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東南方向へ向かう邪馬台国の旅路
「魏志倭人伝」などの史書の記述によれば、邪馬台国は朝鮮半島にある帯方郡から見て東南方向に存在しました。それ故、渡来者が朝鮮半島を出発して南方に向かい、対馬、壱岐へと航海した後は、東方に向きを変えたと推測されます。よって、北九州の末盧国に船で到着した後、暫くの間は陸路を東の方向へと進んだことでしょう。こうして邪馬台国の道のりを進む旅の舞台は、北九州の東部に移ることになります。
壱岐から見てほぼ東方にあたる鐘崎・宗像周辺に、古代、末盧国が存在したという前提で邪馬台国の道のりを想定すると、末盧国から九州の東海岸まで行き来する東西のルートが自然と浮かび上がってきます。地図上で北九州の地域全体を宗像エリアから東の方向に追っていくと、鐘崎港から東岸沿いにある周防灘までの直線距離は40kmほどです。つまり2日も費やすことなく、陸地を横断して九州の東岸まで歩いて到達できたのです。北九州の地勢は海岸沿いでもあることから、多くの岬や入り江によって複雑に入り組んでいる半面、陸路については平坦な土地が多く、徒歩で旅をしやすい環境にあったと言えます。
陸地に限らず海路においても、古来の倭国で船による東西間の行き来が行われていました。鐘崎が発祥の地であると言われている海人は、北九州の玄界灘界隈だけでなく、そこから朝鮮半島や日本海沿岸、そして瀬戸内海方面、さらには今日の近畿地方を超える地域まで行き来していたのです。それ故、海人文化は早くから瀬戸内海周辺の地域にも広がることになります。
「国生み神話」から古代史を紐解く!
これら古代の舞台を考察するにあたり、最も参考となる文献が古事記や日本書紀等の史書です。古くから日本列島における人の流れが、九州から瀬戸内海沿岸を介して淡路島や近畿地方まで広範囲に広がったきっかけを、古事記や日本書紀に記載されている国生み神話に見出すことができます。それは単なる空想話の伝承ではなく、アジア大陸から訪れた渡来人が、日本列島の地理的要因を検証し、移住先の島々を見定めた後、渡来人の移住が始まるプロセスを象徴的に記述して編纂されたものだからです。国生み神話は古代史を理解するうえで大変重要なものなのです。
その国生み神話の背景には、国家を失ったイスラエルの民、特に南ユダ王国からの渡来者の存在があったと推測されます。紀元前7世紀ごろから日本に渡来し始めたアジア大陸西方からの移民の流れを見極めることにより、淡路島から始まる国生み神話に紐付けて、海人文化発祥の起源や皇族の発祥まで、一連の古代史の繋がりが見えてきます。
古代社会における海路と陸路
海人が古代から活用した航海路には、淡路島周辺を基点とする近畿地方から西に向かうルートと、朝鮮半島から対馬、壱岐などの離島を経由して鐘崎・宗像を中心とする北九州へと向かうルートがありました。それらを結ぶ瀬戸内海から九州東海岸と鐘崎、宗像までを行き来する航路も活発に利用され始めたと考えられます。そして朝鮮半島と倭国を行き来する人の流れが増大するにつれ、玄界灘と東海岸を結ぶ安全な陸路が主要交通ルートとして重宝されたのです。その後、北九州の人口が増えるに従い、壱岐から肥前の方面に向かう航海路も含め、頻繁に利用され始めました。
また、朝鮮半島から鐘崎・宗像までの航路は、史書に記載されている対馬と壱岐を経由した主要航路だけでなく、朝鮮半島の最南端にある今日の釜山近郊から対馬の鰐浦、そして沖の島から大島までをほぼ一直線に玄界灘を渡り、朝鮮半島から最短距離にて鐘崎・宗像まで到達するという航路もありました。王系一族を初めとする渡来人を迎え受ける拠点として造営された宗像三社だけに、そこから東南に向かって伊都国に移動する陸路は、古くからいち早く認知されていたに違いありません。しかも玄界灘の東方にある響灘は小倉、福岡、長州の中間にあり、重要な海上交通路ではあるものの、潮の流れが速く、暗礁も多いために難破船が後をたちませんでした。よって、玄界灘に続く海の難所を避けるためにも、末盧国の玄関である鐘崎港に着岸し、そこから九州の東海岸に抜ける陸路を旅することは、古代社会においては常套手段であったことでしょう。
伊都国とはどんな国か?
