「魏志倭人伝」が証する海路と陸路の旅
「魏志倭人伝」に記載されている邪馬台国への道のりについては、旅の途中にある拠点ごとの距離が記されています。その記述に従って朝鮮半島の帯方郡からたどると、末盧国の場所が九州北部の鐘崎と宗像にあたることがわかります。また、距離に関する記述だけでなく、海路と陸路が繰り返されたルートを検証すると、古代の民が行き来した旅路が地図上に浮かび上がってきます。
魏志倭人伝には、朝鮮半島から倭国の邪馬台国へ向かう途中、対馬から壱岐へ渡り、玄界灘の荒波を乗り越えて九州北部の末盧国に至ったことが記録されています。末盧国に上陸した後は、しばらくは陸路を進み、その後、再び船に乗って海を渡ることになります。最終目的地へ向かうには船が必要になることがわかっていながら、なぜ途中で陸路を使わなければならなかったのでしょうか。一見すると不可解な記述ではありますが、そこには何らかの地理的要因があったと考えられます。九州北部周辺の地勢を検証すると、その理由のひとつとして、下関海峡の複雑な地形が浮かび上がります。
末盧国から陸路を経由した理由
古代の民が壱岐から海を渡って末盧国へ向かい、その後、陸路を進んだ後、再び船に乗って航海を続けた背景には、九州北部特有の地形があったと考えられます。壱岐から九州北部へ向かい、鐘崎に着岸した後のルートを考えてみましょう。そこから九州の東海岸へ向かう最短の旅路を想定すると、必然的に海岸沿いを船で進むよりも、陸路を利用する方が効率的であった可能性が見えてきます。
例えば、壱岐から鐘崎港へ向かい、そこから沿岸を東方に進み、下関を経由して周防灘から九州東海岸、今日の北九州市小倉南区周辺の海岸へ向かう航海路を考えてみましょう。すると、九州と本州の接点にあたる下関海峡周辺では海岸線が深く入り組んでいるため、海峡を抜ける航路は大きく迂回することになります。実際、鐘崎から周防灘までの航海距離は70km以上にもなります(地図参照)。

当時の1日あたりの平均的な航海距離を20kmと仮定しても、最低3日は費やさなければならず、天候によってはさらに日数がかかったはずです。しかも、壱岐から危険な玄界灘を渡ってきた乗組員にとって、目の前に鐘崎港が見えるにも関わらず、そこに寄港せず航海を続けることは、大きな心の負担となったに違いありません。そのため、遠回りとなる海峡経由の航海路の代替案として浮上したのが、鐘崎から陸路を進むルートの活用です。
古代、壱岐から九州東海岸方面へ向かうには、一旦鐘崎に着岸し、そこから陸路を進んだ方が、より早く、安全に目的地へたどり着けました。鐘崎から周防灘沿岸までは一直線とはいかずとも、比較的平坦な道を東南方向へ進むことができます。そして50kmほど陸路を進むと、周防灘を望む北九州東海岸に到達します。2日もあれば余裕を持って歩くことができるほどの距離です。陸路を利用することにより、海路より少なくとも1日早く東海岸に到達できるだけでなく、より安全な旅が可能になったのです。
鐘崎からさらに東南方向へ進む
倭国の領域に入ってから邪馬台国へ向かう旅の方角にも注目です。鐘崎から見て九州東海岸は東南方向にあり、鐘崎港から出発して宗像を経由し、東海岸へ向かうルートも、起点から東南方向へ進むことになります。このことから、末盧国から「陸上を東南に五百里すすむ」という魏志倭人伝の記述にも合致しているのです。
「魏志倭人伝」に記載されている目的地の方角とは、旅人が進む方向を示しているだけでなく、時には旅の途中で停泊した地点から、次にどの方向へ移動するのかを示しているとも考えられます。いずれにしても、末盧国を鐘崎と想定することにより、その後の陸路についても、中国史書の記述のままに理解できるようになります。
神功皇后に纏わる壱岐と鐘崎の繋がり
壱岐から海峡を渡り、倭国の玄関口となる鐘崎港に到達すると、岬に鎮座する織幡神社が目に入ります。石段を上って境内まで足を運び、周囲を見渡すと、広大な玄界灘が目に飛び込んできます。古代の民も、その高台から海を眺め、離島から渡航してくる民の無事を祈願したのではないでしょうか。
織幡神社は宗像5社の中でも有力な神社のひとつであり、筑前国の式内社の中でも、宗像大社の次に列記されています。この織幡神社こそ、鐘崎と壱岐が宗教文化や人の交流を通じて、深く結び付いていた証となる古代聖地です。その背景に潜む歴史の軌跡をたどると、壱岐からの渡航者が目指した末盧国が鐘崎であったという史実を裏付けるうえでも、興味深い手掛かりとなります。
