徳島の山岳地帯に広がるササ原の背景
四国山地の中でも特に徳島の山岳地帯には険しい山々が広がっています。徳島県は総面積のおよそ8割が山地であり、その面積は3200~3400平方キロメートルです。徳島県の山岳地帯を構成する山々は、三好市、美馬市、つるぎ町、那賀町などの県西部に存在します。それらの山々は、西日本で2番目に高い標高1955mを誇る剣山を中心とした剣山地、平家の落人伝説でも知られる祖谷・奥祖谷地域、そして吉野川北方の高越山系の3つのグループに分けることができます。
徳島の山岳地帯は人が足を踏み入れることができないような急斜面や断崖、絶壁が多いことで知られています。車に乗って車道を上っても斜面がきついだけでなく、途中から道路も狭くなり、ヘアピンカーブの多いことに驚かされてしまいます。よって、このような山岳地帯を徒歩で進むには、相当な覚悟と困難が伴います。それでも徳島の山岳地帯には何かしら大きな魅力が秘められていたのでしょう。古代では山々の頂上周辺や尾根伝いに高地性集落が造成され、山麓の地域一帯にも集落が広がっていたと考えられます。そして大勢の人々が暮らした山上国家さえ存在した可能性が見えてきました。その背景に迫るため、今いちど徳島の山々について見つめ直してみます。
吉野川から剣山へ向かう道
徳島県のおよそ8割を覆う山岳地帯を目指し、東方の紀伊水道に面する吉野川の河口から進むと、吉野川の支流である鮎喰川に至ります。そこから上流に位置する神山町に向かうと、すぐ左手に須賀山が目に入ります。標高こそ521mと低いものの、須賀山は広野富士とも呼ばれ、山上国家への玄関のような存在です。
そして神山町からさらに南方に向けて2kmほど山を登ると標高1019mの旭ヶ丸に到達します。山頂そばには大川原高原が広がり、牛が飼育されている放牧場が存在します。吉野川の河口から直線距離で20kmしかない場所であるにも関わらず、既に1000m以上の標高となる山岳地帯の真っただ中です。徳島の山岳地帯がいかに急斜面に囲まれているか、ということがわかる前哨となります。大川原高原からは徳島を一望できるため、地理的には重要な拠点であったことがわかります。
一旦、旭ヶ丸から下山し、神山町から徳島の山岳地帯に向けて国道438号沿いを10kmほど西方に進むと、突如として坂道が急になり、山岳地帯の奥地に入っていくことがわかります。川井峠を過ぎると、天行山への登山入り口の看板が目に入ります。天行山 (925m) は信仰の山とも呼ばれ、山頂周辺は原生林に包まれています。天行山山頂近くの大師堂には弘法大師座像が祀られています。
そこからさらに山を登り続けると、剣山の麓とも言える木屋平に着きます。その北側には、古くは明神岳と呼ばれ、剣山道の歴史を伝えてきた木屋平の名峰である正善山 (1229m) があります。古代、剣山に登頂するためには、吉野川から山岳地帯に向けて何日も歩く必要がありました。正善山の山頂近くにある杖立峠は、古代から剣山への参詣道として多くの旅人が足を運んだ場所です。今日では山の中腹が植林され、道路も貫通したことから杖立峠の面影は無くなってしまいました。杖立峠の手前には石尾神社の巨大な磐座があり、剣山に登る前に参拝すべき大切な聖地として、今日まで語り継がれています。また、正善山のそばに聳え立つ穴吹の友内山(1073m)にも注目です。古くは木綿麻山(ゆうまやま)とも呼ばれ、数々の旧跡や伝説が残されています。友内山は万葉集にも登場する由緒ある山です。
天行山の界隈から剣山に向かうには、引き続き穴吹川に沿って山道を登ります。すると阿波の地で祭祀活動を執り行ってきた忌部氏との関わりが古くから言い伝えられている白龍明神にて、磐座が祀られている境内が目に入ります。その先には川沿いに瀧宮神社が建立されています。そこから5kmほど上流に向けて進むと、劔山本宮槇渕神社の境内に着きます。周辺にはブナやササ原が広がる山々が増え始め、剣山への展望が開けてきます。断崖絶壁の四国連山というイメージが強い徳島の山岳地帯ですが、実際には傾斜の厳しい斜面を通って標高が上がるにつれて、なだらかな草原が増えてくるのが不思議です。また、剣山の山頂に近づいても穴吹川、貞光川など多くの川が流れているのは、地域の水源が豊であることの証拠でしょう。これらの川沿いの平坦なエリアは、高山でありながらも人が住む集落を造成するのに適した環境を提供しています。
