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2026/10/14

投馬国の比定地は讃岐平野か? 邪馬台国への最終経由地は海沿いの平野

投馬国への渡航ルートを見極める

南至投馬國 水行二十日 
南して投馬国に至る。水行二十日。

「魏志倭人伝」より

不弥国から次の目的地となる投馬国までは、南方へ向けて20日間の長い水行となります。北九州の東側沿岸に不弥国があったという前提に立つと、そこから南に向けて投馬国まで航海するルートは、九州の南方か四国方面のいずれかです。投馬国は邪馬台国へ向かう途中の通過点であり、邪馬台国連合の中では最大規模の小国家です。九州、四国、いずれを選ぶにしても、投馬国の比定地が5万戸の家屋を有するのにふさわしい広大なエリアであることに違いはありません。

旅のルートを見極めるためには、船が停泊する場所を特定することも欠かせません。九州の東海岸沿いにおいては、宇佐神宮と国東半島の八幡奈多宮が重要な場所として挙げられます。宇佐神宮は中国から渡来した秦氏らによって建立された古代の聖地であり、邪馬台国の時代には、既に宇佐では神が祀られていました。それゆえ、邪馬台国への旅路の途中、大陸からの渡来者との結び付きをもつ宇佐神宮に立ち寄り、参拝することは、古代の渡航者にとっても大きな意味を持っていたと考えられます。

また、不弥国に隣接する足立山麓に建立された綿都美神社には二重の鳥居があり、その鳥居は東南137度の方角に向けて建てられ、宇佐神宮を指しています。これは、不弥国から投馬国への航海路の途中に宇佐神宮が存在するだけでなく、宇佐が極めて重要な聖地であることを示唆しているようです。神社の正式な建立時期は邪馬台国の時代以降ですが、それ以前から綿都美神社の場所では神が祀られていた可能性があります。参道にある二重の鳥居は、宇佐神宮との深い結び付きを示すものとして注目されます。

宇佐神宮の南方に続く国東半島沿岸に建立された八幡奈多宮も、九州と四国の佐田岬を結ぶ接点に位置することから、古代の海上交通における聖地の一つであったことがうかがえます。八幡奈多宮の三重の鳥居は東南東108度の方角に向けて建てられ、四国の佐田岬を指しています。この方向は古代の渡航者にとって、国東半島の八幡奈多宮から佐田岬に向け海を渡る際の一つの指針であり、海上の安全祈願をも意味していたと考えられるのです。これらの鳥居が海に向かって建てられていることからも、古代の人々が渡航した方向を推測することができます。

古代の日本社会における交通網の中心だった瀬戸内海は、その狭い海峡に多くの島々が散在し、潮の流れも速く、海流が不安定であったことから、海の難所として知られていました。九州方面から瀬戸内海を東方に移動する際は、国東半島から佐田岬を経由することが、有力な航海ルートの一つとして認識されていたとみることができます。また、四国の松山の道後温泉では温泉が古くから湧き出ており、神々が出雲の国から伊予の国への旅の途中で病に伏した際、温泉に浸かり、癒された話が釈日本紀などにも記載されています。それゆえ、瀬戸内海を伊予の海岸線に沿って旅することは、古くから航海ルートとして利用されていたと考えられます。

今治平野が投馬国の比定地?

船による旅程を想定する場合、1日の渡航距離だけでなく、途中、どこに停泊して夜を過ごすのかも重要です。その観点から旅のルートを見直し、航路沿いで集落が形成されやすい場所、すなわち平地やデルタが広がる地域に目を向けてみます。そして最初に浮かび上がってくるのが、四国の瀬戸内海沿いに広がる今治平野です。不弥国からの距離は300kmほどしかありませんが、投馬国の比定地を検討するうえで有力な候補地の一つです。

使節を伴う旅団が沿岸の主要港に停泊し、夜を過ごしたと想定して、今治平野へ到達するまでの航海ルートをたどりながら、途中で停泊できる港を探っていきます。まず、不弥国の比定地となる北九州の足立山麓にある綿都美神社そばの港から南方へ向けて出航した後、福岡県の豊前に停泊します。そして大分県に入ると、古代小国家が形成された地域の中でも、有力な拠点であった宇佐に到達します。九州沿岸から瀬戸内に向かう際、山口県側を経由すると、宇佐神宮を通るルートよりも渡航距離は少なくとも50kmは短くなります。しかしながら、渡航の安全を祈願するために宇佐神宮で参拝し、さらにさまざまな旅の情報を交換できたとすれば、古代の民にとって宇佐は重要な中継地であった可能性があり、不弥国から宇佐神宮を経由して、南方の国東半島に向けて船旅をしたルートが浮かび上がってきます。

