倭国への玄関となる末盧国
邪馬台国への旅路において、倭国の重要な玄関口となるのが、九州北部の末盧国です。その比定地をどこに置くかによって、邪馬台国への道のりの想定も大きく左右されます。「魏志倭人伝」によると末盧国に至るには、壱岐より「一海を渡る。千余里で末盧国に達する」とあります。そこは「山が海にせまり」、山裾の海浜沿いには民家が並び、その数は「四千余戸」とも記載されています。また、「草木が茂り、行くに前の人が見えない」ほど、周辺には手つかずの自然が残されていたとみられます。そして文化と生活様式については、人々が「好んで魚フクを捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」とも記されています。
この末盧国の場所については諸説があるものの、これまで一般的には佐賀県松浦郡周辺の松浦や唐津、名護屋などがその候補地として提唱されてきました。しかし、末盧国が松浦・唐津周辺であるという前提で「魏志倭人伝」を読み進めると、邪馬台国への道のりの解釈において多くの課題が残り、また、壱岐から末盧国までの距離や航海の方角、周辺の地形まで考慮すると、史書の記述と整合しない点がいくつか生じます。さらに松浦郡周辺は長崎県や佐賀県の山々に囲まれていることから、陸路による移動にも適していたとは考えにくい地域です。それゆえ、そこから東南方向に向けて旅を続けることを想定すると、遠回りをして陸路への接続が不便な港に寄港することになり、合理的とは言えません。ここでいったん従来の比定地から離れ、日本列島の地勢をじっくりと参照しながら、「魏志倭人伝」の記述を頼りに、その比定地を検証することで、倭国の入口となる末盧国の位置が、従来とは異なる形で見えてきます。
3D画像が映し出す倭国の姿
近年のIT技術の進歩により、Google Earthの3Dマップを用いて、地球上の地形を立体的かつ詳細に確認できるようになりました。この機能を活用して、邪馬台国への旅路の対象となる倭国の全体像を把握するため、朝鮮半島の最南端となる巨済島の岬からおよそ東南方向に眺めた列島の島々を映し出したのが、下記の画像です。
手前の壱岐から、九州、四国、中国地方、そして淡路島の先端付近までが鮮明に映し出され、島々の位置だけでなく、平野が広がる地域や山岳地帯など、列島の地形が立体的に把握できます。こうした地理的条件を踏まえたうえで、古代の旅人が果たしてどのようなルートで各地を往来していたのか、その道筋を探るために、各地を拡大して実際の地勢を確かめてみました。
壱岐から末盧国への航路を考える際には、当然ながら末盧国へ到着後の行程も視野に入れなければなりません。末盧国の比定地として候補に挙がっている地域から邪馬台国へ至る陸路を、3D画像でたどりながら実際の地勢を確認すると、早くも問題点が浮かび上がってきます。佐賀県や長崎県北部の沿岸周辺には平野部が少なく、内陸側には山地が密集しているため、壱岐からの渡航距離は短いものの、上陸後の陸路に難があるように見えます。つまり九州北部に着岸する港を松浦や唐津と想定しても、そこから先へ続く陸路との地理的なつながりが見えてきません。
末盧国が鐘崎・宗像である八つの理由
史書の記述を基に末盧国の比定地を九州北部の沿岸に探し求めてみると、その内容によく合致し、さらにはその後の「陸行」「水行」を含む旅程についても自然に理解できる地域として、鐘崎を中心とする岬村の存在が浮かび上がってきました。玄界灘でも有数の危険な海域に近い宗像地域の最北端に位置し、古くから海人の活動拠点として知られ、北部九州の宗教文化に大きな影響を及ぼしてきた宗像大社に近い鐘崎が、末盧国の比定地となる有力な候補の一つと考えられます。鐘崎を末盧国とする理由は、以下の8項目にまとめられます。
1. 壱岐から1000余里の港は鐘崎
「魏志倭人伝」には壱岐から末盧国までの距離が「千余里」と記載されています。壱岐から1000余里の地点を探すため、短里の1里をおよそ70~76mとして壱岐を基点にコンパスで円を描き、その範囲内で古代に港が存在したとみられる地点を検証します。すると南方では佐世保湾の周辺、東側では福岡の鐘崎・宗像周辺と交差していることがわかります。前者は、旅の向きが東南ではなく南方を指し、その後の末盧国以降の旅程を史書の記述どおりに追うことが難しいため、比定地としては考えにくくなります。
