吉野川上流へ向かう10日間の船旅
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
[投馬国から]南にすすみ邪馬壹国、女王の都に到着する。
「魏志倭人伝」より
水行10日、陸行1か月かかる
「魏志倭人伝」によると、投馬国から邪馬台国へ行くには、南方を目指して再び船に乗り、10日間の旅をする必要があります。その後、一か月かけて陸路を進むと、目的地の邪馬台国に至ります。しかしながら、何故、再び船に乗る必要があったのでしょうか。投馬国を讃岐平野に比定するならば、そこから陸地を南方に進めば、四国山上まで最短距離で向かうことができるように見えます。しかしながら古代の民はあえて、投馬国から再び乗船し、南の方へと向かったのです。その理由は、四国の地勢を調べると明確になります。
邪馬台国へ向かう旅路の最終目的地を四国山上の剣山周辺とし、広大な讃岐平野から南方に向かうことを想定すると、3とおりのルートが考えられます。まず、讃岐平野の西方にある金刀比羅宮から向かう場合は、讃岐山脈を越え、その後、吉野川を渡り、そこから山を登っていきます。このルートは今日の国道438号に沿った山道です。3つのルートの中で、距離が最も短いルートであることは地図上すぐに確認できます。問題は3点です。まず、讃岐山脈を越えるのに、標高430m近くの峠を越えていかなければなりません。そして次に、吉野川を船で渡る必要があります。今日のつるぎ町界隈の吉野川は、古代では広大な湿地帯に囲まれた大きな河川で、その幅は3㎞にまで達していたと推測されます。さらなる問題はつるぎ町から剣山への山道であり、直線距離では20㎞になります。ところがその途中の急斜面と絶壁が大変厳しく、旅人の足を止めてしまいます。貞光川に沿って途中までは登って行けますが、その先の断崖絶壁に行く手を阻まれてしまうことになり、登頂には大変な労力を伴います。
2番目のルートは讃岐平野の中心、今日の高松市あたりから南下し、国道193号沿いに讃岐山脈を越えるルートです。清水峠として知られる山のピークは標高325m前後であり、今日の美馬市を流れる吉野川までは山の上り下りも難しくはありません。しかしながら、その後に続く吉野川の河川幅は古代、4㎞を超えていたと想定され、船を用意しなければなりません。すると、わざわざ陸路を進んで峠を越えなくても、讃岐平野から継続して船に乗り、美馬市まで来ることもできたはずです。その後の剣山へのルートも、歩行が難しい場所が続きます。今日の国道492号に沿うように山を登るのですが、崖や絶壁が多く、行く手を阻まれます。途中、美馬市からは穴吹川に沿って山道を進み、穴吹町の古宮周辺からは杖立峠を越えて南方に聳え立つ剣山へと向かいます。いずれのルートも、大変険しい山の中を進まなければなりません。そして行きつく所、神山町から剣山へ向かう山道に合流するのです。それ故、その山道に至る神山町経由の選択肢に注目です。
3番目のルートは讃岐平野からあえて陸路を通らず、再び船に乗って南方へ航海し、徳島の吉野川河口からその支流となる鮎喰川沿いの港へ向かう航海路を辿ります。八倉比賣神社近くの波止場に上陸した後、そこから上流に向けて川沿いを南西方向に歩くと、神山町に到達します。そして西方に聳え立つ剣山を目指して、さらに山道を進んでいくのです。このルートの利点は、最初の10日間が海上交通であり、体力を温存できることです。また、吉野川支流の鮎喰川に沿って上流へ向かう道や、神山町から剣山へ向かう山道は、他のルートほど険しくはないのです。断崖絶壁が続く箇所も少なく、体への負担が一番少ないルートと言えます。よって、投馬国からの旅は「魏志倭人伝」が記録したとおり、投馬国から船に乗って南方へ向かうルートが一番安全で、早く目的地に辿り着けたのです。

吉野川の河口から港へ向かうルート
