投馬国の比定地を地名から探す
南至投馬國 水行二十日… 可五萬餘戸
南へ水行20日で投馬国に至る。5万余戸の人家がある。
「魏志倭人伝」より
朝鮮半島の南端に位置する狗邪韓国から船で旅立ち、対馬、壱岐を経由して、北九州の末盧国に到達した後、大陸からの使節一行は陸路を東南方向へ進みました。そして使節が宿泊することでも知られている中継地の伊都国を過ぎると、2万戸を有する奴国に到達します。そこから東方へ100里の距離、7~8㎞向かうと周防灘に面する海岸に至り、その周辺は不弥国と呼ばれていました。不弥国の北西方向には足立山が聳え立ち、その麓近くの港から再び船に乗り、投馬国への旅が始まります。
九州の不弥国から南へ海を渡り、20日進むと五万余戸の人家がある投馬国に到着すると、「魏志倭人伝」は記録しています。投馬国の比定地については、地名の発音が投馬に類似していることを重要視する学者が多く、その主だった候補地だけでも数十か所に及んでいます。九州だけでも熊本県の玉名と当麻、鹿児島の高城郡托摩と都万郷、宮崎の都萬、福岡県の上妻や下妻と豊前、豊後、そして大分の五馬などが挙げられます。そして山陽、山陰地方では、出雲や兵庫県北部の但馬、瀬戸内海側では山口県の玉祖、岡山県の玉野が名を連ねます。さらに新井白石によって広島の鞆(とも)町と、東方に至っては兵庫県の須磨の浦、双方が候補地として提言されましたが、いずれも結論に至ることができませんでした。
これら比定地のほとんどは、投馬国の名前が「トウマ」、もしくは「トゥマ」と読まれるという前提から、その発音に似た地名を持つ場所が候補地として挙げられています。これほどまでに意見の分かれる投馬国の比定地ですが、その場所を特定する手立てはあるのでしょうか。果たして類似した名前を探し求めることだけが唯一の手だてなのでしょうか。
投馬国を距離から比定する
史書の記述を頼りに投馬国の比定地を見出す鍵は、他にも3つあります。次の決め手は中国史書に記された船旅の日数から距離を特定することです。北九州の不弥国から船に乗り、水行20日間という長い時間をかけて航海し、投馬国の地に到達するだけに、投馬国はかなり遠い場所にあったと考えられます。古代、北九州周防灘沿いの港を出航し、日本列島周辺の海域を20日かけて渡航するということは、どれだけの距離を旅することになるのでしょうか。その20日間という航海日数をかけて辿り着ける距離にある地域を、まず模索します。
古代では日が昇っている日中に船旅をすることが常道手段であったと想定されます。よって、1日あたりの航海時間は季節によって異なるとしても、平均して10時間ほどにもならなかったはずです。また、海流の影響も強く受け、雨風の問題にも頻繁に直面することから、1日平均の渡航距離は30㎞に満たないかもしれません。それでも20日という旅程で考えると、延べ600㎞もの距離になります。
不弥国があったとされる北九州から投馬国まで600kmの距離を旅することは、例えば九州の東海岸沿いを南に下っていくと仮定するならば、最南端の鹿児島を越えて種子島を経由し、屋久島まで辿り着くことになります。それでも屋久島までの距離は600㎞に満たず、しかもそこからさらに続くはずの水行と陸行の旅は、この屋久島経由のルートでは実現できません。また、不弥国からいったんは南下し、その後、四国の佐田岬に渡り、そこから四国の西岸を南に向かって足摺岬から高知県沿いを600㎞進むと、四国東岸の徳島まで到達してしまいます。よって水行20日を600㎞とする考え方には無理があるようです。
そこで北九州足立山麓の綿都美神社を不弥国の港と想定し、投馬国の比定地としてこれまで提言されている九州や四国の地までの距離を測ってみました。すると北九州の周防灘に面する不弥国から海岸線沿いを南方向に辿り、国東半島を過ぎた後も、別府湾を経由して更に南下し続けたと仮定すると、宮崎県延岡周辺の北部平野部までの距離は約260km、日向市までが280km、宮崎平野北部までは約320kmとなります。また、投馬国を四万十と想定し、北九州から伊予灘を過ぎて豊予海峡を越え、四国最南端の足摺岬まで南下してから四万十へ北上したとしても320㎞ほどです。伊予灘から瀬戸内を東方へ向かい、今治平野へ航海しても300㎞です。