一方、有力な候補として残る鐘崎については、壱岐の郷ノ浦からはおよそ80km、古代に港が栄えたと考えられる東側の石田町からは約71kmの距離となり、いずれも1里を約70~76mとする仮定では、1000余里に相当する距離となります。また、その後の旅程も、史書の記述に従って無理なく説明できると考えられます。
ところが、こうした条件を満たす鐘崎が比定地として広く認められることはなく、むしろ松浦や唐津が末盧国の比定地であるという説が主流となっています。確かに、古代社会における船旅の危険性を考慮すると、まずは近距離にある港に着岸することを優先したはずです。また、末盧という発音が松浦に類似していることも、松浦郡周辺の港町が末盧国の比定地と考えられている理由の一つです。しかし、壱岐の郷ノ浦から松浦や唐津までの距離は40数kmしかなく、郷ノ浦から名護屋港までは約30km、すなわち500里もありません。よって、「1000余里」という記述との整合性を保つことが難しくなり、古代の計測値に大きな誤差があったか、あるいは史書の伝写過程で誤記が生じた可能性まで考慮する必要があります。
今一度、中国史書の記述に立ち返り、壱岐から「1000余里」という距離に位置し、その後の旅程にも合致すると考えられる鐘崎・宗像は、末盧国の比定地を見極める上で注目すべき条件を備えています。以上の条件を踏まえ、鐘崎が末盧国に比定できるかどうかをさらに検討する必要があります。
2. 壱岐から倭国へ旅する方角
帯方郡から邪馬台国へ向かう旅路を考察するにあたり、中国史書に記されている「水行」や「陸行」を視野に入れながら、旅人が進む方角を確認することも重要です。「魏志倭人伝」には、「倭人は帯方郡の東南の大海の中にある」と記載されています。これは朝鮮半島の北西部から見て、東南の方角に倭人の国が存在し、その先に邪馬台国があることを意味するため、帯方郡から邪馬台国への旅路は、全体像として東南方向へ進む経路として捉えることができます。しかし、そのすべての行程が必ずしも東南方向に向かっていたわけではありません。
壱岐から東方に位置する鐘崎に向かう航路は方角の点では問題なく、むしろ注目すべきなのは、その後の旅程がどのように続いているかという点です。壱岐から海を渡って鐘崎に到着した後、その港からさらに陸路を進み、はるか先にある邪馬台国を目指す長旅だったと考えられます。その旅程には、東南方向へと続く邪馬台国への陸路と海路が含まれていることから、とりわけその陸路については、移動に適した地勢が続いていることが求められます。よって、末盧国の比定地を特定する際には、その前後の旅程まで含めて検証したうえで、倭国の玄関として理にかなった場所を見極める必要があります。
こうした条件を満たす末盧国の玄関口は、九州北部の宗像に近い鐘崎だったと推測されます。史書の記述を踏まえて、鐘崎から宗像を通って東南に向けて陸行を続けると、その後に続く「陸行」と「水行」のルートが一連旅程として見えてくるのです。
3. 湯川山の山裾に広がる鐘崎の岬村
鐘崎の地勢が、「山が海にせまり、沿岸にそって居している」という史書の記述に合致することにも注目です。鐘崎は湾曲した海岸線の先端に位置する鐘ノ岬の南側に広がる岬村です。その背後には標高471mの湯川山が聳え立ち、山頂からは三里松原の浜を望むことができます。鐘ノ岬と湯川山は、天候に恵まれれば壱岐からも見ることができるため、玄界灘を航海する際の指標として重要な役割を果たしたことでしょう。奈良・平安時代には、鐘崎港は玄界灘の寄港地として発展し、山裾に広がる岬の浜は「古代京泊の港」とまで呼ばれるようになったのです。
博多湾から東方に広がる北九州沿岸には、標高243mの対馬見山をはじめとする山々がありますが、海岸線近くまで山裾を広げる山の中でも、特に目を引くのは湯川山です。また、山の中腹には牧場があり、かつて朝鮮半島や中国大陸から馬を輸入して飼育していたという伝承が残っており、鐘崎貝塚の周辺には「馬渡」「番場」という地名が残されています。三方を海に囲まれた鐘ノ岬周辺に位置する湯川山は、西側は海岸付近までなだらかな斜面が続き、その山裾に鐘崎の集落が広がっていました。このように見ると、まさに鐘崎は、史書に記された「山が海にせまり、沿岸にそって居している」という地勢を備えた岬村だったことがわかります。
4. 鐘崎岬村の規模と戸数
