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2026/10/21

不弥国から周防灘を見渡す 和気清麻呂が拠点とした足立山の背景

北九州東岸の交通要所

東行至不彌國百里 
官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家

東に行き、不弥国に至ると百里。
官は多模、副は卑奴母離という。千余家有り。

「魏志倭人伝」より

「魏志倭人伝」によると、北九州沿岸の末盧国から邪馬台国へ向かう道すじは、伊都国と奴国を経由し、さらに東へ100里ほど進むと不弥国に至ると記されています。不弥国から先は再び船に乗り、南方へと航海を続けることになります。

これら中国史書の記録から、不弥国は北九州の東岸付近に存在していたと推測できます。北九州から東南方向へ陸行すると、周防灘に面する九州東海岸に到達するからです。したがって、不弥国から先は九州東海岸に沿って南方へ進み、その先の邪馬台国を目指すことになります。このように考えると、不弥国は、邪馬台国へ向かう旅の中継地点として、陸路から海路へと切り替わる重要な地点であった可能性があります。すなわち、北九州から陸路を進んできた人々が、ここから船に乗り換え、南方へ向けて航海を続けるための拠点であったと考えられます。

不弥国の比定地は福岡市か?

これまで不弥国は、同じ福岡県内でも福岡市に近い宇美町や穂波町が、主な比定地の候補として挙げられていました。宇美町には、神功皇后や応神天皇を祀る宇美八幡宮があり、「古事記」や「日本書紀」にも「ウミ」と発音される地名が登場することから、その発音が変化して「不弥」となったのではないかと推測されています。さらに、遺跡調査によって、弥生土器などの遺物が多数発見されていることも、この説が支持される要因の一つとされています。

一方、穂波町でも、前漢鏡をはじめとする多数の遺物が発掘されています。それらの多くは弥生中期後半のものとされ、糸島地域(一般的な伊都国の比定地)周辺で発掘された遺物との類似点も多いことから、伊都国と関連する集落として発展した地域である可能性が指摘されています。そして、地名の発音である「ホナミ」が「フミ」に類似しているとして、穂波町を不弥国の比定地とする説につながっています。

しかし、不弥国の比定地を福岡市に近い宇美町や穂波町とした場合、どちらの説も肝心の史書に記された地理的データから乖離してしまう問題を避けることができません。つまり「魏志倭人伝」などに記載されている距離や方角には大きな誤差があるという前提で検討しなければならないほど、いずれの候補地も、九州北部の海岸から離れた内陸部に位置しています。また、どちらの候補地からも、そのまま船に乗って南方へ向かうことは難しく、史書に記された「水行」への移行を考えるうえでも、地理的な矛盾が生じます。

そのような無理のある解釈をしなくとも、史書の記述どおりに距離と方角を地図上でたどることで、別の比定地が浮かび上がるのではないでしょうか。末盧国から伊都国、奴国へと続くルートの延長線上に、どのような地域が位置するのかを見出すため、今一度、中国史書の記述を振り返ってみましょう。

竹馬川河口が不弥国の比定地

末盧国を鐘崎・宗像と想定し、「魏志倭人伝」の記録どおりに旅のルートをたどると、伊都国は北九州の八幡、奴国は現在の北九州市小倉南区北方周辺が候補地として浮かび上がります。奴国からさらに東へ100里進むと、不弥国に至ります。その先は再び長い船旅となるため、不弥国は海岸沿いに位置していたと考えるのが自然です。奴国の比定地が正しいとすれば、北方周辺から約7〜8km先には、周防灘を望む海岸が広がっているはずです。

実際に、小倉南区の北方から竹馬川に沿っておよそ7km進むと、九州東海岸の周防灘に面した海岸線にたどり着きます。現在、その河口周辺は大部分が埋め立てられ、田畑や住宅となっています。北側にある鳶ヶ巣山のそばには吉田公園や陸上自衛隊の訓練場があり、その横に位置する高蔵山の裾には、多くの住宅が見られます。しかし、かつてはこの一帯に大きな河川のデルタが広がり、両側の山麓から河口に向かって、緩やかな斜面が広がっていたことが知られています。それゆえ、古くは鳶ヶ巣山と高蔵山の中間部分にまで海水が入り込み、河口と直接つながる水域が存在していたと考えられます。

3世紀、九州北部に存在したとされる小国家、不弥国は、この竹馬川河口の北側、高蔵山の麓に発展した集落だったと考えられます。そこは狭いエリアながら、筑紫国から九州東海岸へ、あるいは東海岸沿いを行き来するためには、陸路と海路を結ぶ重要な拠点でした。船が行き交う港として適していただけでなく、2万余戸を有したとされる奴国からもアクセスしやすい場所だったのです。また、不弥国の北西には足立山がそびえ立ち、周辺を見渡すうえでも適した場所に位置していました。小規模な港町であったとしても、こうした交通上・地理上の利点に恵まれていたことが、不弥国の発展を支える大きな要因になったのではないでしょうか。

