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2026/08/27

狗邪韓国から海峡を越えて対馬へ! 朝鮮半島最南端から対馬へのルートを検証する

朝鮮半島から対馬海流を渡るリスク

朝鮮半島から船に乗って倭国へ出港する際、釜山近郊、巨済島の近くに狗邪韓国の港があったと想定されます。その理由は、港町として発展してきた釜山から30km少々しか離れておらず、朝鮮半島の西岸から船で渡ってきた場合、倭国の入口となる最初の離島、対馬に向かうには最も都合の良い場所であったからです。

では、朝鮮半島から船で対馬へ向かった際、どの港を目指していたのでしょうか。最初の目的地となる対馬は、古代より朝鮮半島との往来が多かったと推測されることから、半島から最も近い対馬北端周辺に港が存在したと想定するのが自然です。しかしながら、この想定が覆されてしまう島特有の事情がありました。

対馬に船で向かう際、対馬暖流の影響を考慮する必要があります。対馬周辺の海域には東北東の方向に強く流れる対馬暖流が存在し、航海に大きな影響を及ぼすことがあります。気象庁によると、対馬暖流の流れは冬季から春季に弱く、夏季から秋季に強くなるという季節変動を示しています。

その流速について、海上保安庁の資料では、対馬暖流の主流域で夏季は1~1.5ノット、冬季は0.5~1.2ノット程度とされています。1ノットは時速約1.85kmに相当するため、夏季では約1.9~2.8km/h、冬季では約0.9~2.2km/hほどの速度で流れていることになります。そのため、航海に与える影響は少なくありません。釜山と対馬間の朝鮮海峡は強風と荒波にのまれることも多く、海難事故の可能性が高い地域として古代から知られています。こうした状況下では、天候の変化による強風や荒波などの影響を受けて船が航路から外れ、人力による航行が困難になると、潮に流されて日本海を漂流する事態にもなりかねませんでした。

動力船などがまだ存在しない帆船の時代において、釜山の南方に位置する対馬の最北端に向けて船旅をすることは、対馬暖流の強い流れにより進路からそれるリスクを孕んでいました。一旦流されてしまうと、その先には日本海が広がっており、容易に航路へ戻ることはできませんでした。しかも対馬の北端は東側に傾いていることから、島の東岸沿いを航海すると渡航距離が長くなってしまいます。このように危険を伴い、しかも航行距離が長くなる航路を、古代の船乗りがあえて選択したとは考えにくいでしょう。

対馬の比田勝港と厳原港

今日の対馬には、比田勝港と厳原港の2つの主要港が存在し、釜山と壱岐、博多との連絡船やフェリーの運航のために使われています。どちらの港も島の東海岸に面し、その先には日本海が広がっています。北側の比田勝港は対馬の最北端に近い位置にあり、その周辺が狗邪韓国から対馬へ渡航する際の上陸ポイントのひとつであるとも考えられてきました。また、南方の厳原港は九州からのアクセスにも優れていることから、対馬から壱岐に向かう古代航路も、島の最北端から比田勝港、そして厳原港に向けて時計回りに航海してから壱岐に向かうという想定が一般的な理解でした。

比田勝港は、強い海流が存在するという悪条件下でも安定した航海ができる大型の船舶が、釜山から対馬を経由して、壱岐だけでなく北九州や博多を最短距離で結ぶための拠点となる港と考えられます。しかし、古代の帆船時代を想定して海流の影響まで考慮するならば、対馬へ着岸する最初の場所として比田勝港は適していたとは言えません。比田勝港を経由して東海岸の厳原港へと航海を続けるためには、南北に長い対馬の位置が若干東側に傾いていることから、海岸沿いを南西方向に航行しながら進む必要があり、余分な労力を要します。しかも厳原港は倭国の港として後世に対馬の主要港として発展したものであり、古代社会における利用は限定的であったとみられます。よって古代の船が対馬の最北端にある比田勝港周辺の港へ上陸した後、島の東岸を経由して南方に向かったという航路には、疑問が残ります。

古代遺跡から浮かび上がる対馬の西海岸

史書の記述に従って狗邪韓国から対馬、そして壱岐に向かう旅路を想定する際の大切なポイントは、目的地まで安全に、しかも最短の時間で到達するルートを見出すことにあります。その前提で対馬から壱岐への航路を考えると、対馬の最南端から壱岐に向かうことが合理的な航路のひとつであることは、地図を見れば一目瞭然です。対馬暖流の流れに逆行するのではなく、ほぼ直角に海流を横切り、最短距離で壱岐へ向かうことにもなります。

壱岐へ向かう港が対馬の最南端にあると仮定するならば、その港に到達するために、より安全で利便性の高い狗邪韓国からの航路を考えます。すると釜山方面から対馬を訪れる際、比田勝港と厳原港のある東海岸沿いよりも、対馬の西岸沿いを南下する方が、海流の影響を受けにくく、より安全に航海でき、距離的にも有利なことがわかります。つまり狗邪韓国より対馬へと向かう際の到着港は、北部の鰐浦や東側の比田勝ではなく、むしろ島の西海岸沿いに存在した可能性が高いことがわかります。

その説を支持する根拠のひとつとなるのが、対馬に残る多くの古墳や遺跡の分布状況です。対馬では縄文早期から弥生時代、古墳時代に至るまでのさまざまな遺跡や古墳が発掘されています。それら縄文や弥生遺跡の大半が、対馬の中央部の西海岸に位置する大口瀬戸から入る浅茅湾沿いの入江や、その北に隣接する三根湾周辺で見つかっています。しかし対馬の南部には遺跡がほとんどなく、北部も佐須奈の西、佐護川沿いの数件以外は遺跡がほとんど見られません。また、縄文、弥生遺跡より後世の建造物である式内神社や古墳についても、同様に島の中央部の入江に集中し、神社の位置はやや広がりを見せながらも、島内各地に分布しています。

圧倒的多数の遺跡や古墳が島の中央と西海岸沿いに集中していることは、古代において朝鮮半島から到来した人々が、対馬の西海岸沿いを中心に南北に行き来していたことをうかがわせます。対馬の西岸は地理的に朝鮮半島から近距離に位置することから、まず、島の西側に上陸し、その周辺に港や集落が形成されたとみられます。そして時代が進むにつれて、徐々に人口が増え、東海岸にも神社や古墳が作られるようになったと考えられます。これらの遺跡や古墳の分布、そして島の地勢から察すると、古代、対馬に存在した最初の港は、対馬中央部の西海岸周辺にあったのではないかと想定できます。

画像ギャラリー : 対馬 / 海神神社 / 和多都美神社 / 綿都美神社 福岡

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