では、投馬国を出港した船に乗った人々は、どこで上陸したのでしょうか。その港こそ、邪馬台国への入り口となる玄関であり、そこから山道を30日間歩んだ先に邪馬台国が存在したのです。よって、船が着岸した場所の特定は、邪馬台国の位置を見極めるうえで重要です。投馬国を讃岐平野の高松に比定した場合、出発の場所は高松市の東、竹居岬に隣接する港となります。竹居岬は四国最北端であるが故、周辺の港からは史書の記述どおりに南に向かって船を進めることができます。そして四国の沿岸を東香川、鳴門、徳島方面へと船で下ると、吉野川の河口に到達します。古代、吉野川の河口は広大なデルタを形成し、周辺は巨大な湿地帯になっていました。投馬国から水行10日の船旅であり、吉野川河口においてはまだ数日残っています。よって河口から先は、四国の沿岸をさらに南へ進むか、もしくは吉野川を上流に向けて上るかのいずれかを選択することになります。
吉野川の河口に到達した後、四国東側の沿岸をさらに南下すると、船で下流から上流まで行き来した形跡が残る大きな河川がいくつか目に入ります。例えば徳島の南方、今日の海陽町を流れる海部川の河口周辺では古代から集落が発展し、上流の川沿いには数々の神社が建立されてきました。これらは四国沿岸から川の上流まで船が行き来し、河川が重要な交通網を提供してきたことの証です。
また、那賀川の支流沿いには弥生時代にまで遡る若杉山遺跡が発見され、国内最大級の辰砂工場であったことが確認されています。古代の民が四国沿岸から那賀川の支流まで船に乗り、若杉山遺跡まで向かっていたことからしても、河川の存在は辰砂工場の発展に不可欠でした。若杉山遺跡の年代は邪馬台国の時代と重なるだけでなく、「魏志倭人伝」には邪馬台国が辰砂の山に連なっていたことを示唆する記述もあります。「其山有丹」、すなわち倭国の山からは辰砂を採取できることが中国大陸では知られていたのです。よって若杉山遺跡は史書の記述を裏付ける辰砂工場の可能性を秘めており、邪馬台国との関係も含めて昨今、注目されています。
しかしながら邪馬台国へ向かうには、船から降りた後、1か月も陸路を歩く必要がありました。とてつもなく遠い場所に邪馬台国が位置していた史実を「魏志倭人伝」から知ることができます。そのような長い距離は、四国の東沿岸から四国山地に向かって進む山道しか考えられません。よって、投馬国より南下してきた船は、四国沿岸伝いに吉野川河口に到達した後、そこから先は南方へ向かうのではなく、吉野川の上流に向けて西方に舵を切り、遠くに聳え立つ徳島の山々の接点となる波止場に船を進めたと推測されます。
吉野川の川幅は随所で1㎞を超え、人々は至る所で船に乗り、川を渡っていました。また、吉野川には多くの支流があり、四国山地を流れる河川と繋がっていたので、吉野川はそれらの支流とともに、内陸に向けて重要な水上交通のルートを提供していたのです。よって、吉野川河口に船で到達した後、吉野川の下流から支流に向けて川を上り続けたと想定しても何ら不思議はありません。そして四国山上への陸路に繋がる川沿いの波止場で下船すれば、そこから邪馬台国に向かって山道を登ることができます。
吉野川の支流として知られる鮎喰川は、四国山上から吉野川の河口近くの入り江に向かって注がれていました。その入り江周辺には、八倉比賣神社や多くの寺が建立されています。つまり四国山上から流れる鮎喰川と吉野川の接点となる入り江の周辺は、何かしら重要視されていたことがわかります。それ故、八倉比賣神社が隣接した入り江の周辺には、古代の波止場が存在したと推測されます。その入り江の沿岸に面する波止場が邪馬台国へ向かう途中の最後の上陸地点と想定すると、そこから30日間歩む邪馬台国への山道が見えてきます。
入り江周辺に波止場が存在した5つの理由
投馬国から10日間にわたる船旅の行先が、吉野川の支流となる鮎喰川が注がれる入り江近くの波止場であったと考えられる理由は5つあります。まず、投馬国から10日の水行でたどり着ける距離にあることです。讃岐平野の最北端、竹居岬から東かがわ、徳島を経由して、鮎喰川沿いにある最初の小高い山の麓まで、およそ130㎞の距離です。川を上るには通常の航海よりも時間がかかることから、1日の進行距離が落ちることは理に叶っています。よって、投馬国の比定地と推定される讃岐平野から水行10日をかけて到達する目的地までの距離として、鮎喰川の上流は想定の範囲に収まります。
