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2026/09/04

奴国へ向かう九州の陸路 中国史書が証した倭国最南端の小国家とは

瀬戸内海に繋がる古代の渡航ルート

日本書紀古事記によると、日本の歴史の始まりは淡路島であり、国土創成は瀬戸内海の東部を基点として、そこから西方へと広がっています。その後、神武東征に至っては方向が逆になり、九州から瀬戸内海を介して畿内へと向かうルートが記載されています。これは、古代社会において、少なくとも2つの大きな文化圏が九州北部と淡路島周辺に存在していたことを示しています。その結果、瀬戸内海においては主要海路が、陸路とともに必然的に発展し、日本列島西部を東西に行き来する主要ルートとなりました。

その後も大陸からの渡来者が朝鮮半島を経由して列島を訪れ続けたため、朝鮮半島と瀬戸内海周辺を行き来する渡航ルートが重要視されるようになります。例えば、福岡や対馬、壱岐から出土された1世紀初めに鋳造された貨泉と呼ばれる貨幣は、大阪平野からも大量に出土しています。それは、淡路島周辺から今日の大阪湾沿岸地域にかけて、古くから弥生時代後期に至るまで、九州北部との文化交流が行われていたことの証と考えられます。

九州北部から起こり、急速に瀬戸内海周辺へと広まった海人文化を検証しても、古代における人々の移動の活発さがうかがえます。瀬戸内海には、海上を祭りの場とする行事が多く、海の守護神である厳島神社や、航海安全の神の象徴とも言える金毘羅信仰などが有名です。これらは海上航路が重要な役割を果たしていたからこそ生まれた宗教文化であることは言うまでもなく、その背景には国境や地域、島々の領域を越えて海を渡り、文化交流を可能にした海人の存在がありました。

また、九州から瀬戸内海方面へ向かう際には、単に船で北九州の関門海峡を通り、半島沿いを遠回りして航行するだけでなく、内陸に通じる河川を船で行き来するルートも利用されました。さらに九州北部の海岸から東南方向へ陸路を歩き、九州東海岸から再び船に乗るというルートも発達しました。その陸路沿いにも町が発展したと推測されます。その結果、九州北部には末盧国、伊都国、奴国という、邪馬台国へと繋がる小国家が発展することになり、中国史書には、それらの国々の存在について明記されることになります。中でも奴国は大規模な集落を形成しており、邪馬台国の時代においては重要な都市拠点となる地の利を備えていたと考えられます。こうした交通上の優位性があったからこそ、九州北部における小国家の発展の中でも、群を抜く規模の集落が形成されたのではないでしょうか。

伊都国から奴国へ向かう旅路

末盧国から奴国、不弥国までの想定地上ルート
末盧国から不弥国までの想定ルート

中国史書の記述によると、対馬海峡を渡って九州北部に存在した末盧国に到着した後、そこから東南方向へ向かって旅を続けます。末盧国の比定地が鐘崎・宗像であったという前提で地図上をたどると、そこから東南方向には北九州八幡に比定される伊都国の存在が浮かび上がってきます。そして女王国に統属した伊都国を経て、次に向かう邪馬台国への道すじにある拠点が奴国です。

東南至奴國 百里
官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

東南、奴国に至ると百里。
官は兕馬觚、副は卑奴母離という。二万余戸有り。

「魏志倭人伝」より

(伊都国から)東南に百里すすめば奴国に到着する。(長)官は兕馬觚(じまこ)、次(官)は卑奴母離(ヒナモリ)という。二万余戸の人家がある。

奴国は伊都国から大変近い100里の距離、短里で7~8kmほどの場所になります。しかも奴国の人口は末盧国四千余戸の5倍、伊都国千余戸の20倍となる2万戸以上の家屋が連なる大規模な国でした。陸上交通の要所であるだけでなく、水路にも恵まれた広大な平野を有し、多くの人口を抱えていた奴国は、倭国の関所としても名高い伊都国とともに、旅の拠点だけでなく、政治経済の面でも重要な位置を占めていたことがわかります。果たして、北九州八幡を比定地とした場合、そのような地域を伊都国のそばに見出すことができるのでしょうか。

奴国の比定地は小倉南区の北方周辺

伊都国から奴国まで山の裾野を歩いて7㎞のルート
伊都国から奴国まで山の裾野を歩いて7kmのルート

奴国が倭国最南端の国であったという根拠を確認するため、中国史書の記述に基づき、邪馬台国への道すじを、末盧国から伊都国、そして奴国へと繋がるルートとして想定してみましょう。特に注目したいのは、人が居住しやすい平野部です。2万戸の集落ができるような広大かつ、住居に相応しい地勢が必要になります。そこで奴国の比定地となる可能性があるエリアを地図にプロットしてみると、末盧国の比定地である鐘崎から伊都国の比定地である北九州八幡へと向かい、そこから東南方向へ約7km進んだ小倉南区北方周辺が、奴国と呼ばれた古代都市の候補地として浮かび上がってきます。

