今治平野から姫路へ向かう海上ルート
不弥国からおよそ20日の航海を経て投馬国に到達した後、そこからさらに10日間の船旅を続けて最終港へと向かったことが「魏志倭人伝」に記されています。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
南して邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月。
「魏志倭人伝」より
投馬国の場所を特定するためには、北九州の不弥国から投馬国までのルートだけでなく、そこからさらに邪馬台国の玄関港まで船で10日間かけて進む渡航ルートも、重要な決め手となります。その1案として、投馬国を今治平野、最終港を姫路とする説があります。今治平野から四国北岸を東方へ向けて出航し、丸亀付近から四国を離れ、小豆島の西を通り抜けて、瀬戸内海北岸の姫路へ向かう渡航ルートです。
今治平野を投馬国に比定した場合、不弥国から投馬国までの距離はおよそ300kmです。すると、1日当たりの渡航距離は15kmとなり、古代の航海を前提に考えても少々短く感じられます。その距離感を前提に投馬国から10日間の航海をすると、150kmほどの距離を進むことになります。一方、今治平野から姫路までの距離は約180kmであり、30kmほど長くなりますが、1日あたりの渡航距離が15kmから18kmになるという想定は、渡航距離の誤差として許容できる範囲と考えられます。
しかしながら、「魏志倭人伝」には、投馬国から邪馬台国へ向かう方向が南方であると記されているため、東方に位置する姫路へ向かうルートは、本来ならば検討対象外になるはずです。それでも、この方向について何らかの誤植や解釈上の問題があったと仮定すれば、東方へ進むルートを想定することも不可能ではありません。投馬国の比定地としては、今治平野よりさらに東方に位置する讃岐平野の可能性が高いと考えられますが、ここでは今一度、今治平野を投馬国とする前提に立ち、姫路を経由して邪馬台国へ向かう30日の陸路を想定してみました。果たして姫路周辺から邪馬台国へ繋がる陸路をたどることで、その先に邪馬台国の比定地が見えてくるでしょうか。
邪馬台国の比定地は丹波?
まず、兵庫県の中央東部に位置する丹波が、邪馬台国の比定地として浮かび上がってきます。姫路から丹波までは直線距離で約60km、勾配が緩やかな川沿いを歩くと約70kmの距離です。山陽と山陰の間に聳え立つ山地は意外と険しいことで知られ、丹波の北西にある栗鹿山も、その急斜面が目立ちます。しかしながら標高は962mほどであり、姫路から丹波へ向かう際の高低差は、さほど大きくありません。また、丹波市内の水分れ公園は瀬戸内海側へ約70kmとなり、日本海側へも約70km流れる河川の上流分岐点にあたります。ここは本州で最も低い中央分水界として知られ、海抜はわずか95mです。つまり、姫路から川沿いをたどれば、山々の急斜面をできるだけ避けながら丹波に向けて陸路を進むことができます。
「魏志倭人伝」の記述によると、最終港から邪馬台国への陸行には30日を要します。しかし、姫路から丹波までは、途中の山々による行程差を考慮したとしても、7日もかけずに到達できる可能性があります。丹波特有の地勢を踏まえると、陸行30日という距離に対してあまりにも短いため、邪馬台国の比定地とするには無理があるようです。

丹後に邪馬台国があった?
別案として、さらに北上して京都府北部の丹後国方面まで足を延ばし、そこを邪馬台国とする説も提案されています。しかし、丹後国は日本海側に位置することが大きな課題となります。瀬戸内海を経由して丹後に向かうと、姫路から途中の山地を越えて北上しなければならず、かなり迂遠な旅路となります。また、日本海側に邪馬台国が存在したとすれば、わざわざ周防灘から瀬戸内海を経由して航海する必要性がなくなります。対馬海流に沿って日本海沿岸を航行すれば、より直接的に最終港へ到達できると考えられるからです。その航海距離は、不弥国から500kmほどになり、瀬戸内海を経由して姫路まで向かう距離と大きく変わりはありません。
ところが、上陸した後の邪馬台国までの距離は数十㎞程度しかなく、数日で到達できてしまいます。そのため、「魏志倭人伝」に記されている30日の陸行という条件を満たせません。さらに、日本海側を航行するのであれば、北九州から陸路を東南方向へ進み、東岸に面した不弥国まで行く理由がなくなります。そこから再び下関付近を迂回して北上することになり、極めて遠回りな経路となるためです。古代社会における日本海側の港や集落の発展状況を考慮する必要もありますが、邪馬台国を日本海側に位置付けると、楽浪郡の東南方向という史書の記述との整合性にも問題が生じます。
丹波・丹後へ向かうルートを想定することが難しいのは、やはり「魏志倭人伝」に、投馬国から出発する旅の方向が南方と記されているからです。讃岐平野から近畿地方へ向かう場合、瀬戸内海を東方へ航海することになり、中国史書の記述と合致しません。また、讃岐平野から瀬戸内海を渡って姫路までは80km少々となり、水行10日に該当する航海路としては距離が短すぎます。高松から姫路を経由して大阪湾の奥まで船で進むことを想定すれば、距離はおよそ135kmになります。しかし、そこから丹後までの陸路は70km前後しかなく、上陸してから30日間陸路を進むという史書の記録に見合いません。旅の方角だけでなく距離を考慮しても、丹波・丹後へ向かうルートを想定するのは難しいと言えます。
