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2019/03/05

マチュピチュとクスコへの冒険旅行 第4話 インカ遺跡 丸1日弾丸ツアー!

クスコの宿泊先 JW Marriott Hotelインカ帝国の首都クスコに到着した翌日、1日がかりでクスコ界隈のインカ遺跡をスクーターに乗り見物しました。夜の9時すぎ、疲労困憊でホテルに戻ってきた時には、歩くのがやっとの状況でした。しかも部屋で自分の顔を鏡で見ると、何と両目の周りが醜くむくんで腫れており、顔もやけどをしたようにただれ始めているではないですか!インカ遺跡見学1日目でぼろぼろになった顔
インカ遺跡見学1日目でぼろぼろになった顔
クスコの標高は3,400mと大変高いことから紫外線が想像以上に強いだけでなく、太陽が照り輝く広大なインカ遺跡を、無防備の素顔で1日中走り回ってきた訳ですから、顔の日焼けも度を越えて当たり前なのかもしれません。それでも気落ちすることはありませんでした。せっかくクスコ経由でマチュピチュに行くからには、何が何でもインカ遺跡は全部見なければと、むしろ意気込んでいる自分がいました。

セークレッドバレーの遺跡を全部見学?

インカ遺跡の見学には入場チケットの事前購入が必要
インカ遺跡の見学には入場チケットの事前購入が必要
クスコからマチュピチュへ向かうには、インカ遺跡が散在するセークレッドバレーを車や電車で通り抜けます。それらのメジャーなインカ遺跡のすべてを見学するという前提で、マチュピチュへの全旅程を5日間で組むことは容易ではありません。何故なら初日の夕方、クスコに到着した後、2日目はクスコ界隈の遺跡を巡り、3日目にはクスコを出発するも、セークレッドバレーにあるインカ遺跡に立ち寄る時間はその1日しかなく、マチュピチュの旅は、残り2日しかないからです。そして4日目の早朝にマチュピチュを訪れるためには、前日の夜、すなわち3日目の夜にはマチュピチュの町に到着していなければならないのです。マチュピチュの訪問は予約制であり、早朝しか予約を取ることができないようなのです。時間がゆっくりと流れる空気の南米にて、分単位の移動をしなければならないというのは皮肉なものです。

そこでクスコを旅立った後、マチュピチュへと向かう途中、できるだけ多くのインカ遺跡を訪ねてみたいという一心から、綿密なプランを立てることにしました。まず、マチュピチュへ向かうために、どの駅からマチュピチュ行きの列車に乗るか、ということを決める必要がありました。事前の下調べをする時間が全くなかったことから、とりあえずマチュピチュでの宿泊を予約してあるCasadelsol hotelsというホテルのコンシェルジュにメールで問い合わせてみることにしました。単にネット上での評価を見て、そのホテルに予約を入れただけなのですが、実はこれが功を奏したのです。マチュピチュへの旅のプランニングは、ホテルのコンシェルジュがおすすめです。ホテルに宿泊1泊の予定だけなのに、メール対応が早く、しかも内容が実に丁寧で親切なのです!

幾度となくメールでやりとりするうちに、いかにしてクスコからマチュピチュへ行く途中に、メジャーなインカ遺跡を1日で全部見学することができるか、その方法を理解することができるようになりました。それは決して不可能なことでもなく、ただ、速足で見学する必要があり、そうすれば1日プランで満喫できることがわかったのです!ハードスケジュールとはなりますが、コンシェルジュとメールで相談しながら、数日でプランはまとまりました。以下、計画の概略です。

  1. まず、クスコからマチュピチュへ行くには、クスコから70㎞少々離れているオリャンタイタンボ駅始発の汽車に乗るのがベスト。
  2. クスコからオリャンタイタンボ駅へ向かう途中のセークレッドバレーには、著名なインカ遺跡がいくつもあり、メジャー場所を少なくとも3か所は見学することが可能。
  3. クスコのホテルからオリャンタイタンボ駅までは、信頼できる貸し切りタクシー(Private Tour)のドライバーをホテルのコンシェルジュに紹介してもらうのが安心。
ペルー政府観光庁の旅行地図がわかりやすい!
ペルー政府観光庁の旅行地図がわかりやすい!

