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2025/10/28

卑弥呼と八倉比賣神社の繋がり 五角形の祭壇に秘められた国家鎮護の謎に迫る

八倉比賣神社には卑弥呼の墓がある?

八倉比賣神社の奥の院となる磐座は、果たして卑弥呼の墓なのでしょうか。元来、八倉比賣神社は気延山の山頂近くに存在しました。今日、八倉比賣神社は気延山の麓にあたる杉尾山に遷されています。神社の境内は前方部が長く伸びた古墳の上に存在し、その後方の高台には五角形の磐座があります。その磐座が気延山から遷されてきた卑弥呼の墓ではないかという説があります。その真相に迫ります。

「魏志倭人伝」に記されている卑弥呼の墓

「魏志倭人伝」には、卑弥呼の死について下記のとおり記録されています。

卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
卑弥呼が死んだ時、大きな塚を作った、直径100余歩あり、
殉葬された奴婢(どひ) は100余人である。

気延山の山頂近くの八倉比賣神社跡は大きな塚の様相を呈しています。そして「直径100余歩」の大きさに合致する小高い丘となっているため、直径100余歩の大きな円を想定することができます。よって、元来は気延山に卑弥呼の墓があったという説には信憑性があります。

神社の略記に書かれた天照大神に関わる葬儀

八倉比賣神社の社伝には、「当八倉比賣大神御本記 の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録である」と記載されています。天照大神の時代は八倉比賣神社の創始より何世紀も遡るため、古文書に記された天照大神とは、その生まれ変わりのような神格をもった女性を指していたのでしょう。また、「八倉比賣(大神)は天照大神の別称ではないか」とも書かれており、この葬儀は八倉比賣大神の葬儀であったと解釈できます。

天照大神を卑弥呼に比定して歴史を振り返ると、古文書の内容を実在した人物像に照らし合わせて理解できます。卑弥呼は神懸かった巫女として霊能力を発揮し、大勢の人々が天照大神を祀るかのように崇められた存在でした。八倉比賣神社が建立された時代は邪馬台国が台頭した時代の前後と重なります。その当時、八倉比賣神社が祀る八倉比賣大神の人物像に該当する霊知に満ちた女性は卑弥呼しか存在しません。よって、八倉比賣大神と卑弥呼は同一人物であったと想定できます。また、八倉比賣大神は天照大神の別称と語り継がれていることから、卑弥呼は天照大神として人々から拝されていたと推測されます。よって、古文書に書かれている天照大神の葬儀とは八倉比賣大神のことであり、卑弥呼の葬儀を指していたと考えられるのです。

社伝には、「古くは八倉比賣神社の北西600m先にある標高212mの気延山頂上に八倉比賣大神が天下り、頂上で祀られた後、気延山から移遷し、峯続きの杉尾山に鎮座した」とされています。この歴史の流れが明確になります。卑弥呼は気延山頂上に天下り、そこで神を拝していたのです。そして他界した際、その頂上にて埋葬され、祀られます。その後、現在の八倉比賣神社がある杉尾山に墓が遷され、そこで鎮座したと考えれば、社伝に記載されている内容が繋がります。天照大神を卑弥呼と想定することにより、歴史の流れが見えてきます。

邪馬台国の時代に合致する八倉比賣神社の年代

八倉比賣神社の鎮座の年代について、安永二年三月(1773年)の古文書には、以下のとおり記されています。

気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ

この伝承によると、八倉比賣神社は西暦338年に現在の境内に移遷されたことになります。その年代は邪馬台国の時代直後の古墳時代の初期にあたります。すると気延山にて卑弥呼が葬られ、その後、一世代を経て現在の八倉比賣神社の奥の院の磐座に遷されて鎮座し、そこが卑弥呼の墓になったと解すれば、歴史が繋がります。

「やくら」の意味は女性の「神の声」 

八倉比賣神社の「八倉」「やくら」という名称は一見、8つの倉、を指しているように思えますが、実は「神の声」を指す外来語だったのです。ヘブライ語で「声」はקול(kol、コル)です。そして末尾に ה を足してקולה(colah、コラ)とすれば、「彼女の声」になります。ヘブライ語では母音の ו が「オ」「ウ」いずれにも活用されるため、「クラ」とも聞こえます。この言葉の頭に「神」を意味するיהוה (yahweh、ヤーウェー)を付けるとיהוה קולה (yahweh colah)になります。その発音は神を指す「ヤーウェー」が接頭語の「ヤ」に略され、「ヤコラ」「ヤクラ」となります。つまり「八倉」とはヘブライ語で「神の声」を意味していたのです。