北方は八幡から約7kmの距離に位置するだけでなく、周辺には広い平地が広がっています。そのため、2万戸の家屋を建設するのに相応しいエリアであったことがわかります。また、関門海峡近くの洞海湾に繋がる紫川と、東方の瀬戸内海へ注ぐ竹馬川が内陸部で合流するエリアにあたり、陸海の交通の便には絶好の立地条件を備えていました。つまり、九州北部の海岸沿いから東部の海岸へと繋がる貴重な陸路沿いであるだけでなく、玄界灘側と瀬戸内海側へ通じる水上交通の結節点にあたる場所に、奴国が存在したのです。さらに小倉北方を中心とする地域全体は南北にも長く広がり、その最南端は今日の小倉南区の石原町周辺、東大野八幡神社の界隈まで達していたと推測されます。その南方への広がりこそ、奴国が最南端の国として認知された理由と考えられるのです。

奴国の見晴台となった足立山

奴国の北東に聳え立つ足立山からは、山の西方には伊都国の比定地である北九州八幡、そして南方向には周防灘沿岸から、その内陸にある奴国全体までを一望できることにも注目です。古代の民にとって、堅固な都市を造成するためには、多くの民家を構築しやすい平野部の存在だけでなく、その周辺に山並みがあることも重要な要素でした。山は防衛戦略上、周辺諸国からの攻撃を守るために重要な役割を果たします。また、そこは周辺諸国を見渡すための展望所にもなり、いざという時の要塞にもなり得るのです。

山々は、祭司らが神に祈りを捧げ、儀式を執り行う聖地を造営するための場所としても利用されました。古代人にとって、高い場所が存在することは、国家や集落を形成するうえで極めて重要視されました。奴国は、現在の福岡市付近に存在していたという説が一般的ですが、史書の記述に基づいて伊都国からの位置関係をたどると、小倉南区北方の存在が候補地として浮かび上がってきます。

後漢書が証する奴国の重要性

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 
倭國之極南界也 光武賜以印綬

建武中元2年(57)、倭の奴国貢物を奉り、朝賀した。
使者は大夫と自称した。(奴国は)倭の最南端の国である。
光武帝は(奴国王に)印綬を与えた。

「後漢書」より

後漢書の倭伝には、1世紀、倭の奴国は使者を光武帝に送った際に貢物を奉り、その結果、光武帝は印綬を与えたことが記載されています。古代、奴国は倭を代表する小国家のひとつであり、その政治経済面における影響力は、倭国内でも突出していたと考えられます。実際、志賀島では江戸時代に金印が発見され、その印には「漢委奴國王」と刻まれていました。その「委」という文字は、「倭」のにんべん「イ」が省略されたものですが、奴国の存在が強く印象づけられていたものと考えて間違いないでしょう。

後漢書では、その奴国が「倭の最南端の国である」と明記されています。邪馬台国に向けて旅する途中に奴国はあります。しかしながら中国史書によると、その後、奴国から東南方向に国々が存在すると考えられることから、倭国が最南端、という記述は誤植ではないかと疑う方も少なくないはずです。その信憑性を確かめるために、奴国の比定地を今日の北九州市小倉南区北方の周辺と考えてみました。そして2万戸の家を想定した場合、奴国の中心地からどの範囲まで国が広がっていたかを検証しました。

奴国の中心地は、周囲の山々や河川の位置、そして北西方向から東南方向へと行き来する人の流れなどから推測することができます。そして、2万戸という膨大な数の民家を、該当する地域の平野部に分布させた場合、少なくとも南は徳力嵐山から志井公園、東は足立山麓の安部山公園、北は城野まで広範囲に人々が居住していたと考えられます。それは距離にして少なくとも南北およそ5km、東西には3kmほどの地域を包括することになります。果たしてその奴国が、倭の最南端の位置にあると言えるのでしょうか。

倭国最南端の国となる奴国

中国史書の記述に基づく奴国の位置から倭国最南端の境界線を想定
中国史書の記述に基づく奴国の位置から倭国最南端の境界線を想定

邪馬台国は帯方郡の東南方向にあるという史書の記述に基づくと、対馬方面から一旦、末盧国へ上陸した後も、伊都国、そして奴国への旅路は、一貫して東南方向へ進んでいます。そして、奴国を小倉と想定すると、奴国の次に向かう拠点となる不弥国は、九州東海岸沿いに位置することになります。不弥国は1000戸規模の小国家であるため、奴国と不弥国という2国の最南端の位置を比較すると、奴国の方がかなり南に位置していることがわかります。奴国は九州でも最大の国として、北方を中心に南北に長く広がっていたからです。この南北方向への広がりこそ、奴国が最南端の国として認知された理由と考えられるのです。奴国は人口の多い大きな国であり、そのエリアは南北への広がりが顕著であったことから、倭国の最南端の国として、いつしか周辺諸国からも認知され、後世に語り継がれたのではないでしょうか。

奴国から不弥国、そしてその先にある邪馬台国への旅路も、奴国の最南端地点より南下しないと想定すれば、奴国から先は、およそ東方へと向かうことになります。その前提で邪馬台国へのルートを考えるならば、奴国から先には東方へ向かうルートが残されているはずです。そのルートを見出すことができれば、奴国が女王に統属する国々の中では最南端の国である、という中国史書の記述が、どのような地理的意味を持つのかを検証することができます。果たして奴国から邪馬台国に向けて東方へ向かうルートが存在するのでしょうか。この時点から、東方に広がる瀬戸内へと目を向け、その古代ルートをさらに追っていくことにします。

画像ギャラリー:金刀比羅宮 / 対馬 / 足立山

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