1. ホーム
  2. 日本のレイライン
2026/07/25

春日大社のレイライン 藤原一族の拠点となった古代聖地

世界遺産 春日大社

奈良時代に、シルクロードの終着点として栄えた日本の古都、平城京。その都を守護する神として、春日大社はおよそ1300年前に創建されました。今日、奈良の春日大社は、全国にある春日神社3000社の総本社として知られています。2016年には20年に1度の式年造替を終え、社殿の朱塗りも鮮やかに蘇りました。回廊に並ぶ1000基の釣燈籠は、戦国武将など歴史上の著名人が寄進したものも多く、春日大社を象徴する景観の一つとなっています。また、1998年には、春日大社は周辺の東大寺などとともに、「古都奈良の文化財」のひとつとして世界遺産に登録されました。

式年造替が行われた2016年11月、春日大社に参詣した際、シンボルである鮮やかな朱色を目の当たりにしました。その荘厳な姿に深い感銘を受け、春日大社の歴史的背景や藤原一族との関係を調査しているうちに、春日大社が現在の地に建立された理由として、「レイライン」と呼ばれる複数の聖地を結ぶ線に関連しているという事実が浮かび上がってきました。本章では、それらのレイラインを検証するとともに、春日大社のルーツとその発展を支えた藤原一族との関係について、真相をわかりやすく解説しています。

世界遺産 春日大社 公式ホームページ

記紀に記された春日大社の創始

春日大社の創始は、国譲りに関わる神々の一人として知られる武甕槌神(たけみかづちのかみ)に由来します。「日本書紀」や「古事記」によると、葦原中国平定の時代、天照大神から神託を授かった武甕槌神は、経津主命と共に海を渡って出雲へと向かい、地域を支配していた神々に剣の権威を示しながら、国譲りを求め、その使命を果たしたと伝えられています。その直後、国譲りに力づくで反抗した建御名方神(タケミナカタ)を征伐するため、武甕槌神は内陸の諏訪まで逃れた建御名方神を追走し、服従させたと記されています。そして、再び出雲へと向かい大国主神と談判し交渉を終えた後、高天原へとお戻りになられたと伝えられています。

春日大社 中門・御廊
春日大社 中門・御廊
国譲りの舞台となった出雲の地は、神々の先祖である伊邪那岐命が葬られたと伝えられる淡路島の中心部、現在の伊弉諾神宮が建立されている場所から見て、夏至の日が沈む方角に位置します。これは、出雲の地が伊邪那岐命と深い関わりを持つ場所として意識されていた可能性を示唆しています。そして、武甕槌神が建御名方神を追走して戦ったと伝えられる諏訪の地は、出雲とは対照的に、伊弉諾神宮から見て夏至の日が昇る方向に位置します。諏訪周辺には、阿久遺跡の発掘調査によって、縄文時代から大規模な集落が形成されていたことが確認されており、古くから重要な地域であったのでしょう。そのため、古代、諏訪も淡路島と何らかの思想的・信仰的なつながりの中で捉えられていた可能性があります。また、諏訪から見て真東の太平洋沿岸には鹿島の地が存在し、諏訪と鹿島2つの聖地は同緯度に並んでいます。この地理的な配置が意図的なものであったかどうかは断定できませんが、古代の祭祀や信仰との関連を考える上で興味深い特徴といえるでしょう。武甕槌神が鹿島の国つ神として知られ、鹿島神宮の御祭神としても祀られています。このことからも、武甕槌神が鹿島の歴史に深く関わり、古くから重視されてきたことがうかがえます。

春日大社の御祭神である武甕槌神が、国譲りの神話を通して出雲と諏訪、そして鹿島とも深く結び付いています。こうした武甕槌神と各地との関係を理解することは、諏訪、鹿島、出雲という3つの聖地の繋がりだけでなく、武甕槌神を祀る春日大社が奈良の地に創建された背景を見極める上でも重要です。そのため、まず、春日大社の主祭神である武甕槌神の足取りを辿りながら、その舞台となった出雲、諏訪、鹿島の聖地を結ぶ複数のレイラインを検証し、春日大社の歴史の流れを考察していきます。

