佐佐牟江宮へと向かう倭姫命の御一行
倭姫命の御一行は、飯野高宮の比定地として知られる神山神社を出発し、次の御巡幸地である伊勢国の佐佐牟江宮へと向かいました。「倭姫命世記」によると御一行は伊勢湾沿いを船で旅を続け、「佐佐牟江に御船泊まり給い」と記載され、その地に佐佐牟江宮が造営されたと伝えられています。佐佐牟江宮の比定地は、延喜式と神名帳によれば、海沿いに建立された竹佐々夫江神社のことで、現在の神社も明和町大字山大淀に鎮座しています。その場所は斎宮の北東およそ5kmに位置する大淀と呼ばれる地域で、周辺一帯は「伊勢物語」に描かれた斎宮説話の舞台としても知られています。
佐佐牟江宮での滞在は、短期間で終わりました。そして佐佐牟江宮を離れる際には、「風浪無くして海の塩大与度に与度美て御船をして行幸」と記されるように、風や波がなく、海の潮が大淀に寄せて淀み、船を進めることができました。これを倭姫命がたいそう喜ばれ、その浜に大与度社を建立したことが、「倭姫命世記」に記録されています。
佐佐牟江宮(竹佐々夫江神社)と斎宮のレイライン
佐佐牟江宮の地が、当時は何もない伊勢湾岸の地にどのようにして見出されたのか、また、佐佐牟江宮と斎宮の場所がどのように結び付けられたのかは、レイラインを考察することによって理解できます。まず、桑名野代宮の比定地である野志里神社に注目です。野志里神社からほぼ真南、179度40分の方向に線を引きます。次に飯野高宮の比定地である神山神社と、元伊勢の時代に地の指標として重要視されたと考えられる室戸岬を結ぶレイラインを引きます。この2本の線が交差する地点の近くに、佐佐牟江宮の比定地である竹佐々夫江神社が存在します。この位置関係から、佐佐牟江宮の建立地は、周辺の聖地や地理的な指標を結ぶ線をもとに定められた可能性が浮かび上がってきます。
倭姫命の御一行が佐佐牟江宮に到達した時期は、御在所岳がにわかに注目を集め、霊峰としての存在感を増していった時でもありました。御在所岳からは伊勢湾の先に神島を望むことができ、霊峰御在所岳と神島を結ぶ線は、琵琶湖西岸の大宝寺山に結び付きます。よって三輪山と同緯度に並ぶ神島も、大宝寺山と共にレイラインを考察するうえで重要な指標の一つになっていたと考えられます。
その大宝寺山と奈其波志忍山宮の比定地である布気皇館太神社を結ぶ線も、竹佐々夫江神社に繋がっています。さらに、神島と石上神宮を結ぶレイライン上に竹佐々夫江神社が存在しています。こうした複数の線が同じ地点で交差することを考えると、竹佐々夫江神社の位置は、単なる偶然として片付けるにはあまりにも興味深いものがあります。三輪山と同緯度にあり、三輪山に深く結び付く「神の島」ともいえる神島を起点として、レイラインをたどっていくと、三輪山や石上神宮、大宝寺山、そして複数の御巡幸地が相互に繋がっていたことがわかります。こうした位置関係は、佐佐牟江宮の建立地を考えるうえでも、注目すべき要素のひとつといえるでしょう。
佐佐牟江宮の地は、後に斎宮の中心舞台となったエリアです。その斎宮が造成された場所も、竹佐々夫江神社をひとつの指標として定められた可能性があります。まず、三輪山と同緯度にある神島を結ぶレイライン上に長谷寺、與喜天満神社、そして斎宮が並んでいることにも注目です。次に、熊野本宮大社の大斎原と竹佐々夫江神社を結ぶ線も斎宮へと繋がり、このレイラインから500mほど離れた場所には瀧原宮も存在します。さらに、四国の剣山と御巡幸地のひとつである和歌山の濱宮を通るレイラインも、斎宮に繋がっています。そして斎宮と伊雑宮を結ぶレイライン上には、伊勢神宮内宮が鎮座しています。こうした位置付けを踏まえると、斎宮の立地もまた、周辺の聖地や御巡幸地との関係を考慮して定められた可能性があります。
伊蘇宮(磯神社)のレイライン
「倭姫命世記」には、倭姫命御一行は飯野高宮より伊蘇宮に遷幸されたと記載されており、その途中にある佐佐牟江宮と伊蘇宮での滞在は、いずれも大変短かったことがわかります。伊蘇宮の比定地とされる伊勢市磯町の磯神社は、佐佐牟江宮の比定地である竹佐々夫江神社から伊勢湾岸沿いを南東方向におよそ7km下る宮川の河口付近に位置しています。
磯神社の由緒書によると、宮川の氾濫により旧地は流されてしまい、現在では元来の社地を特定することは困難であるものの、「年月不詳移遷し古跡を宝殿の脇又本殿の脇と号す」と記されています。また、倭姫命の御一行がこの地に訪れ、皇太神を奉じたという伝承が地域に残されていることからしても、今日の磯神社周辺のどこかに伊蘇宮が存在していたと考えられます。しかしながら前述したとおり、伊蘇宮の本来の比定地を特定することは容易ではありません。一級河川である宮川の河口は、今日でも2km以上の幅に及ぶことから、長年にわたる河川の氾濫や流路の変化を考慮すれば、本来の場所が想定よりも大きく離れている可能性があります。また、伊蘇宮の比定地は、磯神社の他に、松坂市の神服織機殿神社や、式内社の相鹿上神社などの候補地が挙げられています。このように、伊蘇宮については本来の所在地を確定するための手掛かりが限られているうえ、複数の比定地が存在しています。そのため、現時点ではレイラインの検証だけをもとに、伊蘇宮の比定地を特定することは困難といえるでしょう。
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地元から視た伊蘇上神社と、国宝、七支刀の関係を調べています。百済王から河俣(千熊)(現、松阪市中万町)長彦が七支刀などの宝物を持ち帰った功により乳熊(千熊)の地を神功皇后より賜った。彼は一度、七支刀を我が家に持ち帰り、伊蘇上神社に手柄の報告とともに奉納したと考えられる。地元の射和祇園際には神功皇后が飾られるのも、一理あります。刀はその後、相可の大神主、中臣(村田家の祖先)盛家四郎によって、伊勢外宮に没収されたと思われrます。彼によって、千熊の地名・領地・刀も没収されたのです。刀はしばらく神宮のお田植祭の神下しとして供えられ、後、天皇の武の象徴とされ、奈良の石上社に奉納されたと、言うのが私の見解です。一風。