1. ホーム
  2. 祇園祭のルーツをたどる
2024/06/30

祇園祭とイスラエルの宗教文化 祭りの類似点から浮かびあがる祇園祭のルーツ

祇園祭はイスラエルの祭と似ている?

<ノアの箱舟
ノアの箱舟
例年7月に開催される祇園祭の日程は、一見してイスラエルの宗教文化との類似点が多いことに気が付きます。7月をとおして開催される京都の祇園祭は、7月17日の山鉾巡行と神幸祭にピークを迎えます。7月は同様に、イスラエルにとっても古代より大切な月でした。旧約聖書によると、7月17日はノアの箱舟が山の頂上に漂流し、神の救いを確認した日として知られています。そして古代より、その日を含めて3週間をかけ、新年祭と呼ばれる宗教行事が7月に執り行われてきたのです。

イスラエルの新年祭と京都祇園祭の暦には、多くの類似点があります。新年祭は旧約聖書に記載されている厳格な儀式と宗教的な祭のルールに従って、7月1日よりロシュ・ハシャナと呼ばれる新年礼拝から始まります。祇園祭も7月1日より吉符入と呼ばれる祈願式から始まります。さらにイスラエルでは7月10日のヨム・キプールと呼ばれる贖罪日まで断食を行いながら悔い改めをする神聖な日々を過ごします。祇園祭では7月10日、神輿を清める「神輿洗」の儀式が執り行われ、清祓いと呼ばれる祈願式をもって、神輿を清める水を鴨川から汲み上げ、山鉾ごとのお祓いと清めが行われます。

中旬の15日から7日間、イスラエルでは旧約聖書のネヘミア書に基づいてテントで寝泊りをし、エジプトにおける奴隷からの脱出を祝福する仮庵祭が催され、仮庵祭の終盤では会堂の祭壇に水を注ぐ清めの儀式と、律法の集会であるホザナ・ラバと呼ばれる祝福の儀式が行われます。この儀式では、神の救いを祝して祈りつつ、草木を振りかざしながら祭壇の周りを7回巡り歩き、神に感謝を捧げます。同様に7月17日には山鉾巡行が催され、神幸祭の神輿渡御においては神輿が八坂神社から巡行し、四条御旅所にて7日間留まります。

また、祇園祭では御輿を神事用水で清める「御輿洗」と呼ばれる儀式も執り行われ、神主が祈りを捧げた後、祭壇に玉串を捧げ、周囲の人々がお神輿の周りを3回巡り歩き、山鉾に草木が添えられるのです。祇園祭の山鉾とその装飾方法がイスラエルの仮庵に酷似していること、またどちらも収穫物を神に捧げることから、これら神幸祭における神事用水、山鉾、そして添えられた草木などのテーマと7月17日の日付が、どうやらノアの洪水に結び付いているようなのです。

祇園祭とノアの大洪水の共通点

祇園祭 船鉾
祇園祭 船鉾
この大洪水からの救われるというストーリーが、意外にも祇園祭と繋がっているかもしれません。まず、大洪水の難を逃れ、山の頂上に箱舟がランディングし、神の救いを確信した記念すべき日が、7月17日であると旧約聖書の創世記に記載されています。祇園祭のピーク日が7月17日と定められた理由も、ノア一族の救いと箱舟のストーリーに由来している可能性があります。

次に舟の存在が、人類の救いに繋がっていることにも注目です。神の裁きが大洪水という形となって人類を襲った際、ノアとその家族だけは箱舟に乗ることによってアララト山の頂上まで漂流し、陸地にランディングして洪水の難を逃れることができたのです。日本の国生みの歴史も、神々が船に乗って新天地となる日本列島に渡来したことから、船の存在と密接に繋がっていたことがわかります。どちらも船によって新天地へと向かうという共通点があります。

ノアの箱舟がたどり着いたイメージ画像
ノアの箱舟がたどり着いたイメージ画像
また、ノアの箱舟の物語の原点には神の命令に従い、船による脱出を図ったノアの信仰心がありました。そして新しい人類の歴史がノア一族から始まったことが記されています。同様に、日本建国の背景にも、東の島々に新天地があるということを信じて船に乗り、日本列島まで到来してきた人々の存在があったに違いありません。そして遠い西アジアから最終的に日本列島に辿りつき、新しい国家が始まったと想定するならば、話の流れが繋がります。いずれも祖国を失い、死に直面するという最悪の事態から逃れ、遠い異国の地において起死回生することが共通点です。それ故、国生みの歴史に結び付く祇園祭では船鉾が祀られ、船の存在が大切に考えられたのではないでしょうか。

日本建国の神であるスサノオとその厄払いに繋がる祇園祭が、大洪水から救われるノアの箱舟に由来していた可能性が見えてくるということは、祇園祭のルーツがイスラエルの宗教文化と何かしら関係していたことの証とも考えられます。

