
青森県 小牧野遺跡美しい山々と湖、盆地や平野など、豊かな自然に恵まれた東北地方。秋田県や青森県ではストーンサークルと呼ばれる環状列石が複数発掘されており、歴史を縄文時代から弥生時代にかけて遡ると、人々の祖先は東北地方においても集落を築き、各地で独自の文化を育んでいたことがうかがえます。古代の人々は天体を観測しながら四季の移り変わりや天候の変化、時を知る方法を身につけていました。そして太陽の動きや月、星を目印として列島の地理関係を把握し、日本各地の広い範囲を往来していたと考えられます。そしていつしか東北地方にも人々が移り住むようになりました。

岩木山神社 拝殿一方、東北地方では、本州の他の地域や九州とは異なり、弥生時代から古墳時代に創建されたと伝わる由緒ある寺社が存在しません。現在、多くの参拝者が訪れる青森県の十和田神社や岩木山神社、岩手県の中尊寺、毛越寺や丹内山神社、宮城県の大崎八幡宮、福島県の慧日寺などは、いずれも平安時代以降に建立されたものであり、これらの中には東北の有力者、奧州藤原氏との繋がりが深い寺社も少なくありません。さらに1世紀ほど遡る飛鳥時代では、宮城県の鹽竈(しおがま)神社、山形県の出羽神社、秋田県の太平山三吉神社総本宮が建立されたと伝えられています。しかし、それ以前にまで遡る古代創建の神社は、東北地方では限られています。

羽黒山 磐座飛鳥時代に建立された出羽神社と太平山三吉神社には、いくつかの共通点があります。まず、どちらも古代より山岳信仰、修験道の霊場として信仰を集め、人々に自然の恵みをもたらす霊峰として親しまれてきました。また、奥宮が鎮座する山頂は、日本海から望むことができる位置にあり、海上から山を、山頂から海を見渡せる優れた視認性を備えています。このような立地を考えると、古代には位置確認がしやすい高山が、神を祀る場所として重要視されたようです。
さらに興味深いのは、出羽三山神社とも呼ばれる出羽神社と太平山三吉神社の名称には、いずれも「三」の数字が含まれていることです。飛鳥時代から奈良、平安時代にかけて、古代では神を祀る事象に関して「三」という数字が頻繁に登場します。その影響は神社の名称や三輪山などの地名だけでなく、三つ鳥居などの造形物、磐座の形状などにも見ることができ、「三」の数字が重要な象徴として意識されていたことがうかがえます。こうした考え方は奈良、平安時代に受け継がれ、「三」は藤原一族にとっても大事な数として扱われるようになりました。また、平安時代初期に成立した日本最古の物語として知られる「竹取物語」にも、「三」にまつわるストーリーが数多く綴られています。
もうひとつの共通点として挙げられるのが、両者の位置関係です。レイラインと呼ばれる直線配置という見方に立つと、出羽神社と太平山三吉神社は、意図的に選ばれた場所へ建立された可能性が考えられます。
宗像大社中津宮ここで改めて注目したいのは、出羽神社と太平山三吉神社総本宮です。東北地方は、他地域と比較すると古代創建の寺社が少ない地域ですが、飛鳥時代には2つの霊峰が神を祀る場所として選ばれました。まず羽黒山では593年、第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が山頂に出羽神社を建立したと伝えられています。蜂子皇子は奈良から日本海を船で渡り、三本足の霊鳥に導かれて羽黒山へ至ったという伝承が語り継がれています。その結果、羽黒山に隣接する湯殿山、月山においても神が祀られ、三山を総称して「出羽三山」と呼ぶようになりました。出羽三山は東北における山岳信仰の中心となり、やがて「羽黒派古修験道」の根本道場としても知られるようになります。それから約80年後の673年には、羽黒山から北方に125㎞ほど離れた標高1,170mを誇る太平山において、修験道の開祖として知られる役小角(えんのおづの)が山頂で神を祀ったと伝えられています。その後、山頂から16㎞ほど離れた山の麓に太平山三吉神社が創建されました。太平山の山頂からは、白神山地や男鹿半島、仙北平野などを望むことができます。
レイラインという視点から見ると、太平山三吉神社は、出雲大社と宗像大社の中津宮を結ぶ直線上に位置しており、これらの由緒ある古代神社の位置関係を参考にして建立地が特定された可能性も考えられます。さらに羽黒山に絡むレイラインを検証すると、その山頂は他に類を見ないほど多くのレイラインが交差していることがわかります。このような位置関係を踏まえると、羽黒山が古代から東北を代表する霊峰として重視された理由が見えてきます。
多くのレイラインが交差する羽黒山

