邪馬台国の玄関となる八倉比賣神社の由緒
鮎喰川沿いの小高い丘に建立された八倉比賣神社は阿波国一宮の式内社であり、正式な名称は、天石門別八倉比賣神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)です。八倉比賣神社の祭神は阿波の国にて古くから地域の女神、守護神である大日霊女命(おおひるめのみこと)です。一般的には八倉比賣大神として知られ、五穀豊穣・安産・女性守護の神としても庶民の信仰を集めています。社伝には天照大神の葬儀について記されており、八倉比賣大神は天照大神の別称とも語り継がれてきました。創建の年代は不詳ですが、江戸時代に書かれた社伝では鎮座から2150年とされ、その歴史は邪馬台国の時代以前に遡るかもしれません。
八倉比賣神社の御神体は神社が建立されている杉尾山です。古くは八倉比賣神社の北西600m先にある峯続きの標高212m気延山に八倉比賣大神が天下り、鎮座したとされています。その気延山から移遷し、杉尾山に鎮座したとされています。杉尾山と気延山は八倉比賣神の伝承に絡んで連なっていることから、2つの山が同一視されることもあります。また、気延山周辺には縄文期から古墳時代に由来する多くの古墳群が残されていることも注目に値します。杉尾山を含む気延山一帯だけでもおよそ200もの古墳が見つかっています。気延山は、阿波忌部(徳島県)が麻・木綿を貢進する役目を担っていた践祚大嘗祭において、重要な役割を果たしたとも伝えられてきました。
八倉比賣神社の拝殿裏にある階段を上ると、奥の院として知られる五角形の磐座があります。石積みされた奥の院の磐座は海抜116mの丘陵の尾根先に築かれています。実際は前方部分が長く伸びた前方後円墳の後円部にあたり、その頂上に五角形の祭壇が木口積(こぐちづか)と言われる青石の石積みによって築かれています。五角形の意味は古代中国の「五行思想」(木・火・土・金・水)に由来するかもしれません。邪馬台国の時代、弥生時代後期においては大陸より多くの渡来者が列島を訪れ、大陸思想の影響を強く受けながら倭国の文化が培われました。その結果が墳墓の形に表れ、五角形という特種な形状を成したと考えられます。
剣山に結び付く「つるぎ石」の鶴石と亀石
磐座の中心部分にある青石の祠はつるぎ石として祀られ、砂岩の鶴石と亀石が組み合わされて置かれています。それぞれの石の形状が鶴と亀に似ていることから、地元では鶴石、亀石と呼ばれるようになったと伝えられています。鶴は千年、亀は万年と古くから語り継がれてきたように、鶴と亀は不老不死の象徴であり、永遠の生命を象徴すると語り継がれてきています。また、ヘブライ語では鶴は神、亀はお守りを意味する言葉であり、鶴亀を「神の守護」と解釈することができるため、ヘブライルーツと関連しているかもしれません。
特筆すべきは四国剣山の頂上にも鶴石と亀石が存在し、山の名称が剣山(つるぎさん)であることです。よって剣山の存在を念頭に、八倉比賣神社の奥の院の磐座においても、鶴石、亀石と呼び、合わせて「つるぎ石」として知られるようになったのではないでしょうか。つまり八倉比賣神社と剣山は、磐座を通じて双方が背面下で繋がっていた可能性があります。剣山からは吉野川に向けていくつもの支流が流れており、そのうちのひとつが八倉比賣神社沿いを流れる鮎喰川です。よって、剣山と八倉比賣神社は剣山からの清流によって繋がっていただけでなく、剣山から流れる吉野川の支流は、河口周辺の波止場から剣山まで行き来できる山道のガイドラインを川沿いに提供していたと考えられます。それ故、古代の民は四国の沿岸から吉野川を上流に向かって八倉比賣神社周辺の波止場まで向かい、上陸後、邪馬台国まで川沿いの山道を1か月かけて登ったと想定すれば、邪馬台国への玄関となる八倉比賣神社とその界隈が重要な拠点となった背景を理解できます。
八倉比賣神社の磐座は卑弥呼の墓?
