投馬国の比定地となる讃岐平野
「魏志倭人伝」の記述を元に邪馬台国への道を辿ると、北九州の不弥国から国東半島、佐田岬を経由して瀬戸内海を東方へ渡航するルート上に、投馬国が存在したことがわかります。その小国家へは、不弥国から20日の船旅を要しました。
不弥国からおよそ300㎞に位置する今治平野は、投馬国の比定地として有力な候補に挙げられています。しかし、1日の渡航距離が15㎞と短いだけでなく、今治平野沿いの海岸からは南方へ向かう渡航ルートが見出せない問題が残されています。また、今治平野から10日間船に乗り、讃岐で下船して四国の陸路を南方に向かったとしても、すぐに吉野川の広大なデルタにあたります。すると陸行30日ということで本来は徒歩で進むはずが、その途中に多くの河川を船で渡る水行を伴うことになり、史書の記述に合致しません。
残された最後の選択肢が、今治平野から100㎞ほど東方にある讃岐平野です。四国北東部に位置する讃岐平野は四国地方最大の平野として、高松平野や丸亀平野も内包しています。香川県の観音寺と丸亀は陸海の交通の便に優れ、今日では四国最大の都市圏が広がり、古代では5万戸の家屋を有するに相応しいエリアです。また、讃岐平野の西方、丸亀市の琴平町には古代聖地として名高い金刀比羅宮が建立され、海上交通の神が祀られています。不弥国より20日という長い船旅の後、金刀比羅宮にて神を参拝し、休息の時を持つことは、長く危険な航海を続ける古代の民にとって、極めて重要な風習であったに違いありません。この讃岐平野こそ、投馬国の比定地ではないでしょうか。
不弥国から投馬国までの渡航ルート
不弥国からの讃岐平野までの船旅は水行20日を要し、その距離は約400㎞です。1日平均の道のりは20㎞になります。「魏志倭人伝」において水行20日と記載されている航海の旅程として、天候の不順による船の停泊や途中の宿泊を考慮すると、1日の渡航距離としては想定内です。その20日間の航海ルートにおいて、停泊した可能性があるエリアの地名を地図上で確認しました。

投馬国の比定地を讃岐平野とすることにより、渡航途中にある停泊地を想定しやすくなります。これらは九州の宇佐、国東、奈多宮神社、四国の愛媛では佐田岬、伊予、松山、今治、西条、新居浜などが挙げられます。そして香川では観音寺、丸亀と続きます。不弥国からこのルートを辿り、香川の讃岐平野まで進むと、古代では海岸線が入り江となり、神社の境内近くまで船で旅することができたと推測される金刀比羅宮に到達します。
そこから瀬戸内へ戻り、丸亀を越えて東方に50㎞ほど進むと、四国最北端となる高松の竹居岬に着きます。広大な讃岐平野はこれらの場所をすべて網羅しているのです。その最北端の地に邪馬台国への中継地点となる投馬国の港が存在したと想定すれば、その後10日間続く水行ルートが見えてきます。
2つの岬が並ぶ讃岐平野の最北端
四国最北端、竹居岬の周辺は、2つの岬から成り立っています。竹居岬のある東方の岬には、四国八十八箇所霊場の第八十五番札所八栗寺があり、西方の岬には、第八十四番札所屋島寺が建立されています。どちらの岬も、その中心に古代の聖地が建立され、かつ、周辺の海岸沿いには今日でも複数の港が存在します。また、岬の南方は広大な讃岐平野に繋がり、投馬国の比定地として申し分ないエリアと言えます。さらに興味深いのは、アイヌ語でで投馬が「2つの岬」を意味することです。投馬の語源をアイヌ語とするならば、名称の意味も合致します。
讃岐平野が投馬国の比定地になりうるかは、その後の旅のルートが「魏志倭人伝」の記述どおり、見えてくるかどうかにかかっています。投馬国から南方に10日間航海を続けた後、陸地を徒歩で1か月旅すると、邪馬台国に辿り着くと「魏志倭人伝」などの中国史書に記録されています。この情報が投馬国の比定地を見極めるための重要な鍵となります。果たして投馬国を讃岐平野に比定し、その港を高松周辺の竹居岬とした場合、「魏志倭人伝」の記述どおり理解できる邪馬台国へのルートを見出すことができるのでしょうか。


