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2025/05/14

不弥国の港に隣接する綿都美神社 北九州沿岸から旅立つ方向を示す神社の鳥居

不弥国の岬に造営された綿都美神社

周防灘に向けて大きく広がる竹馬川河口北側の海岸線沿いに、遠い昔、綿都美神社が建立されました。今日では海から1.3kmも離れていますが、明治時代までは神社の正面まで海岸線が迫っていました。遠い昔、その岬で神が祀られ、後に正式な神社として境内が建てられたと推測されます。

岬周辺は古代、不弥国と呼ばれる小国家が存在した場所という説があります。不弥国から旅人は船に乗り、邪馬台国に向けて南方へと航海したのです。よって不弥国は海沿いに存在した国でした。綿都美神社は海沿いに建てられ、その鳥居と参道が次の経由地となる宇佐神宮を指しています。宇佐神宮は古代の旅人にとって極めて重要な聖地であり、そこで航海の安全を祈願することが求められたことでしょう。よって、宇佐神宮に結び付く綿都美神社は不弥国にあり、そのすぐそばに港が存在したと考えられます。

海岸に面した綿都美神社

綿都美神社の宮司でおられる平野家には、平野文書と呼ばれる14世紀から16世紀にわたる中世の文書が伝来され、現在は市立自然史・歴史博物館に市指定有形文化財として保存されています。また、明治時代に描かれた「綿都美神社境内の図」と題された神社全体と周辺の見事なスケッチも存在し、平野家にて保存されています。

「綿都美神社境内の図」には、2つの大切なメッセージが含まれていました。まず、明治時代においても鳶ヶ巣山と高蔵山との間の谷間は海であったということに注目です。つまり鳶ヶ巣山は、浅瀬に浮かぶ離島であり、綿都美神社は確かに岬の最先端に建てられていたのです。もう1つのポイントは、綿都美神社が海岸沿いに位置するだけでなく、その本殿から鳥居を抜ける参道は、大胆にも一直線に海に面していたのです。航海の指標となるため、神社の参道や鳥居を旅する方向に向けて構築するという典型的な神社のデザインと言えます。

綿都美神社と「ワタツミ」の由緒

緩やかな傾斜のある山の裾に佇む綿都美神社は、734年、「立地条件に最も適したこの地に海神風神を竜王の宮として奉斎」と、その由緒に記載されています。よって、その歴史は少なくとも奈良時代まで遡ります。また、「明治維新とともに社号を綿都美と改めた」とも記載されています。当初は海と風の神を祀る「竜王の宮」と命名された神社ではありますが、古くから「ワタツミ神社」としても知られ、その名残が伝承されてきた結果、明治時代に入って正式な社号として改名されたのです。

その祭神は正式には綿都美神、志那都毘古神、志那都毘売神であり、社伝によると招福鎮魂の郷土の守り神としてこれら氏神を仰ぎ祀り、その信仰が継承されてきたとのことです。古事記の神生みの記述の中では、十柱の神の1人である大綿津見神、別名、豊玉彦命が海の神として知られています。そして次に、イザナギとイザナミの間にできた四柱の神の1人である志那都毘古神の名が、風の神として登場します。その後、木の神、山の神、野の神と続きます。大綿津見神と志那都毘古神が、これら一連の自然に関する神々の記述の中で前後に繋がっていることからしても、綿都美神は大綿津見神と同一神であったと推定されます。これは、不弥国の綿都美神社が、対馬の和多都美神社と深い絆で結ばれていることを意味します。

また、イザナギが黄泉から帰って禊をした際に生まれた底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神は、後に列島周辺の海原を渡り巡る海神として知られる阿曇連、阿曇氏の祖先です。この三神をもって、綿都美神と称している可能性も指摘されています。いずれにしても、海を支配する神が綿都美神社で祀られていることに変わりなく、国生み当初からイザナギ、イザナミの子として海の支配を任されたスサノオノミコトの働きに準じる神であることに違いありません。対馬の和多都美(ワタヅミ)神社と同様に、不弥国の海岸拠点においても海の神を祀る綿都美(ワダツミ)神社の存在は極めて重要だったことがわかります。

宇佐神宮を指す綿都美神社の鳥居

不弥国から邪馬台国へ向かう旅路の途上において、綿都美神社が旅の安全を祈願する祈りの場として重要な役割を果たしただけでなく、その旅先の方向にある宇佐神宮の存在までも見事に明示していたことを、綿都美神社の鳥居の位置から知ることができます。

神社の鳥居が向く方向は、重要な意味をもっている場合が少なくありません。例えば対馬の和多都美神社には5重の美しい鳥居が海岸に向かって一列に並んでいますが、これらの鳥居の方角は、遥か彼方にある朝鮮半島の狗邪韓国の港を指していたと考えられます。幾重にも重なる鳥居には、大陸より訪れる旅人の航海安全を祈りつつ迎え入れることを願うだけでなく、対馬の和多都美神社から大陸へ向けて渡航する者が目指す方角を示す道しるべの意味もありました。

一方、不弥国の綿都美神社の2重の鳥居も、同様に重要な地理的意味を持っています。明治時代に描かれた上の絵を見てもわかる通り、綿都美神社の2重の鳥居は海に向けて参道から一列に並んでいます。その鳥居が向けられている方角が重要だったのです。そして綿都美神社の本殿から鳥居が並んでいる中心線を指す方角を確認すると、東南方向137度を向いています。

地図上で綿都美神社から137度の方角に一直線を引くと、ちょうどその先には宇佐神宮が存在します。これは、綿都美神社と宇佐神宮が海の神を祀る聖地として繋がっていることを意味しています。複数に重なる鳥居が指す方向だけに、それは不弥国から旅する次の目的地が宇佐神宮であり、旅する方向を示していたと推測されます。また、宇佐神宮から九州の東海岸を北上して航海する際には、不弥国の綿都美神社を目指したことをも示唆しています。綿都美神社が北九州の沿岸に存在し、古代から宇佐神宮との間で船が海岸線沿いを行き来していたことからしても、不弥国の港が綿都美神社であったと考えられます。

コメント
  1. おおさか より:

    いつも楽しく拝見させていただきありがとうございます。
    綿都美は辰韓、弁韓、馬韓と同様に倭辰巳がそれに相当する漢字であって当時半島南部は倭の領域との意識があった頃の半島南東部を指していてるのではないでしょうか。つまり、綿津見とは弁韓や伽耶の地域だと考えるのが適当だと思います。

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