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渡来人の影響を受けた瀬戸内海の文化
古代社会において海上交通網が徐々に発展していく弥生時代の最中、稲作の文化を携えた渡来人が、大陸から訪れ始めます。新しい文化は短期間のうちに列島内へと広がりを見せ、東北地方までも含め、各地に弥生集落が造られていきます。弥生時代の遺跡は全国各地から出土していますが、その分布図を時代ごとに検証することにより、渡来人が列島を移動する形跡を垣間見ることができます。
弥生中期後半の高地性集落、及び瀬戸内海中部、島出土の弥生銅器
弥生時代も中期後半に入ると、新しい渡来人の波が押し寄せ始め、北九州や近畿、東海だけでなく、日本海や太平洋沿岸でも至るところに集落が造られ、北海道までその影響が及びます。そして沿岸と内陸、相互において人と物の動きが活発化し、列島各地に交通網ができあがりました。中でも主たる交通網は、北九州から瀬戸内海を渡り、東方へ向かう航海路でした。九州北部には多くの集落が発展しましたが、弥生時代における人の流れはそこに留まることなく、大勢の民は周防灘の沿岸から瀬戸内海方面に渡り、そこから四国、近畿、中部、東海など、他の地域へと向かう者も少なくなかったのです。
弥生時代に大勢の渡来人が瀬戸内海に到来したことは、周辺の地域に見つかった弥生遺跡の数からしても明らかです。しかし内海に浮かぶ島々には稲作ができるような平地が少なく、たとえ存在したとしても狭く、海砂の堆積した土壌や湿地、そして背後には山しかないような場所が殆どでした。ところが、一見して居住に相応しくないと思われる海岸からも、弥生時代のものと考えられる木葉文壺や重孤文壺などの土器が多数発掘されたのです。つまり生活に不便な島々周辺の地域においても、古代の人々は舟を用いて島々を巡り渡り、砂浜が不思議と生活の場になっていたことがわかります。しかしながら、瀬戸内海の沿岸には居住に適した平地が存在するのに、何故、わざわざ住みにくい島々に出向く必要があったのでしょうか。
弥生時代に出現した高地性集落
不思議なことに、弥生集落が全国各地へ発展するのと時期を同じく、瀬戸内海中部周辺の地域に限り、人の流れが突如として高地に向かいはじめ、島の山頂周辺に住む人々が現れたのです。その結果、特に芸予諸島から淡路島の間では、島々の山頂に多くの高地性集落が出現し、同様の集落は、瀬戸内海沿岸から一部、大阪湾沿いの山々にも広がりました。これらは、その年代がおよそ紀元前1世紀から紀元2世紀の期間、すなわち弥生時代中期の後半に絞られていることがわかっています。それはちょうど、邪馬台国が台頭する直前の時代でした。
高地性集落の中でも、瀬戸大橋周辺に浮かぶ備讃瀬戸の島々の香川県側では、発掘された石器の量が畿内の大遺跡にも匹敵すると言われる紫雲出山遺跡(標高352m)、空海が堂を建てて山で修行したと伝えられる塩飽諸島、広島の王頭山に隣る心経山(標高300m)、小豆島の西、豊島(てしま)の檀山(標高340m)等が有名です。岡山県には貝塚や竪穴式住居、方形周溝墓を伴う遺跡が見つかった児島山頂の貝殻山遺跡(標高284m)や、倉敷市の種松山遺跡(標高180m)があります。また、今治の沖、愛媛と広島の間に浮かぶ芸予諸島や、大島の八幡山、伯方島の宝股山、大三島の鷲ヶ頭山、岩城島の積善山、生名島の立石山など、多くの島々の頂上に高地性集落の跡が見つかっています。さらに兵庫県側の播磨灘では、島全体が花崗岩質でありながら、弥生土器や石鏃、農耕具、漁撈具が出土した男鹿島(たんがしま)の大山神社遺跡(標高220m)が有名です。昨今では、淡路島において弥生遺跡の発掘が継続して進められており、石上神社周辺の舟木遺跡(標高150m)では、多くの弥生土器が出土しています。
高地性集落の遺跡から出土した弥生時代の遺物の中には、銅鐸や青銅の剣、矛や、石を材料として作られた鏃のような武器、鉄製の釣り具だけでなく、時には吉備の児島にある貝塚遺跡からの遺物のように、鹿や猪などの獣骨が一緒に見つかる場合もありました。これらは伝統的な暮らしである漁撈生活を基軸とした生活手段を持ちながらも、人が住む居宅はその海辺から遠く離れた山の上に置き、しかもそこでは動物の生贄が捧げられ、何らかの祭祀的な宗教儀式が行われていた可能性を示唆するものです。また、淡路島の舟木遺跡のように、単に弥生時代の遺物が出土するだけでなく、信仰の対象となる磐座周辺には人為的に巨岩が並べられることがあり、そこで祭祀活動が行われていたと推察できるような遺跡も存在します。