神山町の西方に聳え立つ剣山は西日本で2番目の標高を誇る地域の最高峰です。その頂上周辺は多くの山々が連なります。穴吹川の上流に沿って山々を見渡しながら歩き続けると、剣山に近づくにつれて、中尾山 (1330m)、赤帽子山 (1611m)、そして丸笹山(1711m)の麓に至ります。中尾山は地元では「なこやま」と呼ばれています。剣山の北東に位置するこれらの山々では、頂上周辺から尾根伝いのなだらかな斜面にササ原が広がっています。赤帽子山の頂上一帯にもササ原が広がり、そこからは剣山の頂上を一望することができます。
丸笹山の山頂近くの貞光川源流からは日々、大量の水が湧き出ています。周辺にはササ原と少々の樹木だけしかないような山の頂上のすぐそばから、なぜ、これだけの水が流れ出てくるのかが不思議です。剣山周辺の地域一帯が、豊かな水源に恵まれていることがわかります。丸笹山の山麓には夫婦池と呼ばれる大きな池もあり、広い敷地内には今日、快適な宿泊施設も運営されています。丸笹山に隣接する中尾山高原ではグラススキー場やオートキャンプ場などが運営され、アウトドアのスポーツも盛んです。
剣山を囲う山々のササ原と牧場
四国の徳島山岳地帯の中心となる連山には、ササ原に囲まれたおよそ平坦な高地を頂上周辺に有する山が多く存在します。剣山、三嶺、天狗塚、塔丸、丸笹山、赤帽子山などの山々をはじめ、北側は遠くに矢筈山、南側は土佐矢筈山など、ササ原が広がる絶景を楽しめる山々は枚挙に暇がありません。それらの山々や地域を探し出して、地図上にプロットしてみました。すると、徳島の最高峰である剣山と、その西方に並ぶ三嶺を結ぶ尾根伝いを基点とした延長線上にササ原が続き、その南北に聳え立つ山々にもササ原が広がっていることを確認できます。
まず、頂上からなだらかな斜面が広がり、美しいミヤマクマザサのササ原に包まれている剣山に注目です。古代から霊山のシンボルとして比類なき名声を博した剣山の界隈では、古くからユダヤに関するソロモンの秘宝や金の鳥に関する伝承が言い伝えられています。「馬の背」とも呼ばれる剣山頂上からの斜面を覆う美しいササ原の光景には、何かしら古代の人々の思いが込められているようにも感じられます。剣山の麓ではブナの原生林が広がり、隣接する一ノ森は、日の出の名所としても有名です。
剣山の周辺を見渡すと、東は一ノ森 (1879m)、北は丸笹山(1712m)、北西は塔丸 (1713m)、そして南西は次郎笈 (1930m) に囲まれ、いずれも頂上からササ原が広がります。そしてササ原の群落はさらに西方に広がり、剣山から平和丸、みやびの丘を越えて三嶺(1893m)と天狗塚(1812m)まで15kmにわたり、尾根伝いに続きます。天狗塚の南には草原の山とも言われている綱附森 (1643m) が隣接し、ササ漕ぎを強いられるほどの広々としたササの草原が一帯を覆っています。さらに天狗塚の南西5kmには土佐矢筈山の頂上にもササ原が広がっています。これらの山々の多くは標高1700~1900mの高山であり、周辺の山麓一帯は断崖や絶壁が際立つ多くの急斜面に囲まれているにも関わらず、尾根伝いにはなだらかな斜面が続くことに驚きを隠せません。
三嶺の山頂一帯にも剣山と同様にミヤマクマザサの群落が広がります。山頂になだらかな3つのピークを持つことが三嶺という名前の由来になったと言われています。天狗塚の山頂からは牛の背と呼ばれる剣山のササ原を眺めることができます。その穏やかな稜線から広がる周辺の祖谷山系や高知の山並みは絶景です。三嶺と天狗塚の頂上そばには大きな池があることでも知られています。
剣山の南側、徳島県と高知県の県境に聳え立つのが標高1707m の石立山です。石立山の頂上も傾斜は緩やかであり、一面がクマザサの草原に包まれ、北側、剣山方面の展望が開けています。近隣の川沿いには、広範囲に物部村の集落が広がっていることも注目に値します。その南側には山頂一帯がササ原に覆われ、頂上がどこだかわかりづらいほど平坦な行者山 (1346m) があります。その南西方向には高知県の山々も望むことができます。
三嶺の北方にある矢筈山(1848m)の山頂周辺も起伏の少ない斜面に囲まれ、ミヤマクマザサの草原が広がっています。ササ原は矢筈山から落合峠に向けて続き、寒峰の頂上でも散見されます。矢筈山近くの腕山 (1332m) では今日、県営牧場が営まれています。広大な牧場の草原は、四国屈指とも言われています。厳しい山岳地帯であるにも関わらず、尾根伝いには意外にもなだらかな斜面にササ原が群生しているだけでなく、牧場までも存在するのが徳島山岳地帯の特徴です。
