宗像大社の由来と祭神
鐘崎に隣接する宗像は、古代社会においては鐘崎と一体となり、集落を形成していたと考えられます。現在の宗像市の中心は鐘崎港から南方約8km、宗像大社はその手前、およそ5.5kmの位置に在ります。その歴史は大変古く、奈良時代の前期においてはすでに宗像大社の3宮となる沖ノ島、大島、田島は営まれ、古事記ではこれらが奥津宮、中津宮、邊津宮と称されました。地理的にも離れているこれら3宮を総合して、宗像大社は形成されています。
一の宮は玄界灘に浮かぶ沖の島にあります。その西南山腹の森の中に沖津宮が存在し、島全体が御神体とされています。二の宮は鐘崎港から海上約9kmに浮かぶ大島の中津宮です。そして三の宮が、現在の宗像郡玄海町田島の辺津宮であり、今日では参拝者が多く訪れる宗像大社として知られています。これら3宮には天照大神の姫神である長女神の田心姫神(たごりひめかみ)、次女神の瑞津姫神(たぎつひめかみ)、末女神の市杵嶋姫神(いちきしまひめかみ)がそれぞれに祀られています。宗像三女神は宗像大神とも称され、今日まで宗像氏が奉祀しています。
宗像大神が道主貴と呼ばれる所以
宗像大社は沖の島や大島に並び、朝鮮半島に近い位置に在ることから、外国との文化交流をするにあたり、その受け入れの窓口として重要な拠点となりました。日本書紀には皇族をもてなしてお迎えするために、神勅が天照大神より授けられ、宗像三女神がそれぞれに遣わされたことが記されています。それ故、宗像大神は道主貴(みちぬしのむち)と称されることもあります。その名の意味は「最高の道の神」です。大陸より渡来する民に道を示し、導いてくださる神として、「貴」(むち)という最も尊い称号が使われたと考えられます。
「道主貴」に含まれる「貴」という漢字は、「ムチ」の発音をもつ言葉の当て字にすぎません。この言葉はヘブライ語のמוצא(motse、モチ)が語源となっている可能性があります。その意味は「見つける」「発見する」です。また、同じ言葉を「モツァ」と発音することにより、「民族の出身」「出所」をも意味します。
宗像大神が「道主貴」と呼ばれたのは、アジア大陸から訪れる民に旅の航路を示し、導き守ってくださる神の象徴だったからではないでしょうか。それ故、「道主」の後にヘブライ語の「ムチ」を語尾とし、「貴」の漢字を当てたと考えられます。そして「道を見出してくださる神」を象徴する称号として、「道主貴」の名で知られるになったと推測されます。この言葉には、「民族の原点となる神の道」のニュアンスも込められています。まさに宗像大神にふさわしい名称と言えます。
宗像三女神は古代、大陸から渡来する民が朝鮮半島から九州へ渡る道中の導き手として、その途中に浮かぶ島々にて大きな影響力を持つようになりました。特に王系の民、皇族を手厚くもてなすために、その航路沿いに在る沖の島、大島、田島の地にて社の拠点を構え、「道主貴」として新天地を訪れる旅人を迎えていたのです。
「ムナカタ」に充てられた種々の漢字
宗像(むなかた)の語源については定説がなく、何故「ムナカタ」と呼ばれるようになったのか、不明のまま今日に至っています。名前の由来については、宗像神を鏡や玉などを用いて「身体之形」にして「身形」(ミノカタ)と称したという説や、宗像三女神が出現した際に、胸や肩から光が放たれたことから「胸肩」(ムネカタ)とする説、そして宗像市の田島側では海が入り込み干潟を形成していたことから「空潟」、「沼無潟」(ムナカタ)とする説などがありますが、どれも信憑性の乏しいものです。
宗像の読みについては、諸本のどれをみても「ムナカタ」と読んでいることから、その読みについては異論がないようです。「倭名抄五」では「牟奈加多」「延喜式九條本」にはカタカナで「ムナカタ」、また「類聚國史五」や「雄略記」には、それぞれ「宗形」「胸方」と記され、どれも「ムナカタ」と読まれています。
また、社名についても複数存在し、日本書紀には「胸肩」、古事記には「宗形」、筑前風土記には「宗像」と書かれています。そして総称としては、宗像神社以外にも「宗形神社」「筑前國宗像宮」「宗像社」「宗像宮」などが併用されています。それぞれの時代において社名や総称に充てられる漢字が微妙に変化することがあるようです。しかしその読みについては一貫して「ムナカタ」で変わりありません。これらの背景から、元来「ムナカタ」と発音する言葉が先行して存在し、それに複数の漢字が充てられてきたと考えられます。