(末盧国から)陸上を東南に五百里すすむと、伊都国に到着する…
伊都国の場所については、「伊都」の名前が福岡県糸島郡の糸島平野周辺、前原市付近にあった旧怡土郡が「イト」という発音であることから、今日の前原町三雲、井原、平原周辺に、その中心地があったと推測する見方が有力視されています。
福岡県の糸島郡とは1896年、怡土郡と志摩郡の2つが合併したものです。そこには伊都国の中心となる神殿跡と地元では言い伝えられてきた細石神社が建立されているだけでなく、王の墓と伝承されてきた平原遺跡など、弥生時代の遺跡が複数発見されています。それ故、万葉集や延喜式、和名妙に記されている筑前の「怡土郡」や日本書紀にある「伊覩県」、古文書に「伊都」と同じ発音を有する地名を持つ場所も、「伊都国」の比定地として名を連ねているのです。「伊都国」の比定地については上記に限らず、北九州市八幡西区、若松区、直方市北部や、旧伊豆国、旧出雲国、旧伊蘇国など、「イト」の発音に類似した地名を持つ地域に比定する説も複数提唱されています。
いずれにしても「邪馬台国への道のり」は、朝鮮半島から見て東南方向にある、ということに注視する必要があります。朝鮮半島の帯方郡からほぼ南下して、九州北部に到達するならば、そこから「邪馬台国の道のり」が西方の糸島郡に向かうとは想定し難いのです。糸島郡の場所は、邪馬台国への旅の方向に見合わないようです。果たして鐘崎・宗像から東南方向に向けた古代の陸路は存在していたのでしょうか。地図を開いて辿ると、古代の旅人が歩んだ道のりが浮かび上がってきます。
八幡が伊都国の比定地?
伊都国の所在地を推定するためには、末盧国から伊都国までの距離が500里という史書の記述に注目する必要があります。短里は1里あたり70~80kmとするならば、35~40kmほどの距離になります。そして末盧国の港は九州北部の鐘崎という前提で、地図を見ながら伊都国へのルートを推測します。
まず、鐘崎から湯川山の西側の裾を、宗像を南方の正面に見ながら歩いて進むことを想定します。山沿いの裾周りに続くほぼ平坦な道を南に進むと、すぐに湯川山の裾を東南方面へ抜ける道が続いています。そこから戸田山南側の山道を越えると、今日の鞍手町周辺に達します。鐘崎港から約20km歩いてきた計算です。鞍手町からは帆柱山が見える東北東の方向に進み、皿倉山の裾から山を右手に眺める地点まで来ると、そこが今日の北九州市八幡です。鐘崎港から35kmほど離れた場所であり、伊都国まで500里という記述に合致します。
古代、筑前国と豊前国にまたがっていた八幡地域は、入り江が入り組んだ湿地帯でもあったことから元来人口が少ない地域でした。しかし戦前の1901年、官営の八幡製鉄所が建造されてからは、北九州地区の工業都市として鉄鋼業などの重工業を軸に栄え、飛躍的な発展を遂げました。そして1917年には八幡町が八幡市となり、1963年、北九州の5市の1つとして、北九州市となるべく合併したのです。その後、八幡区は1974年に八幡東区と八幡西区に分かれて今日に至ります。果たしてこの八幡が、伊都国となり得るのでしょうか。
陸海の交通路の要所となる伊都国
人家は千余戸ある。代々国王がいて、みな女王国に統属している。(ここは帯方)郡からの使者が倭と往来するときに常に駐まるところである。
「魏志倭人伝」の記述によれば伊都国の人口は「千余戸」であり、末盧国の四千余戸と比較すると、規模が小さい国であったことがわかります。しかしながら、この小さい国には代々王が存在していたことも記されています。そこには地域の長官のような役人もいました。しかも邪馬台国の女王に魏からの文物が届けられる際は、その港で検閲が行われていたという場所でもあり、往来する高官が常に駐まる場所であったことから、陸海の交通に便利な地理的条件に恵まれた中継地点でもありました。王が存在することからしても、九州北部の中核となる国の1つとして、その地域的重要性は疑う余地がありません。
