目次
邪馬台国の玄関となる八倉比賣神社の由緒
鮎喰川沿いの小高い丘に建立された八倉比賣神社は阿波国一宮の式内社であり、正式な名称は、天石門別八倉比賣神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)です。八倉比賣神社の祭神は阿波の国にて古くから地域の女神、守護神である大日霊女命(おおひるめのみこと)です。一般的には八倉比賣大神として知られ、五穀豊穣・安産・女性守護の神として庶民の信仰を集めています。社伝には天照大神の葬儀について記されており、八倉比賣大神は天照大神の別称とも語り継がれてきました。創建の年代は不詳ですが、江戸時代に書かれた社伝では鎮座から2105年とされ、その歴史は邪馬台国の時代以前に遡るかもしれません。
八倉比賣神社の御神体は神社が建立されている杉尾山です。古くは八倉比賣神社の北西600m先にある標高212mの気延山頂上に八倉比賣大神が天下り、頂上で祀られた後、気延山から移遷し、峯続きの杉尾山に鎮座したとされています。杉尾山と気延山は八倉比賣神の伝承に絡んで連なっていることから、2つの山が同一視されることもあります。また、気延山周辺には縄文期から古墳時代に由来する多くの古墳群が残されていることも注目に値します。杉尾山を含む気延山一帯だけでもおよそ200もの古墳が見つかっています。気延山は、阿波忌部(徳島県)が麻・木綿を貢進する役目を担っていた践祚大嘗祭において、重要な役割を果たしたとも伝えられてきました。
八倉比賣神社の拝殿裏にある階段を上ると、奥の院として知られる五角形の磐座があります。石積みされた奥の院の磐座は海抜116mの丘陵の尾根先に築かれています。実際は丘尾切断型の柄鏡状に前方部分が長く伸びた古墳の後円部にあたり、その頂上に五角形の祭壇が木口積(こぐちづか)と言われる青石の石積みによって築かれています。五角形の意味は古代中国の五行思想(木・火・土・金・水)に由来するかもしれません。邪馬台国の時代、弥生時代後期においては大陸より多くの渡来者が列島を訪れ、大陸思想の影響を強く受けながら倭国の文化が培われました。そして五行思想が反映された結果が墳墓の形に表れ、五角形という特種な形状を成したと考えられます。
剣山に結び付く「つるぎ石」の鶴石と亀石
磐座の中心部分にある青石の祠はつるぎ石として祀られ、砂岩の鶴石と亀石が組み合わされて置かれています。それぞれの石の形状が鶴と亀に似ていることから、地元では鶴石、亀石と呼ばれるようになったと伝えられています。そしていつしか鶴は千年、亀は万年と語り継がれ、永遠の生命を象徴する不老不死の動物として、信仰の対象になったのです。また、ヘブライ語では鶴は神、亀はお守りを意味する言葉であり、鶴亀を「神の守護」と解釈することができるため、ヘブライルーツと関連しているかもしれません。
特筆すべきは四国剣山の頂上にも鶴石と亀石が存在し、山の名称が剣山(つるぎさん)であることです。剣山の存在を念頭に、八倉比賣神社の奥の院の磐座において祀られる石を、鶴石、亀石と呼び、合わせて「つるぎ石」と呼ぶようになったのだとしたら、八倉比賣神社と剣山は八倉比賣神社と剣山は何らかの繋がりがあった可能性があります。その背景にあるのが鮎喰川の存在です。剣山からは吉野川に向けていくつもの支流があり、そのうちのひとつが八倉比賣神社沿いを流れる鮎喰川です。つまり剣山と八倉比賣神社は山頂から沸き出る清流によって繋がっているだけでなく、河口周辺の波止場から剣山まで行き来できる川沿いの山道のガイドラインにもなっていたのです。それ故、邪馬台国まで川沿いの山道を1か月かけて登った古代の民にとって、その山道の入り口となる八倉比賣神社は、女王国への玄関として重要な役割を果たしていたと理解できます。
邪馬台国への上陸地点となる八倉比賣神社