これらの地域に船で20日間の航海をしたとすると、いずれも1日あたりの渡航距離は15㎞前後となり、船旅の行程としては大変短いものです。それでも天候などの諸事情に大きく左右されることも考慮すると、例えば九州の東海岸沿いを南へと航海し続けるという前提で考えるならば、320kmという宮崎平野周辺までの距離は、20日の水行にて到達できる渡航の範疇となりうるかもしれません。国東半島から伊予灘を渡り、四国佐田岬へ向かうという想定も可能であり、佐田岬の北側を東方向に進めば、およそ300kmで今治平野に着きます。また、佐田岬より南方面へ向かったとするならば、約320kmで四万十まで到達します。これらの地域が、距離のデータから推察することができる投馬国の候補地として考えられます。さらには瀬戸内海を東方に向かうことにより、さらに渡航距離を延ばして検討することができます。
投馬国の大きさから考察する
投馬国を探すための3番目の決め手は、国の大きさです。よって投馬国が「五万余戸」という大変多い家屋を建造することができる程、広大な地域にあるということを念頭に、候補地を絞り込みます。
元来倭国とは、「山や島によって国や村をつくっている」と魏志倭人伝に記載され、百余の国々に分かれていました。その後、魏の時代では30国が諸外国に知られるようになります。これらの国々は、小さな島単位で国を形成しているものもあれば、九州や四国などの大きな島では、舟の行き来をする際に、停泊できる港の周辺の平野部が成長したものも含まれていたことでしょう。また、山の地の利を活かし、山上や、時には山地に囲まれた盆地にも国が作られていたのです。そして「五万余戸」という数字を見る限り、その世帯数から国の人口は少なくとも20万人以上と想定されるだけに、それだけの人口を抱えて国家を成立させるだけの広大な平野が、船で渡航できる海岸沿いになければならないのです。
そのような条件を満たす場所は限られており、西日本の航空地図を参照すれば一目瞭然です。それらは九州東海岸沿いでは延岡平野と宮崎平野、四国では松山と伊予を囲む道後平野、及び瀬戸内海沿いの今治平野、四国最南端の四万十、そして讃岐平野です。つまり投馬国の候補地は、これらの平野のいずれかであると考えられます。
史跡の痕跡や伝承を辿る
4つ目の鍵は、地域周辺に旅の指標となる神社や史跡の痕跡を見出し、邪馬台国への旅路との関連性を見極めることです。「魏志倭人伝」が記録した20日の水行の範囲に九州は入ることから、例えば九州の東海岸沿いにある延岡、日向、宮崎平野を想定してみましょう。
延岡平野の西側、山地奥には、高千穂と呼ばれる聖地があり、天照大神が隠れたという伝承が古くから残されている天の岩戸が存在するだけでなく、その周辺の史跡には神武天皇の御兄弟、四皇子が誕生されたとされる四皇子峰や、高天原遥拝所も古来より広く信仰されています。
これらの史跡や言い伝えの多さからしても、高千穂周辺のエリアは、神武天皇を筆頭とする歴代の天皇や古代国家と、何かしらの関与があったということに疑いはありません。また、卑弥呼を洛陽音で読むと「ヒムカ」となりますが、その読み自体が日向の読みと酷似していることからも、日向と邪馬台国が関連している可能性を窺うことができます。
九州に投馬国が存在しない理由
しかしながら史書の記述によれば、投馬国を離れた後、そこから南へと水行をさらに10日経た後、陸行1か月を要して邪馬台国に辿り着くことになっています。それ故、宮崎周辺を投馬国に比定した前提で、日向周辺から西方向に高千穂を眺めながら10日間の旅を続けると仮定すると、投馬国を延岡とした場合は鹿児島東部の都井岬、串間まで到達し、宮崎平野を比定地とすれば船は種子島にまで行ってしまうことになります。しかもいずれの場所において、そこからさらに30日の陸行を介して邪馬台国へ向かう道すじが存在しないのです。
また、九州の南部、鹿児島方面に邪馬台国があったとするならば、何故、わざわざ水行と陸行を繰り返して九州の東海岸沿いを南下する必要があるのか説明できません。最初から九州の西海岸沿いを下るだけで大幅に行程日数を少なくすることができるため、旅程の辻褄が合わなくなります。さらに鹿児島以南の地域は邪馬台国への旅の基点となる朝鮮半島北部の楽浪郡から見て、東南方向とは言えなくなってしまうことも問題です。
これらを総合して考えると、邪馬台国に向けて不弥国を旅立ち、投馬国へ向かう船の行き先は宮崎や鹿児島方面ではなく、むしろ不弥国から南へ向けて出航した後、国東半島から四国の佐田岬へと方向転換したとしか考えられません。その想定により、佐田岬経由の20日の水行と10日の水行、そして最後の30日の陸行の道すじが見えてきます。邪馬台国へ向かう目印は、どうやら四国の佐田岬が重要な旅の指標となることがわかってきました。