青空が冴えわたる早朝の三神合祭殿素晴らしい東北地方の大自然の中で、今日ひと際、その名を知られているのが出羽三山です。その中心となる出羽三山神社が鎮座する羽黒山は、標高が414mと大変低いだけでなく、地勢図や航空写真を見ても、際立った地形や地の目印となるような特徴は見当たりません。一見すると、ごく普通の小高い山にしか見えない羽黒山が、なぜ古くから特別な場所として崇められてきたのでしょうか。古代の人々はそのありきたりの山に注目し、そこを修験道の聖地として定めました。そして、さらに湯殿山、月山を含めた一帯を、「出羽三山」として聖地化し、その中心となる羽黒山の山頂に出羽三山神社を建立しました。この場所が選ばれた背景は、当時の人々にとって極めて重要な意味を持つ何らかの理由があったからに他なりません。その謎を解明する一つの手がかりとなるのが、レイラインという考え方です。
古代では、レイラインという手法を用いて、由緒ある神社や著名な霊峰、地形上の目印となる場所を一線に結び、新たな聖地や拠点を見出す考え方があったとされています。それは、潜在的な地の力を関連づけるだけでなく、宗教的、精神的な意味を持たせるための指標として用いられた可能性もあります。羽黒山が出羽三山の中心となった背景にも、日本列島の重要地点を結ぶ複数のレイラインが、羽黒山で交差することが、古代に考察されたからではないでしょうか。そこで、羽黒山の山頂を通り抜けるレイラインを検証してみると、他に類を見ないほど多くのレイラインが羽黒山を通っている事実を確認することができました。

富士山剣ヶ峰の石碑レイラインを検証する際、常套手段としてはまず、日本列島を代表する古代の霊峰との結び付きを調べます。その代表例として挙げられるのは、富士山、立山、白山、剣山などです。まず、富士山と羽黒山を結ぶ直線上には、群馬県の赤城山と新潟県の大日岳が存在します。赤城山は複数の山から成る火山帯の名称で、富士山に次ぐ広大な裾野を有する名峰です。その最高峰、黒檜山(くろびさん)の頂上には赤城神社が鎮座し、古くから山岳信仰を象徴する神社として知られています。また、新潟県の大日岳は、飛鳥時代の修験道の開祖として活躍した役小角(えんのおづの)が開山した山として有名です。どちらの山も山岳信仰と結び付いており、とりわけ大日岳は修験道の修行の山として重要な存在です。そのため、富士山と赤城山、大日岳を結ぶレイライン上に羽黒山が位置するのは、単なる偶然ではない可能性があります。こうした位置関係から考えると、まず富士山と赤城山を結ぶ線上に羽黒山が見出され、その後、同一線上に位置する大日岳が修験道を代表する山として開山されたという歴史の流れが見えてくるようです。

伊勢神宮 鳥居さらに、青森県の八戸と伊勢神宮内宮を結ぶレイラインも、羽黒山を通り抜けています。八戸は、古くから列島最北の港町として、発展した地域です。その地名については、今日「はちのへ」と読まれていますが、元来、ヘブライ語で「神」を意味する「ヤヘ」の当て字であった可能性を指摘する説もあります。地名そのものが神聖な「神」という意味であることから、古代、東北では最も重要な寄港地であったのでしょう。また、八戸は沖縄県の那覇と淡路島の中心に位置する神籬石を結ぶ、日本列島を縦断する長大なレイライン上にも位置しています。その八戸と伊勢神宮内宮を結ぶ線上に羽黒山があります。このように見ていくと、富士山と赤城山を結ぶレイラインと、八戸と伊勢神宮を結ぶレイラインが交差する地点に羽黒山が見出され、そこが出羽三山の中心として選ばれた可能性が見えてくるのです。