八倉比賣神社が古代、邪馬台国に関わっていた可能性は、神社が建立された杉尾山・気延山の位置から察することができます。山の麓は吉野川と支流の鮎喰川が合流する入り江にあたり、船が停泊する波止場に適した絶好の場所を提供していました。そこから15kmほど山を登ると、四国山地を通り抜ける山道が東西南北に交差し、重要な旅の拠点となる今日の神山町に到達します。吉野川の下流から神山町に向かうには、八倉比賣神社に隣接する入り江にて下船し、そこから陸路を歩いていくルートが最短です。よって八倉比賣神社は、四国山地をはじめ、邪馬台国へ向かう際にも、避けて通ることのできない場所にあったのです。

「魏志倭人伝」によると、投馬国から船で出発した後、最後の港に上陸してから邪馬台国へ向かうには30日間という長い日数を要しました。とてつもなく長い道のりであるため、古代の民は、海上から陸地へと移動する際、常に最短の陸路に繋がる川沿いの波止場から上陸したことでしょう。その場所こそ、瀬戸内海から徳島方面に回り、吉野川を上流に向かって到達する八倉比賣神社沿いの入り江付近と考えられます。周辺は陸海の交通網が交差する場所にあたり、近くに建立された八倉比賣神社は必然的に邪馬台国を往来する旅人と深い関わりを持つことになります。
八倉比賣神社の磐座は卑弥呼の墓?
八倉比賣神社の由緒を記した正式な古文書はなく、これまで多くの言い伝えや地元の郷土史などにより、伝承されてきました。中には卑弥呼が八倉比賣大神であったという説もあります。八倉比賣神社周辺が邪馬台国へ繋がる山道の上陸地点と想定するならば、邪馬台国の女王である卑弥呼が八倉比賣神社で祀られている大神と結び付くのは、ごく自然な歴史の流れと考えられます。また、八倉比賣神社の奥の院にある磐座が卑弥呼の墓ではないかという説も、巷では流布されています。邪馬台国阿波説によると、八倉比賣神社の奥の院の祭壇を、卑弥呼の墓としています。
八倉比賣神社の磐座が卑弥呼の墓と考えられる根拠は以下にまとめられます。
- 八倉比賣大神は太古に倭国を治めた女神として、神功皇后以前の祭政一致の時代に崇敬されたという伝承があり、この女神を卑弥呼と重ねて解釈することができる。
- 八倉比賣神社では祭神として「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)」が祀られ、巫女なる阿波の八倉比賣神と結び付けて、卑弥呼と同一視できる。
- 八倉比賣神社の古文書によると、天照大神の葬儀執行の詳細な記録が綴られており、「八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀である」、と示されている。
- 八倉比賣大神は霊山に鎮まり、死後は「奥の磐座」に葬られたという伝承があり、それに該当する磐座は、八倉比賣神社の奥の院しかない。
- 奥の院の磐座は、その規模からして古代の祭祀遺構であり、陵墓としての形状を有していると考えられるため、高貴な支配層の墓と推測される。
- 大和朝廷が全国で政務を行う役場と、八倉比賣神社が建立された地域が国府という名称で一致し、行政の中心地が神社の周辺に存在したと考えられることから、卑弥呼との関係に結び付きやすい。
- 鎮座の年代は1773年に書かれた古文書によると、「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」とあり、逆算すると西暦338年となるため、鎮座について伝承された年代が1773年以前と仮定すれば、鎮座年代はさらに遡り、邪馬台国の時代に合致する。
