
海洋豪族の存在を証する多くの貝殻
貝殻が出土する若杉山遺跡
若杉山遺跡から発掘された遺物の中で特筆すべきは、海・川・陸に生息する貝殻が2,982点も出土したことです。その大半はハマグリなどの鹹水(かんすい)産ですが、中には汽水・淡水産の2枚貝や陸産の巻貝も含まれていました。しかもそれらの陸産貝類は海に生息する貝類に混在した状態で出土したのです。
当時の調査においては、土石流による混入か、当該のみ生息していた可能性、あるいは遺構内に生息していた可能性などのが検討されましたが、結論には至らず、今後の検討課題として残されました。調査報告書には、「若杉山遺跡は、那賀川の中流域に位置し、標高150m以上の高位の環境にあるにもかかわらず、鹹水・汽水域に生息する貝殻や魚類骨が出土しています。これは、物と人間の移動を意味するものであり、辰砂生産に従事していた集団の生活形態を考察する上で、貴重な出土資料」と、記されています。
若杉山遺跡の貝殻は船底修繕の跡か
この謎を解くヒントは、貝殻の出土状況にあります。多くの貝殻は1か所にまとまって出土しており、貝殻のような堆積ではなく、土圧によって押しつぶされたような状態でした。これら多種多様な貝殻の存在は、後述するように、若杉山遺跡が古代海洋豪族の重要な拠点であり、船が頻繁に出入りしていたことを示す痕跡である可能性があります。
まとまって出土した貝殻は、船底に付着した貝殻を除去した際の残骸と考えることもできます。古代の船は海だけでなく、川や湖も航行していたため、船底にはさまざまな種類の貝殻が付着したはずです。そのため、船底を修繕したり塗装したりするためには、それらの貝殻をまず削り取る必要がありました。削り取られた貝殻を集めて廃棄したものが、埋没した可能性が考えられます。だからこそ、出土した貝殻は著しく破損しており、その割れ方にも共通した特徴が見られたのではないでしょうか。
辰砂は船底を保護し、防水加工するための原材料として古代の海洋豪族が最重要視した資源であり、その一大掘削場となったのが、若杉山遺跡だったと考えられます。
海洋豪族が辰砂を欲した理由
辰砂の優れた効用
辰砂は丹(に)とも呼ばれる鉱物です。中国湖南省の辰州が主産地だったことから「辰砂」として知られるようになり、その鮮やかな赤色から「朱砂」とも呼ばれています。その鉱石を砕いて採取した粉が主成分となり、本朱の顔料になります。辰砂を加熱して発生する水銀蒸気と二酸化硫黄を冷却すると、水銀が精製されます。古代より水銀は大切な資源であったことから、十分な辰砂を確保することが重要視されたのです。
水銀の原料となる辰砂にはさまざまな用途があり、船底用塗料だけでなく、顔料、染料、朱肉、薬などにも幅広く活用されてきました。また、死者を弔う際に水銀朱を使用する風習も古くから存在し、弥生時代においては埋葬した人骨に赤色顔料を施した例が確認されています。
その後、古墳時代になると、石室や棺、古墳壁画の彩色だけでなく、神社や寺院などの重要建築にも用いられるようになりました。辰砂は防腐剤の役目も果たすことから、神社の鳥居や社殿を朱色に塗る際にも利用されました。
また、古代には辰砂を含む赤土を顔や身体に塗る風習があり、これが化粧の始まりであったという説もあります。丹生都比売神社の由緒には、「播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の宣託により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」と記載されています。
辰砂の採掘時期
日本では、およそ弥生時代から辰砂の採掘が広まったと考えられています。しかし、近年の発掘調査によって、その歴史は従来考えられていたよりも古いことが明らかになってきました。縄文土器や漆器からも水銀朱が検出されていることから、その歴史は縄文時代にまで遡ることがわかってきました。
また、西アジアでは、紀元前10世紀頃、すでに高度な造船技術が発達しており、朱顔料を用いて船体の防水加工を行っていた可能性も指摘されています。旧約聖書の歴史書には、ソロモン王の時代、タルシシュ船が海を渡って世界各地を航海していたことが記されています。こうした記録からも、古代の人々は今日私たちが想像する以上に優れた航海術と造船技術を習得していたと考えられます。
海洋豪族と辰砂の関係
イスラエル王国ソロモン王の時代から約3世紀後の紀元前7世紀頃、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も崩壊の危機に直面した時、王朝を支えてきた南ユダ王国の豪族らは神宝を携えながら国家を脱出し、預言者らとともに船に乗り込んで東方へ向かった可能性があります。そのイスラエルから逃れてきた王族や預言者の一行が、台湾から八重山諸島、琉球諸島を経由して日本列島に渡来し、皇統の形成に関わったと想定してみました。すると、日本建国に関わった古代の中心人物は大陸からの渡来者であり、高度な航海技術と大陸からの優れた文化を携えて、海を渡ってきたことになります。
