六甲山の不思議に迫る
四国の剣山と伊弉諾神宮を結ぶ線上に、神戸の六甲山が位置していることは注目に値します。全長30kmにもわたる六甲山地は、多くの山々からなる連山であり、その最高峰が、標高931mの六甲山です。六甲山地の西には播磨平野、東には大阪平野が広がることから、標高はそれほど高くないものの、淡路島から望む六甲山最高峰はひときわ際立つ存在です。六甲山地には多くの巨石が存在し、特に南側の山麓には花崗岩が広く分布しています。豊臣秀吉の時代には、大阪城の石垣を築くために大量の岩石が切り出されました。そして江戸時代に至っては徳川家により、石垣の造成工事のたびに、多くの岩に矢穴が刻まれ、石材として搬出されたのです。また連峰の東端に位置する甲山頂上周辺は、戦時中に爆撃訓練の標的として利用されたため、自然の岩石が広範囲にわたり崩され、その頂上はほぼ平らになってしまいました。そのため、今日目にすることのできる六甲山連峰は、古代の面影とは異なっている可能性があります。
この六甲山周辺の山麓こそ古くから聖域として認識され、多くの修行者が訪れ、修行の日々を過ごしていたのです。そこには祭祀の拠点となった巨石や岩場が存在しただけでなく、多くの寺院も建立されました。大化2年(646年)、孝徳天皇の時代には忉利天上寺が法道仙人により開創され、その後も平安時代に続いて多くの寺院が開かれました。六甲山の西方では、和気清麻呂が再度山に大龍寺を建立し、その裏山にある奥の院の磐座にて、空海が岩場の頂に見事な亀の石造を彫刻したことでも知られています。また六甲山東側の甲山麓にも神呪寺や鷲林寺などの寺院が創建され、やがて山全体がいつしか霊場となったのです。これら多くの寺院の創建には空海が深く関わったと伝えられ、その多くが真言宗系の寺院であることからしても、空海が六甲山を特別な霊山として重視していたことが窺えます。
しかしながら、険しい山岳地帯でもなく、さほど標高も高くない六甲山地が、なぜ修行の場として聖地化されたのでしょうか。その答えは、古代の地勢観から見出すことができます。六甲山最高峰は、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ直線上にピタリと位置するだけでなく、伊勢神宮の奥の宮と言われる伊雑宮と出雲大社を結ぶ線、さらには石鎚山と諏訪大社を結ぶ線が交差する地点でもあったのです。古代から六甲山麓が聖地化され、その最高峰周辺に数多くの岩場が見出され、磐座として祭祀の対象となった理由は、六甲山の頂点が剣山と石鎚山という西日本を代表する2つの霊峰だけでなく、伊弉諾神宮、諏訪大社、伊雑宮、出雲大社という列島屈指の聖地とも結びつく重要なクロスポイントだったからにほかなりません。
六甲山地の東方、西宮駅から北北西へ約2.8kmの場所に、高さ約10m・周囲約40mの甑岩を中核とした3群の磐座を祀る越木岩神社があります。それらの磐座は聖なる場所として古くから崇拝され、「祭神は巨岩にして倚塁、甑のごとし。生土神とする」と、「摂津名所図会」(江戸時代)に記載されています。一方、大神神社の裏山である三輪山にも、奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の3群の磐座が存在します。このような類似点が多いことから、越木岩神社と大神神社の関連性を指摘する説もあります。そして越木岩神社の北方には、標高200mほどの北山一帯に北山巨石群が広がっています。そこには太陽石を中心とした環状列石をはじめ、火の用心石や方位石などがあり、それぞれが一定の規則性に従って配置されていると推定されています。これらの巨石の中には、古代人が何らかの目的をもって意図的に移動したものが含まれていると考えられ、これまで天文観測施設説や祭祀場説などが提唱されてきました。六甲山地周辺には天狗岩、三枚岩、弁天岩など、今日でも巨石の名所として知られる場所が少なくありません。これらの巨石群が六甲山最高峰周辺に集中していることから、列島各地の聖地と紐付けられていることを意識した磐座を含む巨石群として、古代から信仰の対象となっていた可能性があります。