7番目の根拠については、多少の解釈が必要となります。何故なら1773年から2105年を逆算しても、古文書に記されている「西暦338年」にならないからです。八倉比賣神社の古文書は、「八倉比賣大神御本記」を訳された千家俊信氏(1764-1831)が、「杉の小山の記」の中で内容をまとめています。そこに記載されている年代を西暦で解釈して八倉比賣神社の創祀を計算すると、1773年(安永二年)から2105年を引いて紀元前332年までさかのぼることになります。略記に記載されている西暦338年とは大きく異なります。
しかしながら江戸時代においては、皇紀(皇歴)で年数を書く事例が多々見受けられ、同様に千家氏も皇紀を元に記述していたとするならば辻褄が合います。つまり千家俊信氏は、神武天皇が即位された年と推測される紀元前660年を元年とする日本古代のカレンダーを用いていたのです。したがって1773年(安永二年)とは皇紀では2433年になり、その年から2105年さかのぼった時が、八倉比賣神社が杉尾山へ鎮座した年と考えられます。すると鎮座の年は西暦328年になります。古文書に記載されている西暦338年とは10年の差異がありますが、それは神武天皇元年の解釈による多少のずれを反映しているかもしれません。さらに鎮座に関する伝承が成立した時から古文書が書かれた1773年まで、かなりの年数が経っている可能性があり、実際の鎮座年代は西暦338年よりも遡り、邪馬台国の時代に近づくことになります。
これらデータから察するに、八倉比賣神社のエリアには重要な行政機関が存在し、政治が関与したさまざまな祭祀活動が執り行われていたと推測されます。よって八倉比賣神社は古代社会において、祭祀活動と政治が結び付くさまざまな行事に絡み、重要な役割を担っていたに違いありません。また、隣接する波止場は邪馬台国への玄関となる港であり、必然的に八倉比賣神社と深い関わりがあったと推測されます。それ故、八倉比賣神社の小高い丘が、倭国の女王が葬られる場所になったとしても不思議ではないのです。
卑弥呼の墓の大きさは「径百余歩」
ところが「魏志倭人伝」には卑弥呼の墓は「径百余歩」と記されており、奥の院の磐座では墓全体の大きさが合致しないことが指摘されています。「歩」とは古代中国における長さの単位で、1歩はおよそ1.38mと言われています。すると卑弥呼の墓の直系は138mとなり、1歩を1mとしても100mになります。奥の院の磐座は周囲の塚を考慮しても直径が70~80mほどしかないため、「径百余歩」の大きさに見合いません。その答えは八倉比賣神社の成り立ちにあるようです。
八倉比賣神社は当初、気延山の頂上に建立されていたと「天石門別八倉比賣大神御記」に記されています。よって中国史書に記載されている「径百余歩」とは、元の境内に存在した円墳の直径と考えられます。今日、気延山の頂上には祠が建てられ、その周辺には円墳のような跡が残っています。盛り上がった頂上部分は東西方向に延びており、東側の緩やかなスロープから頂上まではおよそ65mあり、反対の西側から頂上までは約35mです。すると直径が110mほどの古墳の一部と考えることができ、その大きさは「百余歩」と記載されている中国史書の記述と合致します。
つまるところ、卑弥呼が葬られた場所は元来、気延山の山頂であり、その後、現在の八倉比賣神社の磐座に卑弥呼の墓が遷されたとするならば、中国史書の記述にある「径百余歩」という墓の大きさも、そのまま理解できます。
また、八倉比賣神社から東方に400m離れた場所には宮谷古墳があります。発掘調査からその年代は邪馬台国の時代直後の3世紀後半にあたり、高貴な方が埋葬された古墳であることがわかっています。しかし木棺の中に副葬品以外は見つからず、被葬者は別の場所に遷されていたのです。それ故、卑弥呼の墓が気延山から遷された場所は当初、宮谷古墳であり、その後、盗難を避けるために、現在の八倉比賣神社の奥の院に遷されたという説もあります。
宮谷古墳も卑弥呼の墓か?