剣山頂上から望む伊島と紀伊水道次に古代の霊峰として名高い伊吹山と紀伊水道に浮かぶ伊島、そして日本三名山のひとつである立山を結ぶレイラインを検証してみましょう。伊島は淡路島の南方、紀伊水道に浮かぶ島であり、そこからは西日本で2番目に高い剣山だけでなく、熊野の山々まで見渡せることから、古代においても重要な離島として認識されていたと考えられます。また、滋賀県最高峰として標高1,377mを誇る伊吹山は、「日本書紀」に伊吹山の神と日本武尊の戦いの詳細が記されていることから、古代より神が宿る霊峰として知られてきました。役小角も伊吹山で山岳修行を行ったと伝えられ、平安時代には密教と結び付いた修験道の霊場として、多くの山岳寺院が建立されるようになりました。その伊吹山からみて北東方向には富山県を代表する標高3,013mの立山が聳え立ちます。
立山北アルプス飛騨山脈の北部に位置し、日本海側の山麓では最高峰となる立山は、「立山開山縁起」に、701年、神仏習合を体得する霊場として、慈興上人としても知られる佐伯有頼が開山したと記載されています。そして、この2つの霊峰である立山と伊吹山を結んだレイラインを南西へ延長すると伊島に至り、北東へ延長すると羽黒山があります。このことから、羽黒山に出羽三山神社が建立された後、伊吹山と羽黒山を結ぶ線上に位置する立山が修験道の霊場として見出され、新たな霊峰として信仰を集めるようになったと想定されます。

金峯山寺さらに、修験道に関わる重要なレイラインがもう1本存在すると考えられます。修験道の本拠地と言えば、奈良県吉野にある世界遺産の金峯山寺があまりに有名です。西の金峯山寺に対し、東には出羽三山の羽黒山が存在することから、この2つの霊場はレイラインによって結び付いているのではないでしょうか。両者を地図上で直線的に結ぶと、そのレイラインは御在所岳の裾野を通り、日本のマッターホルンとも称される槍ヶ岳へと至ります。飛騨山脈にそびえる槍ヶ岳は、国内5番目の標高を誇る名峰であり、その山頂からは富士山、南アルプス、中央アルプス、白山、八ヶ岳などの山々を一望することができます。槍ヶ岳が正式に開山されたのは、19世紀の初頭とされています。その頂上からのパノラマビューと、山名のとおり槍のように鋭くそびえる特異な山容を備えていることから、古代でも登頂され、地形を把握するための重要な指標として用いられた可能性があります。そして、金峯山寺と羽黒山を結ぶレイライン上に、槍ヶ岳が位置しているのも、偶然ではないかもしれません。

白山奥宮一方、富士山、立山と共に日本3名山に数えられているのが標高2,702mを誇る白山です。白山は、奈良時代に修験道の僧、泰澄(たいちょう)によって開山されたと伝えられています。さらに、白山と四国の剣山をレイラインで結ぶと、その延長線上には羽黒山があります。古代の霊峰である剣山からは淡路島、熊野の山々、紀伊水道に浮かぶ伊島をはじめ、北は大山、西は石鎚山まで見渡せる壮大な眺望が広がっています。その剣山と羽黒山を結ぶ線上に位置する白山に泰澄が訪れて開山したのは、羽黒山が開山されてからおよそ150年後のことです。よって、泰澄は羽黒山と剣山という2つの霊峰を意識し、その延長線上に位置する白山を重要な霊場として見出したと考えられます。

剣山 馬の背
さらに鹿島神宮と月山を結ぶレイラインも重要な意味を持っていると考えられます。日本最古の神社の一社として知られる茨城県の鹿島神宮と、山形県が誇る標高1,984mの月山を地図上で結ぶと、その延長線には羽黒山に繋がっていることがわかります。月山は地域一の標高を誇る山であり、遠くからでも容易に識別できる山要を備えています。そのため、羽黒山頂に神が祀られた直後、鹿島神宮と同方向にピタリと並ぶ地域最高峰の月山も新たな信仰の対象として重視され、出羽三山のひとつとして認知されるようになったと想定されます。こうして出羽三山は羽黒山を中心としながら、鹿島神宮とも地の力で結び付けられることになります。