六甲という名称の語源は、今日でも明らかになっていません。奈良時代には武庫山とも言われ、古くから「ムコ」、六兒と呼ばれ、そこに六甲という漢字が当てられたと考えられます。なぜ、「ムコ」と呼ばれるようになったかについては諸説があります。「日本書紀」には「務古水門(むこのみなと)」の記載があることから「ムコ」という呼び名との関連性が指摘され、「むこう」に見える山という意味で武庫山と呼ばれるようになったという説や、武庫ノ津や武庫ノ浦に面する山であることに由来するという説があります。また、ムクノキが多いからという言い伝えもあり、さらには神功皇后が武内宿称に命じて打ち取った逆臣6人の首が埋められた山であることから、六甲山と呼ばれるようになったという伝承なども残されており、その由来についてはさまざまな見解が伝えられています。
もしかすると、六甲という地名は、ヘブライ語で「お守り」を意味する「亀」(カメ)という発音に関連付けて漢字が当てられたのかもしれません。古くは六芒星と呼ばれるダビデの星の外形は正六角形であり、亀の甲羅形状をしています。そして亀は守護を意味することから、亀の甲羅が六芒星の象徴として捉えられ、「お守り」の意も含めて六甲という漢字が当てられ、「ムコ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。いずれにしても、六甲山の頂上は、出雲大社、伊雑宮、諏訪大社、伊弉諾神宮など、複数の聖地を結ぶ線が交錯する重要な地点であり、それら聖地を主語するという思想のもと、六甲山頂周辺には多くの磐座が築かれたと考えられます。
イスラエルの民にとって岩は神聖であり、時には神そのものでもありました。また、旧約聖書には、岩に刃をあてて削ることは好ましくないことが記されています。それゆえ、六甲山頂に点在する巨大な岩石も、岩の博物館と呼ばれる守屋山や三輪山の磐座と同様に多くの巨大な自然石がそのまま用いられています。しかしながら、それらの巨石の中には、明らかに人為的に加工した跡が見られるものも少なくありません。一般論としては、自然石がそのまま用いられている場合は磐座として神聖化され、岩そのものが崇められる傾向にあります。一方、人為的に削られた岩は、目印や指標として用いられた可能性、もしくは特殊な目的により本来とは違う形へ加工され、そのものが意味を持つように工夫されたと解釈することが妥当でしょう。
六甲山の巨石が守護の役目を果たすための神聖な磐座であるとするならば、その守護の範囲は日本列島全域に及んでいたと考えられます。六甲山は、伊弉諾神宮を介して剣山と一直線に結び付く位置にあるということは、それらに繋がるさまざまな拠点とも相互関係を持つことを意味しました。伊弉諾神宮は剣山、石鎚山、富士山や、ヒラバイ山という古代の聖山に紐付けられているだけでなく、剣山を介して出雲大社や金刀比羅宮、宇佐神宮、海神神社、及び、諏訪大社や周辺の守屋山、阿久遺跡とも地理的に紐付けられるという図式が見えてくるからです。しかも九州最南端の佐多岬と剣山を結ぶ線は伊弉諾神宮を通り抜けるだけでなく、その先には六甲山の山頂が位置しています。これはもはや偶然とは考えにくいでしょう。日本列島を網羅する聖地の配置には重要な意味があり、それらを同一線上に結び付けたり、複数の線を交差させたりすることにより、相互間の力を結集する聖地のネットワークがいつしか構築され、列島を守護する象徴として国造りに大きく貢献したとも考えられます。こうして六甲山も、日本列島の中心となる淡路島の聖地を守護する役目を担いながら、今日までその巨石を誇示し続けてきたのです。

