朝鮮半島から対馬海流を渡るリスク
朝鮮半島から船に乗って倭国へ出港する際、釜山近郊、巨済島の近くに狗邪韓国の港があったと想定されます。その理由は、港町として発展してきた釜山から30km少々しか離れおらず、朝鮮半島の西岸から船で渡ってきた場合、倭国の入口となる最初の離島、対馬に向かうには最も都合の良い場所であったからです。
では、朝鮮半島より船で対馬へ向かった際、どの港を目指していたのでしょうか?最初の目的地となる対馬は、古代より朝鮮半島との行き来が多かったと推測されることから、必然的に半島から距離が最も近くなる対馬の最北端周辺に港が存在したはずです。しかしながら、この想定が覆されてしまう島特有の事情がありました。
対馬に船で向かう際、誰しも対馬海流という潮流の問題に直面します。対馬周辺の海域には東北東の方向に強く流れる対馬海流が存在し、船旅に多大なる影響を及ぼすことがあります。1年を通して2~3ノットの速度、時速にして3.7km~5.5kmの速度で流れている黒潮から枝分かれした対馬海流は、速度を半分に落として、夏季では約2km、冬季では1~1.8kmほどのスピードで流れています。それでも航海に与える影響は少なくありません。釜山と対馬間の朝鮮海峡は強風と荒波にのまれることも多く、海難事故の可能性が高い地域として古代から知られています。そのため、天候の変化による強風や荒波などの影響も受けて船が航路から外れ、人力が底をついてしまうと、潮に流されて日本海を漂流することになりかねませんでした。
動力船などがまだ存在しない帆船の時代において、釜山から対馬最東端の東側に向けて一直線に船旅をすることは、対馬海流に流されて戻れなくなるという大きなリスクさえ孕んでいました。一旦流されてしまうと、その先にはもはや日本海しか存在しません。しかも対馬の北端は東側に傾いていることから、島の東岸沿いを航海すると渡航距離が長くなってしまいます。果たしてそのような危険かつ、長くなる航路を、古代の船乗りが利用したでしょうか。
対馬の比田勝港と厳原港
今日の対馬には、比田勝港と厳原港の2つの主要港が存在し、釜山と壱岐、博多との連絡船やフェリーの運航のために使われています。どちらの港も島の東海岸に面し、その先には日本海が広がっています。北側の比田勝港は対馬の最北端に近い位置にあり、その周辺が狗邪韓国から対馬へ渡航する際の上陸ポイントの1つであるとも考えられてきました。また、南方の厳原港は九州からのアクセスにも優れていることから、対馬から壱岐に向かう古代航路も、島の最北端から比田勝港、そして厳原港に向けて時計回りに航海してから壱岐に向かうという想定が一般的な理解でした。
比田勝港は、強い海流が存在するという悪条件下でも安定した航海ができる大型の船舶が、釜山から対馬を経由して、壱岐だけでなく北九州や博多を最短距離で結ぶための拠点となる港と考えられます。古代の帆船時代を想定して海流のリスクも考慮するならば、対馬へ着岸するための最初の場所として、比田勝港は不向きでした。比田勝港を経由して東海岸の厳原港へと航海を続けるためには、南北に長い対馬の位置が若干東側に傾いていることから、海岸沿いを南西方向に戻りながら進む必要があり、無駄な労力がかかることは明白です。しかも厳原港は倭国の港として後世の時代に発展したものであり、古代社会での港の利用は限定的であったと推測されます。よって古代、対馬の最北端にある比田勝港周辺の港を経由して南方に向かったという想定には、疑問が残ります。
古代遺跡が証する西海岸沿いの港
史書の記述に従って狗邪韓国から対馬、そして壱岐に向かう旅路を想定する際の大切なポイントは、目的地まで安全に、しかも最短の時間で到達するルートを見出すことにあります。その前提で対馬から壱岐への航路を考えると、対馬の最南端から壱岐に向かうことが最善策であることは、地図を見れば一目瞭然です。対馬海流の流れに逆行するのではなく、ほぼ直角に海流を渡り、最短距離で壱岐に向けて航海することにもなります。
壱岐へ向かう港が対馬の最南端にあると仮定するならば、次に、その港に到達するために、より安全で利便性の高い狗邪韓国からの航路を考えます。すると釜山方面から対馬を訪れる際、比田勝港と厳原港のある東海岸沿いよりも、対馬の西岸沿いを下る方が、より確実に航海することができ、距離的にも大変有利なことがわかります。つまり狗邪韓国より対馬へと向かう際の到着港は、北部の鰐浦や東側の比田勝ではなく、むしろ、島の西海岸沿いに存在した可能性が高いのです。
その説を後押しするデータが、対馬に残る多くの古墳や遺跡の存在です。対馬では縄文早期から弥生時代、古墳時代に至るまでのさまざまな遺跡や古墳が発掘されています。それら縄文や弥生遺跡の大半が対馬の中央、西海岸の大口瀬戸から入る浅茅湾沿いの入江や、その北に隣接する三根湾周辺で見つかっています。しかし対馬の南部には遺跡がほとんどなく、北部も佐須奈の西、佐護川沿いの数件以外は過疎です。また、縄文、弥生遺跡より後世の建造物である式内神社や古墳についても、同様に島の中央部の入江に集中し、神社の位置はやや広がりを見せながらも、島の周辺をおよそ網羅しています。
圧倒的多数の遺跡や古墳が島の中央と西海岸沿いに集中していることから、古代においては朝鮮半島から到来した民が、対馬の西海岸沿いを中心に南北に行き来していたことがわかります。対馬の西岸は地理的に朝鮮から近距離に位置することから、まず、島の西側に古代渡来人が訪れ、港や集落を築いたと推測されます。そして時代が経つにつれ、徐々に人口が増え、東海岸にも神社や古墳が作られるようになったのです。これらの遺跡や古墳データ、そして島の地勢から察するに、古代、対馬に存在した最初の港は、島の中央にあたる西海岸周辺にあったのではないかと想定されます。