そして宇佐神宮を旅立った後、国東半島の沿岸を航海し、国見町、国東市を経由して半島の南側に位置する八幡奈多宮へと向かいます。周辺に何もない海岸沿いに建てられた神社の境内には、古くから神宝を収蔵してきた宝物殿が設けられていました。一見すると孤立しているように見える宝物殿ですが、その場所は船旅の中継拠点となる立地にあり、古くから旅人の行き来があったことを示唆しています。八幡奈多宮の三重の鳥居が佐田岬の方向に建てられていることも、神社が古くから四国と九州を結ぶ海上交通の要地に位置していることを示すものとして注目されます。

八幡奈多宮の海岸からは、鳥居が指す方向に佐田岬を望むことができます。そして海の彼方に見える陸地に向けて豊予海峡を渡ると、四国の最西端に位置する佐田岬に到達します。その後、瀬戸内海沿いを航海し、二名津、伊予長浜、伊予、松山、菊間を経由して北上します。さらに来島海峡から南方へ進むと、今治平野に到着します。その南には、さらに広大な西条平野が広がっており、この今治平野が投馬国であった可能性があります。そこを投馬国と想定した場合、不弥国から今治平野まで、国東半島から佐田岬、伊予・松山を経由する航海路は約300kmです。そしてこの距離を20日かけて航海するため、1日の平均はおよそ15kmとなります。天候不順や強風、高波などの理由で航海できない日も多々あることを想定すれば、1日15km程度の渡航距離は十分に想定可能な範囲と言えます。

不弥国から投馬国(今治平野)まで水行20日のルート
不弥国から投馬国(今治平野)まで水行20日のルート

「今治平野説」に説得力があることは、不弥国の比定地となる周防灘沿いの北九州海岸から20日の水行ルートを説明できること、そして投馬国5万戸の家屋を有するだけの平野が広がり、集落が発展しやすい土地柄であることからも見えてきます。また、旅の出発点である帯方郡から見て東南の方角にあり、史書の記述と合致しています。さらに今治は瀬戸内海という古代から東西を結ぶ主要な回廊に面し、その近隣に浮かぶ瀬戸内海中部地域の島々の山頂周辺には、弥生時代に発展した多くの高地性集落が見つかっています。それらの島々を見渡す位置にある今治の北部、高縄半島の丘上には古墳時代前期に造営されたとされる全長80mにも及ぶ大型の前方後円墳、相の谷1号墳があります。このような大型古墳の存在は、この地域に有力な勢力が形成されていたことを示す一つの手掛かりとなります。つまり、今治平野周辺は、古くから人と物が盛んに行き交う地域であったと考えられます。

また、今治平野を後に水行を続ける海上ルートがあり、その先には四国の沿岸から内陸の山々へ向かう陸路が存在することも見逃せません。今治から東方に向けて海岸沿いに70kmほど航海すると観音寺に着き、そこからさらに約40km内陸へ進むと、古代より多くの人に崇められてきた金刀比羅宮に到達します。長く危険な航海を続ける古代の民にとって、旅の途中で金刀比羅宮を参拝することは大きな意味をもっていたとみられます。

金刀比羅宮を後に、四国沿岸をさらに40kmほど航海すると高松市を通過します。そこからさらに東方へ航海すると讃岐平野の最東端にあたる東かがわ市に到達し、その周辺が上陸地点になると推測されます。そして30日かけて陸路を南方に旅するルートを想定すれば、四国山地を越えた先に、邪馬台国への道すじが見えてくるようです。

今治平野を投馬国とする問題点

投馬国を今治平野に想定した場合、いくつかの問題が挙げられます。まず、不弥国から投馬国まで20日間の船旅が300km、1日あたりの渡航距離が15kmでは短すぎるのではないかという指摘があります。また、中国史書によると投馬国からは南へ向かうと記されています。今治から南南東に向かう海岸線はありますが、南方の突き当りとなる西条方面までは20kmもなく、その先には四国の陸地が広がっています。その後は海岸沿いを東方に航海しなければならないため、このようなルートを「南方へ向けて旅立つ」と捉えることには、なお疑問が残ります。

また、東かがわから30日間にわたり、陸路を南方へ進む想定にも課題があります。まず、東かがわから南下して徳島の山地へ向かうには、その途中、讃岐山脈を越えなければなりません。現在の徳島県吉野川市まで徒歩で向かう場合、現実的な最短ルートは鵜の田尾峠を通る県道318号であり、峠の標高は380mです。瀬戸内海沿岸から船を降りた後、すぐに峠を越えて上り下りする陸路を、古代の大規模な旅団が選択したと想定するには、なお検討すべき点が残ります。その先には広大な吉野川が流れていることから、むしろ沿岸からそのまま河川を利用して船で進む経路も考慮する必要があります。

