記紀には日本の国生みが、淡路島から始まったと記されています。それは、淡路島を基点として周辺の島々が探索され、列島全体像を把握するに至ったことを意味しています。大陸からの渡来者は、古代の英知と天文学を駆使し、レイライン的な考え方に類似した洞察を繰り返しながら、短期間で列島内に数々の拠点を見出しました。海岸線に近い拠点としては、北は八戸、東は鹿島、日本海側は出雲、大陸側は宗像等が早くから特定され、その後、太平洋側には伊雑宮、瀬戸内には金刀比羅宮、九州には宇佐神宮など、
日本最高峰富士山火口列島を網羅するように神の社が造営されたのです。
それらの重要な拠点を特定するために、富士山や四国の剣山、石鎚山、淡路の北側に聳え立つ六甲山などが重要な指標として用いられたことは言うまでもありません。また、淡路島の中心にある神籬石に加えて、貴重な水源である湖や、舟旅の目安となる岬も指標として使われ、これらが古代日本のレイラインを構成する原点となりました。
日本海と瀬戸内海を結ぶ平坦な道
日本列島を日本海側と太平洋側に分ける中央分水界列島内に拠点を見出す手法を理解する上で、もう1つ大切なことは、実際の地勢から考えられる古代の交通網を考慮することです。その事例の1つが、山陽と山陰の山々を通り抜ける、およそ平坦な陸路の存在です。太平洋側と日本海側に流れる水を分ける線を中央分水界と呼び、その線は日本列島を縦断しています。その中央分水界の中で最も低い位置に、丹波の「水分れ」が存在します。山陽と山陰の中間に聳え立つ山々は急斜面を有していることから、その狭間の盆地にある丹波も、かなりの標高に位置すると考えられがちです。ところが、「水分れ」の標高は最も低いところで95mしかなく、そこから北方には由良川を経て日本海に、南方には加古川を経て瀬戸内海に水が流れています。日本海から瀬戸内海までは直線距離で100km前後、川沿いを進むと140kmを超える程の距離になりますが、その間の高低差が最大でも100mにも満たないということは、山々の麓を通る川が、海面とほぼ同じレベルでおよそ平坦に流れているということの証です。
例えば温暖化により、日本列島周辺の海面が100m上昇すると仮定してみましょう。水面が上昇するにつれて、中央分水界のライン上では最も低い地点である丹波の「水分れ」が最初に水没し、北側は舞鶴から由良川を通り、丹波を経由して南は明石と姫路の中間にある加古川に繋がる線が全て海岸となり、日本海と瀬戸内海の海原が南北方向に繋がることになります。つまり、本州が2つの島に分かれるのです。
六甲山のような険しい山に阻まれているように見える丹波周辺の山々ではありますが、高低差の少ない川が流れているということは、そこに遠い昔から瀬戸内海と日本海との間をおよそ平坦に行き来できる陸路が存在したことを意味します。そして大陸からの渡来者が増加するにつれて、朝鮮半島から日本海沿岸に舟で辿りつく民も増加し、日本海側と淡路島や四国、大和の地を南北に結ぶ陸路は、より重要視されたことでしょう。その結果、日本海の若狭湾から丹波を通じて瀬戸内の加古川を南北に結ぶ川沿いの街道には、古くから集落が栄えたのです。
丹波の南、加古川の河川口周辺に広がる播磨や、その東側に隣接する摂津は、大和王朝の成立に関わりが深いと言われています。これらの地域からは多くの土器や銅鐸、鏡などの遺物が発掘され、地域の重要性を裏付けています。播磨の地域が発展した理由は、瀬戸内海に面して淡路島や阿波国、大和国に近いだけでなく、そこから日本海に通じる交通網も存在し、人の流れが活発化したからに他なりません。同様に、播磨の北に隣接して「水分れ」の地点が存在する丹波も、古くから文化的発展を遂げました。更にその北方、日本海側の若狭湾周辺も古代集落の重要な拠点となり、そこには日本海沿岸の聖地として際立つ籠神社が建立されました。
神宝の鍵を握る海部氏の祖
荘厳な境内を誇る籠神社(古称吉佐宮、よさのみや)古代より若狭湾の西、宮津湾を結ぶ天橋立は、一大聖地として特別視されてきました。そこは日本海と瀬戸内を結ぶ交通の要所にあたるだけでなく、諏訪大社と対馬の海神神社を結ぶ重要なレイライン上に存在するからです。その天橋立の北側に隣接するように建立されたのが元伊勢籠神社であり、宮司は代々、海人一族の末裔である海部氏に継承されてきました。そこから400m程離れた所には籠神社の奥宮、真名井神社があります。諏訪大社、海神神社、共に海人一族の要所であることから、古代社会における海人族の影響力を、レイライン上での繋がりからも察することができます。