しかもその声の主は女性であることに注目です。何故なら「コラ」「クラ」は女性形のヘブライ語であり、女性の声を指しているからです。よって「比賣」「姫」の名称にも繋がり、「八倉比賣」と合わせると、「神の声を語る姫」を指す言葉となります。古代社会において、そのような神の声を神託として発することができたのは、歴史を振り返る限り、卑弥呼しか存在しません。それ故、八倉比賣神社は卑弥呼を祀った場所であり、そこに卑弥呼の墓がある可能性を見出せるのです。

五角形の磐座は国家鎮護の象徴

八倉比賣神社の奥の院では、五角形の祭壇が青石の木口積で築かれています。ちょうど古墳の後部、小高い部分にあたる場所が奥の院です。なぜ、祭壇が五角形なのでしょうか。その背景には、中国古代の陰陽五行の思想があるようです。

古代でも、「五」の数字には特別な意味がありました。徳島の剣山を中心とする山岳地帯の北方には、五色神社が建立されています。そこで祀られている五柱の祭神は、木・火・土・金・水の神としての神格をもち、五行思想に準じています。また五行の色は、五方位(東青、南赤、中央黄、西白、北黒)を表し、国家の鎮護や安泰を象徴すると言われています。この五行思想による天文祭祀や陰陽五行的な国家観が卑弥呼の時代でも象徴的に継承された結果、「五」の数字が大切に取り扱われたのです。か。

その結果、邪馬台国の遠隔を守護する神社は五色神社と呼ばれ、国家を守護する役割を担う神を祀る社として認知されていたと推測されます。これら五色神社の神々は、八倉比賣神社の奥の院にある五角形の祭壇に結び付いているようです。また、五角形の祭壇は国家の鎮護を象徴するものであり、国家の元首に結び付くものと考えられます。それ故、卑弥呼の墓と想定することができるのです。そして女王としての威厳を後世に知らしめるため五行思想に基づき、天乃真名井の形状は五角形になったと想定されます。

神事に関わる忌部氏とのつながり

今日の徳島は古代より、忌部氏が本拠地とした阿波の国に重なります。忌部氏は天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とし、神器や麻、木綿を用いた祭祀活動を執り行っていた一族です。「古語拾遺」などの史書によると、忌部氏は天岩戸に纏わる神事や、天孫降臨の供奉を担ったと記載されています。五色神社から剣山に向かって南に3.5㎞進むと、つるぎ町の天磐戸神社があります。そこでは古代より神事が執り行われ、忌部氏もさまざまな祭祀活動を担っていたようです。古代、徳島で数々の神事において忌部氏は、呪術的な働きも含め、巫女や山伏なども交えて宗教行事に繋がっていたのです。

それ故、徳島の山岳地帯を拠点とし、神懸かった女王として君臨した卑弥呼も、忌部氏と深い関わりがあったと推測されます。また、祭祀的な役割を果たしたことから、卑弥呼の出自は忌部氏と繋がっていた可能性もあります。そして卑弥呼自身は徳島の山岳地帯を行き来しながら、時には天磐戸神社で神事を執り成し、五色神社の祭神によって邪馬台国の北方を守り固めたのではないでしょうか。「魏志倭人伝」から読み取れる女王卑弥呼の巫女的な存在は、五色神社の背景に潜む陰陽五行に結び付いていたからこそ、そのような宗教的背景が八倉比賣神社の奥の院に造られた五角形の祭壇に反映されたのでしょう。

大泉神社の五角形の井戸とは

徳島には、「天磐戸」「天の磐座」「天乃真名井」など、天照系祭祀の名称をもつ聖地が集中しています。これは周辺一帯が古代祭祀の中心圏であったことを意味しているようです。その徳島の吉野川河口近くに八倉比賣神社が建立されています。そして境内より300mほど山道を進むと、八倉比賣神社の摂社である大泉神社があります。そこには天乃真名井(あまのまない)と呼ばれる五角形の石組で造られている井戸があります。

大泉神社でも五色神社と同様に、五柱の神が祀られていると考えられます。五色神社の祭神は、埴安比売命(はにやすひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)、迦具土命(かぐつちのみこと)、弥都波能女命(みづはのめ)、久久能智命(くくのち)です。これら五神をもって、土の神、金の神、火の神、水の神、木の神としたのです。また、五神は天照大神の葬儀が行われた際に現れた伊魔離神、大地主神、木股神、松熊神、広浜神を指しているとも考えられます。いずれも中国の五行思想に対応し、国土の鎮護や天地の調和を象徴しています。これらの神々に関連する聖水を汲み上げる井戸として、五角形の天乃真名井が造られたのです。

八倉比賣神社を卑弥呼の墓に比定することにより、奥の院の五角形の磐座だけでなく、隣接する天乃真名井の五角形の井戸も、巫女的女王であった卑弥呼の存在に結び付けて考えることができます。それは古代、忌部氏の根拠地である阿波の国にて、卑弥呼に関わる集団が五行思想に基づく祭祀活動を継承していた痕跡とみることができます。

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