宗像の意味をヘブライ語で解明
この「ムナカタ」と発音される言葉の語源は、ヘブライ語の可能性があります。「ムナカタ」の「ムナ」はヘブライ語ではמונה(Moonah、ムナ) と書きます。この言葉には「任命された」「約束された」という意味があります。そして「カタ」は、חתן(khatan、カタン)の語尾が落ちた発音と考えられ、「花婿」「主賓」を意味します。すると、「ムナ」と「カタ(ン)」を合わせて「ムナカタ」となり、ヘブライ語で「約束の花婿」「任命された主賓」の意味になります。
日本人には馴染みの薄い言葉ですが、イスラエルの民にとっては「約束の花婿」とは重要な意味がありました。旧約聖書では、神とイスラエルの関係を夫と妻に喩え、神を夫、イスラエルを妻としています。そして雅歌には花婿と花嫁の美しい恋心についても記載されています。その教理の延長線上に新約聖書の教えもあり、そこにはイエスキリストが花婿、イスラエルが花嫁として、「花嫁を迎えるのは花婿だ」とも記載されています。
つまり「ムナカタ」とは、花嫁イスラエルを「約束された花婿」である神が迎えるという意味を持つ言葉だったと考えられます。花嫁であるイスラエルの民が、神の言葉を信じつつ長い年月をかけて大陸を横断し、時には海を渡って倭国まで導かれた暁に、遂に約束の花婿が現れ、出迎えを受けるという至福の意を込めた言葉が「ムナカタ」です。「宗像」とは、その約束が成就するためにひたすら祈願し、花嫁が到来するのを待ち望む民の思いを象徴する言葉とも言えます。
また、「カタ」にはもうひとつの解釈があります。「カタ」をヘブライ語で「王の冠」を意味するכתר(keter、ケテー)とし、「ムナ」と合わせると「ムナケテ」になります。その発音は極めて「ムナカタ」に近く聞こえ、「約束された王冠」「王位」を意味します。「定められた王権」、「(神から)授かった王位」を象徴する「ムナケテ」「ムナカタ」に宗像の漢字が当てられたのではないでしょうか。
アジア大陸より渡来したイスラエルの民
イスラエルの民が西アジアから新天地を目指した背景には、イスラエルの国家を失った民が新天地にて国家を再建し、そこに新しいエルサレム、神の都を復活させるという強い想いが働いていました。そして神がイスラエルの民に約束され、永遠に続くと言われたダビデ王の子孫の繁栄、すなわちその血統を引き継ぐ者を王とした国家の再建は、万人の願いでもあったことでしょう。それ故、長い年月を経て大陸を横断し、神が預言者を通して語られた東の島々に到達した時の喜びと感動は、言葉では言い尽くせないものだったに違いありません。
その約束の地の玄関で、大陸より訪れる民を迎えた言葉が宗像「ムナカタ」であったと考えられます。それはヘブライ語で、「王権の定め」を意味していました。日本列島に渡来したイスラエルの民は、この言葉を聞いた瞬間、歓喜に包まれたに違いありません。神はイスラエルへの約束を忘れることなく、倭国という東の島々にて神を信じる人々に、新しい国家の造営を託されたことがわかったからです。
「ムナカタ」を掲げた島々では、神勅を授かった天照大神の3女神が万全の準備をして渡来してくる民の受け入れ態勢を整え、沖ノ島から大島、そして鐘崎を経由して田島の辺津宮へと導きました。この3女神とは、イスラエルの民と王系の皇族をもてなす役目を授かった預言者イザヤの孫娘達と考えられます。
「ムナカタ」という言葉はヘブライ語で「約束の花婿」「王権の定め」、どちらにも理解することができます。また、折句のように2重の意味を持つ言葉として捉えていたのかもしれません。大事なことは、イスラエルの神の導きにより、国家を失った民が「ムナカタ」にて希望に満ちた新天地を見出し、新しい王国をそこに造営する確信を得られたことです。「宗像」の存在意義とは、王族を含むイスラエルの民、神を信じる人々を新天地へと導き、そこに新しい国家を築くことだったのです。