元伊勢の中でも籠神社は特に有名です。御由緒によれば、天照國照彦火明命とも呼ばれる天火明命が、神を祀るにふさわしい場所として天橋立のほとりの地を選別したことが記載されています。天火明命は海部氏など、多くの氏族の祖神であるだけでなく、海人集団の祖としても知られています。海部氏が家宝として秘蔵する国宝にも指定された海部氏系図には、始祖彦火明命から第32世の田雄までが明記され、その後現在まで、82代の歴史を確認することができます。更に、古代から海部一族が淡路や土佐、筑前、伊勢だけでなく、信濃、能登、安芸など多くの諸国で勢力を保っていたことも、同系の地名から推定することができます。
海部氏の祖である彦火明命は天孫として、神宝を管理する責務を担っていました。天祖から息津鏡や辺津鏡を賜わり、大和国や丹波地方にも来られたが故に、それが丹波国の祖神と語り継がれている所以でもあります。更に彦火明命が饒速日命であるという記述も古伝に見られることから、十種神宝の管理も担っていた可能性があります。また、神武天皇の東征経路は、海部一族に代表される海人族の根拠地と重複する個所が多く、東征の背景には、天孫系の民に守護された神宝の存在が関わっている可能性が考えられます。
それから長い年月を経て、崇神天皇の時代、前1世紀頃に天照皇大神の御霊代と豊受大神とが一緒に祀られるようになったのが、籠神社の始まりです。御霊代とは御神体をも意味することから、もしかすると天照皇大神に関わる何らかの神宝が真名井まで運ばれてきたことを象徴して、それを御霊代と呼んだのかもしれません。その後、御霊代は伊勢へと遷ったことから、籠神社は元伊勢と呼ばれるようになりました。神宝に深く絡む海部氏の祖、彦火明命の働きを理解することが、御霊代に絡む古代史の流れを理解する上で、重要な鍵となります。
元伊勢籠神社のレイライン
籠神社のレイライン -神宝の行方を占う新拠点-
籠神社の奥宮、真名井神社と伊勢神宮の奥宮である伊雑宮を直線で結ぶと、その線上には籠神社、元伊勢の1つである斎宮、伊勢神宮の内宮、そして天岩戸がおよそ一列に並びます。元伊勢籠神社の祖神である天火明命は神宝の管理を委ねられていた神だけに、籠神社を基点とするレイラインは、神宝の行方を占う意味において極めて重要です。そこで今一度、諏訪大社と海神神社という海人族の重要拠点を結ぶレイラインを振り返ってみましょう。その線上において籠神社の場所をピンポイントで特定する為に用いられたのが、対馬の南東に浮かぶ神の島とも呼ばれる沖ノ島です。
神宝を内陸に持ち込み、聖所にて秘蔵するためには、外敵からの侵入から防ぐための手段を有することが最重要課題でした。一旦、内陸に入ると、外敵の攻撃を不意に受けやすくなり、よほど強固な防備体制が敷かれて無い限り、安心して神宝を保存することができないからです。その為、海人一族が一時的な保管場所として重宝したのが、小さな離島の存在です。海人族は航海技術において圧倒的に優位な立場を有していた為、海を渡る離島の地では他を寄せ付けることなく、神宝を守ることができたのです。その最たる例が玄界灘に浮かぶ沖ノ島でした。それ故、大陸から日本列島へと神宝や貢物が運ばれる際に、その一時保管場所として沖ノ島は多用されることとなりました。
その沖ノ島を指標として見出された拠点が、紀伊半島、紀ノ川の河川口に隣接する紀伊国一宮の日前神宮です。日本書紀によれば、日前神宮は紀伊の東にある伊勢神宮に相対する存在であり、
伊勢神宮 本殿鳥居八咫鏡に先立って鋳造した日像鏡が祀られ、その御神体は伊勢神宮の神宝、八咫鏡と同等のものとされています。そして現在の場所には垂仁天皇16年に遷座したのです。籠神社も祖神、彦火明命が鏡の神宝を賜わったことから、鏡と深い関わりがあります。そして崇神天皇の時代に天照皇大神の御霊代をもって元伊勢籠神社が起こり、その後、垂仁天皇の時代に伊勢国に御遷宮されましたが、それは日前神宮の日像鏡に遷座した時期とほぼ、同一であることから、関連性があるようです。
その日前神宮は、沖の島と同等の34度14分の緯度上で、紀伊半島の西、紀ノ川の河川口、大日山の西方にあたる場所に建立されました。日前神宮と沖ノ島はレイラインで繋がっていたのです。そして日前神宮の経度は135度12分であり、籠神社の奥宮、真名井神社と完全に一致することから、籠神社はその奥宮である真名井神社と共に、日前神宮、沖ノ島とも紐付けられていることがわかります。こうして籠神社が台頭する時点から、古代レイラインの目的は、聖地や港、集落の拠点を見出すという基本理念に加え、神宝の行方に関連する繋がりが重要視されていくことになります。