汽車の切符はネットで予約購入

ホテルのコンシェルジュからのアドバイスに従って、まず、3日目の夜にマチュピチュに到着する列車を日本から予約することにしました。最終便の列車は夜9時頃に出発するとのことでしたが、できるならば移動中、周りの景色を楽しみたかったことから、夕方までにはオリャンタイタンボ駅を出発することにしました。

オリャンタイタンボ駅からマチュピチュへ向かう列車の会社は、ペルーレール(PERU RAIL)とインカレール(INCA RAIL)の2社があります。どちらも大差はないことから出発と到着の時間を時刻表で確認し、インターネットで事前にチケットを購入するのが賢明です。その際、列車のクラスも決めなければなりません。ところが列車会社の情報をネットで調べても、クラスの違いがわかりづらいことから、コンシェルジュと何度もメールでやり取りしながら確認することになりました。まず、料金とサービスが大きく異なるクラスに分かれているということです。そして列車全体が1クラスのサービスのみに徹していることも留意する必要があります。日本の新幹線のように、一列車に自由席、指定席、グリーン車が共存するようなことはありません。つまり列車全体が自由席か、もしくはグリーン車いずれかのようになっているのです。

それぞれの列車にはクラスごとに名前が付けられ、始発駅と途中下車の駅が違うこともあり、注意が必要です。ペルーレールは、「ハイラムビンガム」「セークレッドバレー」「ビスタドーム」「エクスペディション」の4クラスに分かれています。「ハイラムビンガム」は最上級のおもてなしを実現した豪華列車であり、フルコースの食事やワインだけでなく、列車内でのライブ演奏、ダンス、そしてマチュピチュでのバス代、入場料までもが含まれています。「セークレッドバレー」はウルバンバ駅を始発とした高級列車で、上級の食事とサービスがつきます。「ビスタドーム」はおつまみとドリンクがつくグリーン車に匹敵するサービスであり、「エクスペディション」は一般的な普通車両と考えればよいでしょう。

インカレール社エグゼクティブ・クラスの様子
インカレール社エグゼクティブ・クラスの様子
インカレール社も負けじと、4クラスのサービスを提供しています。最上級のおもてなしが期待できる「プライベート」クラス、上級の食事が自慢の「ファースト」クラス、軽食で乗客の心を和ます「360度」、そしておつまみだけの「ヴォヤジャー」に分かれています。「ファースト」と「プライベート」クラスにはライブ演奏もついています。とにかく列車の数はさほど多くないことから、出発と到着の希望時刻に合う列車を予算に合わせて見つけ、予約を入れることが大事です。

今回の旅では、夜、暗くなるまでにはマチュピチュに着いて夕食をとりたい、と願っていたこともあり、午後4時前後までに出発する列車を探すことにしました。まず、目についたのが、ペルーレールのビスタドーム32号です。豪華な食事はないものの、グリーン車なみの座席に座って高級感を味わえるので十分です。この列車はオリャンタイタンボ駅を16時43分に出発、マチュピチュには18時31分に到着します。ホテルのコンシェルジュは、このビスタドームを推奨してくれました。ところがもう一つのインカレールの時刻表を見ると、ほぼ同時刻の16時36分に出発する列車があり、到着が30分も早い18時09分なのです。少しでも早くマチュピチュに到着したかったここともあり、行きはインカレールのエグゼクティブ・クラスに決めました。

豪華列車 ハイラムビンガムの内装
豪華列車 ハイラムビンガムの内装
また、マチュピチュからクスコに戻る汽車も事前購入する必要がありました。この便については、オリャンタイタンボ駅で途中下車するのではなく、最後の晩に宿泊するクスコの街に隣接するCUSCO駅まで行く必要があることから選択肢の幅が広がります。一生に一度の旅なので、ネットでも話題にのぼるペルーレールの最上級クラス「ハイラムビンガム」にどうしても乗りたくなってしまいました。ホテルのコンシェルジュにその旨伝えると、「値段が高いからやめておいたほうがいいですよ!」というアドバイスを受けました。しかしながら、もう心は決まっていました。自分への最高のご褒美は、最高級のディナーとワイン、ライブ演奏を楽しめる「ハイラムビンガム」に決定です!