武甕槌神と鹿島との繋がり

なぜ、武甕槌神が鹿島にて篤く崇敬されるようになったのでしょうか。「古事記」によれば、国譲りの際、武甕槌神は諏訪を離れた後、大国主神と談判するために再び出雲へ戻ったことが記載されています。しかし、そこには鹿島を訪れたことを示す記述が見当たりません。記紀においては、その後の神武天皇東征の際に、武甕槌神が神剣を授けて、神武天皇を助けたことが記されていますが、東征において鹿島を含む地域の重要拠点を制覇したことに貢献したこと以外、鹿島については記述が見られないのです。

平安時代末から編纂された霊験集の集大成であり、現在も春日大社に所蔵されている「春日権現験記絵」の序章には、武甕槌神が天下って国を平定し、鹿嶋へ移られ、その後、神護景雲2年(768)春、法相宗を擁護するために御笠山に移られたことが記載されています。しかし、この序章については不可解な点が多く、例えば武甕槌神が天下ったのは神代のこととされる一方、「御笠山に移られた」のは、768年であり、その間には大きな隔たりがあります。また、御笠山への遷座は、藤原氏による武甕槌神の勧請を意味し、ご自身の生存中の出来事に関する記述ではないこともわかります。このことを踏まえると、「鹿嶋へ移られた」という記述も、その年代が国譲りの時期の出来事か、後世の勧誘かを特定することはできません。さらに、「移られた」主体が武甕槌神自身をさすのか、それとも御笠山への遷座と同様に、鹿島に勧請されたことを意味するのかも定かではありません。

鹿島神宮の楼門(春日大社の南門に酷似)
鹿島神宮の楼門(春日大社の南門に酷似)
しかし、鹿島神宮が建立され、その御祭神として武甕槌神が祀られ、古くから国つ神として崇められてきたことは知られています。また、鹿島を含む常総地方では、祭祀職の責務を担っていた中臣氏や、神武天皇の子孫と伝えられる多氏が、武甕槌神を鹿島の神、あるいは海上交通の神として崇拝してきた史実も見逃せません。こうした伝承や信仰の歴史を踏まえると、武甕槌神は確かに鹿島に渡来し、港湾や集落の発展を支える守護神として、人々の信仰を集めるようになったのではないでしょうか。そして、そのような信仰の積み重ねが、武甕槌神を鹿島の土着神として広く崇敬する伝統へと発展していったものと考えられます。

武甕槌神と鹿島との関係については、日本の地勢とレイライン、及び武甕槌神の足跡をたどることにより、そのおよその流れが見えてきます。武甕槌神は古くから海上交通の神と知られているだけに、その活動には船による移動が深く関わっていたと考えられます。当初、葦原中国を制定する役目を授かった武甕槌神は、日本列島の南方から船で北上し、日本海沿岸を経て出雲へ至った可能性があります。出雲では、大国主神との国譲りの交渉に臨み、剣を地面に突き立ててその権威を示したという神話が「古事記」「日本書紀」に伝えられています。その後、力比べに敗れて信濃国へ退いた建御名方神を追って、武甕槌神は長野の諏訪へと向かったとされています。

ところが日本海側から諏訪地方に向かう経路には、主流となる川を利用した水運のルートがないことから、武甕槌神は陸地を追って行くしかなかったのです。しかも諏訪は、日本海沿岸から最短距離でも100km以上内陸にあり、周辺が山々に囲まれています。そのため、徒歩による旅は決して生易しいものではなかったでしょう。そこで注目したいのが、その後の進路です。建御名方神と和解した後、武甕槌神は諏訪から出雲へと戻る際に、来た道を戻るのではなく、諏訪から真東へ向かったのではないでしょうか。つまり、武甕槌神は諏訪と同緯度にあたる太平洋岸へと旅を続け、その先にある鹿島へ至ったと考えることもできるのです。

