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2025/07/27

四国の最終港は吉野川の入り江 八倉比賣神社に隣接した古代の波止場

吉野川上流へ向かう10日間の船旅

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

[投馬国から]南にすすみ邪馬壹国、女王の都に到着する。
水行10日、陸行1か月かかる

「魏志倭人伝」より

「魏志倭人伝」によると、投馬国から邪馬台国へ行くには、南方を目指して再び船に乗り、10日間の旅をする必要があります。その後、一か月かけて陸路を進むと、目的地の邪馬台国に至ります。投馬国を出港した船は、どこで上陸したのでしょうか。その港こそ、邪馬台国への入り口となる玄関であり、そこから山道を30日間歩んだ先に邪馬台国が存在したのです。よって、船が着岸した場所の特定は、邪馬台国の位置を見極めるうえで重要です。

投馬国を讃岐平野の高松に比定した場合、出発港の場所は高松市の東、竹居岬に隣接する港となります。竹居岬は四国最北端である故、周辺の港からは史書の記述どおりに南に向かって船を進めることができます。そして四国の沿岸を東香川、鳴門、徳島方面へと船で下ると、吉野川の河口に到達します。古代、吉野川の河口は広大なデルタを形成し、周辺は巨大な湿地帯になっていました。次の港まで水行10日の船旅であり、まだ数日残っています。よって河口から先は、四国の沿岸をさらに南へ進むか、もしくは吉野川を上流に向けて上るかのいずれかを選択することになります。

四国沿岸の河口は重要な交通拠点

吉野川の河口に到達した後、四国東側の沿岸をさらに南下すると、古代より船で下流から上流まで行き来した形跡が残る大きな河川がいくつか目に入ります。例えば徳島の南方、今日の海陽町を流れる海部川の河口周辺では古代から集落が発展し、上流の川沿いには数々の神社が建立されてきました。これらは古代、四国沿岸から川の上流まで船が行き来し、河川が重要な交通網を提供してきたことの証です。

また、那賀川の支流沿いには弥生時代にまで遡る若杉山遺跡が発見され、国内最大級の辰砂工場であったことが確認されています。古代の民は、四国沿岸から那賀川の支流まで船に乗り、若杉山遺跡まで向かっていたことからしても、河川の存在は辰砂工場の発展に不可欠でした。若杉山遺跡の年代は邪馬台国の時代と重なるだけでなく、「魏志倭人伝」には邪馬台国が辰砂の山に連なっていたことを示唆する記述もあります。「其山有丹」、すなわち倭国の山からは辰砂を採取できることが中国大陸では知られていたのです。よって若杉山遺跡は史書の記述を裏付ける辰砂工場の可能性を秘めており、邪馬台国との関係も含めて昨今、注目されています。

しかしながら邪馬台国へ向かうには、船から降りた後、1か月も陸路を歩く必要がありました。とてつもなく遠い場所に邪馬台国が位置していた史実を「魏志倭人伝」から知ることができます。そのような長い距離は、四国の東沿岸から四国山地に向かって進む山道しか考えられません。よって、投馬国より南下してきた船は、四国沿岸伝いに吉野川河口に到達した後、そこから先は南方へ向かうのではなく、吉野川の上流に向けて西方に舵を切り、遠くに聳え立つ徳島の山々の接点となる波止場に船を進めたと推測されます。

吉野川の川幅は随所で1㎞を超え、人々は至る所で船に乗り、川を渡っていました。また、吉野川には多くの支流があり、四国の山地を流れている河川と繋がっていたので、吉野川はそれらの支流とともに、内陸に向けて重要な水上交通のルートを提供していたのです。よって、吉野川河口に船で到達した後、吉野川の下流から支流に向けて川を上り続けたと想定しても何ら不思議はありません。そして四国山上への陸路に繋がる川沿いの波止場で下船すれば、そこから邪馬台国に向かって山道を登ることができます。

吉野川の支流として知られる鮎喰川は、四国山上と吉野川を結んでいます。そして古代では、吉野川の入り江に向かって鮎喰川は注がれていました。その入り江周辺には、八倉比賣神社や多くの寺が建立されています。つまり四国山上から流れる鮎喰川と吉野川の接点となる入り江が重要視されたことがわかります。それ故、人々の行き来も多く、周辺には古代の波止場が存在したと推測されます。邪馬台国へ向かう途中の最後の上陸地点は、八倉比賣神社に隣接する入り江沿いの波止場だったと想定すると、そこから30日間歩む邪馬台国へのルートが見えてきます。

入り江周辺に波止場が存在した5つの理由

投馬国から10日間にわたる船旅の行先が、吉野川の支流となる鮎喰川が注がれる入り江沿いの波止場であったと考えられる理由は5つあります。まず、投馬国から10日の水行でたどり着ける距離にあることです。讃岐平野の最北端、竹居岬から東かがわ、徳島を経由して、鮎喰川沿いにある最初の小高い山の麓まで、およそ130㎞の距離です。川を上るには通常の航海よりも時間がかかることから、1日の進行距離が落ちることは理にかなっています。よって、投馬国の比定地と推定される讃岐平野から水行10日をかけて到達する目的地までの距離として、鮎喰川の上流は想定の範囲に収まります。

次に、鮎喰川に沿って上流を上っていくことにより、四国山上まで最短の距離と時間で到達できることにも注目です。四国の山々でも特に徳島側の山脈は勾配が激しく、多くの断崖と絶壁に囲まれています。よって、四国山上を目指すには、できるだけ安全な山道を通るのが常道手段でした。標高1955mの剣山方面に向けて山道を登っていく場合、鮎喰川沿いから今日の神山町を経由して、そこから西方に向けて進むルートが最も理に叶っています。剣山周辺の地勢と周辺のルートを振り返ると、鮎喰川の上流に向けて旅する古代ルートができあがっていたと推測されます。