メール添付で届いたマチュピチュ行きの列車チケット
メール添付で届いた
マチュピチュ行きの列車チケット
これら往復のチケットは、双方ともネットで事前購入しました。行きのインカレールのチケット価格は79ドル。そして帰りはペルーレールご自慢の「ハイラムビンガム」は、なんと。。。驚くことに450ドル、行きの5倍以上です!それでも一生に一度だからと自分に言い聞かせ、ペルーの旅、最後の思い出となることを願い、支払うことにしました。これら汽車関連のチケット購入に関するやりとりは、すべて確認事項を英語のメールで行いました。どちらの会社も返事は早く、大変丁寧な説明でしたが、ところどころ英語がわかりづらく、戸惑う時がありました。しかしながら結果として、無事、発券できたことからほっとしました。これらの汽車は季節や時期によりクラスの展開が変わるようなので、事前のチェックが必要です。

車の移動はベテラン運転手にお任せ!

さて、列車の予定が決まったら、次はセークレッドバレーを移動する車の段取りです。クスコからマチュピチュへ行く途中、インカ遺跡でも著名なピサク、モレイ、マラス塩田の3か所だけは、どうしても足を運びたいと思っていました。しかしながら、オリャンタイタンボ駅からの汽車の出発が16時36分に決まったことから、正味6時間前後しか旅の時間がありません。よって、逆算すれば朝何時に出発すればよいかわかるはずです。

ここでもホテルのコンシェルジュが、本当によく連絡をメールでやりとりしてくださり、段々と理解を深めていくことができました。コンシェルジュのアドバイスによると、まず、旅行者向けの貸し切りタクシーを利用するのが一番便利で安心できるとのことでした。そして過去に実績のあるドライバーを紹介していただけるということで、連絡をしていただきました。

運転のルートに関しては、クスコからオリャンタイタンボ駅までは、最短のルート3Sと28G経由の道を車で行くと、およそ72㎞、1時間45分ほどの旅になります。しかしながら、インカ遺跡として著名なピサック遺跡を経由する場合は、ルート28Gをまず北上し、迂回してからルート28Bへと合流するため、距離は91㎞、時間にしておよそ2時間少々かかるということです。ピサック遺跡には何故かしら強い思いがあったことから、問答無用で後者を選びました。よって最初にまずピサックを訪ね、それからモライ遺跡、マラス塩田に向い、最後にオリャンタイタンボ遺跡を見学してから駅に到着するというプランがすぐにまとまりました。

直後、紹介されたドライバーからは、ホテルから説明いただいた内容で問題ないという返事を得ることができました。しかも、朝から夕方近くまでほぼ丸一日つきっきりの旅程になるというのに、コストは$210でよいというのです。支払いは直接ということから、これまた問答無用でお願いすることにしました。これで準備は整いました。

ドライバーのリチャード氏
ドライバーのリチャード氏
旅行3日目の朝、7時20分、クスコのマリオットホテルロビーにて、ドライバーのリチャード氏と待ち合わせることになりました。当日の朝、小奇麗な日本車で時間どおり来られたリチャード氏は、30代前半くらいのペルーの方でした。やりとりはすべて英語でしたが、とても丁寧な説明と、かつ紳士的な態度が印象的でした。一見して信頼できそうな方でしたので、安心して旅のガイドをお任せすることにしました。そしてクスコのホテルを早速出発し、最初に向かったのが著名なインカ遺跡、ピサックです。

広大なピサック遺跡に感動!