次に、鮎喰川に沿って上流を上っていくことにより、四国山上まで最短の距離と時間で到達できることにも注目です。四国の山々でも特に徳島側の山脈は勾配が激しく、多くの断崖と絶壁に囲まれています。よって、四国山上を目指すには、できるだけ安全な山道を通るのが常道手段でした。標高1955mの剣山方面に向けて山道を登る場合、鮎喰川沿いから今日の神山町を経由して西方に進むルートが最も安全であり、目的地である四国山上に早く到達できたのです。剣山周辺の地勢と周辺のルートを振り返ると、鮎喰川の上流に向けて旅する古代ルートができあがっていたと推測されます。
3つ目に、鮎喰川沿いは空海も着眼した重要なエリアであることがあげられます。吉野川河口から支流の鮎喰川へと上り続けると、途中の川沿いには四国八十八箇所霊場でも知られる第13番札所大日寺、第15番札所国分寺、第16番札所観音寺、第17番札所井戸寺など、複数の名高い寺が並びます。そして小高い丘の上には八倉比賣神社と磐座も存在します。これだけ多くの四国八十八ヶ所霊場が川沿いに隣接する事例は他にありません。鮎喰川沿いの周辺には、何かしら大切な意味が潜んでいると考えて間違いないようです。
4つ目の理由は、鮎喰川沿いの小高い丘の上に建立された八倉比賣神社が、古代では入り江に面していたことです。八倉比賣神社の「天石門別八倉比賣神社略記」には、神社が入り江の奥に位置していたことが明記されています。「古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早淵の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する」と記載されているとおり、神社の足元まで海辺が続いている時代があったのです。すると吉野川の河口から八倉比賣神社や周辺の霊場まで、船に乗って行き来できるだけでなく、神社に隣接する入り江の奥が、吉野川河口から船で到達できる最終地点になっていたと考えられます。八倉比賣神社周辺の入り江には、港や波止場が存在した時代があったと推測され、それ故、邪馬台国へ向かう人々は、吉野川の支流から入り江の奥近くまで船で進み、 八倉比賣神社周辺の波止場にて下船し、そこから四国山上に向けて歩いていったことでしょう。
5つ目の理由が、古代から「卑弥呼の墓」と語り継がれてきた磐座が奥の院にある八倉比賣神社の存在です。吉野川の支流となる鮎喰川沿いの八倉比賣神社まで海が繋がり、そこから上陸して邪馬台国に向かうと想定するならば、陸海の接点に佇む八倉比賣神社は極めて重要な位置付けに考えられたはずです。それ故、地域周辺には「おふなとさん」とも呼ばれる多くの祠も建てられたのです。今日、八倉比賣神社周辺の名西郡神山町では、767例の「おふなとさん」が確認されています。それは、いかに多くの人々が八倉比賣神社界隈の波止場まで船で到来し、そこから邪馬台国に向かったかを示唆しているようです。
八倉比賣神社の港を証する「おふなとさん」
大陸から海を渡って瀬戸内海を通り、邪馬台国へ向かった民が投馬国を過ぎて、最後に着岸したのが八倉比賣神社に隣接する港であったことを証する史跡が「おふなとさん」です。徳島県内だけで1000か所以上もある「おふなとさん」とは、石を組み合わせて作られた祠です。その形状は4枚の平たい石で石室を築いた「オカマゴ」と呼ばれるものが大多数を占めています。祭祀の対象は丸石が多く、時には扁平の石も用いられています。そして大半にあたる767の「おふなとさん」が、八倉比賣神社から鮎喰川上流にあたる名西郡神山町で確認されています。
「おふなとさん」とは日本書紀や古事記に記載されている「ふなどのかみ」に由来するというのが定説です。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)から逃げる際に、投げた杖から生まれた神であり、「道の分岐点などにまつられ、邪霊(じゃれい)の侵入を防ぐ道祖神(どうそじん)の一種とされています」(徳島県立博物館による)。道の分岐点以外にも、徳島では集落の裏山や路肩、田畑の隅、石垣沿いだけでなく、歴史の古い地区では屋敷の入口など家屋の近くなどでも祀られています。