淡路島の古代鉄器製造施設跡
淡路島の舟木から南西6kmの場所で発掘された垣内遺跡(標高200m)からは、弥生時代後期の大規模な鉄器製造施設跡も見つかっています。平野部が少なく、山々が連なる特有の地形を持つ淡路島では、想像以上に遠い昔から青銅器が用いられていただけでなく、その後、製鉄技術も培われていたのです。青銅器は、淡路島の古津路遺跡からだけでも中細形銅剣が14個、銅鐸においては島全体から20個も出土しています。青銅器の需要がそこまであるとは考えられない淡路島で、これだけ多くの青銅器が出土すること自体不思議ですが、鉄器製造の前哨となる青銅器工場が淡路島に存在していた可能性を示唆するものです。
大規模の鉄器製造施設が見つかったと背景には、中国大陸や朝鮮半島から運ばれてくる青銅の素材が、瀬戸内海経由で西から東へと運搬され、淡路周辺の地域において生産された後、物資や食物の代償として島外に運搬されていたという歴史の流れがあるようです。弥生銅器が他の瀬戸内海の島々や沿岸からも出土していることからしても、古代社会における瀬戸内の航海路が物資の輸送において重要な役割を果たし、文化の発展に不可欠な一大動脈となっていたことがわかります
瀬戸内海から発展する製塩技術
また、弥生時代に広まる稲作を伴う農耕技術の発展により、魚だけでなく穀物も食するようになるにつれて塩の需要が高まり、土器製塩と呼ばれる古代の製塩技術が、瀬戸内海沿岸から普及し始めたことにも注視する必要があります。特に岡山県と香川県の間にある備讃瀬戸の海域周辺においては、おびただしい数の製塩土器の破片が各地で見つかっています。
海水を煮ることで作られた土器製塩による塩の生産は、弥生時代の後半から古墳時代を超えて、奈良時代までも発展し続けました。そして生産された塩は、瀬戸内海沿岸周辺の集落で用いられただけでなく、全国各地の集落に向けて運ばれたと考えられるのです。塩の運搬においても瀬戸内海の航海路が重宝されました。
弥生時代中期より急増する大陸からの渡来人の波、そして瀬戸内海界隈にて突如として発展し始めた高地性集落の存在、遺跡から発掘される多くの青銅器や鏃などの武器、及び釣針や土錘等の存在は、瀬戸内海を航海路の動脈として、人と物が、海と陸、山々を動いていた史実を証しています。
謎めいた高地性集落の起源
ところが、全国各地に弥生集落が発展していく最中、瀬戸内海の中心部に限って局地的に出現した高地性集落の多くが、2~300年という短い期間で歴史から姿を消していきました。そして集落の住民がどこに移住したか全くわからなくなったちょうどその頃、瀬戸内海沿岸から内陸の奥地へと向かう先には、古代の山上国家が息吹いており、やがて邪馬台国としてその姿を歴史に現すことになります。
弥生時代中期後半に突如として現れ、短命に終わった高地性集落には、多くの謎が秘められています。一番の問題は、それら高地性集落へのアクセスが容易ではなく、常識を遥かに超えた不便な山上に造られているということに尽きます。瀬戸内海周辺の高地性集落の実態を検証すると、集落の多くには何故かしら、ひたすら山の頂上周辺を目指した傾向が見受けられます。それが「山頂遺跡」とも言われている所以です。芸予諸島や香川県、岡山県界隈の島々で見つかった高地性集落からも、山頂付近には多くの遺跡が見つかり、その標高は200m前後から、高いものでは400m近くにまでなります。これらの集落は、時には山上の斜面や丘陵にも見つかっており、海岸線からは遠く、場合によっては半日以上かけて歩かなければならないほど、遠距離にある集落も少なくありません。
何故、当時の民は、平野部や農耕地から遠くかけ離れ、居住するにも大変不便な山々の頂上近くにわざわざ集落を形成したのでしょうか。しかも、高地性集落が存在した地域は、瀬戸内海の中部周辺にほぼ限定され、その規模は一時的に拡大することはあっても、倭国王、そして邪馬台国が台頭する時代の前後から、早くも姿を消していくことになるのです。
高地性集落が造られた理由
高地性集落が造られた理由は定かではありません。防衛的観点から集落を守り、社会的緊張から隔離する目的で、高地に集落が造られたという説があります(図参照)。その背景には中国の史書にも記載されている倭国の乱れがあり、国内における地域の混乱に備える必要があったと推測されます。