讃岐平野から10日間の船旅ルート
投馬国から邪馬台国へ向かうには、再び船に乗り、10日間の航海をします。その際、「魏志倭人伝」の記述どおり、まず、南方向に船出することが重要です。投馬国を讃岐平野の高松に比定した場合、出発港の場所は四国最北端となる竹居岬周辺となります。そこから船で南下し、東香川、鳴門、徳島方面へと向かいます。そして海岸沿いを辿りながら吉野川下流の徳島に到達すると、河口付近は広大なデルタになっていました。
吉野川の河口から先は上流に向かって川を上っていくルートだけでなく、吉野川を通り過ぎて海岸沿いを南方に進み、那賀川河口から川を上るルートもありました。さらに南の海陽町、海部川河口から上っていくルートも存在します。これらのルートのうち、どの水行ルートが選択されたかは、その後の陸行の道すじに左右されます。
投馬国より到来した船は、吉野川の河口からまず上流に向かい、その支流となる鮎喰川を南へと進んで船を漕いで行くことが定番のルートになっていたと推測されます。その支流を上ることにより、四国剣山の麓に近い神山町まで最短距離で行けるだけでなく、そこから先は歩きやすい山道が続くからです。また、鮎喰川沿いの丘の上には八倉比賣神社が建立され、船旅の途中、そこで一休みし、神を参拝することも重要視されたことでしょう。
吉野川の支流に佇む八倉比賣神社
吉野川の支流となる鮎喰川の途中には、四国八十八箇所遍路でも知られている第13番札所大日寺、第15番札所国分寺、第16番札所観音寺、第17番札所井戸寺が並びます。空海も注目したエリアであったに違いありません。特筆すべきはこれらの札所がすべて、八倉比賣神社の境内と磐座がある小高い山の麓に建立されていることです。つまり鮎喰川を上流に進めば、八倉比賣神社の磐座沿いを必ず通っていたのです。その奥の院にある磐座は、古代から「卑弥呼の墓」と語り継がれてきています。鮎喰川を上ることには何かしら大きな意義がありそうです。



八倉比賣神社の麓を通り過ぎた鮎喰川の上流で、10日間の船旅が終わります。讃岐平野、高松から徳島を経由して八倉比賣神社の麓周辺まではおよそ130㎞です。川を上るには通常の航海よりも時間がかかることから、1日の進行距離は落ちます。よって、投馬国の比定地と推定される讃岐平野から水行10日をかけて到達する目的地が八倉比賣神社の上流にあたると想定できます。そこから1か月の徒歩の旅が始まります。
30日の陸路を経て邪馬台国へ!
10日間の水行の後、陸地を1か月かけて進むという「魏志倭人伝」の記録から、邪馬台国は遠い秘境の山奥にあったことがわかります。四国の山岳を前提に考えると、そこに辿り着くまでの陸路は単に距離が長いだけでなく、歩行するに危険な急斜面の崖なども随所に存在したと想定されます。それ故、できるだけ安全かつ、短い日数で移動できる山道が厳選されたはずです。よって、船を降りて水行10日と陸行1か月のルートをどこで結び付けるか、そして四国の山奥までどのようにして無駄な労力を費やすことなく、歩いて旅することができるかが、邪馬台国への道を見極める鍵となります。そのベストルートは四国の地勢を地図上で確認することにより、今日でもおよそ検討をつけることができます。
陸行1か月という長旅を視野に入れるならば、吉野川の支流となる鮎喰川の上流から神山町に向かい、そこから西方に聳え立つ剣山方向へと歩む陸路が自然に浮かび上がってきます。つまり、吉野川河口より八倉比賣神社界隈まで船で上った後、途中の川沿いにて下船し、まず、神山町方面に向かって山を登ります。そこから今日の県道438号沿いを、西方に聳え立つ剣山の方に向かって歩んだのではないかと推測されます。
今日、西日本で2番目に高い標高1955mの剣山と徳島は、県道438号1本で繋がっており、他のいずれのルートよりも四国中心の山岳地帯に向けて歩きやすい陸路を提供しています。とは言え、四国の山々は絶壁も多く、このルートでさえも古代では歩行に支障をきたす場所が多く、旅の難所が続いたのです。それが陸行1か月という長い期間を要した理由です。
投馬国の比定地を四国の讃岐平野、今日の高松周辺とすることにより、投馬国から10日間の水行と30日間の陸行のルートが見えてきました。その旅の途中に、卑弥呼の伝承がある八倉比賣神社が建立されていることは注目に値します。この繋がりは偶然ではなく、古代、多くの人々が吉野川の支流を上り下りしながら、八倉比賣神社にて神を祀ってきたことの証と考えられます。その上流から山道を登ると、果たして邪馬台国に辿り着くことができたのでしょうか。中国史書に綴られているデータから浮かび上がってくる秘境の地とは、四国山上にあった可能性が見えてきました。