「魏志倭人伝」には末盧国の戸数が「四千余戸」であったとの記載があり、壱岐の「三千余戸」よりも若干多い程度です。古代、対馬と九州の間に浮かぶ離島の壱岐では、小規模な集落が沿岸の港を中心に各地に形成されていたとみられます。そして壱岐の地形はなだらかなことから集落は島内全体に広がり、島全体で「三千余戸」とされる規模に達していました。その壱岐を上回る戸数の家々が、末盧国には存在したことになります。
末盧国を鐘崎周辺だけでなく、南に隣接する宗像地域を含む広域的な地域として捉えると、その「四千余戸」という戸数も視野に入ってきます。現在の鐘崎岬村と古代の集落では、土地の利用方法や住居の構造など、さまざまな違いがあったと考えられます。それでも、集落形成の根底となる家屋の規模や配置、周辺地域の地勢を参考にすれば、古代集落の規模について、一定の手がかりを得ることができます。
壱岐から海峡を越えた九州北部の鐘崎は、港周辺の山裾には、現在約600戸の集落が広がる狭いエリアです。現在の鐘崎の集落規模だけから、古代の戸数を直接推定することはできませんが、古代の末盧国は、鐘崎の南に隣接する宗像にかけて集落が広がり、広域的なまとまりを形成していたとみられます。よって、海の玄関となる鐘崎と宗像周辺一帯を含む末盧国全体が「四千余戸」を有していたと捉えるならば、「魏志倭人伝」の記録とも整合します。
5. 鐘崎の海人文化
鐘崎が倭国の末盧国であるという根拠の一つが、古代より鐘崎にて受け継がれてきた海人文化です。北部九州や壱岐、対馬、済州島など、対馬海峡周辺では古くから漁業が生活の手段となり、人々は海に潜ってアワビなどの海産物を採りながら暮らしていました。その潜水漁法を受け継いできた対馬海峡沿岸の海女文化を代表する地域の一つが鐘崎でした。そして鐘崎は、北九州沿岸でアワビ漁に従事する海人たちの拠点として知られるようになったのです。
鐘崎の海人文化は近隣の港や藍島、志賀島の地域にとどまらず、西は小呂島から長崎方面、東は山口県から日本海沿いに能登方面(石川県)まで、そして壱岐や対馬などの離島にまで広まりました。山口県の角島近郊にある大浦(油谷)や瀬戸島、石川県の輪島、そして壱岐の小崎浦(郷ノ浦)、対馬の曲浦などの村落では、鐘崎の枝村としての出自が今日まで語り継がれています。
この文化の背景には、古代の玄界灘を生活の舞台とした海人族の存在があり、胸肩(宗像)、志賀、那珂の三つの海人集団が知られています。中でも胸肩の海人族は、潜水漁労を営む一族であったことから、鐘崎海人の文化的背景の一つになったとされています。また、筑前海域でも、特に玄海町沿岸の漁民は「宗像海人」と呼ばれていました。宗像海人は、航海技術を駆使し、北部九州の沿岸海域を広く航行したことでも知られています。
また、鐘崎から発掘された釣針などの釣用具や魚骨、滑石製有孔円盤などは、沖ノ島の出土品と酷似することから、沖ノ島を統括する宗像一族と海人族は密接な関係にあったとみることもできます。宗像大社の神宝館には宗像一族について、「古代より玄界灘沿岸にて勢力を持っていたが、航海術に長け、玄界灘を海の道として朝鮮半島や中国大陸との交渉を持ち続けたことにこそ、海人族と呼ぶに相応しい特異性があった」と記されています。
海人族の背景には綿津見三神を祖とする安曇族の存在があることも注目に値します。安曇族は優れた航海術を携えていたという伝承から、そのルーツについては諸説ありますが、西アジアを含む大陸文化に由来するという説もあります。古代社会では、渡来人がもたらしたとされる天文学や地勢に関する知識、さらに長年にわたって蓄積された航海経験が、航海技術の発展に影響を与えた可能性があります。こうした背景から、船を自由自在に乗りこなす宗像海人としても知られる安曇族の本拠地が鐘崎・宗像だったことは、鐘崎の港がいかに重要であったかを示す一つの有力な手がかりとなります。
佐賀県東松浦郡は、入り組んだ海岸線を持つ地域があり、潜水漁撈の盛んな地域としても知られています。しかし、漁師や海人族が海峡を隔てた外国まで渡航し、影響力を及ぼしたという点において、鐘崎は特に注目されます。そのような大陸方面にまで及ぶ影響力を持つ海上活動を担った海人族の一大拠点が鐘崎でした。古代社会において、「好んで魚フクを捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」という中国史書の記述によく合致する鐘崎は、末盧国の特徴を考える上で、極めて注目すべき地域であったと言えます。
6. アイヌ語で読む末盧国の意味