クスコ市街の北方、セークレッドバレー(聖なる谷)にはインカ遺跡が散在し、中でも地域の東方、クスコからおよそ34㎞、標高2,800メートルに位置するピサックは有名です。弾丸ツアー最初のインカ遺跡となるピサックには、予定どおり8時15分に到着しました。

15世紀に造られたと想定されるピサックは、マチュピチュへの中継点の一つとして知られ、その広大な敷地内には巨大な段々畑だけでなく、石組の美しい門や、扇形の断崖に造成された集落の砦が存在します。ピサックでは古くから日曜市が開催され、今日まで続いています。

ピサックは山の隆起に沿って、大きく4つのセクションに分けられています。そのうちのひとつ、インティ・ワタナ(Inti Watana)には、太陽の神殿や祭壇、水槽、浴槽、集会場があります。また、尾根の中心から遠くを見渡すことができる扇状の地形に造られたカラ・カサ(Qalla Q’asa)は、砦(Citadel)とも呼ばれ、ひと際目立つ存在です。遺跡の随所には段々に造成されたテラスがあり、山の下方から人の手により農業に適した土が運ばれて造られ、農耕作が営まれていたと考えられています。これらの複合的な要素を有する大規模な遺跡であることからしても、15世紀では重要な拠点であったことがわかります。

インティ・ワタナ (Inti Watana)
インティ・ワタナ (Inti Watana)

ピサックへ至る道
ピサックへ至る道
クスコから離れた山奥にピサックの砦が造られた理由は、少なくとも宗教、農業、そして軍事的な3つの要素があったようです。ピサックの神殿は近隣の集落からさほど遠くない場所にあったことから、多くの巡礼者が訪れた可能性があります。また、ピサックの立地はセークレッドバレーの南方にあたり、オリャンタイタンボが北側の砦として存在していたことに対して、南方の軍事的拠点となる砦の役割を果たしていたのではないでしょうか。


想定外の巨大なピサック遺跡を目の当たりにし、ひたすら感動を覚えるとともに、時間を気にするあまり、到着直後から、駆け足で遺跡の隅々まで見ることに努めました。オリャンタイタンボからマチュピチュへの汽車に乗る前に、どうしても訪れたいインカ遺跡は他にもあることから、まさに分単位のインカ遺跡弾丸ツアーの始まりです。日焼けしたあまり、厚ぼったく腫れた顔のまま、汗をかきながら走って見学するツーリストは自分だけだったかもしれません。それでも、全エリアをくまなく見届けて入り口のゲートに戻り、時計を見るとすでに10時半です。なんと、2時間以上もピサックで感動のひと時を過ごしていたのです!次の目的地はUFOの発着場を思い起こさせるようなモライ遺跡です。急いで向かうことにしました。

幻想的な空間を醸し出すモライ遺跡

山並み沿いを走る車道
山並み沿いを走る車道
ゲートで待機していた車に飛び乗り、運転手のリチャード氏にモライ遺跡への移動をお願いしたのが10時40分。ピサックからモライまでの距離は約60㎞。車で1時間20分ほどかかります。近隣のウルバンバと呼ばれる街からは直線距離でちょうど5㎞あります。クスコ市街から見て北西34㎞の場所に位置し、クスコから直接車で向かったとしても、およそ50㎞、1時間ほどの車の旅となります。ペルーの山並み沿いを走る車道は意外と快適であり、何の心配もなく予定どおり目的地のモライには12時ちょうどに着きました。

モライの標高はおよそ3,500m、クスコよりも約100m高い場所に位置しています。モライ遺跡の特徴は、古代ローマの円形劇場のように、同心円形状に何段ものテラスに分けて象られた4ケの巨大な円形の窪みです。最大の円形テラスは断層が12段に分かれ、深さが100mにもなります。円形テラスの周辺には灌漑の跡も残されています。