さらなる問題は、吉野川の河口には日本列島でも有数の広大なデルタが形成されており、河川幅は古代でも1km以上に及ぶと推測されることです。邪馬台国の時代、吉野川河川敷の広大な湿地帯を進むには、場所によって川辺から対岸まで船に乗る必要があったと想定されます。長期間の水行を終えて上陸したはずが、再び船に乗らねばならないとすれば、それを「陸行30日」と表現できるのか疑問です。陸行30日と「魏志倭人伝」に記録されているからには徒歩で進む陸路が前提です。そのため、下船直後に再び大河川を船で渡るとは考えづらいのです。今治平野を投馬国とした場合、その先の陸行30日で邪馬台国まで到達することができるのか、なお検討すべき課題が残ります。

四万十が投馬国の比定地?

投馬国を今治平野とする見解と同じく、有力候補の一つとして挙げられているのが「四万十説」です。「魏志倭人伝」には「南至投馬國」と記載されていることから、「四万十説」では、南方へ船旅を続けることを重視しています。佐田岬からもひたすら南方を目指し、足摺岬まで到達した後、そこから北上して広大な平野を有する四万十へ至るというのが「四万十説」の骨子です。その航海距離はおよそ310kmとなり、今治平野への距離とほぼ同一です。

「四万十説」の利点は、中国史書の記述どおり南方へ向けて船旅をすることを前提とすれば、比較的自然にルートを見出せることです。四万十に到達した後、そこから水行10日の船旅も土佐湾沿いに続けられるだけでなく、その後の陸行30日のルートも四国の山上に向けて地図上でたどることができるのです。また、古代に宿毛から内陸の河川を経由して四万十へ向かうルートが活用されていたとすれば、全体の渡航ルートが40kmほど短くなり、不弥国からの距離は270kmとなります。しかし水行20日を前提にすると1日あたりの渡航距離は13.5kmとなり、今治説以上に距離が短くなるという懸念が残ります。

高知から陸地を北上していくルート沿いの山間部に、古くから物部集落が広範囲に分布していることも見逃せません。物部一族のルーツは渡来系と考えられ、その出自は西アジアに由来する可能性があります。これら山上の物部集落の歴史と宗教的背景を考察することにより、一族の真相に迫ることができるかもしれません。また、四万十の名前を逆読みすると「十万四」となり、頭2文字の「トウマン」という読みが「投馬」と重なる点も興味深いところです。「四万十説」には、こうした地理的条件に加えて、地名や古代集落の存在も独自の特徴として挙げられます。こうして見ると、「四万十説」には地理的条件だけでは捉えきれない、歴史的なロマンを秘めた独自の可能性が浮かび上がってきます。

四万十を投馬国とする問題点

「四万十説」には問題が三つあります。まず、中国史書では奴国が倭国の最南端に位置するとされているにもかかわらず、四万十を投馬国と比定することにより、投馬国が奴国の比定地である北九州よりもかなり南方に位置することになります。すると、「奴国が倭国の最南端にある」という記述との整合性が取れなくなってしまいます。四万十の南には太平洋しかないため、奴国に比定できる地域が存在しません。

次の問題は、四国西岸の地勢にあります。佐田岬から足摺岬までのおよそ140kmを航海するにあたり、途中で利用しやすい港や停泊地が見当たらないのです。今日の宇和島市や愛南町、宿毛市はいずれも入り江が深く入り込んだ地域に位置しています。例えば宇和島に停泊すると、まっすぐに南下するよりもおよそ20km余計に航海することになります。宿毛も同様に約20kmの回り道となります。こうした地形を考えると、古代の航海者が四国西岸の入り組んだエリアをわざわざ選んで主要な航海ルートとして利用したか、疑問が残ります。

さらなる課題は、投馬国を四万十と想定した場合、不弥国から四国最南端まで20日かけて船で南下した後、さらに南方へ向かう10日間の航海ルートを想定しにくいことです。中国史書には、奴国が倭国の最南端に位置し、邪馬台国は投馬国の南方にあるように記されているにもかかわらず、四万十の南には太平洋しかないのです。また、邪馬台国の南方にある国々については史書には詳細が不明であると記されている一方、投馬国の一定の情報は記録され、「魏志倭人伝」には「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」と記されています。それゆえ、四万十を投馬国とした場合、その南方に続く10日間の水行と、その先の陸行1月によって邪馬壹国に至るという行程を想定することが難しく、史書の記述とは整合しにくい点が生じます。「四万十説」もまた、史書の記述と地理的条件を総合して考えると、一筋縄ではいかないようです。