これらのササ原は自然に群落が広がったものではなく、人為的に山焼きされた跡であるというのが定説になりつつあります。ササ原を古代の高地性集落の跡として紐付けることにより、ササ原の生態系がよりわかりやすくなるだけでなく、古代社会において集落が造成されていた地域を推測するための貴重な資料にもなります。
空海と平家落人伝説が残るササ原の山々
四国の沿岸から剣山山頂の周辺に向かうには、吉野川の河口がある徳島界隈から西方に向かって山を登るルートだけでなく、吉野川上流より、今日の三好市祖谷口や大歩危小歩危などの地域から東南に進むルートも考えられます。吉野川上流の川沿いは岸壁が立ち並び、そこから山岳地帯に入ると、すぐに険しい急斜面が続きます。それらを越えて山奥に進み続けると、やがて標高1446mの中津山に到達します。信仰の山とも言われる中津山の頂上には「黄金ノ池」と呼ばれるおよそ100㎡の池があり、周辺には睡蓮やジュンサイが自生しています。頂上のすぐそばには、垂直に立ち上がる絶壁があり、その頂点に中津神社の本堂が建てられています。中津山では弘法大師が祀られていることから、黄金の池は灌漑工事を経て造られた人工の池である可能性があります。
中津山のすぐ西側には国見山 (1409m) が聳え立ちます。中津山や国見山の頂上と、その麓を南北に流れる吉野川との標高差は1200mにも達します。これらの山岳地帯を越えて東南に聳え立つ剣山の方へ向かうには、大変な労力を伴います。中津山からさらに東南方向へ進み、山々を越えていくと、やがて頂上周辺をササが覆う寒峰(1604m)に辿り着きます。そしてその先の祖谷川まで下山すると西祖谷の地域に至り、観光地として有名な「祖谷のかずら橋」を目にします。
祖谷の地域一帯には平家落人伝説が残っています。寒峰の東南の麓には奥の井と呼ばれる地域があり、周辺一帯は古くから栗枝渡(くりしと)という地名が付けられ、栗枝渡八幡神社が建立されています。さらに剣山の方へと進むと、今日、最も原始的な集落の面影を残す奥祖谷と呼ばれる地域もあります。祖谷では語り部をとおして平家落人の歴史が長年にわたり言い伝えられ、平家に関する神社や屋敷、その他の文化遺産が多く残されています。また、古くからユダヤの神宝に纏わる伝承も残され、古代のロマンが語り継がれてきたゆかりの場所です。
徳島山岳説を裏付ける剣山周辺の山々
徳島の山岳地帯は山頂から尾根伝いにササ原が広がり、意外にも多くのなだらかな斜面に包まれています。そして尾根伝いには高地性集落を造ることが可能な場所が随所に見られます。さらに周辺の地域にも、集落を造成するのに適した平地が山中や川沿いのエリアなど、至る所に見受けられます。また、剣山周辺には多くの川の源流があり、東西南北いずれも豊かな水源に恵まれています。それだけに7万戸の家屋を有する邪馬台国の領域が、地域最高峰の剣山を中心とする周辺の山々の山麓に存在していたと考えても不思議ではありません。広範囲に広がる山上のミヤマクマザサの存在は、邪馬台国の集落が山々の尾根伝いにある緩やかなササ原の斜面に存在したことを匂わせています。
邪馬台国の集落が剣山周辺の地域に存在したという前提で、可能性のある場所を検討してみました。そのヒントが、剣山地周辺の山々において、ササ原が生い茂るエリアです。ミヤマクマザサが群生するエリアを地図上にプロットすると、邪馬台国の中心地と想定される剣山の頂上を包み込むように、剣山と三嶺の山麓や山々の周りにはササ原が生い茂るエリアが広がっているのがわかります。また、随所に高地性集落を造営するにふさわしいなだらかな斜面が広がる場所が見つかります。
ミヤマクマザサが群生するエリアは東西方向に26kmほど広がります。東の端は剣山のお膝元となる劔山本宮槇渕神社そばの赤帽子山の頂上周辺までミヤマクマザサが群生しています。そして西方は三嶺、天狗塚を超えて土佐矢筈山のさらに西、小桧曽山まで至ります。北方は落合峠から矢筈山、石堂山を結ぶ尾根伝いがリミットとなり、南方はみやびの丘を境界として、その先には物部集落が広がっています。

これらのエリアに至るには、徳島を流れる吉野川から支流を上り、下船してから陸地を1か月間、歩かなければならないほど、道中には厳しい山道が待ち構えていたことがわかります。剣山周辺の山岳地帯は、その位置付けからしても史書の記述と一致するだけでなく、大規模な高地性集落が広範囲に存在した可能性を秘めています。邪馬台国が徳島の山岳地帯にあったという信憑性は高まります。

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