蘇民将来とイスラエル過越祭との類似点

八坂神社 茅の輪くぐり
八坂神社 茅の輪くぐり
祇園祭において祀られているスサノオ、牛頭天王蘇民将来の説話に基づく祇園信仰は、イスラエルの過越の祭と類似していることにも注目です。祇園祭の最大のテーマは厄払いであり、人類の救いです。そしてスサノオを祀り、家々に「蘇民将来之子孫也」という護符が掲げられることにより、疫病や魔の力を避けることができると信じられたのです。「蘇民将来之子孫也」の由来を振り返ってみましょう。

スサノオが南の海へと旅した際、蘇民将来が手厚くスサノオをもてなしたことから、疫病が流行する際は、「蘇民将来之子孫也」という護符を持つことにより、厄払いができると約束されたのです。その伝統を引き継ぎ、祇園祭ではその護符を身につけて祭に参加するようになりました。それ故、祇園祭の山鉾などで授与される「ちまき」には「蘇民将来子孫也」という護符が貼られています。この「ちまき」を家の玄関に飾ることにより、諸々の災いから逃れられると言い伝えられ、その伝承が祇園祭においても継承されてきました。そして一連の祇園祭で催される祭事の最後に、八坂神社の疫神社にて茅之輪守が授与され、その夏越祓をもって祇園祭が終わるのです。

スサノオに纏わる蘇民将来の宗教的背景には、イスラエルの過越祭が絡んでいる可能性があります。過越祭はイスラエルがエジプトにて奴隷になった時代の出来事に遡ります。当時、人々の不信仰により天罰がくだることとなり、地域すべての初子となる長子が殺されると予告されました。その際、神の御加護を信じ、その命に従って家の門に子羊の血を塗り、門が赤く染められた家のみ災いの神は素通りし、こどもの命が守られたのです。この救いの恵み、そしてエジプトの奴隷状態から開放されたことを記念し、ユダヤ暦のニサンの月、14日の夜から1週間、イスラエルでは過越祭を祝うことになりました。

祇園祭 厄除けちまき
祇園祭 厄除けちまき
祇園祭と過越祭には多くの共通点があることに注目です。どちらも厄払いが重要なテーマであり、蘇民将来では疫病からの守護、そしてイスラエルの過越祭では子供の命を守ることが求められたのです。厄払いの方法については、蘇民将来では「蘇民将来子孫也」の護符が貼られている「ちまき」を家の玄関に飾り、イスラエルでは家の門に羊の血を赤く塗りつけました。どちらも厄を回避するために家の門を用いているだけでなく、かたや家の玄関に「ちまき」を置き、もう一方は羊の血をもって神の御守護の印としたのです。

これらの背景の一致から、祇園祭に結び付く蘇民将来に纏わる風習は、イスラエルの過越祭に由来している可能性が高いと言えそうです。スサノオを御祭神として祀る祇園祭は、その蘇民将来の背景からも、イスラエルの文化と歴史に結び付いていると考えられます。

イスラエルの宗教文化が息づく祇園祭

祇園祭山鉾巡行
祇園祭山鉾巡行
前6-8世紀、イスラエルが南北の国家を失った際、祭の行事も首都エルサレムの崩壊と時を同じくして消滅し、その後、収穫祭や仮庵祭など、旧約聖書に記載されている各種祭りにその名残を残すに留まりました。しかしながら、もし同時期、イスラエルの南ユダ王国から脱出し、船に乗ってアジア大陸の南岸を東方へと向かい、大陸の先に浮かぶ東の島々、日本列島を見出した民がいたとするならば、その新天地である日本にて祭の文化が引き継がれた可能性が見えてきます。

イスラエルの祭は、祖国においてはイスラエルの首都、エルサレムの近隣に位置するシオンの山でも開催されたと推測されます。何故ならシオンは預言書によれば、メシアが再臨する際に降り立つ場所と考えられていた聖地です。それ故、壮大な祭りを催すには最もふさわしい場所であったといえます。よって、その祭は「シオン祭」と呼ばれたのかもしれません。

祇園大明神
祇園大明神
イスラエルの言語であるヘブライ語で「シオン」の発音はツィオンであり、実際にはヅィオンとも聞こえることから、「ヅィオン」が多少訛って「ギオン」になったと想定しても、何ら不思議ではありません。それが日本では祇園祭と呼ばれるようになったと想定されます。

これらイスラエルの祭と祇園祭に関する類似点を振り返る限り、祭の名前がほぼ同じ発音であり、宗教儀式の流れや日程についても共通点が多いことは、偶然ではないようです。イスラエルの祭が日本の地において継承され、土着化されていく過程において、今日の祇園祭に至ったのではないでしょうか。日本の文化を代表する宗教儀式として名高い祇園祭のルーツには、イスラエルの宗教文化が息吹いていたと想定することにより、祭に関わるさまざまな宗教儀式の意味合いをより深く理解できるようになります。

コメント
  1. 後藤晋 より:

    非常に興味のある説ですね。  多々、共感を覚えます。
    より一層掘り下げて下さい。
    そして、論理と物証による証明が出来る日を待っております。

コメントする