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2025/02/18

邪馬台国の歴史的背景 古代史の真相に近づくための情報源

中国史書が証する邪馬台国

中国の東方、海のはるか彼方にある東の島々に存在した「不死の国」「君子の国」について孔子が言及した時から600~700年という長い年月を経た2~3世紀頃、倭の国には大きな勢力を持つ国家が台頭しました。日本列島に神懸り的な王国が誕生し、それが倭国の中心として栄えたのです。そしていつしか「邪馬台国」と呼ばれるようになり、海を越えた中国でも知られるようになりました。

邪馬台国の存在については議論の余地はありません。元伊勢御巡幸が行われた時代の直後、邪馬台国が突如として歴史に姿を現しました。その国家の実態について中国史書は証しています。

日本の古代史において重要な位置を占める邪馬台国を理解するためには、「魏志倭人伝」などの正史から情報を得て、それらを歴史の流れに沿って正しく解釈する必要があります。魏志倭人伝は「三国志」の魏書にある「東夷伝の倭人の条」の略称であり、「三国志魏書倭人伝」とも呼ばれています。また、倭国に関する記述は「魏志倭人伝」に限らず、「後漢書倭伝」「晋書倭人伝」「宋書倭国伝」「梁書倭伝」や「隋書倭国伝」にも見られます。これらの中国史書から邪馬台国の姿がおぼろげながら浮かびあがってきます。

邪馬台国のルーツとなる人々

邪馬台国に属する民の出自は定かではありません。しかしながら、東アジアの歴史や文化的背景だけでなく、日本列島に存在する多数の遺跡、祭祀跡などを総合的に考慮すると、古代、西アジアから渡来した人々の影響力があったことを垣間見ることができます。これらの大陸から渡来した人々の存在が弥生人のルーツに潜んでいたからこそ、弥生時代後期にあっても邪馬台国では文明が進化し続け、それに伴い、大陸由来の宗教文化も発展していくことになります。

昨今の考古学研究により、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃と発表されました。その頃から稲作の農耕技術が日本列島に持ち込まれたことがわかったのです。それから弥生時代を通して何世紀もの間にわたり、大陸の文化を携えた人々が日本列島に渡来し、各地に住み着くようになります。それら渡来者は列島各地に集落の拠点を設けただけでなく、時には神を祀る社を建立することもありました。また、海洋技術を携えてきた豪族の存在もあり、日本列島各地には船が着岸する港も構築されたのです。こうして日本列島に渡来した人々は、先代より居住している縄文人らと共存しながら、日本の歴史を刻んでいくことになります。

特に、弥生時代の中期から後期にかけて、大陸より日本列島に移住した人々の多くは中国界隈から渡来し、中国文化の影響を多分に受けていたことが想定されます。そして中国社会で教育を受けて育った豪族らが日本列島に渡来し始めた矢先、の崩壊を機に、前1~2世紀にかけて渡来者の流入が一気に加速します。東夷を中心とする民族移動の流れが大陸から朝鮮半島、日本列島へと向けて生じたのです。その後、2~3世紀には渡来者の流入数はピークに達し、最終的には100万人とも150万人とも想定される膨大な数の大陸からの移民が、海を越えて日本列島にやってきたのです。

日本列島は中国に住む大陸の人々にとって、先祖代々から語り継がれてきた、東の島々にある「君子の国」「長寿の国」であり、民族の憧れにもなっていました。それ故、東方を目指して旅する民が徐々に増えていくにつれて、それまで何世紀もの間ベールに包まれていた「君子の国」の噂が現実のものとして風評されたことでしょう。その結果、それまで謎めいていた「君子の国」の存在が徐々に浮き彫りとなり、いつしか邪馬台国として知られるようになったのです。日本の歴史が激変する新しい時代の幕開けです。

倭国内乱の歴史

三国志によると、邪馬台国が台頭する直前の前漢時代、倭国は「百余の国々に分かれていて、漢の時代には朝見して来る国もありました」と記されています。短期間に大陸からの渡来者が急増し日本列島各地に集落を築いたことが、「百余の国々」と史書に記載されるほど、地域が分断することの原因となったのです。邪馬台国の時代に至る直前、多くの国々が倭国に台頭した理由は、大陸から渡来した人々と、それらの民を動員した豪族の存在なくしては語ることができません。

邪馬台国が台頭するまでの歴史を振り返ってみましょう。1世紀ごろ、諸王の長として大倭王が邪馬台国を治め、倭国の中からおよそ30国が中国と通好したことが後漢書に記されています。これら30国の首長は、「みな王と称して、代々その系統を伝えている」という記述からしても、国々のルーツは、かなり昔まで遡ることがわかります。家系と伝統を重んじる諸王が、複数の部族に分かれて倭国の統治に携わっていたのです。それは正に、「君子の国」の末裔であることの証であり、その背景には、文字文化と戸籍のような家系の記録があったに違いなく、家系の血統を大事に記録してきた西アジアのイスラエル系民族の文化を彷彿させます。

その後、2世紀後半から倭国は乱れ、長期間にわたり国内で騒乱が続きました。その大きな要因として、渡来者の波がピークを迎えた頃、諸民族間と現住民との緊張度が頂点に達しただけでなく、それまでとは異なる宗教文化を携えた部族も大勢渡来し、各地で対立が生じたことが考えられます。そして王位の継承や統治に関わる諸問題に加え、都の立地条件や宗教儀式、神宝の所有権と宝蔵方法など、国家の尊厳と在り方そのものに関わる問題が浮上したことも、倭国の統制が著しく乱れる原因となったのではないでしょうか。その結果、倭国の内乱は海外でも噂されるようになったのです。

卑弥呼が君臨する邪馬台国の台頭

大混乱に陥った倭国ではありますが、2世紀末に卑弥呼が即位して国を治めることにより、国家の混乱は一旦収拾し、平穏な時代を迎えることになります。膨大な数にのぼる渡来者の到来だけでなく、数々の地域紛争や、複雑な諸問題に対し、卑弥呼はその鋭い霊力をもって先頭に立ち、邪馬台国を導きます。

三国志や梁書、晋書によると、卑弥呼が帯方郡に使節を初めて送ったのは魏の時代、景初3年、239年のことです。そして女王卑弥呼の存在は魏からも認知され、親魏倭王の封号を得ただけでなく、実際に国家の統治も規律正しく行われるようになります。しかしながら邪馬台国の水面下では、新しい都の造営を目論む機運もあり、特に秦氏のように独自の宗教歴史観に基づき、着々と地盤を広げていく民もいました。そして卑弥呼は248年ごろ、狗奴国との戦いにおいて力尽き、死去してしまいます。

その後、男王が王位を継承するも、再び国家は乱れ、台与(臺与)と呼ばれる女王が王位を継承するまで、混乱は続きます。そして266年、倭の女王の使者が朝貢したと伝えられる晋書の記述を最後に、倭国に関わる歴史の情報は中国の史書から1世紀半の間、途絶えることになり、およそ150年という空白の時代を迎えるのです。

邪馬台国の真相に近づくために

古代社会において、中国大陸でも注目された邪馬台国。日本史において、大きな布石を残した大国の歴史ではありますが、その詳細については未だに解明されてない部分が多く、特に邪馬台国の比定地に関しては、さまざまな議論が今日まで続いています。

一見、幻のような存在にも思える邪馬台国ですが、その王国は実存したからこそ、今日の日本があります。邪馬台国の真相に一歩でも近づくために、その実態について記録された中国史書の内容に注視し、そこに記されている古代識者の見解を紐解いていきます。

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