モライ遺跡の巨大なサークルテラス
モライ遺跡の巨大なサークルテラス
円形テラスの窪みがなぜ地中深くまで段階的に掘られたか、多くは謎に包まれていました。しかしながら、その円形という際立った形状と段々に掘られた地中への深みが相乗効果をもたらし、日光の照射位置や風向きが複合的に絡むことから、円形テラスの最上段と最下段においては最大15度も気温差が生じることがあることがわかってきたのです。その温度差が活用できる同心円形状の構造からして、インカ時代ではモライが農業試験場として用いられたのではないかと考えられるようになりました。様々な収穫物を適度な温度、風向きによって育成する方法を検証することを目的としてモライが造成されたというのが、今や定説になりつつあります。

最大の円形テラスは深さは100mにも及ぶ
最大の円形テラスは深さは100mにも及ぶ
モライ遺跡の巨大な円形テラスでは、肥えた土壌を用いてテラスが造成されており、十分な水分がいきわたるように工夫されています。モライ全体のテラスでは、およそ250種類までの穀物を同時に耕作することができたようです。例えばインカの時代、ペルーでは芋の栽培が盛んであり、当時から複数の芋の種類が存在していたことが知られています。今日ペルーでは、何と2,000種類もの芋が存在します。これは、インカの時代から様々な農業試験が行われた結果ではないかと推測されています。

また、テラスの最下部、円心にあたる周辺では雨水を吸収する排水溝が仕組まれ、雨水が外部に流れ出ているのではないかと考えられています。それ故、ペルーではどんなに雨が降っても、モライだけは洪水が生じないと言われてきました。その他、モライ遺跡はインカ時代において、天文学の研究施設としても用いられたのではないかという説があります。日の射し方と周辺の山々に映し出されるその影や、風向きなどを調べながら、様々な研究が行われていた可能性があります。

メキシコのツーリストグループによる祈り
メキシコのツーリストグループによる祈り
筆者がモライを訪れた時、ちょうどメキシコからのツーリストグループが、円形テラスの最下部にある広場に集まり、そこで輪になり、祈りの会を行っていました。その会の直後、リーダーの女性に背景を聞いてみると、以前、日本でも霊気を学んだことがあり、大勢の仲間をモライ遺跡まで連れてきて、そこで大自然の恵みをいっぱい受け取ることを願い、祈っていたとのことでした。穀物を最上の自然環境で栽培することが目論まれたモライだからこそ、人間にも素晴らしい大自然の恵みを与えることができるのかもしれません。

時計を見ると、すでに1時を回っています。まだ、マラス塩田も見てないし、オリャンタイタンボ遺跡は絶対に欠かせない一番重要なスポットです。急いでマラスへと向かいました。

塩の田んぼ、マラスはしょっぱい!

壮大なマラス塩田
壮大なマラス塩田

マラス塩田の近くに来ると、段々畑に似た巨大、かつ真っ白な塩田の姿が目に入ってきました。モライ遺跡からは直線距離にして5㎞少々ですが、車道では12kmほどの道をぐるりと遠回りしなければならず、1時半に現地到着しました。オリャンタイタンボの電車に乗るためには4時過ぎまでには駅に到着したかったため、残り2時間半でマラス塩田とオリャンタイタンボ遺跡を見ることになります。

様々な色の塩田
様々な色の塩田
セークレッドバレー内にあるマラス塩田はインカ帝国時代よりも前に造られたと考えられています。その地域では塩分の高い鉱泉が地下から湧き出ていることから、古くから塩田が形成されたのです。何百もある塩田の大きさは4m四方程度であり、塩水の深さは30㎝以上にならないように設計されています。塩水はいったん地表に出ると、上段から下段の塩田に向かい、隣同士の塩田に少しずつ塩分の高い水が流れ渡るように工夫されています。そして日当たりの良い日に水の流れをせき止め、数日後に水が蒸発して地表と壁面に塩が付着すると収納器に集め、再び水路を開けるという作業を繰り返します。塩の色も、きれいな白色からうすい赤身がかったもの、薄茶色のものと様々であり、収穫する現地スタッフの力量と経験により、大きく差が出てきます。