アイヌ語は、主に北海道や樺太周辺などで使われてきた言語です。しかし、アイヌ語を起源とする地名は東北地方でも多数確認されていることから、北海道より南の地域でもアイヌ語あるいはそれに近い言語が古代より用いられていた可能性があります。こうしたことから、日本列島に居住していた縄文人が日本各地において後世のアイヌ語につながる言語を用い、その言語が伝承されてきた地域もあったとみられます。
例えば、「末盧」という名称について、仮にアイヌ語との関連から検討すると、アイヌ語のMa・Tu(マートゥ)とRa(ラー)という二つの言葉から構成されていると考えられます。「マートゥ」は入り江の曲がった部分を意味する「浦曲(うらわ)」に相当し、「ラー」は「低い所1」を意味します。前者のMa・Tuについては、「半島2」を意味するmaと、「二つ3」を意味するtuに分ける見解もありますが、「二つの半島」を意味するアイヌ語であるならばTu・Maとなり語順が逆になることから、末盧の解釈としては、前述した「浦曲」の意味を採るほうが適切であるとみられます。するとMa・TuとRaを合わせたMa・Tu・Ra(マートゥラー)は、「波打ち際が湾曲した低地」のような意味に解釈することもできます。
Ma・Tu・Ra(マートゥラー)がアイヌ語に由来する地名であると捉えるならば、鐘崎のように、玄界灘に面した湾曲する海岸の先端に位置し、山裾に連なる低地にある地形的特徴は、この解釈と重なる部分があります。鐘崎の南側に位置する上八(こうじょう)の近くには、鐘崎貝塚と呼ばれる縄文時代の遺跡が昭和7年に発見されています。発掘調査の結果、古代にはこの貝塚周辺に自然の入り江が形成されていたこともわかってきました。湾曲する海岸沿いに入江が存在するということは、まさにその地形がMa・Tu・Ra(マートゥラー)、すなわち「波打ち際の浦曲の低い所」と解釈した場合の地形的特徴と一致しています。
また、鐘崎は古代、波止場がなくても船が避難できる港であったと推測され、そこに港が発展した理由も見えてきます(筑前鐘崎漁業誌)。これらの情報だけで「末盧」の由来がアイヌ語であると断定することはできませんが、「末盧」という名称、鐘崎の地形、そして古代の港としての性格を総合すると、今後もさらに検証する価値のある一つの手がかりとなります。
7. 「万葉集」が証する綿津見三神とのつながり
「万葉集巻七(1230)」には、「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも、吾は忘れじ志賀の皇神(すめかみ)」という鐘崎に関する歌があります。対馬や壱岐から鐘崎に向かう航海では、鐘崎周辺の海域が難所の一つとして知られていました。この海域では、凪の日でも潮の満ち引きによって海水が急流のように潮が流れ、いったん海がしけると、風向き次第では怒涛のごとく海が荒れ、玄界灘でも有数の難所となります。こうした海域を航海する際には、志賀島の志賀海(しかうみ)神社に祀られる綿津見神に祈りを捧げ、荒波と急潮を通り抜けることを願ったともみられます。そして、この歌は、鐘崎を無事に通過した航海者が志賀の皇神の加護に感謝の意を表して詠んだとも受け取れます。
志賀海神社は博多湾の北部に位置する志賀島にあり、全国綿津見神社の総本宮として知られています。綿津見三神とは、イザナギが黄泉から戻り禊をした際に生まれた底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の3神です。これら3神は海人安曇族の祖神でもあることから、志賀海神社では代々、安曇氏が祭祀を司ってきました。このことは、住吉大社神代記に「阿曇社」と記されていることからもうかがえます。
また、安曇磯良は志賀島大明神と呼ばれ、磯良の墓は対馬の和多都美神社にあると伝えられています。こうした伝承からも、志賀海神社と和多都美神社には、その祭祀を担った海人族に同族的な繋がりがあったことが推測されます。また、その社名が志賀海と呼ばれるようになったのは、志賀の地に鎮座する海(わたつみ)の神を祀る神社という意味が込められていたとも考えられます。志賀島では、古来より北部勝馬の表津宮・中津宮・沖津宮の三社にて綿津見三神が祀られています。また、2世紀には表津宮が勝山に遷座されたという伝承もあり、その起源は景行天皇の時代以前にまで遡ると考えられます。志賀島における綿津見信仰の歴史は大変古いことがわかります。