鹿島神宮 拝殿
鹿島神宮 拝殿
諏訪から北東方向に35kmほど山道を進むと、そこには千曲川と利根川の支流が交差する水路があります。その15~20kmほど東へ行くと、現在の軽井沢近くに利根川の支流があり、渋川周辺にまで下れば、そこから利根川の本流を利用して、太平洋側の鹿島沿岸に向かう水路が開けます。古代には現在とは河川の流路が異なっていたものの、利根川水系は内陸と太平洋を結ぶ重要な交通路の一つであったと考えられます。海上交通の神として伝えられる武甕槌神にとって、この利根川の水路は天与の恵と思われたのではないでしょうか。

そして太平洋沿岸に至った後、河口周辺において諏訪と同じ緯度線上にある場所が地域の拠点と選ばれ、そこに港や集落が造成されて鹿島と呼ばれるようになったと想定されます。諏訪と鹿島は、ほぼ同緯度線上に並んでおり、この地理的な特徴は注目に値します。それは、天体を観測しながら双方の場所をピンポイントで探し当てることができることを意味します。よって古代の知者は、大切な拠点となる鹿島と諏訪を意図的に、同緯度となるレイライン上で結び付けられていた可能性が見えてくるのです。

春日大社に紐付く鹿島の重要性

春日大社の境内で戯れる鹿
春日大社の境内で戯れる鹿
国譲りをはじめとする数々の功績を成し遂げ、鹿島の神として広く崇敬されるようになった武甕槌神は、長い年月を経た後、藤原氏により春日大社に勧請され、その御祭神として祀られるようになりました。その際、武甕槌神は白鹿に乗って御笠山に来られたという伝説も残されています。春日曼荼羅の図には鹿の背に神影を乗せた姿や、鹿の背の上に鏡が掛けられた榊などが描かれており、鹿が神の使いとして重要な存在であったことがうかがえます。また、香取神宮でも、遠い昔、鹿島から香取に向けて鹿が使いとして文書を運んだという伝承が残されています。こうしていつしか、鹿は神聖な動物として大切に取り扱われるようになり、春日大社の鹿も「神鹿(しんろく)」と呼ばれるようになったのです。このように鹿島神宮に由来する神鹿の伝承は春日大社にも受け継がれ、鹿という神聖な存在を通して、鹿島神宮と春日大社は固く結び付くことになります。

こうして春日大社では、中臣氏が神官となる鹿島神宮の神、武甕槌神が第一殿、そして香取神宮の神であり、葦原中国平定の際には出雲で武甕槌神と共に国譲りを成し遂げた経津主命が第二殿に祀られています。第三殿には中臣氏の祖先神とし「古事記」にも記され、天岩戸を開いて天照大神を暗闇から導き出した天児屋根命が、そして第四殿には比売神を祀られています。このように春日大社では、これら四柱の神々を合わせて中臣氏、のちの藤原氏の氏神として祀るとともに、さらには平城京の守り神として篤く崇敬されたのです。

春日大社 御蓋山浮雲峰遥拝所
春日大社 御蓋山浮雲峰遥拝所
ではなぜ、藤原一族の長としても知られる藤原不比等は710年平城京遷都に際し、一族の氏神である武甕槌神を奈良の三笠山へ勧請し、春日神と称して祀ることを決めたのでしょうか。なぜ、それまで一族ゆかりの地であった鹿島ではなく、そこから西方向におよそ500kmも離れた奈良の三笠山に藤原一族の総本山とも言える春日大社を建立し、そこに武甕槌神を勧請したのでしょうか。その経緯について、「春日権現験記絵」には興味深い伝承が記されています。

768年、春日大社の聖地が正式に決まった際、法相宗を擁護するために三笠山に移られた武甕槌神は、新天地となる奈良に到達し、盆地を囲む小高い山々の中でもひと際美しい山を見出し、その風景を見て、次のように称えたと伝えられています。「日本に山野は多いが月が出た時の御蓋山ほど素晴らしい所はなく、花の匂いも春日野に勝るところはない」と絶賛したのです。そして武甕槌神は、この地へ経津主命と天児屋根命を招き、ともに春日大社へ祀ることを勧めたと記されています。また武甕槌神が深く心を寄せた標高283mの山は御蓋山(三笠山)と呼ばれ、通称春日山としても広く知られるようになりました。