隣接する塩田に流れる水の量をコントロールするため、塩田同士を結ぶ水路を管理することは大事であり、その流れる量は現地のスタッフによってモニターされ、少しずつ広範囲に塩水が流れ出るようにしています。塩水の流出量は塩の収穫量や頻度によっても大きく左右されることから、蓄積された塩を集めるタイミングと、その収穫量なども含め、塩を収穫する地域住民同士の連携が大切に保たれています。基本的に地域の住民であるならば誰でも塩を収穫することができます。収穫できる塩田の場所は、先祖代々から居住している家系は手前の一番良い場所を確保しており、新しい住民は一番離れた場所を扱うことになります。与えられる塩田のサイズも微妙に異なり、家族の世帯数などによって決められます。これら収穫に関するルールの歴史はインカ帝国時代よりも前に遡ると考えられています。

塩水はあたたかく、しょっぱかった
塩水はあたたかく、しょっぱかった
早速、塩田のあぜ道を歩きながら、脇にしゃがみ、そこで塩水をなめてみました!確かにしょっぱい!しかも塩水は日射しで温められていることもあり、あったかいのです。塩田の光景は見事であり、あぜ道を谷側に向かって奥の方まで歩きながら、ほぼ全容を見ることができました。塩の存在は古代から地域社会にとって不可欠であり、国家の経済的発展にも影響を及ぼす重要な資源であったことから、マラス塩田はいつの時代も大切な資源として考えられていたことでしょう。

マラス塩田の見学は、速足で見回ったこともあり、30分で終了しました。時計を見ると午後2時です。まだ、オリャンタイタンボを見なければならず、それから汽車が出発する4時36分までに何とか駅に到着しなければなりません。駆け込み乗車をする覚悟で、最後の移動開始です。

想像を超えるオリャンタイタンボ遺跡

町の名前の発音が難しく、日本ではあまり知られていないオリャンタイタンボですが、インカ遺跡の中でも大変重要な拠点であり、マチュピチュへの基点となる汽車の始発駅ということもあり、ツアープランには当初から入っていました。マラス塩田を後にし、オリャンタイタンボに到着したのは2時45分です。オリャンタイタンボの露天商
オリャンタイタンボの露天商
汽車の時間を考えると、正味1時間半しか見学する時間がありません。標高2,846mにある遺跡の入り口周辺には露店商のテントが広がり、多くの人で賑わっていました。汽車の駅はここからすぐそばにあるということで、幸いにも運転手のリチャード氏は入り口近くに車を置いて待っていてくださるとのこと。よって、旅行ケースも何もかも彼に委ね、手ぶらで一気にオリャンタイタンボを散策することにしました。

壮大な段々畑のテラス
壮大な段々畑のテラス
オリャンタイタンボは、スペイン軍にクスコを攻略された後、後方に退いた際の最後の砦となった場所として知られています。まず、街の向こうに見えるオリャンタイタンボ遺跡のダイナミックな様相、光景に驚きました。そこには山に挟まれた巨大、かつ急斜面の段々畑のテラスがそびえ立っていたのです。大勢の観光客がテラス脇の階段を上り下りしているのが遠くから見えます。時間もないことから問答無用で自らも足を運び、階段を上りつめていくことにしました。

巨石の岩の壁
巨石の岩の壁
17段に分かれている階段状のテラスを上っていくうちに、すぐ分かったことは、オリャンタイタンボが岩石で象られた要塞である、ということです。段々のテラスを上方、やや左側には太陽神殿があり、向かって右側には山の尾根づたいに通路が見えてきます。そしてすぐに岩の要塞を思い起こさせるような巨石からなる岩の壁が連なっている場所が目に入ってきました。城壁と言っても過言ではないその容姿に見入り、足が止まってしまうほどでした。そして岩のゲートを通り抜けて階段を上がっていくと、日本の城を彷彿させる石の段組が目に飛び込んできます。