対馬には合計四社の和多都美神社が存在しているだけでなく、綿津見神を祀る古社は、対馬から壱岐、志賀島にかけて、島々や九州沿岸の海上交通に関わる地域に集中して鎮座しています。壱岐でも、古代に港が栄えていた東海岸の石田郡には、「延喜式神名帳」に記載された式内社である海(あまの)神社があります。島の人々はカイ神社とも呼んでいますが、古くは海(わたづみの)神社とも呼ばれていたと伝えられています。この分布に注目すると、朝鮮半島の狗邪韓国から玄界灘と呼ばれる難所を通って北九州の末盧国へと航海する際、主要な寄港地や航海上の要所周辺には、「わたづみ」を祀る神社が存在していたとみることができます。大陸から倭国へ向かう海上航路は、「わたづみ」というキーワードで結び付いていたことがうかがえます。
「わたづみ」神社は、海を自由自在に行き来する航海術を携えた海人安曇族と深い関わりを持ち、大陸から倭国への海上交通を支えるうえで、航海の安全を祈願するため、その航路の要所に設けたものと考えられます。こうした神社は、航海者にとって避難や救護の拠点の役割を果たしていたとみることもできます。大陸から対馬の西岸にある海人神社を経由すると、その南方に位置する和多都美神社に着きます。そこには、朝鮮半島の出発港の方角に向けて建てられた五重の鳥居があります。
こうして和多都美神社の鳥居を介して続く船旅は、その後、壱岐の海神社を経由し、綿津見三神が祀られる志賀海神社を右手に通り過ぎ、鐘崎に到達することにより一つの大きな航路として結び付いていきます。そして、その先に位置する鐘崎は、海人安曇族の拠点的要地であり、倭国の主要玄関の一つだったとみることができます。これら一連の海上交通と神社の分布がわかりやすく結び付くことから、鐘崎港が末盧国の玄関となる主要港であった可能性が、さらに浮かび上がってきます。
8. 式内社が示唆する古代の航海路
アジア大陸から海を渡り、倭国へ渡来した人々は、航海の安全に感謝し、到着した地で神を祀ったと推測されます。ましてや玄界灘という航海上の難所を渡る際には、神々の加護を求める祭祀も必要としたことでしょう。それゆえ、長い船旅を終えて到達する九州の玄関、末盧国には、渡来人による宗教文化の痕跡が残されているはずです。
その一つの指標となるのが式内社です。玄界灘に面する海岸の近くには合計七社がありますが、肥前(佐賀県東松浦郡)では、加部嶋の田嶋坐神社の一社のみです。残りの六社は博多湾周辺から宗像、鐘崎までの北九州沿岸を網羅する筑前の式内社です。しかも筑前六社の由緒は大変古く、対馬・壱岐方面から玄界灘を越えて、船で鐘崎方面へ渡航した歴史的背景をうかがわせます。
特に宗像大社は北九州地域において極めて大きな影響力を持つ信仰の中心地です。そこでは天照大神の御子神である宗像三女神が祀られています。「日本書紀」によれば、天照大神よりこれら宗像三女神に対し、「永遠に皇室をお助けし、皇室からも厚いお祭りを受けなさい」との神勅がありました。建国当初の極めて重要な時期に、国家鎮護という重大な使命を授けられたのです。この神勅を、海上交通の要衝に位置する宗像の地勢と重ね合わせるならば、大陸より船で渡来する皇族の航海を守護するため、天照大神が自らの娘たちをその任務に就かせ、宗像大社の三つの拠点に託したと捉えることができます。それゆえ、宗像三女神は「道主貴」(みちぬしのむち)として、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、そして現在の宗像大社辺津宮の3拠点において航海を守護する役割を担い、皇族を導く尊い神として、伊勢神宮に対して宗像大社は「裏伊勢」と称されることもあります。
こうして宗像は、北九州地域周辺の多くの農村や漁村において、大きな影響力を持つ存在へと発展したとみられます。これらの歴史的背景を踏まえるならば、邪馬台国へとつながる北九州の玄関が、鐘崎・宗像であった可能性は、これまで以上に高まってくるのです。
画像ギャラリー: 鐘崎 / 志賀海神社 福岡 / 対馬 / 宗像大社中津宮
[脚注]












北海道でアイヌ人が住みアイヌ語が使われていたのは間違いないでしょう。
東北ではアイヌ語の地名が特定されているようです。
魏志倭人伝は中国人が倭人から聞いた地名を漢字にしたもののようです。
末蘆国は、藤堂明保によれば、muwatーhlag(上古音)を漢字の「末」と「蘆」に中国人が当てたもの。 4世紀以降?、日本でも「松浦」であり、松浦氏、松浦の地名が残っています。つまり、末蘆は、誤りないしは適切でないものでしょう。
アイヌ語との検討は、妥当とは思えません。信頼性が担保されてません。