邪馬台国・近畿南部説を考察
姫路に上陸してから陸路を大阪方面へと向かい、その先の近畿南部に邪馬台国が存在していたという説もあります。邪馬台国の比定地については、九州説と並び奈良盆地周辺を候補地とする見解も根強く、新井白石や本居宣長を筆頭に、多くの学者が大和国を邪馬台国に比定してきました。また、奈良県の桜井や、奥吉野から紀州一帯を比定地とした学者も少なくありません。そこで今一度、史書の記述に照らしながら、これらの地域が地理的条件に適合するのかを検証します。
奈良盆地は、標高差がさほど大きくない丘陵に囲まれている平坦な地域です。姫路から奈良までは約120km、桜井まで約130kmの道のりであり、比較的歩きやすい地形を考慮すれば、いずれも徒歩3~4日ほどで到達できる距離です。陸行30日という旅程を考慮するならば、瀬戸内海から大和国へ向かう場合、奈良は単なる通過点となり、目的地はその先に存在しなければならないということになります。
平坦な奈良盆地を南へ抜け、さらに南方へ進むと、次第に険しい山が聳え始めます。奈良県南部、吉野川流域よりさらに南に広がる奥吉野の山岳地域や十津川流域、さらには熊野までを考慮すると、陸行30日に該当するエリアが見えてくるようです。果たして、紀伊半島の奥地に邪馬台国が存在したのでしょうか。
史書の記述に矛盾する近畿南部説
奥吉野や紀州、近畿南部を邪馬台国の比定地とした場合、中国史書に記載されている邪馬台国の地理的条件に関する記述とは相いれないいくつかの問題が生じます。まず、「帯方郡より女王国に至る間の距離は一万二千余里である」という記述に注目です。朝鮮半島西北部の大同江河口から1万2000里という距離は、短里を80mと仮定しても、1000kmほどです。帯方郡からその距離に該当する地域は淡路島周辺が限界であり、大阪や奈良までは含まれません。奈良や桜井までは1050km前後となり、短里を87.5mとしない限り辻褄が合わないのです。さらに、その南の十津川までは約1080kmとなるため、短里75mの想定では、約1万4000里にもなってしまいます。
次に「女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある」という記述内容の解釈にも課題が残ります。邪馬台国の東方には海があり、その海を70~80kmほど渡ると、そこに別の国が存在したということになります。しかし、奥吉野や紀州の東方は太平洋の海原だけがあります。たとえば奈良周辺から南方へ30日間の陸行し、十津川村周辺を邪馬台国と仮定した場合、その東方には太平洋が広がっています。その先に国が存在することを示す史書の記述とは、整合しにくいのです。
また、東方の彼方にある国の存在も問題です。奥吉野から東方には海がないことから、100kmほど北東方向に進み、今日の伊勢志摩、鳥羽の海岸まで進むしかありません。すると、そこからは海を渡れば伊良湖岬が見えますが、その距離は20kmほどしかなく、70km前後と考えられる千余里の記述に合わないのです。伊勢から海を渡り、三河湾の奥にある豊橋まで航海すれば、およそ60kmとなり、千余里に近い距離となりますが、果たして目の前に見える伊良湖岬を越えて、さらに三河湾の奥まで航海することを「海を渡ること千余里のかなた」と解釈できるのかについては、疑問が残ります。
三つ目の問題は、「その南に侏儒国がある。この国は女王国から四千里離れている」という「魏志倭人伝」の記述です。邪馬台国の南には、背丈の低い人が住む国があるはずが、近畿南部の南方には海しかありません。さらに重要なのが、「倭国の境域は、東西は徒歩5か月、南北は徒歩3か月で、おのおの海に至る」という記述です。つまり、邪馬台国が存在する倭国は、東西南北が海で囲まれた地域であり、東西の方が南北よりも長く、しかも徒歩で3~5か月もかかるほどの距離があったということになります。奈良や桜井、奥吉野、紀州を邪馬台国の比定地とした場合、南北の距離の方が東西よりも長いだけでなく、北方には海がないため、この記述との整合性を取ることが難しくなります。これらの史書の記述を総合すると、邪馬台国の比定地を奈良や桜井、奥吉野とすることは難しそうです。
今治平野を投馬国とした際の問題
今治平野を投馬国と比定した場合、そこから次に向かう港は、四国の高松や讃岐、あるいは山陽の姫路、もしくはそこから大阪湾に向けた海岸沿いに想定されます。しかし、いずれにおいても上陸後に「魏志倭人伝」の記述に沿った邪馬台国までの陸行30日のルートを見出すことができず、史書の解釈に問題が残ることがわかります。
たとえ奈良方面の奥地にあたる川沿いまで到達したとしても、そこからさらに30日の陸路を歩くことを想定するにも無理があります。仮に奈良周辺から南方へ30日間の陸行をしたとして、十津川村周辺まで行き、そこが邪馬台国としましょう。すると東方には太平洋が広がり、その先には別の国が存在しません。中国史書にはその東方に国があると明記されているだけに、紀伊半島を南下すると、その陸地を見出せなくなります。このことから考えると、投馬国から邪馬台国へ向かうルートは、今治平野から瀬戸内海を東進する経路とは別に存在する可能性が高いと言えるでしょう。