武甕槌神が鹿島から奈良の三笠山へと勧請され、藤原一族が春日大社を基軸として奈良に一族の土台となる礎を築いた背景には、当時の政治情勢が大きく関わっていたと考えられます。国家体制が大きく変化し、権力闘争が激しさを増す最中、政権を担う立場にあった藤原氏にとって、一族の存在そのものを建国の神々に結び付け、その権威を広く示すことは重要な意味を持っていたのでしょう。また、奈良は日本列島のほぼ中心に位置し、レイラインという視点から見ると、聖地同士を結ぶ多くのレイラインが交差する地点でもあります。そのため、地の力と一族の権威を示す信仰の拠点を築く場所として、三笠山周辺が選ばれた可能性も考えられます。

さらに奈良には、神ご自身が「そこに住まわれたい」と語られた三輪山があります。その神秘的な伝承から、三輪山は古くから最も聖なる地として崇められ、古代にはその頂上周辺には多くの神宝が秘蔵されていたと伝えられています。三輪山は現在も、大神神社のご神体とされる霊峰であり、禁足地として厳重に守られています。その周辺には檜原神社、長谷寺など由緒ある神社が建立され、さらに初代神武天皇の御所となる橿原神宮も三輪山から5kmの地点に鎮座しています。このように、多くの聖地が周辺に集中する三輪山は、古代から特別な聖域として重視されてきたことがうかがえます。

その三輪山の真北、およそ16km離れた場所に見出されたのが三笠山です。武甕槌神が、三笠山を最高の場所と断言することに躊躇しなかった理由は、三輪山と南北一直線に並んでいるという位置関係だけでなく、他の霊峰や聖地ともレイライン上に繋がっているからに他なりません。こうした地理的特徴を踏まえると、春日大社のルーツとなる三笠山は、優れた地勢だけでなく、その場所を通り抜ける多くのレイラインの存在により、最重要視されたと考えられます。武甕槌神にとって三笠山が、他のどの山々よりも大切な拠点と考えられた理由を、レイラインの観点から検証してみましょう。

春日大社の見事なレイライン

春日大社の背後に聳える三笠山は、日本列島の聖地を巡り、その地勢や信仰の拠点を見極めてきた藤原一族が選び出した場所と考えられます。そのため、レイラインという視点から見ても、その場所は、多くの聖地を結び付ける線が交差する重要な地点となっています。特に注目すべきは、武甕槌神ご自身が関わった聖地を通り抜けるレイラインです。それらのレイラインがどこを通り、どこで交差するのかを確認することで、春日大社との関わりを見極めることができます。記紀には、武甕槌神が活躍する舞台として、出雲、諏訪、鹿嶋の地名が明記されています。そこで、これらの聖地を結ぶレイラインとその交差点を検証することにより、春日大社が果たして、レイラインを基に見出された聖地であったのかを確認していきましょう。

まず、国譲りの舞台となった出雲の聖地として、その原点に聳え立つ八雲山のレイラインを検証してみましょう。驚くことに、八雲山と伊勢神宮の内宮を結ぶレイラインは、春日大社の上をピタリと通り抜けます。武甕槌神が活躍した神代では、まだ伊勢神宮は建立されていませんでした。しかし、藤原不比等が政権を握り大きな影響力を持つようになった奈良時代には、伊勢神宮はすでに由緒ある聖地として認知されていたのです。そのため、八雲山と春日大社、そして伊勢神宮の三者が一直線上に位置することは、単なる偶然ではなく、何らかの意図や意味を持っていた可能性があると考えられます。

