名声高い「空海」の比類なき才能
奈良時代の774年、空海は誕生しました。10年後の784年、桓武天皇は都を平城京から長岡京に遷します。しかしながら怨霊や災害、政治的な問題に直面した天皇は、その対策の一環として再び遷都を決断します。そして長岡京からの遷都の準備が急速に進められ、情勢が緊迫する中、10代にして頭角を現してきたのが弘法大師、空海です。
14歳になると空海は京に上り、すぐに叔父である阿刀大足を通じて「論語」や史伝、「孝経」などを学びました。阿刀大足は貴族であり、学者としても名高く、桓武天皇の皇子である伊予親王の侍読として皇室に仕えていました。そのため、空海は若い頃から皇族と面識があっただけでなく、宮廷で大きな影響力を持っていた秦氏とも接する機会に恵まれていたと考えられます。
15歳の時点で、空海は既に「論語」や「孝経」を習得し、「御歳七つのその時に衆生のために身を捨てて」と「大師和讃」でも賞賛されています。若い頃から、庶民に寄り添う思いを強く持っていた空海は、18歳で当時唯一の都の大学に入学し、明経道を専攻して儒学を修めました。その博学ぶりから、空海の名声は親族である阿刀氏 から法相宗の僧侶らを介して桓武天皇にも伝わっていたと考えられます。
空海の苦悩と修行への道
ひたすら勉学に励んだ空海でしたが、大学に入学してから2年も経たない19歳の時、都の惨状を目の当たりにします。都が直面していた問題は多岐にわたり、とりわけ祟りの噂は天皇をはじめ、多くの人々を悩ませていました。さらに、空海の心に焼きついていたのが庶民の苦難でした。貧困にあえぎ、病いに苦しむ人々に対する憂いが募っていったのです。都の栄華の陰にある貧富の差や、仏教界の世俗化を危惧した空海は、学問の追及よりも、むしろ真の道を説き、人々の魂を救うことを願うようになります。そして信仰による祈りの答えを求め、大学を辞して京を離れる決意を固めました。
そのような熱い思いを胸に、空海は、まず奈良の寺院を訪ねて歩き、その後大峯山・高野山・伊予の石鎚山・阿波の大滝ヶ嶽などで修行を行うため山に籠ります。空海自身はこの頃の自らの姿を、旧約聖書の預言者エリヤを髣髴させる表現として「仮名乞児」と称しました。三教指帰には「荒縄を帯として、ぼろぼろの衣を纏った空海の顔はやつれ、長い脚が骨張って、池の畔の鷺の脚のようになった」と記載されています。これらの記述からも、空海が自らに課した過酷な苦行の様子がうかがえます。
平安京遷都の年に悟りを開いた空海
こうした厳しい修練の末、空海は土佐の室戸岬へと至り、そこで求聞持法の極意を習得し、御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟内にて悟りを開いたと言い伝えられています。空海が20歳の時、ちょうど平安京への遷都が実現した延暦13年(794年)でした。
空海が体験した霊的な現象についてはさまざまな解釈があります。一説によると、聖書に記載されているペンテコステに類似した体験であり、霊の力によって舌に火がついたように未知の国の言葉、すなわち異言を語ったと考えられています。いずれにしても、空海は厳しい修行の末、霊的な力を受け、深い悟りの境地に至ったと考えられます。
空海が執筆した三教指帰には、「阿國太瀧嶽にのぼりよぢ土州室戸の崎に勤念(ごんねん)す。谷響きを惜しまず、明星来影す。遂に乃ち朝市の栄華、念々にこれを厭い、巌藪(がんそう)の煙霞、日夕にこれをねがう。」と記されています。すなわち、四国徳島の太龍寺(たいりゅうじ)の岩場によじ登り、室戸岬では祈りに専念した結果、明星のごとく霊感が開かれたことが象徴的に表現されています。また、朝市、すなわち朝廷の栄華や市中の生活があまりに空しく、むしろ霞に包まれた藪のような岩場を切望したという思いが込められています。空海が都の虚栄や宗教の荒廃に深い失望を抱いていたことがうかがえます。
平安京の繁栄と天皇のために立ち上がる空海
794年、空海が20歳で悟りを開いた年の3月、平安京への遷都が和気清麻呂らの活躍により実現しました。この遷都は、早良親王の祟りとされる出来事や、度重なる天変地異、さらには南都六宗の仏教勢力からの影響を避ける目的をもって断行されたものです。そして和気清麻呂が見出した遷都の目的地を巡覧した天皇は、急ピッチで新しい都を造営すべく号令をかけます。しかしながら平安京の建設が進んでも、国家情勢は混迷を極めたままでした。特に怨霊の問題は天皇を悩ませ続け、国家の命運を左右する重要な課題と考えられたのです。
霊の目が開かれた空海は、こうした都の苦境と国の将来を案じ、桓武天皇をはじめ皇族、そして庶民一同が、長岡京の時代から続く呪縛や怨霊の問題から解き放たれることを願ったと考えられます。一方で、宗教的助言を求めていた桓武天皇にとっても、空海は注目すべき存在でした。奈良の宗教文化に精通し、名声を博していただけでなく、仏教思想や日本古来の宗教を熟知していた空海は、大陸の知識にも明るく、梵語や中国語などの外国語にも長けていました。また、当時、奈良仏教界において最大勢力となる法相宗の僧侶との縁故関係もあり、その存在は際立つものでした。
時が満ちて、空海は再び、奈良へ舞い戻ります。そして新しい都、平安京の繁栄に期待をかけた空海は、天皇に仕え、国家と人々のために満を持して立ち上がるのです。悟りを開いた空海しか歩むことのできない人生の旅路が始まります。
画像ギャラリー:室戸岬 / 四国八十八ヶ所霊場 第21番札所 太龍寺