何故、この「おふなとさん」が八倉比賣神社を境に、鮎喰川を神山町に向けて上流へ向かう周辺各地に多く見られるのでしょうか。その鍵を握るのが、八倉比賣神社と、その周辺に建立された「おふなとさん」を祀る3つの神社です。八倉比賣神社から南方2㎞少々には「船尽比咩神社」、西方に4㎞行くと「船盡比賣神社」、および「歯の辻神社」とも呼ばれる「船盡神社」が建立されています。これらの神社はすべて、吉野川とその支流である鮎喰川の接点となる八倉比賣神社のそばに位置します。注目すべきは「船盡」という名称が港や波止場を意味する言葉であり、船が着岸する場所を指していることです。つまり、これら3つの神社は古代、八倉比賣神社の周辺に港があった史実を証していると考えられます。


その「おふなとさん」を祀る神社に平安時代、スポットが当てられました。「日本三代実録」によると872年、平安京では怨霊の祟りと思われる怪異が発生し、それを鎮めるために朝廷が阿波の国に鎮座する「船盡比咩神」の位を上げたことが記されています。港の守り神である「比咩神」が八倉比賣神社界隈にある3つの神社のいずれかで祀られていたのです。都の治安が怨霊によって脅かされている時、その霊を鎮めるための秘策とは、八倉比賣神社に隣接する港近くの船盡神社にて、「船盡比咩神」を大切に祀ることでした。
国家を統治する朝廷にとって当時、「船盡比咩神」が祀られている港は、重要であったに違いありません。そこは古代から四国山上へと向かう重要な玄関港であり、下船してから南方に向けて鮎喰川沿いを上ると神山町に到達します。その先には四国の山々が並び、霊峰としても名高い徳島県最高峰の剣山が聳え立ちます。つまり八倉比賣神社がある玄関港は、四国山上の霊峰から流れてくる清流と繋がっていたのです。また、その玄関港は四国山上へ向かう最短のルートとなる陸路の入り口でもありました。それ故、古代では多くの船がこの港に到来し、そこから旅人は陸路を川沿いに上ったのです。
多くの船が八倉比賣神社沿いの港に到来したということは、単に剣山の麓にある神山町との行き来が必要だったからではありません。怨霊対策の一環として平安時代でも重要視されたということは、やはり神山町の先に聳え立つ剣山が大切な存在だったからではないでしょうか。それ故、霊峰として知られていた剣山だけに、平安時代においても山の周辺にて神々が祀られ、怨霊対策が期待されたと推測されます。
それだけ多くの船が出入りする港であったことから、いつしか港と剣山を結ぶ吉野川の支流沿いでは「おふなとさん」と呼ばれる祠が建てられるようになり、村の人々は航海の安全を祈願したのです。そして怨霊の祟りから逃れ、子供たちの命が救われることを願ったが故に、その思いがやがて、「おふなとさん」を子沢山の神とする信仰に結び付いたのではないでしょうか。伊弉冉尊が「1日千人の命を奪う」と言ったことに対し、伊弉諾尊が「1日千五百人の子作りをする」と語った神話に結び付く話が「おふなとさん」の背景に潜んでいたのです。
「おふなとさん」の存在は、八倉比賣神社の玄関港に向けて多くの船が到来したことだけでなく、旅人らが剣山から流れ出る清流に沿って上流の先に聳え立つ霊峰を目指して山を登ったことを証しています。その背景には怨霊対策がありました。そして剣山への篤い信仰とも結び付いていたようです。古代、剣山周辺に邪馬台国が存在したからこそ、剣山は霊峰として知られるようになり、平安時代においても朝廷が注目したと考えられます。
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[参考文献]
- 「オフナトサン信仰の構造—神山町の事例より」 民俗班(徳島民俗学会)高橋晋一
- 「徳島県下における岐神信仰に関する言説」 九州工業大学付属図書館 近藤直也