次に注目したいレイラインの拠点が、紀伊半島の最南端にある紀伊大島の東岸です。今日、トルコ軍艦遭難記念碑が立つ紀伊大島の樫野崎は、古代から航海の目印として知られ地域の交通や交流を支える要衝でもありました。そして、レイラインを検証すると、この場所の存在の重要性が確認できます。注目すべきは樫野崎から真北に向かって引く線です。その線上には金峰山寺、崇峻天皇陵、檜原神社、石上神宮、春日大社、そして近江神宮がほぼ一直線上に並びます。これだけ多くの聖地が並ぶことからしても、紀伊大島のレイラインは注目に値する存在といえるでしょう。その結果、八雲山と伊勢神宮内宮を結ぶレイラインと、この紀伊大島のレイラインが交差する地点が、春日大社の聖地に当たります。このように二つの重要なレイラインが春日大社で交わることは、果たして単なる偶然なのでしょうか。それとも、古代の人々は、これらの神社や天皇陵を意図的に一直線上に配置し、その線が交差する地点を特別な意味を持つ聖地として認識していたのでしょうか。その可能性を示す一つの手がかりなのかもしれません。

諏訪大社 神楽殿
諏訪大社 神楽殿
それが偶然でないことは、武甕槌神が出雲にて国譲りの戦いを終えた後、次に向かったと伝えられる諏訪を通るレイラインを検証することによって理解できます。諏訪には複数の聖地が存在し、中でも諏訪大社前宮と上社は重要な位置を占めています。一方、三重県と滋賀県の県境には、標高1,212mを誇る御在所岳が聳えています。日本二百名山にも選定されている御在所岳は霊峰としても名高く、山頂付近には多くの磐座が点在し、古代から多くの人々の信仰を集め、大切にされてきた山であることがわかります。この御在所岳の頂上と、諏訪大社上社をレイラインで結ぶと、その一直線上に春日大社がぴたりと存在します。

また、諏訪大社の下社と、四国における重要な地の指標として知られる足摺岬の半島にある足摺巨石群唐人駄馬遺跡を結ぶレイラインも、春日大社を通り抜けていきます。縄文早期まで遡る唐人駄馬遺跡は、海抜200mほどの高さに位置し、数キロも離れた海上からでも、2つの山の間に巨石群が連なっていることが確認できます。そのため、古代の海洋豪族が太平洋を北上して四国南岸を航海する際には、灯台のような役目を果たしていたと考えられます。また、その南方に広がる足摺岬は、海上からも大変視認しやすい地形であることから、その周辺には古代の港も存在したことでしょう。これら3本のレイラインの交点に三笠山が位置することは、この山が古くから特別な場所として認識されていた可能性を示す一つの要素といえるでしょう。さらに中部地方に目を向けると、霊峰として語り継がれている伊吹山と金剛山を結ぶレイラインが春日大社を通っていることがわかります。このように春日大社には、各地の霊峰や聖地を結ぶ複数のレイラインが集中している点も注目されます。

春日大社の創始に深く関わる鹿島神宮のレイラインも、見逃すことのできない重要な要素です。諏訪大社と同緯度に存在する鹿島神宮と富士山頂を結ぶレイラインは、鹿児島県の中甑島ヒラバイ山を通ります。富士山の頂上を通るレイラインは複数ありますが、中でも、この鹿島神宮と結ばれるこのレイラインは重要です。ヒラバイ山はイスラエルのエルサレムと同緯度にあることから、古代の国生みの時代、南方から船で北上してきた人々が、鹿島神宮 奥宮
鹿島神宮 奥宮
中甑島にある小高い山を特定し、その場所を「ヘブライ山」、後に訛って「ヒラバイ山」と呼んだのでしょう。エルサレムと同緯度にあり、天空の観測や地理的な基点として重要だからこそ、その場所から多くの拠点が日本列島に見出されていくことになります。中でも、ヒラバイ山と最高峰の富士山を結ぶ線は特に重要な意味を持つ一本と考えられます。その延長線上に、古代の港町、鹿島の地が特定されたのです。そして必然的に鹿島神宮と諏訪大社は同緯度線上に並び、両者が共通の地理的・宗教的な基準に基づいて位置付けられた可能性を示唆するものと考えられます。

