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2025/09/23

剣山周辺のササ原は焼山の跡? 山岳地帯を覆うミヤマクマザサの背景に迫る

ササ原が広がる剣山周辺の山々

四国徳島の山岳地帯でも標高1700mを超えると亜寒帯に相当する気候となり、ブナ林などの林床にササ原が自生する事例が散見されます。徳島の高山に生えているササは数種類あり、ミヤマクマザサはその一種です。西日本で2番目の標高1955mを誇る剣山周辺の山々の尾根伝いには、主にミヤマクマザサがが広範囲に群生しています。徳島の山岳地帯ではミヤマクマザサがススキよりも優位を保ち、剣山を中心に広がったというのが定説です。剣山周辺の山々を登山すると、ササ原だけが生い茂る美しい山並みの光景を目にすることができます。

剣山系のササ原は、剣山から三嶺天狗塚へと1900m級の稜線が続き、東は剣山一の森から西は三嶺の西方、天狗塚まで18km以上にわたり、ミヤマクマザサの群落が広がっています。その北方には塔丸から丸笹山赤帽子山へと繋がる稜線や、矢筈山があり、南西側の土佐矢筈山や綱付森にもミヤマクマザサの群落が続いています。いずれも山の頂上周辺を中心にササ原が広がり、極めて珍しい景観を生み出しています。

ササは樹木よりも乾燥した環境に適合し、日射条件の良い山頂部や尾根伝いに生育しやすいことで知られています。それ故、山岳地帯の地勢や気候の条件によっては、山頂付近に広大なササ原が自然に生い茂る場合があると言われています。ササは冷涼な気候に適応し、地下茎で繋がっているため強風や積雪にも強く、四国山頂が有する土壌の成分にうまく依存できるからです。剣山の山頂周辺の風速は平均値として8m程度です。よって山頂部や稜線部分では森林を形成する樹木が育ちづらいため、樹木よりも強風や乾燥に強いミヤマクマザサが先に裸地を優占し、他の樹木が生える隙間がなくなったのではと考えられます。

高山のササ原は焼かれた跡か?

徳島の山岳地帯のように、山々の山頂や尾根伝いを広範囲にわたり、ササ原だけが群生しているという事例は全国でも稀です。その背景には、自然の山頂効果とは考えられないササ原が数多く存在することから、人為的な要素が潜んでいたようです。

日本では山火事が原因で山の周辺一帯がササ原になることが知られています。実際、日本各地のササ原は山頂効果と呼ばれる現象や森林の伐採、山火事、風雨などによる裸地化が原因でササ原になっている場所が多く存在します。例えば、和歌山県の生石ヶ峰のように、古くから山頂一帯にて山焼きが行われてきた場所では、周辺に広大なススキの大草原が広がっています。また、放牧をするために森林を伐採し、火入れ焼をした時代が長く続くと、樹木の再生が阻まれてササ原が焼け跡に広がる事例も散見されます。昭和初期頃まで全国各地において、山に火を入れて放牧地や畑を作ることは常道手段でした。剣山近くの奥祖谷の周辺においても、昭和初期までは放牧地があったことで知られていますが、そのエリアも過去、森林が火入れされたと考えられます。

同様に剣山を中心とする徳島山岳地帯も、森林の伐採や野焼きなどの人為要因による裸地化が原因となり、ササ原が広がったようです。徳島県立博物館(1994)が発行した「祖谷 ーその自然とくらしー」によると、これらのササ原が四国の剣山周辺に分布している理由は「森林の伐採、採草牧野、放牧など人間活動の影響によって成立したもの」となっています。実際、三嶺から天狗塚に至る稜線では、1960年頃までワラビなどの山菜取りを主な目的として火入れが行われてきました。また、山の尾根は人々が周辺地域を行き来したり物資を運搬したりするのに不可欠な主要経路であり、そのために火入れを行って山道を作ってきた歴史があります。その結果、ササ原の群落が生まれ、分布面積も徐々に拡大したと考えられます。

徳島の最高峰である剣山は古代から霊峰として崇められ、周辺の山々は山岳信仰や修験道の場となっていました。集落を巡り歩くための経路の確保だけでなく、集落の造成や、家畜の放牧の必要性などから山を焼いた歴史があったと想定すれば、古代でも山岳地帯の山頂にササ原が生い茂った理由が見えてきます。剣山周辺の尾根伝いに広大なササ原が存在する背景には、果たして遠い昔に周辺の樹木が切り倒され、山が焼かれた歴史があったのでしょうか。

歴史に封じられた邪馬台国の焼け跡

剣山周辺を覆う広大なササ原の分布は、邪馬台国が徳島の山岳地帯に存在したことを見据えるうえで、大事な根拠のひとつとなります。何故なら、徳島の山岳地帯を尾根伝いに覆うササ原の様相は、古代、何かしらの理由で人為的に山々が広範囲に焼かれた結果を反映している可能性が高いからです。過去に火入れや伐採など、何らかの人為的要因がなければ、樹木が生えるはずの山岳地帯にササ原のみが広範囲に群生するとは考えられません。その謎を解く鍵は、ササ原が徳島の山岳地帯の山頂周りや尾根伝いでも、特になだらかな斜面に群生している事実に秘められています。