妙高山 頂上羽黒山を通り抜けるレイラインは、他にも存在すると考えられます。日本百名山のひとつであり、標高2,454mを誇る妙高山と高野山金剛峯寺を結ぶ線も、羽黒山へと繋がっています。妙高山は、古くは「名香山」とも表記され、信仰の山として知られてきました。北信五岳の最高峰であり、新潟を代表する霊峰として「須弥山(しゅみせん)」、「越後富士」とも称されています。また、白山と並ぶ山岳信仰の霊場としても広く知られています。伝承によると、妙高山は和銅元(708)年に開山され、高野山の開祖である空海も妙高山を霊峰として敬い、最盛期には山岳修験道場として多くの修験者や僧が修行したと伝えられています。その妙高山と、空海が開いた高野山の中心寺院である金剛峯寺をレイラインで結ぶと、その延長線上に東北の羽黒山が位置しています。この地理的な配置は単なる偶然ではなく、何らかの意味をもっていた可能性も考えられます。空海が羽黒山を山岳信仰の重要な霊場として認識していたとすれば、山岳修験道場である妙高山と羽黒山を結ぶ線上に高野山を見出したと考えることもできます。いずれにしても、羽黒山、妙高山、高野山金剛峯寺が一直線に繋がっていることは、興味深い事実です。この配置から、これら3つの聖地は何らかの思想的あるいは宗教的なつながりを意識して選ばれ、その結果として地の力を共有してきたと考えることもできるでしょう。

久高島からの眺め羽黒山を交差するレイラインの中には、さらに注目すべき線が存在します。まず着目したのは、九州宗像大社の沖津宮が鎮座する世界遺産、沖ノ島と羽黒山を結ぶレイラインです。この線は、新潟沖の佐渡島の中心に鎮座する羽黒神社を通り抜けています。佐渡島に羽黒神社が建立されたのは、沖ノ島と羽黒山を結ぶ直線上に佐渡島が存在するという地理的条件が関係していた可能性も考えられます。さらに、屋久島と高知県の足摺岬近くにある足摺巨石群唐人駄場遺跡(唐人駄馬巨石群)を結ぶ線、そして「神の島」とも称される沖縄県の久高島から四国の室戸岬、蒲生田岬を結ぶ長い直線上にも羽黒山が位置しています。これらの地理的配置を踏まえると、羽黒山を中心として各地の聖地や霊場を結ぶ複数のレイラインが意識されていた可能性も考えられます。

羽黒山のレイライン
羽黒山のレイラインとは

湯殿山神社 本宮鳥居出羽三山の始まりは飛鳥時代の初期に始まります。羽黒山は崇峻天皇の皇子により、593年に開山されたと伝えられています。その12年後、湯殿山神社が建立され、出羽三山の信仰が形づくられていきました。一方、山岳信仰を全国へ広めた役小角が活躍し、各地の霊峰を修行の場として開山したのは、それからおよそ1世紀近く経った飛鳥時代後期、7世紀後半のこととされています。この年代の違いを踏まえると、まず蜂子皇子が側近の学者らと列島の地勢を見極めながら、富士山や伊吹山などの名高い霊峰に加え、伊勢神宮、伊島や八戸などの古代の拠点を指標として、東北の地では羽黒山を信仰の地に選んだ可能性が考えられます。そして山岳信仰が徐々に広まるにつれ、飛鳥時代後期には、役小角をはじめとする修験者たちが伊勢神宮、鹿島神宮、宗像大社などの由緒ある神社や名高い霊峰、さらに古代の拠点と羽黒山の地理的な関係に着目し、レイラインとして認識していったのではないでしょうか。
こうして山々が開かれ、修験道が各地へ広まる中で、神々を祀る神社がそれらの線上に建立されたと想定するならば、古代史の新たな流れが見えてきます。人里離れた山中や離島であっても、神社が建立され、霊峰が開かれ、聖なる拠点が見出された理由は、レイラインという視点から見ることにより、理解できるようになります。