3番目に、鮎喰川沿いは空海も着眼した重要なエリアであることがあげられます。吉野川河口から支流の鮎喰川へと上り続けると、途中の川沿いには四国八十八箇所遍路でも知られる第13番札所大日寺、第15番札所国分寺、第16番札所観音寺、第17番札所井戸寺など、複数の名高い寺が並びます。そして小高い丘の上には八倉比賣神社と磐座も存在します。これだけ多くの四国八十八ヶ所霊場が川沿いに隣接する事例は他にありません。鮎喰川沿いの周辺には、何かしら大切な意味が潜んでいると考えて間違いないようです。

4つ目の理由は、鮎喰川沿いの小高い丘の上に建立された八倉比賣神社が、古代では入り江に面していたことです。八倉比賣神社の「天石門別八倉比賣神社略記」には、神社が入り江の奥に位置していたことが明記されています。「古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早淵の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する」と記載されているとおり、神社の足元まで海辺が続いている時代があったのです。すると吉野川の河口から八倉比賣神社や周辺の霊場まで、船に乗って行き来できるだけでなく、神社に隣接する入り江の奥が、吉野川河口から船で到達できる最終地点になっていたと考えられます。よって邪馬台国へ向かう人々は、吉野川の支流から入り江の奥近くまで船で進み、下船後は神社を参拝し、そこから邪馬台国へ向けて陸路を歩んだことでしょう。それ故、八倉比賣神社周辺の入り江は、港や波止場が存在した時代があったと推測され、古代、邪馬台国へ向かう人々が八倉比賣神社周辺の波止場にて下船し、そこから四国山上に向けて歩いたことを示唆しています。

5つ目の理由が、古代から「卑弥呼の墓」と語り継がれてきた磐座が奥の院にある八倉比賣神社の存在です。吉野川の支流となる鮎喰川沿いの八倉比賣神社まで海が繋がり、そこから上陸して邪馬台国に向かうと想定するならば、陸海の接点に佇む八倉比賣神社は極めて重要な位置付けに考えられたはずです。それ故、地域周辺には「おふなとさん」とも呼ばれる多くの祠も建てられたのです。今日、八倉比賣神社周辺の名西郡神山町では、767例の「おふなとさん」が確認されています。それは、いかに多くの人々が八倉比賣神社界隈の波止場まで船で到来し、そこから邪馬台国に向かったかを示唆しているようです。

邪馬台国の玄関港となる八倉比賣神社

鮎喰川沿いの小高い丘に建立された八倉比賣神社は阿波国一宮の式内社であり、創建の年代は不詳です。八倉比賣神社の祭神は阿波の国にて古くから地域の女神、守護神である大日霊命(おおひるめのみこと)です。一般的には八倉比賣大神として知られ、五穀豊穣・安産・女性守護の神としても庶民の信仰を集めています。古文書には天照大神の葬儀について記されていることから、八倉比賣大神は天照大神の別称ではないかという説があります。

八倉比賣神社の御神体は神社が建立されている杉尾山ですが、古くは八倉比賣神社の北西600m先にある標高212mの気延山に八倉比賣大神が天下り、鎮座したとされています。杉尾山と気延山は八倉比賣神の伝承に絡み、双方とも八倉比賣神社の背後にあることから、2つの山が同一視されることもあります。また、気延山周辺には縄文期から古墳時代に由来する多くの古墳群が残されていることも注目に値します。杉尾山を含む気延山一帯だけでもおよそ200もの古墳が見つかっています。気延山は、阿波忌部(徳島県)が麻・木綿を貢進する役目を担っていた践祚大嘗祭において、重要な役割を果たしたとも伝えられてきました。

八倉比賣神社の拝殿裏にある階段を上ると、奥の院として知られる五角形の磐座があります。神社そのものが前方後円墳の古墳の上に建てられており、その後にある円墳の部分が奥の院です。この奥の院の磐座は五角形の祭壇が木口積と言われる石積みによって築かれ、中心部分にある青石の祠の中には、鶴石と亀石が置かれ、合わせてつるぎ石として祀られています。それぞれの石の形状が鶴と亀に似ていることから、地元では鶴石、亀石と呼ばれるようになったと伝えられてきました。鶴は千年、亀は万年と古くから語り継がれてきたように、鶴と亀は不老不死の象徴であり、それらの意味が込められているのかもしれません。また、ヘブライ語で読むと、鶴は神、亀はお守りを意味する言葉となり、鶴亀を「神の守護」と解釈することもできます。

特筆すべきは四国剣山の頂上にも鶴石と亀石が存在し、山の名称が剣山(つるぎさん)であることです。よって剣山の存在を念頭に、八倉比賣神社の奥の院の磐座においても、鶴石、亀石と呼び、合わせて「つるぎ石」として知られるようになったのではないでしょうか。つまり八倉比賣神社と剣山は、磐座を通じて双方が背面下で繋がっているのです。また、剣山の周辺は邪馬台国の比定地となるエリアであった可能性が高く、古代では八倉比賣神社に隣接する波止場に上陸し、そこから山道を1か月かけて登る目的地であったと考えられます。よって八倉比賣神社は必然的に邪馬台国と剣山、双方に結び付く大切な聖地になったのでしょう。

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