これらの背景から察するに、伊都国とは統治者が権威をもって政治を執り成していた古代の港町であったと推測されます。そこは海や大きな入り江に面し、北方の朝鮮半島からだけでなく、倭国の東方、すなわち瀬戸内海沿いの地域から九州方面に向かって航海してくる旅人がアクセスしやすい地の利に恵まれていた場所でした。また、「千余戸」の戸数という中国史書の記述に加え、地域一帯は九州北方と東側双方の海岸に挟まれた、歪な地形や多くの入り江が絡む場所であったと想定されるだけに、王や長官が存在する国としては規模が小さかったのです。
その地の利を活かした伊都国こそ、北九州八幡ではないかと考えられるのです。今日、八幡のイメージは、著名な八幡製鉄所を中心とした近代工業都市として目に映ることもあり、「千余戸」の記述は一見、矛盾しているように思えてしまいます。ところが八幡の歴史を調べてみると、近代工業化する以前の八幡地域は、古くは筑前国と豊前国がまたがるエリアで、人口が大変少ない地域であったことがわかります。北側の広大な洞海湾の入り江が今よりも南側までかなり食い込んでいたため、その真南に聳え建つ皿倉山と洞海湾岸の間には平地があまり存在しなかったのです。よって、人家を建造できる場所が限られていたと考えられます。
温暖な気候に恵まれた約5000年前、北九州市の洞海湾沿岸の平野部は、その大半が海面下にありました。そして洞海湾西側を流れる遠賀川の下流にも大きな湾が形成され、それぞれが古洞海湾、古遠賀湾と呼ばれていたのです。昨今では新延貝塚、楠橋貝塚が、古遠賀湾沿いに発掘され、その周辺まで海から湾が伸びていたことが確認され、それらは奥湾性貝塚とも呼ばれています。また、遠賀川の下流から古洞海湾は、江川と呼ばれる川によって繋がっていました。今日では洞海湾の南西からは堀川が遠賀川に繋がっていますが、これは江戸時代初期に遠賀川流域の治水用水路として福岡藩が造成を始め、1804年に全長12kmの堀川を開通させたにすぎません。
これらの情報から古代、八幡周辺は居住する平地は小さくとも、古洞海湾と呼ばれる広大な入り江からなる水路に恵まれていたことがわかります。そして西側は遠賀川、東側は関門海峡へ東西双方に水路でアクセスすることができたのです。しかも陸地では東西双方向に平野が続き、九州東海岸から西側の宗像方面まで、陸路を使って簡単に行き来できるという優れた立地条件を備えていました。これが、八幡が「千余戸」の規模しかない小さい規模の国であっても、重要な都市であった理由です。
「魏略」に書かれている「戸万余」の方を正しいとする説もありますが、「魏略」は誤字が多いことで知られていることから、「魏志倭人伝」の信憑性に重きを置いて間違いないでしょう。古代、八幡周辺の地域は、周辺の地理的な要因により、戸数を増やすことができませんでした。しかしながら、交通の要所となる八幡の位置付けと重要性が認知されたからこそ、一小国として発展したのです。
地の利を活かした八幡の証
古代社会において、八幡の地には交通網と政治の中心となるべく、諸条件が備わっていました。その象徴として聳え立つのが、八幡の南側に富士山のように頂上が平らな姿を誇示する皿倉山です。その西側には帆柱山があり、双方の山には神功皇后に纏わる言い伝えが複数存在します。