八倉比賣神社が建立された気延山の麓、神社から東方に380mほど進むと、広い草原の高台の尾根伝いに宮谷(みやだに)古墳と呼ばれる前方後円墳があります。全長は37.5mあり、後円部の直径はおよそ25m、高さは約3mです。前方部は12.5m、幅は15.5mとなり、後円部と前方部の長さは2対1の割合です。宮谷古墳の形状は纒向型前方後円墳に近い平面形であり、古墳の前方部は尾根の下側を向いています。
1988年から手掛けられた発掘調査により、東西方向に設置された縦穴式石室の埋葬施設が発見されました。後円部の中央に掘られた穴の大きさは7.5m x 4.2mの大きさであり、そこに長さ6m、幅1.2~1.3mの石室が設けられていたのです。その中に置かれていた木棺には銅鏡や鉄器が副葬されていました。また、古墳の最前部からは三角縁神獣鏡とも呼ばれる銅鏡、周辺部からは多くの二重口縁の形状となる壺型土器が出土しています。そして宮谷古墳の年代は、邪馬台国直後の時代、およそ3世紀後半と推定されたのです。
これらの状況から、被葬者は周辺地域の指導者であったと推測されました。当時、どのようなリーダーが地域に存在したのでしょうか。このような大きな古墳に埋葬されるだけの歴史的人物はなかなか見当たりません。
三角縁神獣鏡と邪馬台国の年代
宮谷遺跡から発掘された三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は銅鏡の一種として知られています。縁の部分が三角形状の断面であり、鏡の背後には神獣が鋳出されていることから、三角縁神獣鏡と呼ばれています。中国国内では、同等の三角縁神獣鏡は発見されていないため、倭国のために特別に鋳造された可能性が高いようです。
宮谷古墳の年代は卑弥呼が君臨した邪馬台国の時代直後と一致することから、埋葬されていた三角縁神獣鏡は、卑弥呼と魏への遣使との関係が指摘されています。邪馬台国の時代、魏の王朝が特使を派遣する際、女王卑弥呼に下賜するために三角縁神獣鏡が造られ、倭国に持ち込まれたと考えられます。
宮谷古墳と卑弥呼の関係
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の墓は「径百余歩」と記され、1歩を約1.38mと想定すると、その直径は138mになります。宮谷古墳の埋葬施設がある前方後円墳の後円部の直径は25mであり、大きさは合致しません。よって、宮谷古墳は卑弥呼の墓とはなり得ないはずです。しかしながら、何らかの理由で卑弥呼の墓が気延山の山頂と八倉比賣神社の奥の院、そして宮谷古墳の間において遷されたと想定するならば、中国史書に記載されている「径百余歩」の大きさも理解できるようになります。
宮谷古墳は気延山古墳群最大の古墳です。その年代は3世紀後半、卑弥呼が没した直後の時代と一致し、古墳の実態が当時の権力者を象徴しているだけでなく、魏王朝から賜ったと推測される三角縁神獣鏡が発見されたため、宮谷古墳は卑弥呼の存在と絡んでいたと推測されます。しかしながら宮谷古墳の発掘調査では石室は見つかるものの、木棺の中に被葬者の姿はありませんでした。これは盗難にあったか、もしくは、木棺の中から別の場所に遷されたことを意味しています。その墓の移設先が、八倉比賣神社の奥の院であると想定すると、気延山に纏わる一連の流れが見えてくるようです。
気延山頂上には八倉比賣神社の元宮が存在します。その小高い頂上の周辺の直径は少なくとも110mはあり、「径百余歩」という史書の記述におよそ合致します。それ故、その頂上が当初、卑弥呼が葬られた場所であった可能性があります。その後、3世紀後半、卑弥呼の墓は宮谷古墳に遷され、以前よりも格式の高い形状の前方後円墳として埋葬されたのではないでしょうか。そして最終的には現在の八倉比賣神社の奥の院に遷され、そこに五角形の岩積みが際立つ磐座が造られたと想定すると、歴史の流れが見えてきます。
中国から持ち込まれた三角縁神獣鏡、宮谷古墳で見つかった空の木櫃、そしてすぐそばに建立された八倉比賣神社の奥の院と、その元宮があった気延山の存在は、魏王朝との関わりだけでなく、その背景に卑弥呼の墓があったことを示唆しているようです。真相は定かではありませんが、八倉比賣神社が建立された気延山と杉尾山には縄文から古墳期の遺跡が多数あり、卑弥呼と結び付く遺物が未だに残されている可能性も含め、今後の研究に期待がかかります。
画像ギャラリー:鮎喰川 / 吉野川 / 八倉比賣神社 / 八倉比賣神社 磐座 / 剣山 亀石・鶴石 / 気延山 / 剣山 / 宮谷古墳


八倉比賣神社 奥の院 五角形の磐座
引用:八倉比賣神社1、2号墳墳丘測量図(コンタ単位:m)
剣山 鶴石
剣山 亀石


宮谷古墳全景
宮谷古墳測量図

宮谷古墳全景
八倉比賣神社が当初建立された気延山山頂