また、高地性集落の多くは展望の良い場所にあり、焼け土が発見される事例も散見されることから、それらは狼煙の跡という説もあります。山頂周辺の視界が良い高所であり、周囲の海岸まで広く見渡せ、地域情報を収集できる場所が、狼煙台の立地条件として重要視されたと考えるのです。
しかしながら狼煙を上げ、見晴らしを求めるという目的のために、果たして山頂周辺の高地に集落を構える必要があったのか疑問が残ります。瀬戸内海の山々は急斜面が多く、山頂まで上り下りするには多大な労力が伴い、物資の輸送も不便であったことは明白です。高地性集落の多くは平野部や農耕地から遠く離れている場所に存在することから、食料の確保にも余計に労さなければなりません。生活手段となる食料の確保は海岸沿いの漁撈を主体としていた時代だけに、高地性集落の目的が防衛手段や展望にあったという説明だけでは、いささか不十分と言えます。見晴らしの良い地を求めるならば、もう少し海岸線からアクセスの良い場所に展望所を作ることもできたはずです。
不思議なことに、山頂で見つかった集落の遺跡からは、石包丁や鉄製、及び骨角製の釣り針などが出土し、しかも貝塚まで見つかっています。高地性集落に住む古代人の食生活の基盤は、海岸沿いの平野部にも確かに結び付いていたと考えられます。つまり、高地性集落の民は、漁撈を中心とした生活を営みつつ船で海を航海することもあり、時には農耕作にも携わり、陸海両方に生活手段の拠点を持ちながら、その住まいだけは何故かしら大変不便な険しい山の上に築いていたようなのです。
交通の不便な古代の山麓において高地へと移り住み、集落の拠点を山頂に築きながらも標高差をものともせず、海岸沿いの平野部と山頂を毎日数百メートルも歩いて上り下りするというライフスタイルは、極めて想像し難いものです。これらの高低差と距離の不便さを如何に克服して集落を造成したかが、高地性集落の謎です。
高地性集落と渡来人との関係
高地性集落の目的を理解するために、今一度、その歴史的背景を中国史書の記述と共に、古代海洋文化の発展と照らし合わせながら振り返ってみました。すると7つの大切なポイントが浮かび上がってきます。
- 古代社会における海の交通網は、航海術を得意とする海人族により列島周辺に発展し、淡路から瀬戸内海を通って北九州周辺の海域まで、東西を行き来する航海路は、古くから存在した。
- 高地性集落が現れた瀬戸内海中部周辺の海域は、弥生時代中期以降の集落の発展において、人と物資を輸送するための主要航海路を提供し、交通網の基幹となっていた。
- 弥生時代中期後半、突如として渡来人の波が大陸から押し寄せはじめ、北九州界隈だけでなく、近畿地方、そして、中部、東海、関東地方から本州の北部に至るまで、各地で人口が急増し始めた。
- 渡来人が大勢到来し始めた時代は、中国大陸において秦王国が滅亡した直後と重なり、中国史書にも記載されているとおり、秦から逃れて一時期朝鮮半島に滞在していた秦氏らが、日本に渡来し始める時期と合致している。
- 大陸の文化を携えてきた渡来人が列島各地に拡散し、居住しやすい平野部を中心に集落を築き上げている最中、瀬戸内海中部を囲む地域だけには、全く異質の高地性集落が誕生し、山頂に近い山麓周辺に人々が居住した。
- 弥生時代において農耕地が徐々に開拓されるにつれて、穀物の消費に必要な塩の生産が瀬戸内周辺を中心に始まり、土器製塩の手法を用いた製塩方法が瀬戸内から全国に普及した。
- 高地性集落が徐々に姿を消し始めた時代は、倭国王が台頭し始める年代と重なり、その直後から、邪馬台国が歴史に姿を現すことになる。
これらの史実を参考にして高地性集落の成り立ちを振り返ると、渡来人の流入と邪馬台国の歴史がその背景に絡んでいた可能性が見えてきます。まず、大勢の渡来人が列島を訪れたのと時期を同じくして高地性集落が歴史に姿を現したという時代の一致から、これらの集落は渡来人による影響を多大に受けていた可能性が考えられます。渡来人の到来は史書の記述からも明らかであり、古代社会における人口の推移や増加率を見ても、弥生時代中期後半から移民の波が押し寄せ始めたことがわかります。