帆柱山は、そこから神功皇后がお乗りになられた御座船を作るための木材が伐り出されたと言われています。皿倉山も神功皇后の言い伝えが残されている山です。その山頂から少し下がった東斜面の岩場に国見岩があり、神功皇后はその岩場に立ち、周防、筑紫、豊国を望見されたという伝説の名所です。皿倉山からは今日でも八幡の全貌とその向こうに洞海湾を一望できるだけでなく、東を向けば足立山から周防灘の海岸線を見渡すことができます。また西側にはその背後に宗像を控える湯川山までの平野部全体を眺め、遠賀川の遥か遠い先の地平線には沖ノ島を望むことができるのです。年に数日は対馬までも目にすることができるという絶好の展望地点である故、まさに「国見岩」という名前に相応しい名所です。
八幡が重大な戦略的拠点であるということは、一度、皿倉山の頂上に登ればすぐにわかります。国見岩では頂上を背にするため、南側まで見ることができませんが、さらに100数十メートルほど登ると頂上に至り、360度パノラマで北九州全域を見渡すことができます。そこからは国見岩と同様に湯川山から東海岸までを一望できるだけでなく、南側に並ぶ九州の美しい山並みも見渡せる絶好のロケーションです。そのような山の麓にある八幡は、国々を見渡す展望台となる山が隣接して聳え立つことから、行政上の戦略的拠点であり、まさに、東西の文化と人々が交流するメルティング・ポットになったのです。そして皿倉山の頂上に立つとき、古代八幡の存在がいかに重要であったかを、今日でも自らの目で確かめることができます。



伊都の語源はメルティング・ポット?
「伊都」の語源については諸説がありますが、どれも定説には至っていません。そこでまず、日本列島固有の古語であるアイヌ語で考察してみました。「i-to」という発音を前提で検証すると、アイヌ語では「イ」が「場所」を意味する言葉、もしくは単に発声の助辞であり、「ト」が「沼」、「湖」を意味することから、「大きい沼のある地」と解釈することができます。また類似した発音を持つ「etok」というアイヌ語もあり、これは「沼の奥」を意味する言葉です。いずれにしても、アイヌ語では大きな沼地に関わる土地柄の言葉と理解できます。
また「伊都」の「ト」の発音は、実際には中国語のtu、douに近い「トゥ」であることから、「伊都」の発音は「イト」よりもむしろ「イトゥ」に近いということに着眼することも重要です。その「イトゥ」という発音の言葉がヘブライ語の中にもあります。הותוך(eetookh、イトゥ)の語源には、「融ける」、「融合する」という意味が込めており、「メルティング・ポット」、すなわち異質のものが互いに合流して交わり、融合する、という言葉として用いられます。伊都国という場所は前述したとおり、その地域柄、海を渡ってきた海外からの使者と倭国の民が出会い、異質の文化が交錯する中間地点のような存在でした。まさに「メルティング・ポット」という代名詞が合致する場所であったと言えます。
「伊都」の語源については定かではありませんが、古代八幡の地は確かに大きな沼地とも言える古洞海湾沿いにあり、また、そこは重要な政治や文化の「メルティング・ポット」となるに相応しい立地条件が揃っていました。それ故、アイヌ語とヘブライ語、双方の言葉がその語源として関わっていた可能性が見えてくるのです。
【参考文献】
ギャラリー:鐘崎
追記、倭国上陸地点は、唐津と比定し、あくまで東南に500里進みましょう。算経には、方角の出し方も書いてあるので、八方位で45゜の半分以上の誤差はないと信じてください。
佐賀城址にぴったり行きます。そこからの方角も現在の道の形態(角度)とピッタリ合います。佐賀城址、郡使常駐です。あまりのすごさに十数年前に感動しました。
千里は
緯度によって誤差はありますが、谷本茂氏も私も日本測量学会も76Kmと解明しています。