奴国から不弥国への想定渡航ルート
奴国から不弥国への想定渡航ルート

足立山の麓に位置する不弥国

北九州市小倉北区にある標高518mの足立山は、地元ではよく知られる和気清麻呂ゆかりの重要拠点であり、古くからの聖地でもあります。山頂からの眺望に優れているだけでなく、山麓周辺には、多くの伝承や伝説が残されています。天文学や測量学に通じた人物であり、奈良時代から平安時代にかけて朝廷に仕え、平安京の造営にも大きく貢献した和気清麻呂にとって、この地域は目を留めるにふさわしい場所だったとも考えられます。

和気清麻呂が足立山を自らにとって大切な場所としたきっかけは、「宇佐八幡宮神託事件」です。奈良時代、皇位をめぐる政権抗争が続いていた際、和気清麻呂は皇位継承に関するご神託を得るため、勅使として宇佐神宮へ向かいました。そして、宇佐で得た神託を持ち帰りました。しかし、その神託が道鏡の皇位継承を阻む内容であったため、道鏡や称徳天皇の怒りを買い、和気清麻呂は足の筋を断たれる処罰を受け、流罪になるのです。ところが、宇佐へ向かう途中にイノシシが現れ、和気清麻呂の道中を守ったと伝えられています。そして、足立山の麓から湧き出る霊泉に巡り合い、その湯を浴びたところ、傷ついた足が癒されたといいます。この伝説が、足立山という名前の由来とされています。

和気清麻呂が足立山を重視した理由は、八幡神の神託や奇跡的な癒しだけではなかったようです。足立山の麓を通る道は、古くから大陸と日本列島を行き来するうえで重要なルートの一つであり、古代には北九州最大の要所とされた奴国と、海岸沿いに位置した不弥国を結ぶ道でもあったと考えられます。

さらに、足立山は北緯33度51分に位置し、古代の霊峰として知られる四国の剣山と、ほぼ同じ緯度にありました。測量学や地理に関する知識に通じていた和気清麻呂だけに、剣山と足立山が緯度線上で並ぶことに着眼し、何らかの意味を見出していた可能性もあります。そこにはレイラインにも通じる発想があったのかもしれません。そう考えると、足立山を自らの拠点とすることは、和気清麻呂にとって単なる休息の場所以上の意味を持っていたのかもしれません。この地で身体を休めながら、都へ戻るための再出発の時期をうかがっていたとも推察できます。

不弥国から南へ向けて出航

末盧国から不弥国までの陸行については、史書に記載されている距離と方角をもとに、その道のりを比較的明確に見出すことができました。末盧国の比定地とした鐘崎・宗像から、伊都国の八幡、奴国の小倉南区北方周辺へと東南方向に進み、さらに東へ向かって九州東海岸に至るあたりに、不弥国が存在したと推定されます。そこは北九州の足立山麓近くであり、すぐそばには周防灘を見渡せる港がありました。

不弥国は北九州と各地を結ぶ交通の要所であり、海上交通の拠点としても重要な場所だったと考えられます。その港から再び船に乗り、九州東海岸を南へ向かって出発し、投馬国を目指すことになります。「魏志倭人伝」には、投馬国へたどり着くまで水行20日を要すると記されており、不弥国から先は長い船旅が続くことになります。

南至投馬國 水行二十日

南して投馬国に至る。水行二十日。

「魏志倭人伝」より

神武天皇も立ち寄る宇佐の聖地

不弥国から南方へ向けて出航し、豊前を過ぎると、やがて宇佐を流れる駅館川の河口に至ります。そこから川沿いに内陸へ進むと、ほどなくして秦氏との関わりも指摘される八幡宮の総本宮、宇佐神宮にたどり着きます。宇佐神宮は、不弥国の港近くにある綿都美神社から南東137度の方向に位置し、同神社の二重鳥居が示す方角と一致します。そう考えると、不弥国を出発した旅人は、鳥居の向きを航路の目安として船を進め、宇佐の聖地にたどり着いたのではないでしょうか。  

邪馬台国へ向かう旅の途中で、宇佐の聖地にいったん立ち寄ることは、古代の旅人にとって重要な意味を持っていたのかもしれません。「日本書紀」には、神武天皇が東征する際、まず、「菟狭の川のほとり」に立ち寄ったことが記されています。天皇が東征の途上でわざわざ立ち寄ったことからも、宇佐が古くから重要な場所として認識されていた可能性がうかがえます。こうした記録を踏まえると、宇佐は単なる通過地点ではなく、古代の旅人にとって特別な意味を持つ聖地の一つだったと考えることができます。

画像ギャラリー:足立山 / 綿都美神社 周防灘 / 綿都美神社 福岡 / 宇佐神宮

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