この仮説に立てば、弥生時代後期から古墳時代初期にかけて、日本列島を船で行き来していた海洋豪族は、大陸から渡来した国生みに纏わる一族の末裔と考えられるのです。西アジアで培われた優れた航海技術、天文学や地勢学の知識を持っていたからこそ、日本列島に渡来した後も、その文化が開花したのではないでしょうか。だからこそ、元伊勢御巡幸でも船団が活用され、その後、邪馬台国の時代でも日本列島と中国を行き来することができたのです。
その結果、元伊勢御巡幸でも船団が活用され、その後の邪馬台国の時代には、有力な国家としてアジアにその名を知らしめるようになりました。その背景には、日本列島と中国を行き来する船の存在がありました。その背景には優れた船舶技術があり、その耐久性を支えた辰砂が重宝されたことは想像に難くありません。
海洋豪族が欲した川沿いの辰砂
海洋豪族が求めたのは辰砂鉱山でした。辰砂には優れた耐水効果があることから、その用途の中でも船底塗装としての利用は特に古い歴史を持つと考えられます。辰砂を原料とした本朱を船底に塗ることにより、腐食や貝殻の付着を抑え、船の耐久性を大きく向上させることができました。そのため、海洋豪族は辰砂を求めて、特に紀伊半島や四国の徳島を中心に探索を進めたようです。
しかし、往々にして鉱山は山奥に存在し、その発見も採掘した鉱石の運搬も容易ではありませんでした。そこで重要となったのが河川です。辰砂鉱山の多くは河川沿いの山々に位置し、採掘した鉱石は船によって効率よく運搬されました。そのため、歴史の古い辰砂鉱山は、和歌山県や三重県、徳島県に流れる大きな河川、もしくはその支流沿いにあるのです。古代、日本国内における辰砂の鉱山が河川流域に集中した背景には、採掘と運搬を担った人々が、川船を自在に操る海洋豪族であったことが大きく関係していたと考えられます。
辰砂と関連する「丹生」の地名
丹生都比売神社と辰砂との関わり

丹生都比売神社 楼門辰砂鉱山の中で最も有名な場所は、おそらく紀伊半島の吉野川沿いにある丹生であり、その中心には丹生都比売神社が建立されています。「丹生」には「辰砂が採取できる地」「辰砂を精製する氏族」という意味があることからしても、丹生都比売神社は辰砂と深く関わっていたことがわかります。
丹生都比売神社の由緒には、「魏志倭人伝には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります」と記されています。つまり、丹生という地名の背景には、辰砂の存在がありました。また、丹生都比売神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にその名を連ねています。そして今日、紀伊水道を渡った徳島側の若杉山遺跡が、日本最古の辰砂採掘の坑道として名乗りをあげたのです。
辰砂と丹生の名称との関係
丹生の名称を含む神社や地名は紀伊半島を中心に広がっているだけでなく、若杉山遺跡のある徳島の那賀川上流にも存在します。那賀川上流を6kmほど上ると、そこにも仁宇と呼ばれる町があります。江戸時代に編纂された「阿波誌」の中に記載されている那賀郡の「丹生」と「小丹生」が、今日の仁宇にあたります。
また、「阿波誌」には、仁宇に居住の拠点を構えた丹生氏については、「丹生俊重伊勢の人、丹生谷に来居す」とあり、 仁宇氏が伊勢から徳島の那賀川上流まで船で渡ってきたことがわかります。
辰砂坑道の真下にある巨石さらに、「丹生谷」「木頭丹生」「丹生和食」などの地名も記されており、若杉山遺跡の上流、那賀川沿いには、かつて仁宇神社とも呼ばれた八幡神社があります。このように、紀伊半島の吉野川上流の丹生と、徳島の若杉山周辺の丹生は、双方とも辰砂の採取という共通の背景を持つ地名です。その歴史的背景をたどると、両地域の辰砂採掘は弥生時代後期という同じ時期に行われ、丹生氏をはじめとする同系統の集団によって担われた可能性が考えられます。
参考文献
- 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
- 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
- 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月
参考サイト

はじめまして。個人的関心で古代日本における辰砂、水銀朱について調べていてこちらの記事に辿り着きました。同じ方向で考察しているので、とても面白く拝読しました。関連して?、住吉大社ご祀神の筒男命3柱について、私は海運航海に不可欠の船を保護するために船底を漆や辰砂を塗布したことに関連する神々ではないかと考えています。普く「航海の指針に重宝されたオリオン座3輝星を祀る神」の説が唱えられていますが、オリオン座は冬の星座で通年は見えません。もっとも赤道近くの南方ならば年中見えるのかもしれませんし、南方海洋民族が奉じた神であれば…とは思いますが、北方である日本を目指したならば、やはり北極星が指針である方が自然です。日本神話で綿津見神と共に現れた筒男命が、難波津ではなく中央構造線沿い水銀鉱床に近い住吉津で祀られていることは丹と関連するのではないかと考えました。辰砂を以て三韓征伐をした神功皇后も祀られています。
阿波、讃岐の海の民が広く活動して紀伊とも交流し、丹の財力が空海の高野山まで関連するかも?と考えると興味が尽きません。