鐘崎にある織幡神社の祭神は、竹内宿禰です。そして武内大臣が織られた幡が収められたことから、織幡という社名が付いたのではないかと考えられています。また、社記には、「壱岐眞根子臣の子孫の人つたへて是を祭る」とあります。その記述から、織幡神社の社家には壱岐氏との繋がりがあったことがうかがえます。古代社会において、鐘崎と壱岐との間に深い交流があった可能性を、織幡神社の由緒は証しています。
創立年代は定かではないものの、「宗像大菩薩御縁起」には、三韓征伐にあたり、宗大臣が武内宿禰の「織り待て」る「赤白二流の旗」を持ち、御手長(おてなが)を振り下げたり振り上げたりしながら敵を翻弄したと記されています。こうした伝承を踏まえると、神功皇后の朝鮮出兵を機に、織幡を掲げる思いをも込めて、織幡神社が鐘崎に鎮座したのではないかと推測されます。また、その御手長と呼ばれる旗竿は、壱岐の「天手長男神社」と「天手長比賣神社」に由来しているだけでなく、最終的には沖の島に保管されたことも記されています。つまり、織幡神社は壱岐のみならず、宗像大社の一宮が存在する沖ノ島とも深い繋がりがあったのです。
神功皇后による朝鮮出兵の背景
神功皇后の朝鮮出兵に関する出来事は、壱岐でも大切に伝承されてきました。例えば、朝鮮へ出兵する際に、神功皇后が最後に船出をしたのは、壱岐の勝本浦であったと言われています。勝本浦には聖母宮(しょうもぐう)があり、その聖なる母とは神功皇后と考えられています。また、実は朝鮮へ出兵した際に、皇后は妊娠しておられたという背景もあり、その出産を遅らせるために石を用いたという記述が古事記にあります。
そして倭国に戻られてから無事に出産したのが、後の応神天皇です。古事記では応神天皇の出生地が福岡市の宇美とされていますが、実際は壱岐であるという伝承も残されています。壱岐では10月の例祭になると、神功皇后、応神天皇、および仲哀天皇が乗ったと想定される2台の神輿を御神幸船に搭載し、湾内を巡航する行事が長年にわたり執り行われてきました。
神功皇后の朝鮮出兵に関連して、もう1点見逃せないのが、宗像大社とともに官幣大社として名を連ね、北九州や玄界灘周辺において宗像大社と並ぶ影響力を持っていた香椎神宮の存在です。式内社として博多湾近くに鎮座する香椎神宮では、神功皇后と仲哀天皇が祀られています。伝承によれば、香椎神宮において神功皇后は神より新羅を攻める神託を授かり、それを契機として朝鮮への出兵が実現したのです。その際、北九州八幡の帆柱山と呼ばれる円錐形の山から木を伐り出して、神功皇后が乗船する御座船を造ったという伝説も残されています。
安曇族などの海洋豪族の活動範囲は、九州北部から東海岸の大分沿岸まで広がっていたと考えられます。それゆえ、九州には日本最古の神社のひとつとして知られる宗像大社だけでなく、大分には八幡神の総本宮である宇佐神宮も建立されました。宇佐神宮の建立は8世紀ですが、祀られている八幡大神は応神天皇の御神霊と語り継がれており、その信仰の背景に古代にまで遡る歴史があります。こうして、邪馬台国へ向かう途中のルートに位置する鐘崎・宗像と、北九州八幡、大分の宇佐は、古くから深い関わりを持つ地域であったと考えられま。
海洋豪族の拠点となる鐘崎港
神功皇后の時代に織幡が掲げられ、日本の建国に大きな貢献をしたとされる応神天皇が出生した背景には、壱岐と鐘崎・宗像に纏わる歴史と文化が深く関わっていることがわかります。そして神功皇后の伝説が九州東海岸沿いの大分まで広範囲に語り継がれていることからしても、九州北部の陸地では、古くから渡来人や要人を含む人々の往来が、東西を結ぶルートを通じて形成されていた可能性があります。
その背景には、玄界灘から瀬戸内海まで自由自在に行き来した海洋豪族の存在があり、そのひとつが安曇族です。海洋豪族は、沖ノ島をはじめとする離島を経由して倭国へ出入りする際の九州川の玄関口として鐘崎を利用し、そこを倭国への玄関港としたのです。したがって、鐘崎は古くから海人に利用された重要拠点であっただけでなく、九州東海岸への近道となる陸路への上陸地点としても認知されることになります。こうして鐘崎は古代の港町として発展し、そのすぐ近くに鎮座する宗像神社とともに、重要な海上交通の拠点を形成していたと考えられます。