日本列島の大自然は、言葉ではとても語り尽くせぬほど、豊かな魅力にあふれています。その美しい島国の姿を目の当たりにした古代の民は、島々に連なる地勢を肌で感じ取りながら、驚異的な地理感をもって日本列島の全体像を正確に把握していたようです。その優れた土地勘を駆使して列島をつぶさに精査した古代の民は、自らの地勢観と宗教的な教理に基づき、大自然の摂理に適った要所をピンポイントで選別して、そこに集落の拠点を設けたのです。そして今日、レイラインと呼ばれる、同一直線上に重要拠点を並べるという考察方法や、日の出、日の入りの方角を基準にした方位の概念を活用しながら、列島全体を網羅していきました。
これまで、古代社会においてどのようなレイラインが用いられ、列島各地に諸々の拠点がピンポイントで特定されてきたのか、その具体的な手法を解説してきました。それら原始的なレイラインの多くは、淡路島のほぼ中心に位置する岩上神社の神籬石や伊弉諾神宮を通り抜けており、そこが一大交差点になっていることからしても、古代において淡路島が地理的な中心として認識されていたことがわかります。そして、その神籬石に紐付けられるように、列島の地勢から際立つ高山、岬、島などが次々と指標として特定され、そのレイライン上に、そして時にはライン同士が交差する場所に新たな拠点が見出されていったのです。
古代の渡来人が日本列島を訪れた際、島々の探索は南方の琉球から始まり、その後、北は青森県の八戸までも及んだと考えられます。そして、その広範囲にわたる調査を経て、各地の拠点が特定されました。当初、高山の指標として重視されたのは、列島最高峰の富士山と、西日本最高峰の石鎚山、及び、それに匹敵する標高を誇り、淡路島からも頂上を眺めることのできる剣山でした。また、イスラエルのエルサレムと同緯度にある中甑島のヒラバイ山も重要な存在でした。岬の指標としては、鹿児島県の佐多岬、高知県の足摺岬、室戸岬が航海上の重要な目印として不可欠であることから、古くから活用されました。これらの指標同士が相互に結び付けられ、時には同緯度上の線引きが重要視された結果、鹿島、出雲、宇佐、海神神社、金刀比羅、海部、伊雑宮、花籠神社などの海沿いの拠点だけでなく、諏訪大社、高千穂神社など、内陸にも聖地の拠点が広がりを見せ始め、その多くがレイライン上に位置していることが確認できます。こうして日本列島の海岸線沿いに見出された拠点は、いつしか列島全体に広がりを見せ、それぞれがレイラインという目には見えない大自然の力によって結び付き、聖地としての意義を相互間で共有する地の力ができ上がっていきます。
邪馬台国の滅亡と神宝の行方
古代社会では淡路島が当初、重要な位置付けを占め、列島全体をまたがるレイラインの中心となっていました。淡路島の神籬石に結び付き、民衆が神を崇め祀る高山として、いち早くその重要性が認知されたのが、四国の剣山です。淡路島周辺を通るレイラインの位置付けを細かく検証すると、剣山と神籬石を結ぶレイラインが六甲山を通り抜け、それらの拠点が他のレイラインとの交差点となり、複数の聖地と繋がっていることが一見して理解できます。すなわち、古代の重要なレイラインの源には剣山と淡路島、そして六甲山が存在し、その位置付けが古代社会においては極めて重大な役目を果たしていたのです。
聖地となる高山をひたすら探し求め、神の降臨を待ち続けた古代の民は、淡路島からもその頂を遠望できる剣山を、当初の最終目的地として選び、四国では、その山頂周辺に高地性集落が築かれました。剣山を取り囲む周辺の山々は非常に険しく、そこに到達するまで海岸線からは徒歩で1か月ほど要しました。しかしどんなに険しい道のりであっても民は屈することなく、剣山を慕い求めて山々を登りつめ、いつしかその周辺には高地性集落を造成するに適した土地が見出され、人々が居住し始めたのです。古代、高地性集落の中でも最大規模を誇る邪馬台国は、これら剣山周辺に誕生した高地性集落の延長線に台頭した国家と考えられます。今日、祖谷渓谷をはじめとする剣山周辺の山麓付近では、急峻な山腹に家屋が立ち並び、秘境とも呼ばれる深い渓谷の各所には多くの村落が存在し、多くの古代遺跡も残されています。その原始的な景観からも古代集落の面影を垣間見ることができます。