剣山を中心とする徳島の山岳地帯に広がるミヤマクマザサは、山々の頂上周辺や尾根伝いでも、傾斜が緩やかであり、かつ、土壌の堆積が多い場所に群生しているのが特徴です。逆に急斜面の場所ではコメツツジが増大し、ミヤマクマザサの植被率は一気に減少します。山間部の急斜面では土壌が流れやすく、堆積度が薄くなるため、コメツツジが群生しやすいと言われています。つまり標高が高い山岳地帯であっても、人が居住しやすいなだらかな斜面に限り、ミヤマクマザサが優占している様相が確認されているのです。

実際、標高1700~1900m級の山々を誇る徳島の山岳地帯では、山頂や尾根伝いであっても、傾斜が緩やかな地点が多く存在します。それらの場所は人が足を踏み入れやすいだけでなく、地域を網羅する山道の経路としても重宝されてきました。中には高地性集落を造成できるような絶好の地勢を有する場所もあり、周辺の山々を一望できる絶好のロケーションも散見されます。古代、山道や集落を造るため山に火が入れられたと想定するならば、なだらかな斜面が、今日、目にするミヤマクマザサの群生するきっかけになったと理解できます。それは造成された集落が、その後、何らかの理由で無くなってしまったことをも意味します。いずれにしても、山岳地帯のなだらかな斜面に火が入れられた結果、山々の様相はいつしかミヤマクマザサの群落に様変わりしたと推測されます。

このミヤマクマザサの分布を、古代、邪馬台国の比定地と関連付けて考えることにより、女王国の統治下に置かれていた地域の輪郭が、少しずつ見えてくるようです。人口20万人から30万人とも想定される邪馬台国だけに、集落が造成されたエリアはたとえ山岳地帯であっても、広大であったと推測されます。ミヤマクマザサの分布を検証すると、徳島の山岳地帯を広く網羅していることがわかります。それは古代、多くの集落が、広い範囲に造られたことの証とも言えます。北は矢筈山、南は物部村落のあるみやびの丘、西は土佐矢筈山、そして東は赤帽子山から槍戸山まで、ミヤマクマザサの分布は東西、南北にわたり、それぞれ26kmほどの広がりを見せています。ミヤマクマザサの存在は、邪馬台国の集落が存在した可能性のある地域を、おぼろげに映し出しているようです。

3世紀後半、急速に国家権力を失いつつあった邪馬台国は、突如として歴史から姿を消しました。その背景には、神に対する女王卑弥呼の冒涜や失墜が絡んでいたのかもしれません。邪馬台国の痕跡を後世に残さず歴史から消し去るため、山上国家の集落には火が入れられ、すべてが消失したのでしょうか。人が居住していた地域の一切が焼き払われることにより、ミヤマクマザサの群落が広がる土壌ができあがり、山岳地帯の随所で群生するきっかけになったと考えられます。つまり剣山周辺の山岳地帯に広がるミヤマクマザサの群落は、邪馬台国の集落が焼かれて無くなってしまった名残であり、古代、徳島の山岳地帯に山上国家が存在したことの証と言えます。

山焼きの史実を裏付ける伝承

剣山周辺の山林に火が入れられて焼かれてしまった背景を示唆していることが、寺院の名称にも残っています。剣山の麓にある徳島県神山町の山奥には、四国八十八ヶ所霊場の第十二番札所、焼山寺が存在します。その伝承によると、山々を荒ぶる「火の神」が支配して人々を苦しめていた際、空海が護摩供を修して悪鬼を退治し、山を鎮めたことから「焼山寺」と呼ばれるようになったと言われています。それは古代、焼山寺から見える山々が突如として火で焼かれてしまったことを指していたのではないでしょうか。遠くに望む山々の至る所で火の手が上がり、国家が滅びるという恐ろしい光景を目の当たりにした結果、「火の神」に纏わる伝承が生まれ、焼山寺という名称で呼ばれるようになったのかもしれません。

焼山寺から地域の最高峰である剣山までの距離はおよそ24kmです。古代、その霊峰の周辺地域には邪馬台国が存在し、海外にまでその名声が伝わる時代があったようです。その当時、自らを神として振る舞う女王卑弥呼による国家体制を、よく思わない権力者も少なくなかったはずです。ある日、反対勢力が立ち上がり、一気に邪馬台国を崩壊させたのではないでしょうか。そして偶像礼拝や霊媒の罪などにより、長年にわたり汚されてきた土地を清めて歴史から消し去るため、邪馬台国を徹頭徹尾、燃やす事態にまで発展したのです。その結果、倭国の頂点を極めた邪馬台国は、山々を結ぶ尾根伝いの集落も含め、一切が焼かれて跡形もなく消滅したと考えられます。焼山寺からは、その火の手と舞い上がる煙を間近に目撃できたのです。

邪馬台国が滅亡して火で焼かれたと想定するならば一連の出来事が繋がり、山々が尾根伝いにササ原になった理由が見えてきます。ミヤマクマザサが徳島の山岳地帯の中でも、最高峰である剣山周辺の山頂や尾根伝いに広がっている理由は、それらの場所に邪馬台国の集落が存在するも、火が入れられて跡形もなく焼かれ、あたり一帯が焼け野原になったからに違いありません。そして山々が火で包まれるすさまじい光景を目の当たりにした山麓の寺院が焼山寺でした。その名称は、国家の滅亡を象徴する歴史の一大事を伝えているようです。

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