そして頂上近くになると視界が一気に広がり、そこはまさに岩の博物館と言っても決して過言ではない豪快な巨石が置かれている広場がありました。モニュメントとも言えるような縦横に置かれた巨石だけでなく、驚いたことに、そこには日本の与那国海底遺跡で見たことのある二枚岩と同じ形状で、しかもほぼ同じ大きさの岩が置かれていたのです。もしかして、与那国とインカ帝国は歴史の背面下で何らかの繋がりがあるのかとも思わされてしまいました。それら巨石の博物館先には、オリャンタイタンボ遺跡が誇る六枚岩の雄姿が目に入ります。あまりの豪快さと美しい「岩の壁」の姿に絶句してしまいました。

この六枚岩は太陽神殿の前段に置かれた巨石の岩壁と考えられており、その背後には神殿の祭壇があったと想定されています。この六枚岩の元となる岩は、ひとつあたり、およそ50トンの重量があると推測されています。オリャンタイタンボそばを流れる川の下流から持ち運ばれたものと考えられていますが、もしそうだとしても、いったいどのようにしてこの巨石を山の上まで運ぶことができたのか、想像を絶します。また、オリャンタイタンボの建造物は太陽光線のあたる角度を考慮してデザインされたとも考えられています。特に夏至と冬至の太陽光が、神殿の壁や山の壁面に当たる角度を詳細まで検討し、それぞれの建造物が置かれているのです。

今日、遺跡として残されているオリャンタイタンボは未完成の作品であり、建造の途中で断念した結果が残されていると考えられています。それ故、巨石の博物館のようにいくつもの岩が太陽神殿の周辺に散在しているのです。それでも、完成度が高く感じられるのは、太陽神殿周辺の岩造りの精度が極められているからではないでしょうか。

それらインカの不思議を考えながら神殿後方の集落跡にまで足を延ばしていると、時間があっという間に過ぎていきます。そしてふと時計を見ると3時半を回っていて、帰路につかなければいけない時刻です。急いで歩き続けると「Balcon Pata」というサインが立てられています。とりあえずその背後にある狭い山道を通り抜けると、2つの建物と、それに続く階段状のテラスが見えてきました。そしてベースとなる出発点の方に階段を下りていくと、広場の隅に浴場と考えられる水槽や水路が見えてきました。そこは「王女の浴場」とも呼ばれる美しい浴場であり、その上部からはいつもきれいな水が注がれています。その後、入り口横の広場近くまで戻ると、そこには数々の石碑がモニュメントとして置かれてあり、これぞまさに「岩の博物館」と言われる所以だったのです。

時刻はすでに4時を過ぎ、もう待ったなしです!汽車に乗り遅れないためにも、運転手のリチャード氏を探すために急いでオリャンタイタンボ遺跡を出て、駅に向かうことにしました。

オリャンタイタンボ駅はすぐそば!

車に乗って駅までお願いするも、事前に聞いていたとおり、駅は遺跡のすぐそばでした。ほんの数百メートルも移動すると、駅に続くメイン通りの商店街が見えてきました。そこで車を降り、リチャード氏にお礼を言ってすぐに、駅の構内へと向かいました。今回乗車するのは、事前に予約をして切符も購入した、4時36分発のINCA RAILの汽車です。ぎりぎりセーフで無事、汽車に乗ることができました。オリャンタイタンボ駅のホーム真横には小奇麗なレストランもあり、時間があればそこでゆっくりとくつろぐこともできます。

オリャンタイタンボ駅
オリャンタイタンボ駅
丸1日の弾丸ツアーで著名なインカ遺跡をピサックも含めて4か所周れたことは、大きな収穫でした。そして明日、早朝から始まる念願のマチュピチュツアーに向って、ペルーで初めて汽車に乗りました。大きな期待とともに、疲労は極限に達していました。それでも弾丸ツアーに文句言いっこなしです。そこには、意気揚々とマチュピチュへと向かう自分がいました。

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