特筆すべきは、西アジアから渡来してきたイスラエル系の民が携えてきた数々の神宝の存在です。民族が長い歴史の中で死守してきた神の臨在を象徴する宝であることから、それらを保管する場所が不可欠であったことは言うまでもありません。それゆえ、外敵の侵入を防ぐことができる安全な場所として、人が近づき難い剣山は、正に神宝を守る要塞を造成するには最良の場所として考えられたことでしょう。そして神宝は剣山の頂上近辺に秘蔵されることとなり、その周辺にて神を祀る祭祀活動が行われるようになったと考えられます。こうして海岸線から遠く離れ、一見不便な場所と考えられる剣山周辺には人々が集い始め、剣山を囲む山々の山麓に大規模な高地性集落が築かれていくことになるのです。
ところが2世紀に入り、卑弥呼と呼ばれた霊能力に優れた女王の台頭とともに、状況は一変します。霊媒や占いを厳しく禁じ、それらは死刑に値すると先祖代々から語り告げられ、聖書にも明記されているモーセの律法があるにも関わらず、卑弥呼はその教えを無視し、自らの霊力と知恵を頼りにしたのです。卑弥呼がイスラエルの教理を知っていたか、今になって確認する術はありませんが、四国の高山に集まってきた民が当初、イスラエル系の民族であった可能性が高いことから、その可能性は十分にあります。そして卑弥呼はいつしか自らを神格化して国々を取りまとめ、海外にまでその名声を広めるに至りました。
しかし時代の流れとともに、日本列島内には真に国家の再建を願う、熱い想いが息吹始めていました。そして新しいエルサレムを日本列島内に復興させることを願い求めた宗教的指導者や王系の流れを汲む一族らは、列島の地勢をきめ細かに検証した結果、その都を奈良盆地周辺に築くべきであると判断し、準備し始めたのです。その後、民族の悲願であるイスラエルの復興を願い求めたユダ族やレビ族の血統を汲む民を中心とする渡来者の波が列島に向けて加速するにつれて、やがて抵抗勢力の力が邪馬台国を凌ぐようになります。そして、新たなる宗教的指導者に導かれたイスラエル系王族の血統を継ぐ集団の勢力に屈した邪馬台国は、3世紀後半より崩壊の一途を辿り、直に消滅することとなったのです。その結果、邪馬台国は単に滅亡しただけでなく、最終的に剣山周辺の山々は、霊媒が執り行われた汚れた地として、聖書の教えに従って火で焼かれる運命となりました。
神の臨在の証でもあり、イスラエル民族の象徴でもある神宝が、その直前に剣山から持ち出されたことは言うまでもありません。神聖なるイスラエルの宝は、人間の手によって消滅できるようなものでもなく、人類の歴史が続く限り必ずどこかに温存されているものと考えられます。邪馬台国が焼け地となる直前、神宝は剣山から取り去られ、聖なる宝の新しい秘蔵場所が、日本列島内で探し求められたと考えられます。そして古代の宗教学者らは英知を絞り、日本列島の地勢と諸々のレイラインを検証しながら、神宝を秘蔵する聖なる山にて、祭祀も執り行うことができるような理想郷を、淡路島に紐付けられた地域に特定しようとしたのではないでしょうか。その聖地の場所をピンポイントで見出すために、新たなる列島のレイラインが育まれることになります。
その背景には、イスラエルの旧約の時代から、イエスキリストの新約時代に至るまで、一貫して聖書では「聖なる山」とともに、「岩なる神」のコンセプトも明記されていることがあります。イスラエル系の渡来人にとって、アブラハムから始まる族長時代から「岩なる神」への想いは極めて重要であり、神は岩周辺に訪れただけでなく、その後、モーゼの時代においても、岩の上で祭祀活動が行われていたことを聖書の記述から知ることができます。
「もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを充てると石が汚されるからである。」
出エジプト20章25節
また、いつの日でも高い山に登り、神の山にて礼拝を捧げることは大切なことと考えられていました。
「主の山に来て、イスラエルの岩なる神にまみえる」
イザヤ30章29節「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ」
