えると、目的地に辿り着くまでの陸路は単に距離が長いだけでなく、歩行するのに危険な急斜面や断崖なども随所に存在したと想定されます。よって県道438号沿いのルートでさえも古代では歩行に支障をきたす場所が多く、旅の難所が続いたことでしょう。平坦な道を歩くなら1か月の山道は1,000㎞を超える距離に相当します。しかし四国の山道を登るとするならば、1か月かけても数十キロ程度しか進めない箇所が多く、剣山周辺がそれに該当します。

邪馬台国の場所が四国山上にあると仮定するならば、その厳しい山岳事情から、1か月という長旅の必要性を理解できます。中国史書に綴られている記録から浮かび上がってくる邪馬台国のイメージは、秘境の地に栄えた山上国家と言えます。そして山奥に存在し、外部に閉ざされた国家だけに、そこに向かう旅人らは安全かつ、最短の日数で移動できる旅のルートを厳選したのです。

30日の陸行を要する四国山地の絶壁

四国の徳島、吉野川下流の河口にある八倉比賣神社付近まで川を上り、そこから邪馬台国付近を流れる川の上流から邪馬台国へ向かうためには、そこからさらに30日間、陸路を歩かなければなりませんでした。30日間とは、平坦な道を歩くなら1,000㎞を超えるほどの距離です。しかし相当険しい山道であるならば、進める距離は激減します。邪馬台国の場所が四国山上にあったと仮定するならば、その厳しい山岳事情から、陸路の旅が1か月もかかった長旅の必要性を理解できます。

四国の山岳は、その急斜面と聳え立つ多くの崖が旅人の道筋を阻み、壮大なスケールの峡谷を誇示しています。これらの山々では、人間が上り下りすることができるような山道を見出すことさえ不可能な絶壁や急斜面が多く、今日、車を運転しながら四国の高山を眺めると、その急勾配と崖や絶壁の多さに驚かれる人も少なくないでしょう。それ故、遠い昔から四国の山々を渡り歩いた人間は、できるだけ川沿いや、山の裾野、尾根伝いに道を見出したのです。

四国山岳地帯の山道については今日、四国八十八ヶ所霊場の遍路みちからも理解することができます。例えば第11番札所の藤井寺から第12番札所の焼山寺までは、往古の遍路みちの有様を留める急勾配の狭い山道が続き、頑強な足腰がなければ歩き抜けることができない難関として有名です。直線距離では8.2kmしかなくとも、実際には山を2つ越え、標高40mの藤井寺から標高700m近くの焼山寺まで、標高差660mを大きく上下しながら登りつめることから、その歩行距離は13kmにもなるとも言われています。それ故、徒歩で丸1日歩き続けなければなりません。どうりで冬の遍路を第12番札所に向けて歩んだお遍路さんらは、昔から死を覚悟していたと言われていた訳です。途中で怪我をしたり力尽きたりしてしまえば、それが命取りとなって山で命を落とすことを意味していたのです。よって白い衣を身に纏い、いつ死んでも良いという信念を持って遍路に臨んだ訳です。

急勾配が多い焼山寺までの山道でさえも、その後に続く厳しい山道の始まりにしかすぎません。焼山寺は標高938mの焼山寺山の中腹、700mの地点に造営されましたが、山の南側にはその2倍前後の標高を誇る山々が聳え立ちます。南西には、かつては人を寄せ付けない険峻な山として知られる標高1495mの雲早山、そして西側の釜谷峡を越えると、深い原生林に囲まれ、殆ど人が足を踏み入れることのない標高1627mの高城山が続きます。その尾根伝い、西方向に四国の霊山、標高1955mの剣山が聳え立ちます。これら急勾配の山岳が続く四国の地勢故、船を降りてから邪馬台国へ到達するまで、1か月という長い期間を要したのです。

史書の記録と合致する四国の位置

一見して人が寄り付きづらい山岳地帯の多い四国ではありますが、何かしら神聖な要素を秘めていた山奥だからこそ、30日という長い日数をかけて山を登る必要があったのでしょう。果たして、その先に邪馬台国が存在したのでしょうか。中国史書の記述を参考に、改めて邪馬台国へ辿り着くまでの地勢を振り返ってみます。

まず、朝鮮半島の帯方郡からの方角と距離を振り返ると、四国の中心部は帯方郡から見てちょうど東南の位置にあたります。また短里を70~76kmとして1万2000里余里の距離を考慮すると840~910kmとなり、余里という表記からは910kmを多少超えることが想定されます。朝鮮半島の帯方郡を大同江河口に比定すると、そこから四国の徳島県最高峰、西日本で2番目の標高を誇る剣山までおよそ950kmです。よって剣山の界隈は、「魏志倭人伝」に記載されている「1万2千余里」の範囲に合致します。

さらに、「女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある」という記述についても、距離のデータが合致します。邪馬台国の東方にあたる港を、吉野川の支流である鮎喰川の上流、八倉比賣神社近くの川沿い、今日、四国八十八ヶ所霊場第13番札所の大日寺が建立されている場所の周辺と仮定します。するとそこから和歌山の紀ノ川(上流は吉野川と呼ばれる)の河口までおよそ70kmとなり、その距離は「千余里」という史書の記述と合致しています。

次のハードルは、「東西は徒歩5ヶ月、南北は徒歩3ヶ月で、おのおの海に至る。」という邪馬台国全体の地勢に関わる条件です。「おのおの海に至る」という表現から、邪馬台国は巨大な島の中に位置していたと言えます。しかも南北よりも東西の方が長い距離です。四国は地図を一見するだけで、東西の距離の方が、南北よりも長いことがわかります。実際、西の佐田岬から東の徳島沿岸まではおよそ250kmあります。また、南北で一番長い個所は北の今治から南の足摺岬で、その距離は約150kmです。つまり東西と南北の距離の比は5対3です。史書の記述では徒歩5ヶ月と3ヶ月と記載されていますが、その数字の割合と並ぶのは、単なる偶然でしょうか。また、四国の山岳は大変険しいが故に、徒歩で島を横断するには、東西方向は約5ヶ月、南北方向は約3ヶ月の日数を要すると考えられるのです。邪馬台国の地勢に関する史書の記述は四国と見事に合致します。つまり邪馬台国とは四国山奥にある山上国家だったのです。

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