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2023/05/24

空海の生い立ちと悟りへの歩み

名声高い「空海」の比類なき才能

空海
空海
774年に生まれた空海は、14歳の時に京に上り、翌年から伯父である阿刀大足を通じて論語や史伝、孝経などを学んでいます。15歳の時点では既に論語や孝経を習得し、「御歳七つのその時に衆生のために身を捨てて」と大師和讃において賞賛されました。そして18歳の時には当時唯一の都の大学に入学して明経道を専攻し、儒学をマスターしました。空海の名声は親族である阿刀氏から法相宗の僧侶らを介して、桓武天皇にも知れ渡り、叔父にあたる阿刀大足が皇族の家庭教師だったこともあり、若き頃から天皇家とも接する機会があったと考えられます。「弘法大師こそ、世界に誇り得る日本の英雄であり聖者である」と、湯川秀樹博士はおっしゃいましたが、まさにそのとおりです。

空海の苦悩と修行への道

ひたすら勉学に励んだ空海でしたが、大学に入学してから2年も経たぬ19歳の時に、都の惨状を目の当たりにし、その栄華と仏教徒の世俗的衰退を危惧したことから、大学を退学してしまいます。都が直面する問題は多岐にわたり、怨霊の祟りも噂されていた時代でした。そのため、天皇が悩み苦しんでいることも、空海はきっと察知していたことでしょう。それらの難題を知るやいなや、空海はその答えを祈り求めるために大学を去って京を離れて山籠りし、自ら修行の道を選びます。

『聾瞽指帰』(巻頭部分、空海撰・筆、金剛峯寺蔵、国宝)
『聾瞽指帰』
(巻頭部分、空海撰・筆、金剛峯寺蔵、国宝)
空海が執筆した「三教指帰」には、「朝市の栄華念々にこれを厭い、巌藪(がんそう)の煙霞、日夕にこれをねがう」と書かれており、空海がどれほど都の虚栄と宗教の荒廃に嫌気がさしていたかを察することができます。空海の目に焼きついた都の姿とは、貧困に悩む庶民と病人に溢れた苦悩の世界であり、それを思うたびに空海は学問の追及よりも、むしろ真の道を説いて人々の魂を救うことを願ったのです。

そのような熱い思いを馳せながら空海は、まず奈良の寺院を訪ねて歩き回り、その後大峯山、高野山、伊予の石鎚山、阿波の大滝ヶ嶽などで修行を重ねます。空海自身、このときの自らのありさまを、旧約聖書の預言者を髣髴させる「仮名乞児」と呼び、三教指帰には「荒縄を帯として、ぼろぼろの衣を纏った空海の顔はやつれ、長い脚が骨張って、池の畔の鷺の脚のようになった」と記載しています。これらの記述からも、空海が自らに課した過酷な苦行を垣間見ることができます。

霊の目が開かれた空海の悟り

それら苦行による修練の結果、空海は土佐の室戸岬、御厨人窟(みくろど)にて悟りを開きました。それは794年、空海が20歳になった時のことであり、ちょうどその年、平安京への遷都が実現されました。空海が体験した霊的な現象とは、具体的には聖書にも記載されているペンテコステのように、天上界から聖なる霊が空海に下り、その霊の力によって舌に火がついたように未知の国の言葉、すなわち異言を語ったことと推測されます。霊の目が開かれたことにより、その後、空海はさらなる力と知恵を得ることになります。

天皇の心境を察し、都の苦境を見据えることができた空海は、国の将来を危惧するあまり、神に祈り求めたことでしょう。そして桓武天皇をはじめ皇族や庶民一同が、長岡京の時代から引き続く呪縛や怨霊の問題から解き放たれ、国家が守護されることを願い求めたのです。そしてすぐにでも都にかけつけて、天皇にお仕えし、新しい都、平安京の繁栄に期待をかけたに違いありません。悟りを開いた空海しか歩むことのできない人生の旅路が、はじまります。

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