イザヤ40章9節
イスラエル系の識者らは、剣山から神宝を移すにあたり、新たなる山に聖なる岩場を見出し、そこを磐座とする必要性に迫られていました。淡路島周辺の地勢を検証する限り、剣山から神宝を移設する可能性を含む岩場がある高山とは、淡路島の鬼門となる北東方向に見える六甲山地しか選択肢が残されていないようです。実際、六甲山地は花崗岩を中心とする巨石の宝庫であり、そこでは古代、多くの祭祀場が存在したことが知られています。その六甲の巨石文化の痕跡には、剣山に秘蔵されていた神宝の軌跡が残されていた可能性があります。
守護神のシンボルとなる六甲山
淡路島の神籬石に結び付けられた指標として、富士山と同格に位置付けられていた剣山だけに、その場所から神宝を移設するにあたっては、当然のことながら剣山に匹敵するような高山が当初から探し求められたに違いありません。そして、剣山と淡路島の神籬石を奥宮とする伊弉諾神宮を結ぶレイラインが、標高931mを誇る六甲山最高峰と結ばれることに着眼した古代の識者らは、六甲山地の存在を徹底してマークしたのです。

剣山と六甲山最高峰を繋ぐレイラインは伊弉諾神宮を通り抜けるだけでなく、摩耶山の山頂も通過します。3Dの航空地図を参照すると、六甲山地は巨大な岩が平地から突き出ているように見えるだけでなく、実は淡路島と一続きになったプレートの流れを継いでいる山地であり、淡路島と同様に南西から北東方向にかけて、およそ右肩上がりの方向に山並みが連なっていることがわかります。約1000万年前、六甲山地は淡路島と地続きであり、その後、六甲変動と呼ばれる断層運動により、大阪湾周辺が沈降して広大な湾岸へ、逆に六甲山地は隆起し続け、現在の地勢を形作りました。今日でも六甲淡路島断層帯は存在し、元来、淡路島と繋がっていたことを証しています。
六甲山地には広大かつ急峻な山麓が広がるだけでなく、山の周辺には牧場やゴルフ場、森林植物園や公園も存在し、今日では関西地区におけるレジャーの名所として、庶民の憩いの場となっています。また、ほぼ垂直に立ち上がる巨大な岩場も多く、ロッククライミング発祥の地としても有名です。これら六甲の巨石の多くは花崗岩でできており、高級な石材として用いられたことから、豊臣秀吉の時代から江戸時代にかけて多くの岩石が切り出され、城の造営などに多用されました。その結果、今日の六甲山の姿は、古代の様相とは大分異なる場所が多々存在するようです。それでも昔からの面影を十分に察することができるほど、六甲山地の自然は豊かであり、その美しい景観をもって庶民の心を和ませてくれます。
六甲山地が古代から聖山として注目されていた理由は明確です。まず、六甲山最高峰周辺が、伊雑宮と出雲大社、そして諏訪大社と石鎚山を結ぶレイラインがちょうど交差する場所に位置していることです。特に六甲山最高峰周辺のレイライン上には、石宝殿や摩耶山、北山巨石群など、多くの磐座と祭祀場が存在することは注目に値します。また、四神相応と呼ばれる古代、東アジア中国で培われた伝統的な地相と方位学によれば、理想郷のあり方は、北に山、南に海、西になだらかな道が続き、東に蔵風聚水、すなわち水源や陽風を取り入れる丘陵が広がる場所と解釈できます。すると淡路島にとって六甲山地は北の玄武に当たります。また、島の南には広大な海が広がり、西には瀬戸内の穏やかな海原に沿って山陽道が続き、東には大阪湾から琵琶湖へと豊かな水源を含む丘陵が続くと見れば、淡路島は四神相応に準じた日本列島の中心地と考えることができます。しかも六甲山は淡路島のおよそ北東に位置しますが、その方角は陰陽道でいう鬼門、すなわち、鬼の出入りする場所に当たります。それゆえ、必然的に六甲山地においては多くの磐座が見出され、そこで祭祀活動が活発化したと考えられるのです。こうして六甲山は日本の中心となる淡路島北方の守り神が君臨する山地として、古代から重要な位置を占めることになります。