その渡来人の中心的な存在が秦氏でした。一行の中には居住に適した北九州周辺に留まることなく、そこからさらに東の海、瀬戸内海方面に渡る者が少なくありませんでした。そして秦氏は自らの経済力に加え、皇族との関わりもあったが故に、北九州地域を超えて、その東方にある瀬戸内海を渡り、近畿地方周辺にまで民族移動を完結したのです。その結果、列島内における秦氏の経済力は短期間で拡大し、多くの集落が造成されました。
それら渡来人の存在が高地性集落の発展に関与していた可能性があります。一連の歴史の流れから察するに、弥生時代中期後半、山上周辺の高地に集落を形成するという特定の目的意識を持った民族が突如として大陸から訪れ、各地に高地性集落を造成したと考えるならば、歴史の謎が紐解けてきます。その外来民族の流れを作ったのが、秦氏を中心とする西アジア系の渡来者であったと推測されます。秦氏らの宗教観に支えられたが故に、大陸から渡ってきた多くの渡来者は瀬戸内海沿いの高地に集落を築き、新天地に未来を託したのではないでしょうか。
倭国の高地を目指した宗教的背景
秦氏の出自はユダヤと関連していると想定されるとから、信仰のルーツにはイスラエル人の聖典である旧約聖書の教えがあったと推測されます。そして秦氏の宗教的背景や、イザヤ書などの旧約聖書に記載されている聖地に対する考え方を振り返ることにより、何故、秦氏らが東の島々を探し求め、そこに高地性集落を作ることを望んだのか、その思いを理解できるようになります。
例えば旧約聖書のイザヤ書には、以下の教えが記載されています
- 神が約束された新しい地が東の島々にある(24章15節)
- 神の神殿がある山は一番高く、神聖な場所である(2章2節)
- 神の御手は、聖なる山の上にとどまる(25章10節)
- 神は「岩なる神」である(30章29節)
- 神の山にて神を祀り、犠牲の燔祭を捧げる(25章6節)
- 神の民は高い山に登り、声をあげて賛美する(40章9節)
- 神の栄誉を待ち望んでいる島々に、告げ知らせる(42章4、12節)
- 神の山々は聖なる民によって引き継がれる(65章9節、57章13節)
長い年月を経てアジア大陸を渡り歩いてきたイスラエルの民族が忘れることのなかった大切なイザヤのメッセージの中には、神の国を求めて東の島々に到達した際に、成し遂げるべきことが明確に示されていました。それは新天地の島々において、その山々の頂点に立ち、いつ神が訪れても良いように、民の備えをすることでした。その為、瀬戸内海周辺から見える山々が「東の島々」の高地と見定められた暁には、海上から確認できる周辺の高地に祭祀を司る聖職者が送り込まれ、聖なる儀式が執り行われたのではないでしょうか。そして祭祀らは高き山にて神を祀り、それが小集落の形成に繋がったと考えられます。
それら山頂に近い祭祀場においては定期的に燔祭が捧げられ、その為に動物が高地まで運び込まれて屠られたと推測されます。それ故、その痕跡となる動物の獣骨が、今日でも発掘されることがあるのです。また、山々に潜む際立った自然の岩は「岩の神」の象徴として聖別視され、そこでも神が祀られました。こうして、神の到来を待ち望んだ秦氏らを中心とするイスラエル系渡来人の働きにより、短期間に高地性集落が造られたと推測されます。
ところが、山上にていくら燔祭を捧げても神は天から訪れることがなかったどころか、下界では多くの渡来人が列島に流入した結果、現地人との領土争いなども各地で勃発して国土は混乱し、いつしか100以上もの小国家に分裂することになります。これらの統治争いによる国の乱れに見切りをつけるためにも渡来人のリーダーらは力ある30余国を集めて協議し、古来礎の元に息吹いていた山上の国に信任を置き、倭国の中心として連合国を作ることにしたのではないでしょうか。それが邪馬台国であり、女王なる卑弥呼が信任された背景です。その結果、瀬戸内沿いの山々に遣わされた高地性集落の祭祀らは山上国家に結集するべく高地性集落から撤退することとなり、それらの集落は廃退していきます。
高地性集落の背景には、山上にて神の到来を求め続けた古代人の姿がありました。そして瀬戸内海の島々から遥か遠くに見える古代いにしえの神の山が、聖地の本丸と位置付けられたのです。そして多くの民は瀬戸内を経由してその山に結集し、女王卑弥呼を中心とする国家の土台が整えられたのです。倭国王が歴史に登場した背景には、このような神の山を目指す民の信仰心がありました。そして瀬戸内海は女王国へ向かう最後の通過点となり、その先に卑弥呼が君臨する邪馬台国が存在したのです。