古代、淡路島の中心には岩上神社の神籬石があり、重要な地理的指標として認識されていました。中国に存在する「世界の中心地」と称された「陽城」と同緯度にある神籬石は、古くから地の指標として用いられていた可能性があるのです。春日大社も、もしかすると陽城に繋がる岩上神社の神籬石と繋がっているかもしれません。陽城のレイラインは、日本列島の最高峰である富士山と淡路島の中心にある岩上神社の神籬石とを結び付けています。その神籬石と富士山頂の南端を結ぶと、そのレイランイ上には多くの聖地が連なっています。その代表例は、金毘羅さんとしても知られる海上交通の神を祀る金刀比羅宮や、大陸から渡来した秦氏が創建したと伝えられる八幡神社に深く関わる宇佐神宮です。これらの重要な聖地が同じレイライン上に名を連ねることにも注視する必要があります。

春日大社のレイラインの中には、日本列島の聖地を結ぶ多くのレイラインの中でも、最重要視されるべき大切な線が含まれています。その代表例が、日本最高峰の富士山と古代の聖地として知られる淡路島の伊弉諾神宮を結ぶレイラインです。国生みの中心的存在となった伊邪那岐命の陵墓が近くにあるとされる伊弉諾神宮と富士山を結ぶと、不思議なことにその延長線上には春日大社、宇佐神宮、そして金刀比羅宮奥社厳魂神社が並びます。春日大社では、藤原一族の氏神であり、海上交通の神としても名高い武甕槌神が祀られています。同様に金刀比羅宮では海上交通の神と大神神社の祭神である大物主が祀られていることは、双方が海の神という共通点をもってレイラインにより繋がっていることを意味します。

また、イスラエルの出自と考えられる秦氏が創始に関わった宇佐神宮が、このレイライン上に位置することにも注視する必要があります。秦氏と古代イスラエルとの関係についてはさまざまな見解がありますが、その可能性を考慮するならば、春日大社の成立背景にも古代イスラエルの思想や知識との関わりを見いだそうとする見方が生まれるのも理解できます。こうして春日大社を通る数多くのレイラインを検証すると、それらが日本各地の霊峰や古社を結び付けていることがわかります。これらの配置が意図的なものであるとするならば、その背景には、卓越した天文学と地理学、航海技術を携えて活躍した古代の識者らの英知があり、それらが結集した結果であるとも考えられるでしょう。

鹿島神宮のレイライン
春日大社のレイライン

こちらの記事もおすすめ

コメント
  1. 友田修司 より:

    藤原北家の末裔です。春日大社と不比等のヘブライ語解釈には感動しました。しかしどの程度の学問的信憑性があるのでしょうか。他に誰か同じようなことを言っていますか。教えてください。よろしく。

  2. 中島 より:

    日本語とヘブライ語の共通点については、イスラエルの学者も研究している方々が少なくありません。その権威としてアビグドール・シャハン博士はイスラエル国家の教育アドバイザーのメンバーでもあったことから著名であり、2013年3月、著書『失われた十部族の足跡』を出版し、文学者、歴史家として綿密な調査の結果をまとめています。日本にも何度も来られ、今でも著書は購入することができます。「不比等」に関しては、おそらく私が初の解明者です。内容もわかりやすく、発音も全く同じで、しかも藤原一族の宗教文化的背景にマッチングすることからしても、ごく普通に理解していただけるかと思います。

  3. ワイルドオリーブ より:

    勝手な憶測失礼します。
    春日はもしかして賀茂 加茂 鴨 のかしげさんなんてことありますか?
    どうしても春の日をかすがと読むことに納得いかず、日本三社を調べた時に春日大社と賀茂社が出てきて、なぜと思いました。
    賀茂の意味を漢字辞典でみたところ、賀はめでたい祝うなどの意味で茂は草が矛、ほこ状の立っている意味があるらしいです。 日本ではお米はまだだし、3月から4月にかけてこの時期は、大麦が最初の収穫を迎える頃、小麦は緑、つまりアビブの頃でなんだか麦の収穫期に豊穣を神に感謝しているかのようだと思いました。
    季節は確かに春の日だし、どうしてこうなったのか当時の人に聞き出したいです。
    他の記事も少し読ませていただきました。
    興味深いのでまた他も読みたいと思います。
    ありがとうございます。

コメントする