また、六甲山地は、大変見晴らしの良い場所であることも、古くから重要視された理由です。六甲山最高峰からは大阪や和歌山、淡路島は勿論、天候に恵まれた日は四国の山も遠くに眺めることができます。また、夜景の美しさで定評のある標高700mほどの摩耶山頂上からも、東南220度から東は70度前後までの景色を山の南側に眺めることができます。そして同様の眺望は、堡塁岩や北山巨石群など、六甲山地の巨石群や史跡からも確認することができるだけでなく、摩耶山の東にある長峰山の天狗塚からは、ほぼ360度の大パノラマを楽しむことができます。六甲山地は淡路島と同様に南西から北東に向けて連なり、山地の南側は、ほぼ大部分が急斜面となっていることから、山麓の随所から素晴らしい景色を見ることができるのです。また、保久良神社などは、「海から昇る太陽を遙拝する最適な場所として探し求められ」と、神社の御事蹟に明記されているとおり、海から昇る太陽を遥拝しながら、暦を刻むこともできました。さらに山地から眺める景観は、拠点を防御するという戦略的な視点からも重要な要素となりました。六甲山地は、聖地となるための必要不可欠な要素を十分に兼ね備えていたのです。
六甲山地の巨石文化を訪ねる

実際に参詣道を巡り歩いて多くの史跡や巨石文化の姿を目の当たりにすることにより、六甲山地の美しさと、その歴史の重みをより実感できることは、言うまでもありません。山地の随所に見られる巨石群や、神籬として温存されてきた聖地の数は列島内でも群を抜いて多く、古代の人々が六甲山地を特別視したことは明白です。特にその巨石文化には目を見張るものがあり、ここではその魅力の一部について、具体的な事例を紹介することとします。
まず六甲山最高峰の東方、およそ1kmの場所にある石宝殿を検証してみましょう。この場所は出雲大社と伊雑宮、そして諏訪大社と石鎚山を結ぶレイラインが交差するピンポイントの地点であり、しかも六甲山最高峰に隣接し、見晴らしも大変良いだけでなく、山の斜面に巨石の存在も確認されたことから聖地化されたようです。地図上では石宝殿、または石の宝殿と記載されることもありますが、実際には白山の宮と掲げられた鳥居があり、六甲山神社とも呼ばれています。そこに祀られている神は、白山大権現です。白山信仰の聖地となる白山を開いたのは秦澄大師と言われ、秦氏であると考えられることから、白山大権現が祀られる石宝殿の由来には、秦氏らイスラエル系渡来人が関与していることが窺えます。つまるところ六甲山にて白山大権現が祀られているということは、大阪から奈良、和歌山、淡路島、四国を見渡すことができる六甲の頂点をイスラエルの神が治めていることを象徴するようでもあり、極めて重要な意味を持つことになります。
この石宝殿では境内らしい空間は見当たらず、舗装もされていない駐車場の一角に真新しい白山姫観音像が建てられ、その背後には古びたバラック仕様の社殿しか目に入らないことから、一見、荒廃した神社にしか見えません。ところが、社殿の裏から南方に向けて斜面を下りるとその様相は一変します。まず、山道を下ると白水不動が祀られている霊水場が目に入ります。そして社殿から鉄塔の裏側に繋がるもうひとつの山道を50mほど下ると、そこには巨大な岩をご神体とする磐座が存在します。磐座の名称は定かではありませんが、明らかに白山大権現と六甲山最高峰に紐付けられた貴重な聖地であり、それらの御神体に匹敵するような巨石であることに違いはありません。北山公園の南にある越木岩神社では、この石宝殿が奥宮であることが明記され、越木岩神社の氏子らが石宝殿の建立に携わっていたことも判明しています。さらに古代から、石宝殿は六甲山地周辺に建立された神社の中心的存在と考えられていたことが伝えられていることからしても、やはり石宝殿はレイラインが証するように、地域の最重要拠点であったと考えられます。