八倉比賣神社が古代、何かしら邪馬台国に関わっていた可能性は、神社が建立された杉尾山・気延山の位置から察することができます。山の麓は吉野川と支流の鮎喰川が合流する入り江にあたり、船が停泊する波止場に適した絶好の場所を提供していました。そこから15kmほど山を登ると、四国山地を通り抜ける山道が東西南北に交差し、重要な旅の拠点となる今日の神山町に到達します。吉野川の下流から神山町に向かうには、八倉比賣神社に隣接する入り江にて下船し、そこから陸路を歩いていくルートが最短です。よって八倉比賣神社は、四国山地をはじめ、邪馬台国へ向かう際にも、避けて通ることのできない場所にあったのです。
「魏志倭人伝」によると、最後の港に上陸してから邪馬台国へ向かうには、30日間という長い日数を要します。よって、古代の民は、海上から陸地へと移動する際、常に最短の陸路に繋がる港の波止場から上陸したことでしょう。その場所こそ、瀬戸内海から徳島方面に回り、吉野川を上流に向かって到達する八倉比賣神社沿いの入り江と考えられます。周辺は陸海の交通網が交差する場所にあたり、八倉比賣神社は必然的に邪馬台国を往来する旅人と深い交流を持つことになります。
八倉比賣神社の由緒を記した正式な古文書はなく、これまで多くの言い伝えや地元の郷土史などにより、伝承されてきました。中には卑弥呼が八倉比賣大神であったという説もあります。八倉比賣神社周辺が邪馬台国へ繋がる山道の上陸地点と想定するならば、邪馬台国の女王である卑弥呼が八倉比賣神社で祀られている大神と結び付くのは、ごく自然な歴史の流れと考えられます。また、八倉比賣神社の奥の院にある磐座が卑弥呼の墓ではないかという説も、巷では流布されています。邪馬台国阿波説によると、八倉比賣神社の奥の院の祭壇を、卑弥呼の墓としています。
八倉比賣神社の磐座が卑弥呼の墓と考えられる根拠は以下にまとめられます。
- 八倉比賣大神は太古に倭国を治めた女神として、神功皇后以前の祭政一致の時代に崇敬されたという伝承があり、この女神を卑弥呼と重ねて解釈することができる。
- 八倉比賣神社では祭神として「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)」が祀られ、巫女なる阿波の八倉比賣神と結び付けて、卑弥呼と同一視できる。
- 八倉比賣神社の古文書によると、天照大神の葬儀執行の詳細な記録が綴られており、「八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀である」、と示されている。
- 八倉比賣大神は霊山に鎮まり、死後は「奥の磐座」に葬られたという伝承があり、それに該当する磐座は、八倉比賣神社の奥の院しかない。
- 奥の院の磐座は、その規模からして古代の祭祀遺構であると考えられ、陵墓としてのデザイン性があることから、高貴な支配層の墓と考えられる。
- 大和朝廷が全国で政務を行う役場と、八倉比賣神社が建立された地域が国府という名称で一致し、行政の中心地が神社の周辺に存在したと考えられることから、卑弥呼との関係に結び付きやすい。
- 鎮座の年代は、1773年の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千五百年を経ぬ」と書かれ、逆算すると西暦338年となり、伝承した年代が1773年以前と仮定すれば、鎮座年代はさらに遡り、邪馬台国の時代に合致する。
これらデータから察するに、八倉比賣神社のエリアには重要な行政機関が存在し、政治が関与したさまざまな祭祀活動が執り行われていたと推測されます。よって八倉比賣神社は古代社会において、祭祀活動と政治が結び付くさまざまな行事に絡み、重要な役割を担っていたに違いありません。また、隣接する波止場は邪馬台国への玄関となる港であり、必然的に八倉比賣神社と深い関わりがあったと推測されます。それ故、八倉比賣神社の小高い丘が、倭国の女王が葬られる場所になったとしても不思議ではないのです。
ところが「魏志倭人伝」には卑弥呼の墓は「径百余歩」と記されており、奥の院の磐座では、大きさが合致しないことが指摘されています。「歩」とは古代中国における長さの単位で、1歩はおよそ 1.38mほどです。すると卑弥呼の墓の直系が140mもあることになります。周辺の盛り土も含めても、大きさが足りません。現在の奥の院の磐座は、周囲の塚を考慮しても、直径が70~80mほどしかありません。
しかしながら、八倉比賣神社は古代、気延山の頂上に建立されていたと、「天石門別八倉比賣大神御記」に記されています。よって、元の境内に繋がる円墳の直径を確認することが重要です。今日、気延山の頂上には祠が建てられ、その周辺は円墳の跡が残っているように見えます。盛り上がった頂上部分は東西方向に延びており、東側からの緩やかなスロープから頂上まではおよそ65m、西側は斜面がややきつく、頂上までは約35mです。すると直径が110mほどの古墳の一部と考えることができ、その大きさは「百余歩」と記載されている中国史書の記述と合致します。真相は定かではありませんが、八倉比賣神社が建立された気延山と杉尾山には、縄文から古墳期の遺跡が多数あり、卑弥呼と結び付く何かしらの遺物が未だに残されている可能性も十分に考えられます。今後の研究に期待がかかります。