投馬国の条件に合致する讃岐平野

「魏志倭人伝」の記述を基に邪馬台国への道をたどると、北九州の不弥国から国東半島、佐田岬を経由して瀬戸内海を東方へ渡航するルート上に、投馬国が存在したとみられます。その小国家へは、不弥国から20日の船旅を要しました。しかし、投馬国の比定地には、もう一つの有力な候補地が残されています。今治平野からさらに瀬戸内海を東方に向けて航海すると、その先には広大な讃岐平野が広がっているのです。

今治平野から100kmほど東方に位置する讃岐平野は、四国を代表する広大な平野として、高松平野や丸亀平野も含んでいます。陸海の交通の便に優れた地勢を有し、今日では四国最大の都市圏が広がっています。古代においても、5万戸もの家屋を有する候補地としてふさわしい地域です。また、讃岐平野の西側にある香川県琴平町には古代聖地として名高い金刀比羅宮が鎮座し、海上交通の神が祀られています。こうして瀬戸内海を東方へ進むと、今治平野のさらに先に、投馬国の新たな候補地が見えてきます。

不弥国から投馬国までの渡航ルート

不弥国から讃岐平野までの距離は約400kmです。その船旅に水行20日を要したとするならば、1日平均の航行距離は20kmになります。「魏志倭人伝」において水行20日と記載されている旅程として、天候不順による船の停泊や途中での宿泊などを考慮すると、1日の渡航距離としては十分に想定できる範囲です。その20日間の航海ルートにおいて、途中で停泊した可能性がある場所を地図上で確認しました。

不弥国から投馬国(讃岐平野)まで水行20日のルート
不弥国から投馬国(讃岐平野)まで水行20日のルート

投馬国の比定地を讃岐平野とすることにより、不弥国から投馬国へ向かう渡航途中の停泊地を想定しやすくなります。停泊地としては九州の宇佐、国東、八幡奈多宮、四国の愛媛県では佐田岬、伊予、松山、今治、西条、新居浜などが挙げられます。そして香川県に入ると、観音寺、丸亀と続きます。不弥国からこのルートをたどり、讃岐平野まで進むと、古代には海岸線が入り江となっていたことから、金刀比羅宮の境内近くまで船で到達できたと推測することもできます。

そこから瀬戸内へ戻り、丸亀を越えて東方に50kmほど進むと、四国最北端となる高松の竹居岬に着きます。このように見ると、広大な讃岐平野は、これらの場所を結ぶ広い地域に及んでいることが分かります。その最北端の地に邪馬台国への中継地点となる投馬国の港が存在したと想定すれば、その後、南へ向けて出港するという史書の記録にも合致します。さらに、投馬国の港は讃岐平野の竹居岬という前提で中国史書の記述を読むと、これまでとは異なる視点から、その後のルートを検討できるようになります。

二つの岬が並ぶ讃岐平野の最北端

四国最北端、竹居岬の周辺は、東西二つの岬から成り立っています。竹居岬のある東側の岬には、四国八十八箇所霊場の第八十五番札所八栗寺があり、西側の岬には、第八十四番札所屋島寺が建立されています。いずれの岬にも、その中心となる古代の聖地が存在し、かつ、周辺の海岸沿いには今日でも複数の港が位置しています。こうした地勢からみても、古代に投馬国の港が二つの岬の間、もしくは周辺に存在したと想定しても、何ら不自然ではありません。

岬の南方には讃岐平野が広がっています。「魏志倭人伝」によると、投馬国は5万余戸の家屋を有する小国家であり、広大な讃岐平野の面積に見合う戸数と考えられます。さらに興味深いのは、アイヌ語で投馬(トゥマ)という音が「二つの岬」を意味することです。もし、投馬の語源をアイヌ語との関連性から想定するならば、その名称が示す意味も竹居岬周辺の地勢と合致します。

これらの地理的条件と名称上の一致を踏まえると、讃岐平野は投馬国の比定地として有力な候補の一つと言えます。そして投馬国から旅立った後の10日間の水行ルートだけでなく、その後、四国の徳島へ上陸する地点も見えてくるのです。

画像ギャラリー:宇佐神宮 / 奈多宮神社 / 和多都美神社 / 佐田岬 / 今治 / 金刀比羅宮 / 吉野川 / 四国八十八ヶ所霊場 第85番札所 八栗寺 / 四国八十八ヶ所霊場 第84番札所 屋島寺

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