標高931mを誇る六甲山最高峰と比較すると230mほどの高低差があるものの、摩耶山も六甲山地に含まれる聖山としての貴重な位置を占めています。摩耶山は弘法大師のゆかりの地でもあり、元来、大師が中国より持ち帰った梁の武帝作、摩耶夫人尊像が忉利天上寺に奉安されたことから、摩耶山と呼ばれるようになったと言われています。弘法大師が愛した山だけに、麻耶山からの見晴らしは格別であり、大阪一帯から和歌山、淡路、四国と見渡すことができます。また、摩耶山の周辺には古代から歩まれてきた参詣道が巡らされ、その道沿いには多くの滝場や祠が存在し、観音道と奥の院道を一周すると88か所巡りとなるほど、修験道に関わる民にとっても重要な修行の道でした。さらに摩耶山頂上のすぐ南には、摩耶山の陰陽石として知られる天狗岩大神が祀られ、その南方500mほど山道を下ると摩耶山史跡公園があり、弘法大師が水を飲まれた弘法清水が公園のそばにあります。古代の参詣道や複数の磐座だけでなく、人の手が加えられたと思われる山腹の壮大な岩場の姿からは、今日でもただならぬ雰囲気と聖地としての重厚な空気を肌で感ずることができるのが、摩耶山の不思議です。摩耶山の存在は神宝の行方を占ううえでも、大変貴重な位置付けを占めていると言えるでしょう。
その摩耶山の北東には、六甲山と摩耶山の山頂を結ぶレイライン上に、堡塁岩と呼ばれる最大級の巨大な磐座が、標高700mほどの地点に露出しています。堡塁岩は中央稜、東稜、西稜と呼ばれる3列に並ぶ巨石から成り立ち、芦屋ロックガーデンと並び、ロッククライミング発祥の地のひとつとしても有名です。しかしながら後述するとおり、この堡塁岩は古代、人の手により岩が削り出されて築かれた壮大な史跡と考えられ、弘法大師の手も加えられた作品と推測されることから、大切に保護しなければならない国宝級史跡のひとつと考えられます。堡塁岩の中央稜には、その頂点近くに祭祀場が設けられ、ひとつ間違えて足元を踏み外せば落下して即死するという聖所です。このような危険極まりない場所でも古代の民は、祈りを捧げていたということに、驚嘆せずにはいられません。この堡塁岩も、その位置付関係や形状、岩が削られた方向などからからして、神宝の行方を占う貴重な鍵を握っていると考えられます。
その他、花崗岩を主とする六甲山地の磐座の中には、岩の切り出し方や積み方、最終的な小山、丘陵の形状が類似していると思われる場所が多々見受けられます。その事例として、芦屋川の北方、道路沿いからも見える巨石を誇る弁天岩や、北山公園沿いの夫婦岩があります。これらは単にその巨石の大きさだけが注目されるわけではありません。
重要なのはその巨石の背後に広がる山であり、そこにはまるで巨石の博物館とも言える豪快な岩場が続いています。特に弁天岩の裏山は諏訪大社裏の守屋山を彷彿させる巨石の宝庫であり、弁天岩の背後から15分ほど山を登ると、遠い昔、祭祀活動が営まれていた可能性が考えられる、扇型に広がる巨大な岩場を目にすることができます。これら山麓沿いの岩の中には中世に切り出された岩石も含まれている可能性は否定できませんが、その大半は昔のままの姿を留めているように見受けられます。
また、弁天岩から東北方向の北山公園沿いには、夫婦岩が道路の中央で祀られています。注目すべきは巨石が2つに割れていることであり、その割れ目の方角がちょうど東西の方向を向いていることです。すなわち、夫婦岩は方向石として用いられていたと考えられ、その裏山には弁天岩と同じように、人の手が加えられたと考えられる岩山が続きます。さらに北山公園内の巨石群も注目に値し、それら巨石の多くが、日の出、日の入りに関わる太陽の位置や方角までも考慮され、整然と並んでいることが調査によって指摘されています。無論、そのために時には巨大な岩石が移動されることもあったに違いなく、古代の優れた英知の結晶とも言えます。
これら六甲山地を覆う巨石文化とともに、六甲周辺に確認されている弥生遺跡の存在にも留意が必要です。阪急神戸線岡本駅の北側に建立されている保久良神社からは、その境内外地周辺より古代祭祀の遺跡が発掘され、環状列石内より複数の銅矛や石器が見出されました。また本殿の裏には3つの巨石が林立し、これら祭祀跡の由来は前3世紀より2世紀までに渡る極めて古いものと推定されています。また、保久良神社の東方には会下山遺跡があり、これも弥生時代中期から後期、およそ2000年前の高地性集落遺跡として、祭祀場や竪穴住居跡だけでなく、堀跡や焼土抗、墓地などが発掘され、国の史跡にも指定されています。
摩耶山に繋がる石上神宮と伊雑宮
摩耶山が古代の聖地として特別視されたことは、レイラインを介して伊勢神宮と密接な繋がりを持っていたことからも理解できます。剣山と伊弉諾神宮、そして六甲山最高峰を結ぶレイライン上に位置する摩耶山は、六甲の堡塁岩とも紐付けられているだけでなく、そこから真北に引いた線は、天橋立の近くにある籠神社の奥宮である真名井神社を通り抜けます。
籠神社は元伊勢として知られていますが、その奥宮が真名井神社です。そして真名井神社の紋は、イスラエルのダビデの星であり、古くからイスラエルとの関わりを指摘する声が絶えません。これらのレイラインは、摩耶山が、剣山や伊弉諾神宮、籠神社や真名井神社だけでなく、伊勢神宮とその奥宮である伊雑宮とも繋がっていることを証しているのです。伊雑宮の紋と真名井神社の紋が同じダビデの星であることは、決して偶然の一致ではなく、イスラエル系の民が、それら聖地の建立に関わっていたことの証と考えられます。
摩耶山が真名井神社とレイラインで繋がり、伊勢神宮に紐付けられることにより、今度は摩耶山と伊勢神宮の奥宮である伊雑宮を直接結ぶレイラインも重要視されました。時代の流れとともに、古代の民が求める聖なる都の場所は、淡路島の東方にあたる奈良盆地の周辺に目が向けられるようになっていたのです。そして摩耶山と伊雑宮を結ぶレイラインは、奈良盆地の中心を通り抜けることから、そのライン上に奈良の石上神宮が建立される運びとなります。
特筆すべきは、古代の民の「石」や「岩」に対するこだわりです。奈良の石上神宮は、「古事記」や「日本書記」にも記載されている最も歴史の古い神社のひとつであり、大量の神宝が一時期、保存されていたことでも有名です。おそらく石上神宮が建立された理由のひとつに神宝の保存があったのではないでしょうか。また、レイラインを通じて石上神宮と繋がる聖地の多くは、神籬とも呼ばれる聖なる岩石が存在し、その名称にも「石」「岩」という字が含まれることが多いのです。摩耶山周辺の六甲山地には堡塁岩も含め、重要な神籬が多数存在するだけでなく、摩耶山に通じるレイライン上の剣山には宝蔵石が、そして岩上神社には神籬石が存在します。岩上神社の縁起書によると、神籬石を祀る岩上神社の創立は、奈良石上神宮の分霊を勧請創始したと伝えられていることから、現実的にも神籬石と石上神宮の繋がりを確認することができます。さらに摩耶山の北方に位置する真名井神社では、磐座にて神々を祀るために本殿が存在しない代わりに、拝殿の裏には2対の磐座が祀られています。
六甲山地、摩耶山のレイラインに並ぶ聖地の多くが、巨大な岩石を神籬として祀っていることには、それなりの理由があるようです。剣山を基点とした神宝の移動に、これらの磐座、「石」の存在がその守護神、もしくは移動する指標として関わっていた可能性も考えられます。イスラエルの民にとって、神はあくまで「岩なる神」であったからです。それゆえ、古代のレイラインを検証しながら神籬となった聖なる岩場を追うことにより、もしかすると剣山から持ち出されたイスラエル神宝の行方を見出すことができるかもしれません。もともとレイラインが交差する中心地は淡路島であり、神籬石に直結する剣山こそ、誰もが崇める聖山として比類なき雄姿を誇示していました。しかし邪馬台国の弱化とともに、剣山から六甲山地へとレイラインの焦点が移行したのです。その結果、六甲の摩耶山が伊勢神宮と紐付けられ、そのレイラインが通り抜ける奈良盆地に、古代識者が注目するという意外な展開へと発展することになります。神宝を守護するのは「岩なる神」ご自身であるという宗教観を背景に、巨石と磐座の文化が列島内に広がりを見せることになります。
画像ギャラリー:伊雑宮 / 出雲大社 / 伊勢神宮参道 / 伊勢神宮内宮 / 伊勢神宮外宮 / 岩上神社神籬石 / 伊弉諾神宮 / 諏訪大社 / 海神神社



















